北京

 中華人民共和国の首都、政治、経済、文化の中心である。首都として歴史に登場するのは約800年前で、当時は 燕京と云っていた。現在の市の輪郭は、明代と清代に出来あがったと云われている。


故宮「紫禁城」

故宮

 故宮は、紫禁城とも呼ばれ、明・清時代の皇帝の居所であった。東西753m、南北961m、面積72万平方mで、 建物面積15万平方m、周囲には高さ10mの城壁がめぐらされている。
 宮殿には9,000余の部屋があり、現存する世界最大の宮殿建築である。故宮は皇帝が政務・儀式を司った「外朝」 ―太和殿、中和殿、保和殿―と、私的生活を行なった「内廷」に分かれている。




天安門広場

天安門広場

 内城の正門、正陽門から故宮の正門、天安門まで南北880m、東西500m、面積44平方mという世界最大の 広場である。
右手には人民大会堂が威風堂々と立ち、左手には革命博物館、歴史博物館が配置されている。
 天安門は北京の中心に位置し、中国の象徴的な存在となっている。それは1949年10月1日毛主席が天安門で、中華人民 共和国成立の宣言を行なってことに由来している。




北京市について

 春秋戦国時代、現在の北京市は燕(えん)国の都の「薊(けい)城」であった。秦の 始皇帝が天下を統一し(紀元前221年)、36郡に国内を再編成したとき薊城は広陽郡に属した。
 前漢時代には「燕」、以降は「広陽」と呼ばれた。後漢になると郡の上に州と呼ばれる行政区が出来、この地は幽州となる。  隋・唐時代は北方に対する軍事基地であると共に交易の中心地となる。
 次ぎの五代の時期、北京に大きな変化が生じる、後晋王朝は遼(りょう―契丹―きったん)の援助により建国したが 、その代償として北京を含む燕雲16州を割譲した。金が勢力を伸ばすと燕の地は、その支配下に入り、1151年に首都となり 大規模な造営が行なわれ、「中都大興府」と称されるようになった。
 元もこの地を都にして中都と呼んだ。その後1267年にその東北方に新しい都を作り大都と称した。
 明代に入り第三代の永楽帝が、この北京を首都と定めた。1421年(永楽19年)都を金陵から遷し、新首都を造営した。  この明代の都の規模が清朝に引き継がれ現在に至っている。 


頤和園

頤和園1

 頤和園は、北京の旧城内から西北12Kmにあり、万寿山と昆明湖の二大風景からなっている。もともと皇帝の行宮 と花園であった。清の乾隆帝は万寿山に楼閣を建て「大離宮清い園」としたが、1860年に英仏連合軍によって破壊された。
 この地を好んだ西太后は、1888年に海軍の造艦資金を流用するなど莫大な費用をかけて、離宮を大改造し、頤和園と 名を改めた。
 これが日清戦争敗北の原因および清王朝の滅亡を早めたと云われている。

頤和園 2



天壇

天壇  明、清両王朝の皇帝が毎年天を祭り、五穀豊穣を祈った場所である。
周囲6キロ、敷地273平方mで中国に現存する最大の祭壇建築物である。

 故宮を中心囲に北の地壇、東の日壇、西の月壇と組みをなしていて、南がこの天壇である。




明の十三陵
 市の中心から北へ約40キロm、天寿山の麓に有名な墓陵区がある。これが明朝十三人の皇帝の陵墓・明 十三陵である。
 入り口の大理石製大牌門をくぐると神路である。

 この道の両側に並んだ18対の石人、石獣が目につく。これらは、皇帝たちが自分の死後も、生前と同様に あらゆるもの支配したがっていることを示している。
明十三陵
八達嶺・長城
長城  ”宇宙から見える唯一の建造物”と云われる万里の長城。渤海湾に 臨む山海関からゴビ砂漠の嘉峪関まで全長6000キロ、蛇のように尾根をうねり、はい廻って延々と続く城壁である。

 紀元前3世紀に秦の始皇帝が匈奴の侵入を防ぐため、軍と農民数百万人を動員して造り始め、明代まで造・修築が 繰り返されている。

  “不到長城非好漢(長城に到らざれば男にあらず)”

と云う有名な句も成る程とうなずける壮観な眺めである。

 なかでも、八達嶺・長城は北京市内から約75キロで、首都から日帰りで長城を遊覧出来る処として有名である。 標高1000mの高所に、明代に築かれた高さ7〜8m、幅5.8〜6.5mの城壁である。