昆明
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雲南省について 中国の西南に位置し、面積は日本とほぼ同じの39万平方km、 人口は4千万人超である。25の少数民族と漢族が住む。南はベトナム、ラオス、タイに接し、西にはミヤンマー(ビルマ)が、東には貴州省、北側には四川省と チベット自治区がある。 古代中国では、貴州省及び四川省辺境の山岳地域を含め、ともに「西南夷」と呼ばれた 地域である 稲作民族である古タイ語族と狩猟民族のチベット語族の天地であった。 歴代の中華帝国が、雲南地方をその版図に組み入れようとしたが、なかなか果たすことが出来なかった、 山々が重畳する険しい地域であった。
高祖・劉邦が興した漢帝国が中央集権国家としての体制を整えたのは第七帝の武帝(B.C159〜87、
在位B.C141〜87)の代に入ってからである。漢帝国は、モンゴル高原を拠点とする屈強な騎馬民族・匈奴を、それまでは屈辱的な外交手段でなだめて いたが、武帝はこの匈奴と正面から戦い、連戦のうえこれを打ち破った。その武帝はモンゴルの他に現代の 広東省やベトナムなどの南方地域を従属させていった、そして今日の雲南省の征服を目論むが頓挫した。 また、三国時代に蜀の諸葛孔明もこの雲南の地に兵を入れるが征服するには至らなかった。 雲南が、中国領になったのは遥か後世の元(匈奴の末裔であるモンゴル帝国)の手によった。 その後、明、清とつづくが彼らは完全に服従した訳でもなく、集落ごとに領域を設け外部からの侵略を 頑強に拒んだ。従って漢族化されることも少なく自分達の文化や伝統的な風俗習慣を保っている。 |
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「春城」・昆明 雲貴高原にある標高1900mの高原都市、雲南省の省都。雲南省に 左遷された詩人・楊升庵が『天気は常に二、三月の如く、花は断えず四季みな春なり』と詠んだごとく、 夏でも平均気温は20度と涼しく、冬は9度以上と暖かい温暖な気候のため、年中花と緑が絶えない街である。 そのため昆明を『春城』、『花の都』とも云う。 市内には色美しい民族衣装をきたパイ(白)、イ(彝)、ハニ(哈尼)、ナシ(納西)、ミャオ(苗)、 ホイ(回)族など二十余の少数民族が住んでいる。
昆明の住民は花が大好きで、自分達の手で色々な花を栽培している。 少数民族や農村の婦人、娘たちは、みな 花で髪を飾っている、見事な美しさだとつくづく思った。 |
龍門
清朝の道士(道教の僧)「呉来清」らによって、1781〜1853年にわたり断続的につくられた。 断崖絶壁を くりぬいて造られた洞道や別有洞天と呼ばれる1333段の石段を上り詰めたところに『龍門』がある。この 龍門の奥に一枚岩を刻んで造った北斗七星を祭った石室・達天閣がある ここを訪れる人々は、登龍門に到ることを願い、我先にと、龍門の下に埋められた玉を触れようとして いる。 地上300mを超える処にある龍門付近から見下ろすチェン(注、サンズイ偏に真と書く)池―昆明湖―の眺めは この地の代表的な絶景である。 |
チェン池(昆明湖)
中国で六番目に大きい湖、面積は297平方Kmで南北約40Km、 東西約8kmの細長い湖で、水深は深いところで8m。 水量が豊富でこの昆明市の重要な水源となっている。 この付近で野生種を改良し、世界で初めて稲の栽培が 行なわれたと見なされている。 |
石 林
![]() 昆明の南東120Kmに広がる2.7ヘクタールのカススト大地に林立する 「天下第一の奇観」と称される石柱群であり、その高さは5mから30mを超すものもある。 二億七千年前の石灰岩の海底が地殻の変動で陸地となり、その後雨水の浸蝕で出来たものである。
象の形をした「象据石台」、親鳥が雛に餌をやる姿に似た 「双鳥渡食」などと称される奇岩怪岩がある。 猫の耳のような三角の布が突き出た帽子をかぶり、 美しい民族衣装を着たサニ族の娘が案内してくれる。 |
大観楼
昆明湖の北岸にある大観楼は、清朝康煕二十九年(1690年)に建立。昆明湖を鑑賞するのに適しているといわれる 処であり、一年中,草花が咲き人々の憩いの場となっている。 この地は小乗仏教伝来の通過地であり、古寺名刹は日本の寺院に似ていることが多い。 この大観楼は京都の金閣寺のたたずまいに似ており、またその金殿は銀閣寺に比較される。 |
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民族の博物館 中国は、五十六の民族からなる多民族国家である。その中でも雲南には、二十六の少数民族がすんでいる。 新中国が誕生したばかりの1950年代には、いくつかの少数民族のあいだでは、母系対偶家族、家族コンミューン、 農村コンミューン、家長奴隷制などが残っていたと云われている。 その中のある民族は、学者から「古代人類社会の 生きた化石」と称された。このようなこともあって雲南は「民族のるつぼ」、「民族の博物館」と呼ばれている。 (この項は、『雲南の旅』中国人民美術出版社を参照)
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日本人のルーツ 先般、あるTVで生命科学に関する番組を見ていると、面白いことを報じていた。それは日本人の ルーツに関してのことであった。日本人の遺伝子を解明すると、古来からの日本系が5%、中国系が26%、 朝鮮系が24%、残りはその他と言うことであった。
雲南省には「ティエン(注、サンズイ偏に真と書く)池―昆明湖とも云う―」は始め、多くの湖が点在する。その上
四季を通じて温暖な気候である。このように水も豊富で温暖な地で、初めて原生の稲から水稲の人工栽培が始められ
たと考えられている。生活様式が水稲農耕に移行するに従い、民族の文化的内容を変化させる。その最も大きな特徴は、水耕農耕から 高床式住居を考案したことである。 水稲式農耕をし、高床式住居に住むなど、日本人と先祖を同じくし、文化的にも同じ範疇に入る民族を、『倭族』 という概念で捉える説を主張する人たちがいる(注、文化人類学者の鳥越憲三郎氏等)。 この倭族は、北方の黄河流域で畑作農耕を営み、土間式住居で暮らしていた漢族等とは対蹠的である。 「水耕式農耕と高床式住居」と「畑作農耕と土間式住居」の違いは、炉を床上にもつか地炉にするか、また屋内に 履物を脱いで上がるか、土足のまま入るかの違いであるが、このような風俗習慣は今もなお続けられている。 ![]() そして、東方へは長江(揚子江)に沿って移動し,朝鮮半島や日本まで分布していった。周代に徐(じょ)、淮(わい)、 莱(らい)、奄(えん)などの国が長江下流域にあったことが文献などに見られる。漢族は、彼らを異民族とみなして 「東夷」と呼んでいた。 その地域は後には呉の領域になるが、その呉も春秋時代末には越によって滅ぼされる(BC473年)。これを 契機に呉の遺民だけではなく、呉の領民となっていた倭族たちも、稲作文化を携えて朝鮮半島の中・南部に亡命し 、さらにその一部が日本列島に渡来し、いわゆる『弥生人』と称されるようになったと考えれれている。 このような「日本人ルーツ説」に関して、司馬遼太郎氏はその著街道をゆく「中国・蜀と雲南のみち」≠ナ 次ぎのように述べておられる。 「牧畜好きのチベット系をのぞいては、ほとんど稲作民族であり、いまもそうありつづけている。かつ魚を食べ、 それも、刺身で食べる。その民族が日本人に似ていることで雲南省で稲作をする少数民族が私どもの先祖の一派では ないか、という仮設は、こんにち日本の多くの文化人類学者から魅力をもって唱えられているか、支持されている。 私も、そのように感じる。」 (この項は、鳥越憲三郎著「弥生の王国」、「古代朝鮮と倭族」を参照しました) |