志郎のプロフィール

ハンドル名
 パソコン通信でのハンドル名は"志郎"または"三蔵志郎"。あるフォーラムに入会したとき、 ハンドル名に疑義を感じある会議室でいろいろ議論し、そのうえ諸先輩の御意見をお伺いし ハンドル名を付けることにしました。
 その時、机の上にあったのが私の尊敬する人物の一人である『玄弉三蔵』の伝記本でした。 よう〜し 三蔵法師のような志を持つ男になろうと願って"三蔵志郎"としました。
本  名 / 現 住 所
顔写真

  岡 田  守

大阪府河内長野市に在住

生い立ち(老い立ち?)
・ 昭和13年6月15日 大阪市で生まれる。近くに市立の旧制商業中学(確か,此花商業だった と思う)があり、いつも校門の隙間越しにお兄ちゃん達の様子を見ていたものだった。玄関のスグ 近くの部屋の下を掘り防空壕にしていた。そこに入り、炒った米をポリポリ食べた、かすかな 記憶が残っている。また、家の前の道を荷車を曳いた馬が糞を撒き散らしながらポカポコ行く風景も 思い出される

小学校
・ 父の故郷、岐阜県加茂郡坂祝村の某所(その地区は、後に美濃太田に編入される)に疎開。 鎮守の森に集合し、先輩達に引率されて坂祝国民学校に通う(確か、担任の先生はミシナ先生であった)。
「兵隊さんよ、有り難う---」の歌を皆で唄いつつ毎日片道4kの道を行く(徒歩4〜5分の所に太田の 学校があると云うのに)。
終戦の年の七月、登校中に小型の敵機が急に低空飛行し機関銃掃射する、 慌てて林の中に逃げ込んだこともあった。 のんびりした田舎であったが木曾川の向いには大垣の工場 があった為なのかな〜。そう云えば、空襲警報で桑畑の中の防空壕に逃げ込み、其処で対岸の大垣 の工場が赤々と燃えるのを見ていたこともあった。

・ 大阪大空襲で家は消失、その為 戦後暫くして京都市下京区へ移り親戚の家に間借りする。格致 小学校(日本で最初に出来たと云われている)に通う。
この時代は極端にモノのない時代でもあり、また二年間岐阜弁に馴染んだ子供には京都はあまり 楽しい世界ではなかった。
ただ、図画の時間にあちらこちらのお寺へ、写生に連れて行ってもらったのが印象に残っている。

・ その後、兵庫県武庫郡良元村(この村と川辺郡宝塚町が合併し宝塚市が出来る)移転し良元小学校 に転入する。
なぜか?この頃から勉強に興味を感じ始め、その分成績も良くなる。良い先生との出会 いが会ったからだろうか、隣りの担任であった科学クラブの指導をされていたミツトミ先生が印象深い。
学校の近くに阪神仁川競馬場ができ、山手には馬の調教場もあった。
近くの山に入り、よくチャンバラごっこをして遊んだ。あるとき間違って漆の木で刀を作って遊んだため、 全身が赤く(おチンチンを含め--失礼--)張れ上がったので、3日ほど学校を休んだ、その間「少年・三国志」をむさぼり読んだことが 懐かしく思い出される。
 終戦直後は一億総貧乏人の状況であったが、この頃から朝鮮動乱の特需で経済も 上向き、それに伴って貧富の差も拡大していったと思う。
 長期欠席し近くの宝塚ゴルフ場でキャディの仕事をする子もいたし、また高い学費の要る私学 (灘中、武庫川女学院など)に進学する級友もいた。

中学校
・ 宝塚第一中学校にすすむ。宝塚ゴルフ場の隣りにある環境の好い所だった。よくゴルフ場で遊んだが、 プレーしている人は殆ど見かけなかった(確かサラリーマンにゴルフブームが及んだのは昭和40年頃で あったと思う)。
 この時期も科学少年?で、夜山に登り星座の観測をしたり、先生の愛犬のお墓を掘り 起こし、薬品でその骨を洗い落とし犬の骨格標本を作ったりしていた。
 また一時、石川啄木の詩集を熱心に読みふけったこともあった。
 そして、対日講和条約・日米安全保障条約が調印されたのも、この中学一年の秋であった。

・ 大阪府茨木市に移住。両親、姉妹・兄弟の家族に母方の祖父、祖母が同居する。
祖父・祖母共に自宅で家族に看取られて逝く(昭和30年代までは、 "看取りの文化"と云うものがあったのだな〜と思う、 今それは病院の医師・看護婦や葬儀屋に委ねられている。果たして、これで良いのかな?)。
学校は近隣の市町村組合立茨木養精中学校、及びそれから分離した茨木東中学校に通う。

高等学校
・ 高校は大阪市立都島工高電気科、真面目に勉強したのは一年の前半だけ。
小学校4年から科学クラブや理科クラブに入り、電気パン蒸し器や鉱石ラジオ、再生式ラジオ など作っていたが、高校に入るとこれが昂じて、毎晩遅くまでアマチュア無線の受信機や送信機 を作ったり壊したりし、深夜無線交信を愉しんでいた。
二年生の時、担任から「お前は、学業成績低下の新記録を作った」と云われていた。
3年に入ると、「これでは、アカン!」と気が着き、大学受験の勉強を始める。しかし、 一学期の中間考査中、 父が友人と共同経営していた会社の工場が火災で全焼する。
父は立直しに奔走したがうまく行かず、その秋に会社は倒産する。

就 職
・ 昭和32年3月、進学を断念し某旧財閥系の電気機器会社に入社、しかし、某公社が在職しながら 大学校へ行けることを知り、その年度末そこを受験する。そして、電気機器会社を辞める

・ その公社に4年在職、それと併せ機関長の推薦を得て受験資格を得る。受験の直前に父が病死する。 意気消沈していたが職場の先輩などに励まされて受験することとなった。

大学校
・ 東京都調布市にある中央電気通信中央学園大学部技術科に入学、主として電気や通信工学を学ぶ。 全寮制であったこと、多くのクラブ活動に参加したこともあって、全国各地の良き友を得た愉しい時期 であった。
国鉄の中央鉄道学園大学部や郵政研修大学校との3者交歓の春・秋二回の体育祭も懐かしい思い出 である。

ビジネス活動
・ 卒業後、大阪の職場に配属となる。それ以降、保全、技術調査、施設設計、建設、計画、データ通信、 システム販売、社外委員会活動などを経験。

・ 住まいも東京では小平、花小金井、世田谷区、関西では大阪茨木市、枚方市、河内長野市、奈良市など 転転と変った。

・ 平成5年12月希望退職。

再度大学へ
・ 翌年、大阪市立大学商学部第二部に社会人入学する。同大学在学中春休みを利用して、北京の清華大学 、上海の復旦大学等に短期留学する。

委員会活動
・(財)大阪商業振興センター ニューメディア委員会委員長、及びモールカード委員会委員長
・某毛布工業組合情報ネットワーク委員会委員
・某タオル工業組合地域活性化委員会委員
・高度複合都市機能研究会第一分科会代表幹事
・関西文化学術研究都市高度情報化対応研究会第一分科会主査
・第三次河内長野市総合計画審議会委員
・その他、トラック業情報化委員会、堺市ハイビジョン・シティ委員会、東大阪市市新都心推進協議会など
家 族
妻と娘、そして愛犬二匹と猫三匹
趣 味
・ 読書、囲碁、旅行(主として中国大陸)
・ 釣り、ゴルフ、太極拳

・ @Nifty のメロウ・フォーラムのメンバー
ID:CZE16110
E-mail:mamoru.okada@nifty.ne.jp  

[付記]オメオメと恥も外聞も忘れ、馬鹿げた「老い立ち」などを書いて申し訳なく思っています。 これも、このHomePageをとおして、転転として小学校3回,中学校も3回変った小生が、懐かしき クラスメイトに、また音信不通になっているかっての委員会仲間と、ネットワーク上でも好いから 再会できないかな〜と云う想いを込めて書きましたので、なにとぞご容赦下さい。

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