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雑騒鬼

2008-08-20 (水)
 夏休み、ということで先日新婚旅行以来の私的海外旅行でハワイ島訪問。子供が大きくなって今回が最期の家族旅行であろうという妻の提案に沿った4泊のリゾート。
 宿泊場所から空港とか、海水浴場とか、土産屋とか、食料品スーパーとかに行くのはレンタカーを使いハイウェイを時速55マイルでそれぞれ1時間以上。滞在のうちに大型車のガソリンタンクが空になった。
 日本のちまちました土地で、省エネにはげんでいても、一方には化石燃料を大量消費しないことには成立しないアメリカ社会があることを実感した。

2008-08-19 (火)
 未踏への挑戦とか言っても、空に浮かぶ機械は19世紀には一般の理解を得られなかった。死者との交信とか、時間遡行とか、超光速移動、永久機関とかなどは、現在の社会的応援を得にくい夢だろう。
 未知の目標への挑戦は必ずしも社会的認知を得られるものではなく、とはいえ挑戦はなんらかの発見につながる可能性はある。挑戦とは常に可能性の開拓であって、現状に甘んじることは現状にとどまることではある。
 社会的に認知された挑戦は、社会的に可能性を認められている。一般には認知されない可能性に挑むことこそ真の挑戦ではあろう。

2008-08-18 (月)
 登場した多民族を象徴する民族衣装を着た子供たちの大部分が、漢民族の子だったという話もあるな。

 オリンピック競技自体はなんの生産性も無いと思うが、いまだ実現されていないことを目指すことは、技術の発展を促す。誰でも泳げる水着とか、燃料が少ない長距離の移動手段とか、重いものを持てるようになるとか、大勢を集める(各人の生理的欲求を満足させるのはたいへんなこと)とかのあらたな技術が開発される。
 技術向上は、一般生活の向上につながるが、その発展見通しはあらかじめわからない。それでも未踏の目標への挑戦は、技術の発展をもたらす可能性が他の行為よりも大きい。ということで、挑戦が大切というのが今の世界であろう。

 未踏への挑戦にはしかし、なんらかの魅力が欲しい。大食いとか、長期睡眠とか、耐熱・耐寒とかは挑戦ではあるが比較的魅力に乏しい。

2008-08-17 (日)
 このところ、テレビニュースも新聞も、北京オリンピック報道を大きく扱っている。それだけ世間の関心が高いと関係者が考えているのだ。
 オリンピックの開会式では、放送された映像にCGが使われていたり、舞台に立った少女が歌っているように見えたのは実は口パクであったことが判明したりした。無理やり天候を変える試みがあるとか、排気ガス規制が特に行われているとか、その場を取り繕うような動きがあって、批判的な意見が多いようだ。
 見た目を取り繕うのは、ある意味文化で、付け届けとか、よそ行きの服装とか日本の習慣にも見ることができる。

 こうした取り繕いはしかし、意見集約的な民主主義では発生しづらく、中国政府の国家統制の厳しさと集権を意識させる。ただ、国家体制が悪いとは発言できないから、取り繕い批判は文化問題以上のものにはなっていかない。

 オリンピック競技自体は、取り繕いが難しい。自国選手がすべての競技で勝てるものではない。審判の判定について異論を持つ選手もいるが、世界的な公開の場で行われる行為にはおのずと世界的な判断がついてくる。世界の標準から大きく外れるものには批判が大きく、世界の中で自国を判断する材料としては優れている。
 世界の意志とはつまり数の力で、多いことが必ずしも良いことではない、とか言いながら多数のことが多数意見に流されていく。中国に世界的注目が集まったことは、たぶん悪いことではない。

2008-05-20 (火)
 青信号で横断歩道を渡っていると、曲がってきた乗用車がやけにこちらに間合いを詰めて停まる。なにか含むところでもと、運転席を見たが特別怪しい人ではなく、こちらが渡りきるのを待っている。
 相手のことを慮るのは難しいことだが、年降るにしたがって歩行者の立場も運転者の立場も経験したことがあるとなれば、相手の事情も察しがつく。
 昔から”相手の気持ちになって”とかいうお説教には、いつも俺は相手じゃないしテレパシーもないからと反発してきたが、世の中の定常性を仮定すれば、経験の問題とも言える。いずれにしても、経験の無いものに経験を持てと言うのは無理なので、”相手の気持ちになって”というセリフは言わないようにしたい。

2008-05-14 (水)
 今日の打ち合わせはなかなか厳しかった。技術的な打ち合わせは先が読めるのが通常だが、互いの要求内容が概念のすれ違いでうまくいっていないとか、うまくいかなかった実績をふまえての事後計画とかになると守りに回らなくてはならない局面が出る。
 要望にあわせて、技術的に一番合う提案が求められるが、一番良いものでもあまり合わないとなると、それでもないよりましなのか、要望自体を変えなくてはならないのかとかを見通しをふまえて決めることになる。

2008-05-13 (火)
 「うそからでたまこと」の”まこと”は”実”または”誠”と書いて”真”ではないらしい。真は偽に対するから、嘘と偽(いつわり)も微妙に違う概念としなくてはなるまい。それとも偽(ぎ)と偽(いつわり)が違うのか。
 真偽は判別しにくいというのが、社会の通り相場で、だからこそ嘘という行為が成立するとも言える。嘘と誠を対比するのは、実際の真偽以上に、情報を伝える側の意志を重視しているのかも。

2008-05-12 (月)
 妻に年金のお知らせが来て、事実と合わないので、妻が社会保険庁を訪問。「仕事を変わったときに通知を出さないからですよ」などと一方的に言われて腹が立ったとのこと。役人は、上から言われたとおりのことを自分の解釈範囲でやっていれば、自分の生活に支障は無いのであろう。妻が私に話をしていて、怒りを蒸し返し、おかげで私まで腹立たしくなった。
 何によらず、こちらに不利なことを一方的に決め付けられるのは、立腹のもとだ。それに加えて権力や財力をかさに着ていれば(逆らうだけ年金を正統にもらえないとか、無駄な時間を使うばかりとか、こちらの不利になる条件しかなく相手もそれを承知している)ますます腹立たしい。
 たぶんどの時代にもオイシイ仕事はあって、他者から簒奪することが比較的発言力のある人たちの意見としてまとまっているのなら、そうしたことが起きうる。それはある意味、機構上の盲点なのだろうが、当事者たちにはわかっていて、公表することが全員の不利につながるから公開されにくいのであろう。
 直接の被害者以外は告発が難しく、しかも被害者が発言力の弱い人ばかりであれば、対応も遅れざるを得ない。インターネットの普及で意見を公開しやすくなったことが、社会の変革につながる可能性に期待したい。

2008-05-11 (日)
 ”恨み”がよくわからない。”メラメラメラ、この恨み晴らさでおくべきか”とか、”晴らせぬ恨みを晴らし、許せぬ人でなしを…”とかは喪失の原因を特定の相手に帰して恨むことを示唆している。
 殺人者に責任能力がないというのは、愛する人の喪失の責任が殺人者にないことを意味する。しかし、社会現象には責任が伴うはずで、某には責任が無いというときに、責任の当事者が誰であるのかを明らかにせず、責任の不在だけを示すのは片手落ちと思う。
 裁判は、ある事象の責任を誰かに負わせうるか否かを問うもので、責任の所在を追及するものではないらしい。

 某は、殺人罪で死刑になるべきだという主張は、責任の少なくとも一端を某が担うという主張だ。某がすべての責任を引き受けることとは別の問題だ。
 日本での責任追及は検察の役割なのかなあ。責任が特定の個人でなく、社会機構だとするとそこまで追求する役割を検察は持たないように思う。
 つまり、法制度は特定の個人に責任を帰着できるという前提のもとに成立しているのでは。
 石につまずいて死んだら、それは誰の責任でもなく、自己責任なのか。道路整備をその役割を負担する公共団体が負っていたのなら、その団体の責任か。
 責任能力の無い殺人者がうろつくことについて、それを取り締まる役割を誰か(またはなにか)が負っているのか。
 社会規範から外れたひとを取り締まるものがいないのであれば、自衛は自己責任になる。犯罪を取り締まる人はいるが、非常識な行為を取り締まることは難しい。

 我々は、法の範囲で自己を守ることができる。

2008-05-06 (火)
 悟りを開くために必要な知識は何か。悟りは知識ではないから、特にこれを知らないとというものは無い。魂の救済も、解脱も、アタマの良さで決まらない。
 あらゆるひとに機会があるというのが、宗教的境地の条件であろう。つまりは、ひとでも猫でもカゲロウでも良いという前提不要の境地となる。
 さてしかし、だれでもに機会があるが、それに至るひとはまれであるとするなら、一般のひとに何が不足しているか。へんに妥協せず、それを追い求めることだろうか。成功した人は、最後まであきらめなかったという成功の秘訣みたいなものか。
 結果的に成功した人は成功し、悟った人は悟る。なるようにしかならないが、求め続けなければ結果は得られない。

 自分は悟れるだろうかとか、自分は金持ちになれるだろうかとか、悩んでいてもはじまらない。そうなりたいのであれば、そのための行動を起こすしかない。

2008-05-02 (金)
 不可能性を排除するものとして神が考えられているとすると、「不可能を可能にする」特攻野郎はまさに神の代理人として写ることになる。
 奇跡を演じて、その源泉を神に求め、みずからは神の代理人としての役割を果たす。というのは、オイシイ仕事かもしれない。

 神だけが奇跡を起こすものだとすれば、奇跡の否定は神の否定につながる。
 奇跡は通常の因果関係からは推測できないもので、偶然の一致もそれに含まれる。だとすると神の存在否定は難しい。
 この世の中で、最大の偶然の一致は、いま、この世界の、まさにその場所に、自分がいることだ。これを偶然の一致として納得できれば、神のいない世界は近い。

2008-05-01 (木)
 今回の主題を「神のみそしる」とする。モンテーニュによれば、エセーはある主題により理性を試練に掛けることである。私の理性はこの主題にいかに応じるのか。
 神と味噌汁を個別に論じるのは、展開の技法としてあるが、それでは試練に応じたことにはならない。

 味噌汁が日本的なものであるから、この場合の神も日本的な神として、八百万の神を考えることができる。しかし、試練を正面から受けるためには、キリスト教的な唯一神とした神の味噌汁を対象とする。

 神は、味噌汁をどうするのであろう。マナとしてひとに与えるのか、それとも供物として受け取るのか。ここは、最も困難と思われる供物としての味噌汁を理性によって解釈しよう。

 味噌汁は、発酵食品を含んださまざまな栄養素を含む食品であり、ご飯とおつけものがあれば完全食として機能する。あわせて入れる具により千変万化、まさに人を超越したところからもたらされた知恵と言えよう。
 しかし、それは単に”みそしる”であり、あえて”神の”と形容する理由にはならない。「神のみそしる」はまさに味噌汁を越えた味噌汁、死者をよみがえらせることすらもその能力の一部でしかないような、究極の、奇跡の、完全食であろう。
 すなわち、これを一口飲めば最終的な英知を与えられ、永遠の生命だけではなく、天国の神のすぐ隣に座を占めることも可能としなくてはならない。
 過去にどれほど多くの料理人が東洋の神秘、神の味噌汁を求めて、その生命を犠牲にしたことか。だが、味噌汁探求の道はけわしく、誰一人これを極めた者はなかった。

 とまあ、つまり味噌汁でなくともなんでも良かったわけで、ひとくち含めば不可能な期待もたちまち実現される奇跡のなにかは、夢想の対象としては常にあらわれうるということ。

2008-04-30 (水)
 無慈悲は共感の欠如で、慈悲は共感だ。「すみませんねえ」と言いつつも、満員電車で通路を切り開いていくのは慈悲のあらわれで、「来るなよ」と押しのけるのは無慈悲だ。
 慈悲は社会がどういうものかという認識を基盤にする。

「すみませんねえ」と言いつつも、満員電車で通路を切り開いていくのは慈悲で、「はいはい」と空間を空けようとするのも慈悲だ。

 満員電車で「どけよ、おら。」と通路を切り開いていくのは無慈悲で、「はいはい」と空間を空けようとするのは慈悲だ。
 権利と義務みたいだが、共感を前提にしないからそれは違う。

 満員電車で「どけよ、おら。」と通路を切り開いていくのは無慈悲で、「来るなよ」と押しのけるのも無慈悲だ。
 自由の行使みたいだが、他者を考慮しない点で自由主義(可能な限りの自由の増大を目指す生き方)でも民主主義(主権を人民に認めて人民が行使する政治形態)でもない。

 満員電車で「どけよ、おら。」と通路を切り開いていくのは無慈悲で、「来るなよ」と言いつつも譲るのは、慈悲ではなくて社会への迎合であろう。

2008-04-29 (火)
 世界のあらゆる命を大切にしていたら、生活が成り立たない。もちろんケイザイ的にも成立しない。それでもカエルを破裂させるとか、ハクチョウを撲殺するとかが残酷に見えるのは、敢えて殺さなくても良い殺しが無慈悲だからだ。
 慈悲は共感から生まれる。殺されるものが自分だと思えば、殺したくなくなる。共感はしかし、経験から生まれる。死を再帰しないものと感じるからひとは慈悲深くなれる。

 再帰しないものは生命だけではない。ゆえに、非生命にもひとは生命を感じ、非生命にも慈愛を持つ。それだけでは積極的な変化は望めず、慈愛を感じつつも殺すことが必要になる。殺しを無条件に拒否するのは、死を無条件に恐れることにつながる。
 継続と変化の中に自分を見ることができないと、生きることは辛くなる。


 ケイザイは、慈悲とは無関係で、それが良いとも悪いとも言わない。多くの人がケイザイ以外の理屈を見なくなっていることから、慈悲を説明しにくくなっている。慈悲は科学でもない。
 宗教から離れて道徳や慈悲を語るのは難しい。道徳は生活習慣なので宗教とは違う。生活とはケイザイなので、道徳はケイザイにつながっている。
 ゆえに、慈悲は道徳の一部ではない。慈悲は他者意識にもとづくもので、つまりは哲学以外に慈悲を位置づける場所はないということかなあ。
 「他者とともにあれ」は哲学に近いが「共存共栄」だと、もはやケイザイである。


 慈悲は、今の私が考えるに、相手の立場を慮ったうえでの自分からの一方的な好意だ。相手の反応もまた自らの行為の結果として組み入れられるが、それでも自己満足の一種だ。できることをしたい分だけ形にし、結果に期待しないものの、良い反応があれば喜ぶ。反応が何も無くても、やはり自分なりに良かったと思う。
 怒りを買ってしまった場合は、謝って反省する。自己の無知に寛容ならば、たぶんできることだ。

 敢えて殺さなくても良い殺しが無慈悲に見えるのは、命の扱いに共感できないからということか。この意味からすると職業的な殺しは、無慈悲ではない。

2008-04-28 (月)
 水戸でハクチョウ2羽とコクチョウ5羽が頭を殴られて殺されていたというニュースをNHKテレビで見る。周囲の人たちの反応は「ひどーい。」というような感じ。私が子供時代には、田んぼの周辺で捕まえたカエルに、藁の茎をストローのように使うっておなかに息を吹き込み、風船のようにふくれたところを地べたにたたきつけて、ぱーんと音をさせて破裂させ面白がっていた子供もいた。
 あまりに個々の命を同等で貴重すぎるように扱うのはどうかなあ。命はこの地上にありふれていて、ケイザイの視点からすれば、貴重な命もあれば、貴重でない命もある。

 命が貴重なのは、互いに同じとみなす考え方にもとづく。地球のあらゆる生命が継続していくという観点からしても、やはりありふれていて失われてもたいした問題にはならない命は多数ある。

2008-04-27 (日)
 中国オリンピックの聖火が長野を通過。沿道はチベット支持派と中国支持派の対立の場に。「中国、加油(がんばれ)」という声が良く聞こえたそうだ。聖火リレーは競技ではないから、がんばるところではないと思う。
 「中国人を一方的に悪者扱いするのが許せない」という声も。「中国」と「中国人」は別と思うが、これが直結してしまうのもなんだか。今回の問題は国内問題だという整理のはずなのに、ここでいう「中国人」てだれなのか。国内問題という立場から見れば、中国人同士が対立しあって、よその国に来て旗を振り、自分たちのオリンピックを国内問題闘争の場にしてしまっていることになる。
 「中国」がどう言っても「中国人」は国際問題ととらえているのだろう。

2008-04-25 (金)
 特急列車の指定席に乗る。私の席は8Cだが、そこにはすでに人が座っている。「すみません」と声を掛けると、「あ、すいません」と言って奥の席に私が通れるようにと席を立つ。
 いやいや、奥は8Dであり、私の席は8Cでつまりあなたが座っているところなんですが。とか言って相手の幻想を打ち砕くのも申し訳ない/大人気ないような気がして奥の席に座る。
 時間が経過して、相手がトイレに行くらしく席からいなくなった。これで、その人が戻ってきたそのときに「おいおい、そこは俺の席だ」とか言われたらどうしようと不安になる。
 その人が8Cに座っていた痕跡は無いのだから(実際は本を椅子の上に残していったのだが)私としては非難をかわす理由を見つけるのが難しい。オトナ的対応はなかなか大変だ。最初に乗ったときに相手の切符に書かれた座席指定を確認させたうえで、まあ私はどちらでも良いですからとか言いつつ8Dに座るのがより”正統”かとは思ったが、それもわずらわしい。

2008-04-24 (木)
 満員電車に乗るというのは、選択の余地の無い現実に直面する機会となる。八方から押されて苦しい、腕があらぬ方向に曲がって痛い。あと少し圧力が緩めば、いま少し空間があれば腕を楽な方向に向けることもできる。
 腕をぐりぐりと力を入れてこじる。私はその動きを背中で感じる。なんでこいつは、俺の苦しみを理解して、背中をあと少し動かそうとしないのか、という後ろにいる人の意向を感じる。確かにあと少しの空間をわずかな時間譲ることはできる。そのあとでふたたびそこに戻れないのであればその後今以上に苦しい体勢を強いられるのは間違いない。
 空間を少しの時間だけ譲ったとして、その後でそれを取り戻す保証が無い。つまりはぐりぐりと腕を入れてくるその相手を拒否するかのように背中で押しかえしていくしかない。
 腕を動かせるというのは、それだけの空間の余裕があることでもある。その空間を押すために使うのではなくて、からだを逃がすために使えば、もっとお互い楽になるのではないかとも思う。余裕があるのにそれを有効に使わずこちらに苦痛を押し付けようとする。そんな手合いには、徹底的に対抗するしかないと思うのだがこれはこれで辛い。

2008-04-23 (水)
 現実を受け入れて、その中でどう自分を生かしていくかという発想。これと対立する、自分の印象を先行させて、現実を変えていこうという発想。後者は現実が認識でき受け入れられるという幻想を抱き、前者は現実とは認識でき変えられないという幻想を抱いている。
 現実とはあるがままで完全には認識できないものだから、受け入れることも変えることもできない。現実が認識も操作もできないのであれば、自分の印象をもとに自分を自分が良いように変えていくこと以外できることはない。
 自分なりの現実認識を他者に押し付けるのも、自分なりの現実のあるべき姿を他者に押し付けるのも、その視点からはどちらも意味がない。あるがままで十分認識できない、というのも、あるがままにあるかどうかわからないという視点からはやはり正しくない。自分とは何かを認識することはできないのでこれを認識し変えるというのもなにがなにやら。

 あるがまま、というのはなんとなく科学的で、他律性を意味する。
 とらえられない、というのは巨大さとこれまでの認識実績からわき出てくる。
 現実は巨大で他律的だ。つまり、ひとは局所的な自己満足にひたって生きるしかなく、共通認識としてもせいぜい人間同士の意思疎通の試みの結果でしかない。
 他人との意思疎通と合意形成は、局所的にはたぶん可能で、自己満足の役には立つ。他人・自己・意思ということを定義できればの話。

2008-04-22 (火)
 通勤の満員電車では、自分の呼吸する(肋骨が前後して呼吸を確保できる)程度の空間が欲しいので、背中方向へ力をかけて前方を空けようとする。背中方向というと入口側なので、入り口から遠い方向は入り口付近と比べるとけっこう空いている。その時でも入り口付近は寿司詰め。
 個人の最適化戦略が、全体としての最適化にならない例であろう。

2008-04-21 (月)
 相手の主張を良く理解するためには、解釈の力(読解力とか意味を汲み取るとか)が大切だ、多くの人はまだまだそうした力が足りない。という文章に立て続けに会う。連続的に会ったせいか、主張を疑ってみたくなった。
 解釈の力というのは確かにある。多くの人が力不足だというのも確か。とはいえ、”足りない”というのは”必要に達していない”という意味を持つことがあるから、文章作者の主張とは別に、”必要性”が気になる。
 特に供給不足でもないのに、多くの人が足りていないというのは、日常生活に不便ではないことを意味する。つまりは”必要”ではない。必要でないのに、なぜ足りないという主張があるのか。文章力も、宗教的悟りも、数学も、お金以上に必要ではない。
 日常生活で、足りないと考えるのは、おいしい食べ物、楽しいゲーム、きれいな空気、頑健な肉体、快楽の機会、広い空間などだ。
 宗教的悟りや知的満足、相互理解はそうしたものに代わることができると考えられている。でもって、そうしたものが不要と思われているのは、食べ物も環境もみんなそこそこ満足しているからということになる。みんながおいしいものを食べているとき、一部の人はそれができない。そうした人に知的満足でがまんしましょうともちかけても、たぶん承知してもらえない。
 物質的満足は、平等への強い主張を生み出す。

 すると、私は物質的に満足していないことになる。物質の充足をあまり求めず、人は不平等でも良いあるいは平等などありえないと思っている。知の世界では平等は無い。私は、物質的に虐げられていて、そのせいで屈折している、ということになるのか。
 知識を隠すことの無い知の世界では平等はありえない。ここに物質界の論理を持ち込んで、知的平等を求めて高い知性を持つ人を虐殺するなんてことが起きるとすれば、世も末かな。

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 初稿:1998.3.11 改訂:1998.3.11〜

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(1998.1.31〜)