2008-04-20 (日)
妻が家族で行く夏の海外旅行を主張。ハワイ島4泊6日の予約をして来る。娘たちも成人して、家族揃っての旅行も今年をおいて機会は無いものと思う。機会が無いからと言って無理に行くことはない。家計も苦しいし、敢えて旅行に使わなくてもという気持ちもある。まあしかし、先のことはなるようになる、なるようにしかならないと思えば、可能な今こそが決行の時だろう。
人生いくらでも機会がある、ということでないのが悲しい。
2008-04-19 (土)
妻が某TV人気番組のロケに遭遇。ちょっとああいうドラマは好きになれないという妻。人気を競うTV番組は当然のことだが最も多くの人の支持を集めることを目的に作られる。そうすると、2番目以降の趣味を持つ人のことは、もちろん無視されるのであろう。
多様性を支持する立場からは、看過できない。特化することで生命は生き延びるが、変動に耐えるためには、中心的でない特性を備えた存在も残しておくことが大切だ。効率を重視するあまり、多様な存在を無視しないほうが良い。そうした考慮が、単に狙いを外れたTV企画と等価に扱われている気がするのがちょっと悲しい。
みずからを、大勢に外れたところに位置づけるこの発言だが、人間の場合、多様とは適応の多様さであり、つまりは考える力に帰着すると思う。より深く考えるひとは人間の中で少数派だが、その存在こそが人間が生き延びている理由だと思う。
人類が生き延びるのは、思考の力によるとする。しかし、思考力が特に優れているのは、人類の中でも少数派で異端だ。つまり、人類は異端に依存して生き延びているわけで、生物のあり方として特異だと言えよう。
捕獲力に優れたライオンは、もちろんその種の中で支配的な地位を占める。でも、それは種の存続のための本質的な力だ。思考力に優れた人間が、人類存続に寄与している役割とは質的に違う。
捕獲力のあるライオンには、ライオンなら誰(?)でもなりたいだろう。思考力のある人間は同じ意味ですべてのひとのあこがれの的だろうか。
2008-04-18 (金)
世界の数十億人すべての人の意見が混乱をもたらすと言った人は、ウソや扇動の危険を述べていたようだ。これに対抗するためには、自分から作為の可能性が無い形で事実を公開することが効果的だ。
そのためには、隠す必要の無い生活をしていなくてはならない。とはいえ、誰もが他人から覗かれたくない部分を今の社会習慣は作り出している。あんなものを食べているとか、あんなことに金を使っているとか、あんな恰好でいるとか、社会からとやかく言われたくないから隠したくなる。
個人の趣味や性格をとやかく言わない社会作りが必要になる。
今の社会が、他人のことに干渉したがるのは、自己の保身のための生活の知恵のように思う。情報公開のためには、社会の成熟(変化?)も必要な要素のようだ。
2008-04-17 (木)
世界の数十億人すべての人が、同等に発言でき、すべての意見を見ることができたら、混乱が生じるという意見。人間は、数十億もの意見を聞いたり読んだりできるようにはできていない。
だからすべての意見を取り入れようとすれば混乱は起きる。一億もの人間の投票が代表者を選ぶというのも、同じように混乱のもとになる。混乱は、既存秩序との軋轢として起きる。軋轢が無いとしても、多数の意見の存在を認めることはたいへんなことだ。
うまくいくか、いかないかではなく、そこから秩序がうまれることが望ましい。数十億の意見がうまくまとまらないのなら、破滅もやむをえないと言えるか?
うーむ、人類破滅こそが避けるべき事象という気がする。人類破滅回避、そして自由だと思う。自由は破滅に至るがゆえに抑制すべきだという理屈に対して、どう反論すべきか。
自由の是非は、人類の破滅とつながっている。問題は、人類破滅がありうるという認識にある。なるようになるとは悲観論で、人類滅亡などありえないというのは楽観論。自由こそ人類滅亡回避の唯一解というのもたぶん誤っている。
個人滅亡を避ける最適戦略は自由の擁護だが、人類滅亡回避も同じかというとちょっと自信が無い。
2008-04-16 (水)
ひとが、自己の原理に疑いを持たれた時、生理的な反発を感じるように思う。「○○の肉なんか食べるものではない」という○○に、ハト、犬、豚、鯨、ワカメ、ブドウとなんでも入るのだが、特定のものが入ると人間の尊厳を冒されたかのような感覚に陥る。
原理は精神的なもので、生理、尊厳、価格などとは直接関連しないはずなのだが、なぜか肉体的な反応に短絡的につながっていく。
言葉(概念)は一般的に理解されている言葉(概念)以上に広範な内容を含むようだ。
2008-04-15 (火)
”行進”とは、列を作って進むことだが、軍国主義の雰囲気があるのはなぜか。入場行進は、ある場所に人が効率良く集合するための手段だ。”効率”は全体主義に限らないが、戦争の重要要素なのは確か。
人々が同時に進むことを目指すのには、意思統一が必要で、”行進”は人々が同一目的を目指していて、その過程で強制的な意思統一が働くような印象を持つ。○時○○分全員集合というのは、全体主義かあるいは個人主義か。押し付けがあれば全体主義になり、全員の自由な意見一致があれば個人主義にもなるだろう。
意思統一が無ければ、全体行動は取らないということが非効率に感じられるのなら、全体主義に侵されているということなのかなあ。
2008-04-14 (月)
10日に、”普遍の原理”と書いたが、原理だから普遍だとはもちろん言えない。普遍とは多くの状況で通用することで、普遍を証明できる事はほとんどない。これより弱い言葉で”共通原理”がある。正直な言葉だが、どこに”共通”するのかを語らなくては”普遍”と似てしまう。
原理と原理の戦いがある。原理とは事象から導かれたものだから、事象同士を対比させなくては戦いにならない。原理だけを振りかざしていても、どちらが優れているのかを決められない。
事象をもって相手を説得しようとする人に、原理で対抗すると、これまた決着がつかない。後者のほうがなにか高尚なことをしているようにもうつるし、本人もなにか高い立場でしゃべっているような気になる。なかなか始末が難しい。
2008-04-13 (日)
大学で出席日数が足りなくて卒業できない、という悪夢で目覚める。この手の話は、単位取得の恐怖がよみがえったということで語られるのが一般的だが、私の場合卒業に必要な単位で苦労したことはないのでうまく説明がつかない。
省みるに、社会人になると毎日講義に出るという画一的行動が無くなって、時々で違う行動を取る。毎日講義や授業に出るという決められた条件にしたがわないわけで、こんなことで良いのかという意識の反逆が悪夢につながったようだ。
毎日平日は学校へ行って授業を受ける。それを十数年も続けていくためには、習慣化を越えて、世の中の真理として信じ込むことが必要だ。
社会人になって、そうした制約から解放されたとき、心理的不安定が生じて数十年も悩み続けることがあって、まったくおかしくないと思う。
2008-04-12 (土)
「生き残った帝国ビザンティン」(井上浩一:講談社学術文庫)にコンスタンティノープルの秘密兵器”ギリシアの火”の話がある。液体でありながら、ポンプから発射されると火を噴きながら飛ぶ。その火は水をかけても消えず、かえって燃え広がる。
こんな恐ろしいものに守られた大城塞を誰が攻められるであろうか。某ファンタジー小説がどんなところから題材を取り上げているか、このところ2件立て続けにそれらしいものに出会った。
2008-04-11 (金)
曜日を間違えた。今日が木曜日だと思うと、それを前提としてあれこれがゆがんでいるように思う。
あれ、こんなにおかしいというのは、どこか前提になるところが間違っているはず。そこから推論を逆方向に進めて、曜日認識の誤りに気付いた。
ここでもし、誤りに気付かなければ世直しのための破壊的な行動を取ったかもしれない。それとも世間からの疎外感を強く感じたかも。自分から世間に歩み寄れることはありがたいことだ。
うーん、それとも今日は本当は木曜日で、私を欺くための大規模な陰謀が進んでいるのかも知れない。私の雑騒記の日付を過去にさかのぼって改竄し、世界中の時計とカレンダーを操作するとは、敵の力はあまりにも強大である。私がそれほどのたくらみの標的になるとは私の存在感もたいしたものではあるが、敵はそれ以上の力を見せ付けている。いったいどれほどの力があればこんなことができるのであろうか。(私の反撃準備は着々と整っている。ここに書いたことは敵の油断を誘うための私の作戦であることは言うまでも無い。)
2008-04-10 (木)
多くのひとが処世術で生きていると思う。生きていくのに、哲学とか倫理とか、普段の生活から推測される共通理念などとは関係無く、ただ、”こうするのが良いから”としているのだと思う。その先に、普遍的な原理を求めても、それがある保証は無い。
処世術の典型は”長いものには巻かれろ”で、自分が長くなる前は、自分よりも長いものには従うという”術”だと思う。ただ処世するだけで良いのかと問題提起したくなる。
2008-04-09 (水)
”南京大虐殺”は、統制を外れた兵士が個人的な生存をかけて武力を行使した結果で、この意味で、軍統制のずさんが招いた結果と思う。
”沖縄集団自決”は、戦いに敗れるときは”玉砕”するという、統制下の出来事だと思う。この意味で、軍国主義の不可避の結果だと思う。
この理論では個人の意思や自由や権利は入り込む余地が無く、別の選択肢があったはずというのは、当時とは別個の価値基準が適用されている。
”沖縄集団自決”の悲劇を語るのは、価値判断の可否ではなくて、社会現象としての事実を保存することに意味を見なくてはならない。可否、あるいは良否ではなく、このような状態において、このようなことが起きたという事実だ。
とはいえ事実にもとづいて判断を下すことは広い視野を持つとは言えるが、それも単なる主義に過ぎない。信じるところに従って判断を下すというのが人間にできる最善のもので、それ以上を期待するのは無理だと思う。
ひとは、他者が信じるものに対してどこまで影響を及ぼせるか。そのためには、他者の信じるところにしたがって説得するしかなく、それは他者が信じることの間隙を突くことになる。つまりは他者の世界観に破綻があることを前提とするわけで、難しい。
いかなる他者も説得できると信じることは、あらゆる世界観に破綻があることを信じることで、自分以外はみんな馬鹿だとおもうひとにしかできない。
一方で、多くの人が説得で意見を変えるという事実もある。
ひとが比較的簡単に説得されるというのは、確固とした世界観を持たなくても、生活を継続できる、あるいは世界観などは生活とあまり関係ないことを示唆する。
生き延びていくためには、主義主張とは関係なく、特定の反応が大切なのだと思う。
したがって、主義主張を持たないのは馬鹿なのではなく、単に不要だからということになる。この世を生き延びていくには処世術があれば良い。
2008-04-08 (火)
ある種の体験が、風化・無視・歪曲されてしまうことには耐えられないので、これを語り継ごうという。
科学的真実は、繰り返し観測できるので、語り伝えるという必要は無い。もちろん、解釈(みかた・方程式など)は社会現象なのだが、失われたとしても同じでないにしろ再現が期待できる。
一方で、社会現象は一過性なので失われると取り戻せない。
取り戻せないものに、つまり再現できないものに価値を見るのは、同一でなくともなんらかの繰り返しを期待するからであろう。社会現象への安定の期待がそこにはある。別の言い方をすると、人類社会は何らかの継続性を持って持続していくことが期待されている。
科学的真実も、人類あってのことと考えれば、社会の継続こそ優先されるべき課題として期待されているということになる。
2008-04-07 (月)
自宅から歩いていける場所で、宅地の開発が進んでいる。新しい道が開通したので歩いてみると、整地されただけで周囲は広い土地が広がっている以外に何も無いが、犬を散歩させたり、家族で自転車をこいできたり、乗用車が走り抜けて行ったりと周辺住民が好奇心を披瀝している。
宅地が広がった分、森が後退しているわけで個人的には歓迎できないのだが、もともとの計画にあったとおりだから、文句を言える筋ではない。
2008-04-06 (日)
金曜日に休暇を取って、土日も休みだから3連休。3日連続お花見をかねて外出。
それぞれ定番、新規、ご近所と楽しめそうな場所を訪問。妻と過ごす休日もけっこうなこと。行楽地が近場であちこちにあるのは、このあたりが豊かな証拠。社会が豊かでなければ、私が妻と気散じのための外出なんてできるはずが無い。
2008-04-05 (土)
車で1時間もかからないところの某県立公園でお花見。
花に囲まれた広い芝生や、噴水を軸にした花壇など家族連れでにぎわっていた。食事のために、公園を外れたところにある総合体育館へ。その隣には市民健康文化センターという公衆浴場を含む施設。さらにその隣の空き地に立ち並ぶクレーンは、さらになにやら巨大施設を作っているところかも。
こうした巨大施設は確かに気持ち良い。とはいえ、市民・県民のどれだけがその恩恵にあずかっているんだろうと疑問に思う。
公園の効用はどうやって評価すれば適切になるのか。考える材料になる。
ホームページのタイトルが”考えよう”なんだから、こうして疑問・課題を放り出すのもあり。以前だと、自分で調べてある程度の見通しが無いと書かなかったんだけどね。
ちなみに、行政課題としてもよく取り上げられているようなので、「公園の効用」で検索するとカタイ話がいろいろ出てくる。
2008-04-04 (金)
川原の満開の桜の木々の間に寝転がって、上空に目をやると一面桜の花でおおわれている。つまり、桜の枝が空を覆うように広がっている。
花が散ると、枝は葉っぱを出して葉っぱが空を覆う天井を作る。日光を効率よく吸収するための進化の妙を実感する。
2008-04-03 (木)
職場で、こういうことが起きるのはどうしてか、というような質問を受ける。ここで力が働いてそれでほら、なんて説明をする。
こうした説明は、現象に即していてわかりやすいが、こうなるとこうなるとか、そうなったらああなるという説明は、その状況を説明してもそれ以外の状況でどうなるかを明確に説明しない。普通に起きるすべての現象について対応表ができていれば大概の状況には対処できる。
それでもほとんど起きないようなことについては、あらかじめ予測できないから、原理に即した対策が必要になる。すると、ものごとが生起する仕組みへの理解が欠かせない。
個々の事象に対処しているうちに、なんとなく雰囲気がつかめて、少し違った事態にも対処できるようになることはある。とはいえ、生兵法は怪我のもとであって、原理や考え方(考え方が原理に先立ってある)を押さえたほうが間違いが無い。
2008-04-02 (水)
人類として何をするかという設問では、お金を集めるとかは人類内部の話だから意味が無い。でまあ、生存域の拡大、具体的には宇宙への進出と考えた。その意味で、人類が拡張可能な境界を発見した大航海時代と、アメリカ合衆国西部進出の歴史は参考にすべき貴重経験と思う。
2008-04-01 (火)
お金を集めて、自分のために役立てることは大事だ。お金を集めるためには他者にとっても有意義なことをする必要がある。
個人の満足のためにお金を集めるのは難しいが、他者の福祉増進ならばお金は集まる。
事をなすというのはお金を通じてなす以外に考えられない。お金の関係で事をなすということは、つまり社会関係の中で行為するということだ。
社会的に有意義なことをするというのは、個人が社会の中で有利な位置関係を占めるということを越えて、社会とその外部との関係において意味のあることをすることになる。
人類は何をするべきか、そのために個人としてどうしたら良いのかという問題設定を考えてみた。