- 2009-11-24 (火)
- 1ヶ月くらい前にデリー(インド)の市街をリキシャに乗って移動した。
デリーで外国人が移動のために利用できる借り上げ式の交通機関としては、タクシー、オートリキシャ、リキシャがある。オートリキシャは3輪の屋根つきモーターバイクのようなもので後ろの席に大人3人が詰めれば座れる。リキシャは自転車で車輪がついたベンチのようなものを引っ張る。これは大人2人で満席。
デーリーには4車線の舗装された大通りがあるが、ここをバス、乗用車、オートバイ、オートリキシャ、リキシャが入り混じって、6台程度の車両が横並びで走る。リキシャも車線変更をためらったりしない。リキシャの客席に座った状態はむき出しなので、リキシャが横転するとか、あるいは自動車が接触してくれば乗客はきわめて不愉快な状況になると思われる。デリーでは、タクシーを主に利用したが、駐車場が近くに無い名所を訪ねるにあたり、リキシャへの乗換えをタクシー運転手に勧められてそうした。
デリーは貧富の差が激しいと見えて、着ているものもタクシー運転手よりは、オートリキシャ運転手、オートリキシャ運転手よりはリキシャマンと段階的にくたびれていく。では、人間がこの段階を追って貧相になるかというと、そうでもない。
我々一行6人は3台のリキシャに分乗し、隊列をなしてデリーの大通りへ繰り出す。私の乗ったリキシャのリキシャマンはそのリーダー格で経験豊富らしい。若い2人のリキシャマンを先行させたり、大通りでの車線変更を指示したりと、この世界でも指導者と被指導者があり、師弟関係のようなものの存在をうかがわせる。
リーダーのリキシャマンは嬉々としてリキシャをこぎ、先行させた若いリキシャマンのリキシャを追い抜いて脚力を誇示する。その笑顔は屈託がなくて「俺はデリー一のリキシャマン」といった誇りを感じさせた。デリーのリキシャマンの夢は、オートリキシャマンではなく、タクシー運転手でもない。それはデリーで一番のリキシャマン。という印象を持った。
これはもしやカースト制の有用性と明るい面を示しているのかもしれない。
人間、特定の仕事だけをすることがあらかじめ決められていて、同じ枠組みの中での師弟関係や相互扶助があり、その中でのナンバーワンこそ目指すべきものと思ってしまえば、意外と満足してやっていけるように思う。デリーを歩いていると、ひとはたくさんいるのだが、人々は他者の体に手を触れない。衝突や接触も無い。開いた空間に自分より前にすかさず入り込む何者かがいて、自分が目指した場所がふさがれてしまえば、そこで停まってじっと待つ。
空間を占有したひとは、用が済めばそこから立ち去るから、それを待ってすかさず入り込む。こうした行動も、自分が他者とは違う目的で動いていて、他者(他カースト)の目的などはお互いわかりあうことはありえない、だから他カーストが何をしようと相互不干渉が行動の基盤、と彼らが考えているとすればそれと矛盾しない。
こうした行動様式は見れば見るほど、考えれば考えるほど、私には異質に思えてくる。デリーで見たものはこれまでよその国で見た何よりも異質だったと思う。
- 2009-11-21 (土)
- ホームページがちょっと復活。なかなか完全復活しない。読書ペースは相変わらずで感想をまとめていない本がずいぶんある。これでは自分自身も整理がつかないから、何とかしたいとは思う。
本やマンガを読むのが忙しいわ、映画やTVシリーズのDVDは増えていくわ、株式等の市況も気になるわで、ホームページを更新するよりもそちらに目が行ってしまう。
パソコン周りの道具の整理がうまくいったので、気分的に集中しやすくなった。この状況下でページ更新を習慣づけたい。9月7日に書いた剣客ごっこはいまだ継続中。上半身の筋肉が順調に育っていて、腰が据わって、ふらふらしつつ「…とはまいらぬ。」とひとりごちることはもうなくなって、剣客商売のイメージから離れつつある。それだけ体調に効果があって習慣化してきたということ。
このところ日の出が起床時刻よりもだいぶ遅くなって、暗くて寒い中で木刀を振るのが辛くなってきた。- 2009-09-09 (水)
- 民主党の新人議員へのTVインタビュー。「これまで、派遣社員とかしていた経験を生かして、庶民感覚を国政に反映したい。」などと言っている。具体的な政策が語られないところで大きな不安を持った。
素人による弊害は、特定の課題に目が向きすぎて広範な判断ができにくい、あるいは一般人がプロのアスリートに競技において勝てないように、特定目的に徹せないことだと思う。
一方で、国政には一般人にわからないような微妙な判定が必要にしろ、素人にも見通せるだけの説明があることは望ましい。決定権を持つ素人が多数国政に参加すると、執行者は問題をわかりやすく説明せざるを得ない。その説明を当該の議員が理解できる/できないは別として、説明自体が公開されて衆目の判定にさらされやすくなる。
裁判員制度の導入にも例を見ることができるが、判定の基準があまりにも複雑で、特定の集団に属するひとが一般には理解の難しい基準に基づいて判断するということでは、個人に偏った価値判断があまりにも入り込みやすい。
素人ばかりで、入り組んだ微妙な判断がうまくいかないという弊害は否定しないが、それはやはり民意に沿った、あるいは衆目の中での判定ということで犠牲になってもやむをえないところではないかと思う。
個人、民族あるいは人類などの存亡の危機にあって、まさに唯一微妙な生存の道を見つけ出さなくてはならないというときには、民意よりも天才的英雄のほうが頼もしく思えるときもあるはずだが。- 2009-09-07 (月)
- 剣客ごっこ。
(1)池波正太郎「剣客商売」を読む。
(2)木刀を手に入れる。
(3)毎朝、「…とはまいらぬ。」などとひとりごちながら木刀を振る。
ということが1週間ほど続いている。脚は、1時間くらいの散歩を続けてかなり筋肉をたくわえたが、上半身の筋肉を維持する良い方法がなかったのが、もしかしてこれで何とかなるかも。ただひたすら鍛えるために木刀を振るというのでは長持ちしそうもないが、「剣客商売」ごっこだとすれば、気が削がれてきたらシリーズを読み直せばまたやる気が出そうだ。
とても2貫目とか4貫目(1貫=3.75kg)の振り棒とはいかず、量ってみたら465gだった。これでも振り続けていると腕が痛くなる。長さは握りの部分を除いて2尺5寸4分であるから、けっこう長め。
木刀と言っても、庭木を剪定した際に出た樫の枝の小枝を払ったもの。これを磨くと、わりあい短時間で照りが出て、これもまた楽しい。- 2009-09-06 (日)
- 死を間近にしたひとが、ふつうの景色が美しく見えるという話。死にかけている人は自分にできないことを他者がしていることでそう感じるはず。
生命の特質は、いろいろなものを取り込んで自分のものにしていくことだと思う。死にかけていると、もう栄養を取り込んで、傷を治したりとかできない。新陳代謝こそ生きていることの特質だと思う。
たくさん食べて身体を作ったり、知識を集めて自分の思想を固めたりとかが生命のあかしだ。食べても身体を回復できないとか、思想を更新できないとかは死の兆候かもしれない。- 2009-09-01 (火)
- 日曜日の衆議院選挙は、民主党が歴史的圧勝。
たとえば、出会った人と所持金を比べて、所持金の多いひとから少ない人へ100円渡すという法律を考える。出会うごとにこうした引渡しをやっていくとそのうち全員の所持金がほぼ同じになる。
こうした法律が多数決で決まるとすると、人口が100人として、100人のうち1人だけが1万円持っていて、あとの99人の所持金は0円とする。99人は賛成して法律になる。100人のうち99人が千円ずつ持っていて、あとの1人の所持金は0円だとするとこの法案は否決されるだろう。
法律は公正を目指すのではなくて、多数者の利益に従う。政治は、分配だけではなく税金を集めて、有効利用することで社会の生産性を高めることも目指す。集めるときにはお金持ちからたくさん集めて、貧乏人からはあまり集めない。使うときはしかし、お金持ちの意向を無視できない。お金持ちのひとのために作った道路でも、貧乏人が利用できる。でも、いちばん快適に道路を利用できるのはお金持ちだ。
かくして政治は複雑になり、2大政党の主張のどちらを支持すればよいのか判断できなくなる。とりあえずやってもらって、結果が気に入らなければ別の政党を支持すれば良い。
それが2大政党制の利点になる。今回の選挙結果は自民党がしてきたことへの負の評価であって、民主党への正の評価ではない。簡単に未来予測できるほど世の中は単純では無いと思う。- 2009-08-30 (日)
- マナーという言葉が気になる。駅のポスターにマナーを守れと書いてあって、走って乗車するなとか、席を譲れとか、床に座るなとかをマナーとして守るべきだと主張している。
私の言語感覚でマナーというと、行儀作法のことで、行儀というのは人に言われて守るものでは無い。だから、マナーを守れといわれても、反発して守るものかと思う。
電車の乗りかたは、マナーではなくてプロトコルだと思う。プロトコルは儀礼にあたる。行儀は個人的なもので、プロトコルは社会的なものだ。社会的にうまくやっていこうとすれば、プロトコルを守ったほうが良い。
電車で他者に不快を与える人には二通りあって、プロトコルを知らない、あるいは必要と思っていないひとと、プロトコルを知りながらわざと守らないひとがいると思う。前者は未熟者で、後者は社会的挑戦者だ。未熟者には社会的な儀礼が存在することとそれを守ると社会的付き合いがうまくいくことを教えればよい。挑戦者は一般的には相手になると図に乗るから放っておくのが良い。挑戦者が駅のポスターを見ると、図に乗る。ポスターは未熟者だけを相手にしていることがわかるようにすると良いと思う。- 2009-05-19 (火)
- 新型インフルエンザ蔓延。毒性はそれほどでないが、感染率が高い。新型ということは誰も免疫がなくて、つまりウィルスにさらされた人は高い割合で発症する。感染率が高い。
新型=恐ろしい、ではなくて感染率が高い。今回のものは毒性が高くないのであるからそれなりに対応したい。
新型=激烈、という前提しか置けていないというのであれば、今回を機に反省したい。- 2009-05-17 (日)
- ユニバーサル・デザインとかバリア・フリーとか。ようするに、どんな人にも使い易い器具や装置や環境を作って、誰もが暮らしやすくしようという運動やその結果。
例えば、多少手先が動かなくても自動販売機にお金を入れたり商品を選べたりとか。運動能力が低くても問題なく移動できるとか。
そうした運動の成果を反映したものがたくさん世の中に出回っていることを認め、理解したうえでのこと。例えばバリアフリー住宅だが、家のどこかが傷んできたとか、ちょっとした電気配線の変更をしたいとか。あるいは、自動販売機から何かを購入するのではなく、自動販売機に製品を補充するとか供給や維持管理を含めて考えると。手の運動機能が健常者と違うとか、視覚機能が平均以下であるとかすると。今の状況では修理や改造や維持運用は難しい。
利用する立場での障害除去はある程度進んでいるものの、なにがどうあっても、誰もが同じような成果を得られるような世の中を実現するにはまだ課題が多い。- 2009-05-05 (火)
- 世の中にはたくさん人がいて、皆それぞれ違った状況のもとに違った行動をしている。状況はそれぞれ違うので、たとえ同じ行動を取っても結果が違ってくる。状況の再現性は無い。
こうした条件での行動指針は、その時最適と思われることをする。状況の再現は無いが、状況を抽象化して類似事象をまとめ、事象と結果を相関させて行動指針を導く。こうした指針にはかなり無理がある。無理があってもそれが最適解(最適と思われる解)ならそれに従うのが最適。
かくして、抽象化とまとめ、結果との相関、事態の把握、と不確実な事象が積みあがる。これらを繰り返していくのがひとの生き方だ。長く生き延びているひとの知恵はそれなりに参考になるとか、教育は難しいとか、なるようにしかならないとか、もっともらしい仮説が抽出できる。
連休で天気も良く庭の手入れをする。芝は刈れば刈るほど良くなるというのは聞いてはいるが、うちの芝は地面にくったりと張り付いて刈ることすら難しい。
観察してみると、芝の根元に苔が入り込んで芝を押し包んでいるらしい。泥だと思っていたのは実は苔だったのか。こいつを掻き取ってやると芝が立った。うむむ、芝を植えてから1年くらいは奔放に伸ばすという作戦を取ったが、そのときすでに苔が入り込んだらしい。
このように、経験から学ぶことはいろいろあるのだが、いろいろありすぎて最適化の一般論が導けていない。- 2009-05-01 (金)
- 私よりひとつ前の世代の人たち。は、自身を特定の雛形にあてはめて、それを具現するよう行動した、という仮説。私自身は、自分が何者かということを長いあいだ判断できずに過ごしている。
ひとが、自分自身を若いうちに規定してしまうなんてことはたとえば、政治家の中で一番えらくなるとか、会社経営者として首長になるとかいうことだとしてもできなかった。
そうした決断ができるというのは、時代の雰囲気もあるようだ。先の世代に対して劣等感を持っていたところがあったが、この認識で解消。- 2009-04-28 (火)
- 4月23日に米疾病対策センター(CDC)は新型の豚インフルエンザに7人が感染していると発表。25日には世界保健機関(WHO)はメキシコで豚インフルエンザに感染して60人が死亡したと発表。
その後メキシコでの死亡者数は149人になり、ヨーロッパでも感染者が出ている。WHOは、27日の緊急会議で警戒レベルをフェーズ3から、人から人への感染が頻繁に起きていることを意味するフェーズ4に上げた。
25日にすでに多数の死者が報告されているので、26日にはフェーズ4宣言が出るのかと思っていると、WHOの決定は遅れた。この背景にはメキシコでの情報把握が進まなかったこととメキシコでの防疫体制の遅れを考慮したもののようだ。
重篤な患者がメキシコ以外で報告されたという報道は無い。
この意味で、今回のWHOの判断が適切だったのかどうか私には興味があるところ。フェーズ3は人から人への感染が「ないか、きわめて限定されている」状態。フェーズ4は動物もしくは人と動物の混合ウイルスによる地域レベルでの感染が確認された状態で、大流行に移行する可能性があることを示す。今回はじめて聞いたような言葉「パンデミック」は世界的大流行の意らしい。
- 2009-04-27 (月)
- 愛が熱意の原因と見られるのであれば、愛に焦がれることは熱意を注いでもらいたい欲求と見ることができる。たぶんひとは成長の一時期に熱意の対象になることで充足を感じる。
これに対比すると、恋は求めること、希求であると言えそう。希求は満たされても満たされなくても幻滅につながるように思う。愛は続くこともあるが、恋は続かないということ。- 2009-04-26 (日)
- 先に「職業的熱心さは愛に似ている」と書いた。愛は目に見えないが、熱意は見ることができる。熱意は愛の唯一の表現であるように思う。
熱意の理由には、職業的なものもあるが、熱意を表現することで愛を偽ることができそうだ。偽りの愛は打算に基づく熱意を表現に持つ。職業が打算に基づいているのなら、職業的熱意は偽りの愛に似ているとも言えるが、職業的熱意は必ずしも打算によるものではない。
理由の無い熱意の原因が、愛であるように思う。理由の無い熱意などというものがありうるだろうか。こだわりは熱意の原因になりうる。もしかすると、理由を特定できないだけで、理由はあるのかもしれない。
理由を特定できない熱意の原因を愛と言うように思う。なお、何かの原因というのは、実体を持たないこともありうる。つまりは熱意の理由が不明だから仮想的な原因を求め、それらをまとめて”愛”と呼んでいるだけということもありうる。
原因不明の熱意は、原因不明で冷めてしまうこともあり、それが愛の終わりなのかも。また原因が特定された結果、愛が愛でなくなることもありそう。- 2009-04-24 (金)
- 「宗教の役割は安心を与えること。」という話の続き。先に、宗教は方法論だからそれ自体に役割は無くて、役割があるとすればそれに従事する者の役割だと書いた。
その時は、哲学とか科学とかを引き合いに出した。「靴下の役割は」とか「タンパク質の役割は」とかいう問いも形式的に同じだが、靴下やタンパク質は方法論ではない。
この場合の”役割”は”使われ方”であって、ひとびとがどうした使い方をしているかを問うていると解釈できる。最初のことばもこの線で解釈してみると、「宗教は安心を得るために利用されている」となる。
解釈内容はやはり短絡的過ぎるが、そもそも”役割”という言葉の意味は多様なので、まずは問いの意味を見据えないと、こうした問いへの回答は中途半端になってしまう。- 2009-04-23 (木)
- ナンシー・クレスとイザベラ・バードの平行読書。前者は20世紀から21世紀にかけて発表されたSFで、後者は19世紀末の紀行文。
クレスの物語では、非日常的事象から日常的な結果が導かれる。紀行文は一般に、どこに行ったらこんなものがあって、そして私は帰ってきましたという内容。日常への回帰という点では一致するが、私の好みはかなり違う。
私が読書に求めているのはたぶん、非日常的前提が非日常的な結果に至るというもの。結果が最終的に日常に回帰するにしろ、回帰の過程自体が意表をつくものであればそれはそれで歓迎する。
クレスの作品では、超能力者がさまざまな過程を踏んで社会的連帯に目覚めるとか、異常な状況に置かれた主人公が社会の硬直性に直面するとかする。ものごとが進展するにはなんらかの波乱が前提になるにしろ、結論がこうも一般常識に近いのは嬉しくない。見方によっては、社会規範の意外な堅固さを再確認するという、社会規範の堅固さを信じていない人には面白いのだろうとの推測が立つ。
私は、社会規範の堅固さを強く信じていて、やはり社会規範は強いですねと言われても全然面白くない。- 2009-04-22 (水)
- 核には核で対抗するのが国際的な常識という発言。これに対して、今回はそれをもとに援助を引き出すのが目的だから、対抗的核武装はたいして意味がないという意見。
対抗武装のほうが自分の力を再確認する意味でもきもち良いが、効果という点ではたしかに意味は薄そう。なにごともパターンを適用して結論を出すことについては要警戒の例だろう。
とはいえ、パターン抜きで生きてはゆけないので、パターンに従うべきか疑うべきかの基準が難しい。パターンを疑うのは、最初に何らかの違和感を持つからだろうが、これは直感だからいつも働いてくれることは期待できない。
こんなときは、たくさんのひとで考えるのが効果がある。このあたりが民主主義の効用だとすると、パターンに異を唱えるひとをどう扱うべきかという規範が導けそうに思う。- 2009-04-17 (金)
- 「風が吹けば桶屋が儲かる、みたいなもので。」と言おうとしたが、この表現を迂遠なことのたとえとして知っているとして、風と桶屋がどう関連するかを説明できる人がどれだけいるのだろうと気になった。
私の子供時代に、父親がラジオで落語を聴いていることがあって、その内容が私の耳にも残ったから私は一般的教養として心得ているところだが。
最近は、娯楽番組も落語を伝達する機会が減って、このたとえ自体がもう通用しなくなっているのかも。
文化はうつろいゆくというのはしかたないが、考える機会が減ることには抵抗したい。- 2009-04-16 (木)
- 「森林と人間―ある都市近郊林の物語」石城 謙吉(岩波新書)。1973年から1996年まで、北大苫小牧地方演習林の林長として、市民の休養や自然の研究を重要課題とする森林整備に取り組んだ経過。
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森林の保護、育成と言っても具体的な方法や取り組み方となると、どこから手をつけて何をしたら良いのか、それが具体的にはどんな仕事なのかを教えてくれる。演習林を流れる幌内川の整備前後の写真が119ページに示されているが、これは感動もの。
自然保護に取り組んでいこうとする人には、実例としてとても参考になるだろう。問題は、画一的な取り組みではとても対応しきれないところ。幅広い知識や見通しが要請される。- 2009-04-13 (月)
- 制御する必要があると思う、と昨日書いているが、人間社会は相対的な価値に沿うものだから必要を言うためには目標を言わなくてはならない。
昨日はそこまで意識していなかったが、前提としていたのは人間社会の存続と繁栄だと思う。ただ、存続する社会は一般に繁栄する社会だから、存続を目標としていたと言ってよい。ところで、目標を抽象化すればするほど具体化への道筋を見通しにくい。存続のためには繁栄を考えれば良いのかというとこれを論証する(筋道立てて説明する)のは大変だ。
みんなが生き易い社会というのは、みんなが何を考えているかわからない。自分が生き易い社会のほうがやや考えやすいが、自分に良いことがみんなに良いことかという問題が発生する。それに、自分になにが良いかということもわかっていない。- 2009-04-12 (日)
- 自分用に作成中のゴハンを取られるのはかなわないから、ある種の資源占有を認めることには合理性がある。
気になるのは、その認め方が不公平に思えること。特に世代をまたぐ財産の引継ぎはいかにもと思える。電車の座席を先に乗った人が占める(占め続ける)、いわゆる先取権も不思議。
財産の相続には相続税がかかるし、土地を持ち続けるためには不動産税がかかる。この意味で資産は流動的ではあるが、流動性が悪すぎるかもしれない。ひとは所有しているものを進んで手放そうとはしないし、持ち物を増やそうと思う。
これはたぶん、未来に不安があるからだ。今は必要ないものでも、将来必要になるかもしれない。災害に襲われて住んでいる土地が壊滅するかもしれない。
広い土地を所有し、核シェルターを所有し、食料工場を地下に設置して非常用発電機と太陽光発電機を所有し、優先的に医療を受けられるように専任の医者を確保する。などと将来不安に対処するためには限りなく資源が必要だ。
他者よりも優位に立ちたいという押さえがたい衝動がたぶんほとんど誰にでもあって、所有欲はその表れのように思う。ヒトという種が生き延びる原動力になったのは、所有欲よりも単純な、競争心であるように思う。暮らしやすい共同生活のためには、競争心と所有欲を制御する必要があると思う。その方法と規範は私にはまだ良くわからない。
- 2009-04-11 (土)
- ”所有権”には前から悩んでいる。先に自分のものだと”確保”すると、どうしてその後も自分のものとして持ち続けられるのか。
電車で座っている人は、どうしてあとから乗ってきた人に対して、席を占有し続ける正当性を主張できるのか。ものもちの家庭に生まれた人は、土地やら財産やらを引き継げる。そうでない人は引き継げない。ひとは平等だという理念と矛盾しているように見える。
ともあれそれは、ひとの世の中のしくみという観点から解釈するしかない。ひとは自分のものを確保したいと思う。確保しなくては、次の時期を生き延びられない。所有権が無い世界を考えるに、やっとの思いで建てた家にどやどやと人が入り込んできて、良い物件があってよかったねこれからここに住もうと言うとか、がんばって料理を作ったら、知らないひとたちがやってきておいしいおいしいと食べてしまうとかになる。
人に喜んでもらうにやぶさかではないが、これはあんまりだ。しかし、お金持ちが先祖伝来の広い土地に立派な屋敷を構えているのもやはり不思議。
- 2009-04-10 (金)
- 「いろはうた―日本語史へのいざない」小松 英雄(講談社学術文庫)。いろは歌を主題とした日本語史の方法例。いろはが主に手習いに使われるから、いろはは手習いのために作られたという推論は史学的には拙速な判断である、といった話から始まって最古の以呂波が記されている『金光明最勝王経音義』における読み方、区切り方の意味を追求する。その後の日本語と日本語規範の変化とその理由などを読み解く。
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学問でものごとを追求する方法の例を知ったり、日本語の変遷過程を知るきっかけにもなったり。古文書から得られるさまざまな手がかりをつづり合わせて、著作者の動機にまで踏み込んで納得する解釈を提示するそのありようは読みごたえがある。- 2009-04-08 (水)
- 駐車している自動車のタイヤをパンクさせていくとか、粗大ゴミを拾って自宅の前に積み上げていくとか、道を譲らないとか、奇行をするひとがいる。
あらかじめの方針に沿って行動し、障害になるものはすべて押しのけていく、というのは社会に溶け込まない行為だが、考え方として反駁するのは難しい。社会生活は一般的に相対的なものだから、絶対的権威を主張された場合に否定できない。「私は絶対者だ。」という主張は兵糧攻めとかでけっこう簡単に否定できるが、「私は絶対者の使徒である。」という主張になると現象に対する逃げ道があるために、否定が難しい。
「自分は正しい。」という思い込みを持つ人に対して、社会はうまい回答を用意していない。
一般には子供のうちに、自分は間違うこともあるという認識を刷り込まれると思う。不幸にして、真実は相対的で誰も善悪を決められずつまりは自分を強く持つ以外に生き残れない、なんて思い込みを持ってしまうひともいるのだろうなあ。- 2009-04-07 (火)
- ”うつろう”は生命の根源的なありようという気がする。その場の目の前にあるものを体内に取り込んで身体を作り消費することで生命は継続する。
無いものは取り込めない。無くなるものを常に確保しようとするのは、これまた生命のあり方ではある。他者を蹴落としても自分のためにものを確保しようとする。それもそう醜くは無い。
他者を簒奪するところまでくると醜さが見え始める。一度集めたものを、他者に分配する。これもいまひとつ美しさに欠ける。
過剰な生産物を交換する。これは美醜とは別のよう。その目的が簒奪だとするとしかし醜い。
美しくあるための指針は、適当なところで集積をやめ、他者に生産手段を指導して、最悪の場合には他者を簒奪するよりも自分の生命維持をあきらめる覚悟がある、なんてあたりか。- 2009-04-06 (月)
- 妻が明日は友人と連れ立って花見だと言う。今が満開。でも体調不良とか言っていたような。ともあれ桜花は1日たてば様相が変わるから、体調だのを問題にする暇も無い。
ぱっと咲いてぱっと散る、この潔さが武士の好みに合ったとか。あれ、でも平安貴族も桜花を好んでいたように思う。どちらかというと一期一会とか世の無常とかそうした仏教観に合った花のような印象がある。
釈迦が桜花を好んだとかいう話は聞かないので、なんかそれも怪しい。仏教の花と言えば蓮。確か、泥の中から美しく咲くというところが良いとか。
無常の花なら沙羅双樹、勝者必衰会者定離。どちらにしても、花は一時のものだからより美しいのかも。これが滅亡の美学で、消え行くものこそ美しいという原理。美とは希少価値なのか。消えることを前提としつつなお美しくあるのがより美しいのか。醜は醜でありながらなおも存続に執着する。消えゆくことを受け入れた醜はそれなりに美だったり。世代交代や新陳代謝はなんとなく良いもののように思う。
生に固執する年寄りは醜になる。固執は醜かもしれない。存続はどちらでもないにしろ、固執は醜い。となると、なんにせよ見切りをつけて変わっていくところに美はあることになる。変わった先が常に美とは限らない。むしろ、常に醜を切り捨てていくところ、執着しない、すがすがしくあるのが、美。なのか。
満開の桜は美しい。しかし、満開のままあることは醜い。満開のそのときに散り始めて消えるのがいっそう美しい。ということなのかなあ。
- 2009-04-04 (土)
- 以前に「宗教の目的は安心を与えること」と言った僧がいたという話の続き。
そもそも、”宗教の目的”といった問題提起ができるのか。科学の目的は世界の仕組みの解明だとか、量子力学の目的は量子論的立場から世界を捉えなおすことだとか。
科学や哲学、経済学などは方法論であって特定の目的を持つものではないと思う。宗教も信仰の立場からひとのありようをとらえるという方法であろう。
”宗教の目的”は宗教における私(あるいはみんな)の目的という意味に解釈したほうが良い。”人生の目的”というのも、人生における私の目的、となる。人生の方法論とはどんなものかも気になる。
- 2009-04-02 (木)
- 義理と人情秤に掛けりゃ、義理が重たい男の世界。とは世の支持を受けた高倉健の歌だが、では女の世界はどうなのと妻に聞いてみた。義理はものの道理で、人情は気持ちだ。
大きな世界を動かすのは道理で、個々には人情が生きる。どちらが欠けるのもうまくなさそう。- 2009-04-01 (水)
- 考えたから失敗するということもある。へたに考えないで、一目散に逃げていたら助かったかもしれない。生き延びるための戦略はいろいろだが、ヒトは脳に頼って種の存続を図った。
考えるのはヒトにとってあたりまえで、深く考えるか浅く考えるかが戦略の別れどころ。深く考えるのが役に立つか立たないかは簡単にわからない。深く考えるにはより多くの燃料がいる。燃料はもしかしたら走るために残した方が良い。
人間社会では、ずるがしこく立ち回った方がうまくいくこともある。これはしかし、人間が人間以外からの脅威を心配しないで人間同士で競争し始めたときの話。脅威が何かということも、状況次第。考えた者がよりうまくいくような仕組みの人間社会が、考えることを突き進めることで生きものの中で優位を保ち、宇宙全体でも優位を保つかどうかなどということもわからない。人間社会では考えた者の方が考えない者よりも優位に立つように思う。しかし、身体を鍛えた者と鍛えない者とか、色気のある者と無い者とか、考えるという特性が他の特性と比べて優位かどうかは簡単にわからない。人間社会に限定したとしても、人間対宇宙としたとしても、何が最適かは難しい。