義経北行伝説の足跡を追う!(番外編)
| 平泉藤原氏4代当主、出羽・陸奥押領使、藤原泰衡。義経北行伝説の真偽を論ずるに、この人物を外すことはできないだろう。 泰衡は、3代当主藤原秀衡の次男として、久寿2(1155)年に出生したとされる。母は元陸奥守で、退官後も京の都に帰らず、そのまま奥州に留まっていた民部少輔藤原基成の娘と云う。父秀衡の死去に伴い、文治3(1187)年10月に当主となった。 |
その1 泰衡の残影…大館市「錦神社」・比内町「西木戸神社」
| 通説によれば、泰衡の事績は以下とされる。 泰衡は、当初こそ父秀衡の遺言をよく守り、義経の庇護に努めたが、頼朝の執拗な圧迫に抗し得ず、文治5(1189)年4月30日、衣川館を急襲して義経を自害せしめ、さらに6月26日には、義経の信奉者だった弟忠衡をも攻め滅ぼした。 しかし頼朝の真のねらいは、豊富な金・駿馬、等々平泉藤原氏の領した莫大な富そのものにあった為、泰衡の変節は全く意味をなさず、7月19日、頼朝は総勢28万余騎とも云われる大軍勢で終に北上を開始した。朝廷の宣旨も待たず、大庭景能の「平泉藤原氏は 源氏累代の家人故、いちいち宣旨を請う必要はない」 とのこじつけとも言える献言によったものと云う。 破竹の勢いで迫り来る鎌倉勢を迎え撃つべく、泰衡の兄国衡を中心に、急遽防衛体制が整えられた。しかし、北方の王者秀衡と戦上手の義経を欠き、且つ百年の太平に慣れた平泉勢の士気は必ずしも高いとは言い難い。 |
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やがて阿津賀志山で敵を迎え撃った国衡が、8月10日に敗死したとの悲報に恐れをなした泰衡は、8月21日、館に火を放って北へと敗走した。その後平泉に入った頼朝に、何とか命だけは助けて欲しいとの泰衡からの嘆願の書が届けられた。 その書に曰く、義経を平泉で匿ったのは父秀衡がしたことで自分には関りがない。その証拠に頼朝の命令通り義経を討ち果したではないか。これは手柄として誉められこそすれ征伐を受けるは心外である。出来るならば頼朝の御家人の一人に加えられるか、せめて命だけは助けてもらいたい。返事は比内郡の山中に届けて欲しい…云々。 しかしながら、皮肉にもこの書は逆に泰衡の所在が明らかになる一因となり、頼朝は泰衡の捕縛を厳命した。これが、果ては泰衡を匿っていた比内郡贄柵の領主河田次郎へ裏切りを勧める呼びかけともなり、9月3日、河田次郎は主泰衡を惨殺し、その首を志和郡陣ヶ岡蜂森のあたりに布陣していたと云われる頼朝の陣中へともたらした。9月6日朝のことと云う。 |
| 泰衡の首は額に八寸釘を打たれて晒されたが、9月18日、中尊寺の僧たちに戻され、父秀衡も眠る中尊寺金色堂の須弥壇(西北壇)に葬られた。この首は、頼朝を憚ってか以来忠衡のものと伝えられる。一方、恩賞を期待して泰衡の首を持参した河田次郎は、裏腹に「主殺しの罪」により処刑された。 通説による泰衡の人となりは、お世辞にも魅力的とは言い難い。しかしながら、所謂正史と呼ばれるものは所詮は勝者の歴史に過ぎない。かつて大和朝廷の派遣した、物量的には圧倒的に勝る侵略軍に敢然と立ち向かい、38年の長きに渡り互角以上の戦いをしたアテルイを始めとするこの地の族長達や、若干ニュアンスは異なるものの、頼朝の祖先義家と戦い滅亡した清原氏の例にも見られるように、敗者は恣意的に貶められて記録されるのが常である。泰衡についても、通説を鵜呑みにすることは早計ではあるまいか。 泰衡の最後については、当然その終焉の地にも伝承されていた。曰く、河田次郎は、泰衡を匿って罪になるより寧ろ討って褒美を得ようと考え、しかも主殺しの罪にならずに済むよう計画を練った。 |
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こうして文治5(1189)年9月3日の夜、多くの兵を動員して頼朝の大軍が攻め入ったように見せかけ、泰衡が観念して自害するように仕向けた。この計画は成功し、河田次郎は泰衡の首をはねた。その後、首のない泰衡の遺体は里人によって錦の直垂に大事に包まれて埋葬され、その墓は錦様と呼ばれたと…。 大館市二井田地区に現在も残る錦神社がそれである。 一方、ここから南西約3キロメートルにある比内町五輪台地区には、泰衡の奥方に関する伝承が残されていた。地名のもととなった五輪の墓が泰衡夫人のものと云われ、現在も西木戸神社として祀られている。 泰衡夫人は夫の跡を追い子供3人と侍従を連れてこの地までやって来たが、夫泰衡は既に4日前に殺されたことを知り、悲嘆のあまり子供を従者に託して自害したと云う。五輪の塔は、そんな奥方を哀れんで里人が作ったが、今は三輪である。下の二輪は、泰衡が祀られている錦神社に後に移された故と云う。 |
| もしも泰衡の事績が通説通りとしたならば、そもそも義経北行伝説なるものは存在し得ない。しかし、泰衡が通説のように情けないだけの領主なら、たとえ勢力圏内とはいえ平泉から遠く離れた地の里人が、果たしてその遺骸を大切に錦に包んでまで埋葬し、祭祀を続けるものだろうか? しかもその奥方まで同様に…。 夫妻を祀った二つの神社は、互いに向かい合って建てられていると言う。寧ろ泰衡は、争いを好まぬ領民思いの名君だったのではあるまいか? 集落内民家の庭先に、各々810余年もの長きに渡り護り継がれてきた泰衡と奥方の霊を祀る小さな社の前に立ち、ふとそう思った。泰衡は父秀衡の指示を忠実に実行し、義経を一族関係者しか知らぬ隠しルートから逃避させた後、無益な争いを避けようと自らも北へ向けて出立したと考えたい。あるいは叔父秀栄の支配する十三湊で義経と落ち合い、共に海を渡り夷狄嶋(北海道)で再起を期そうと密かに誓いあってのことだったのかも知れない…。 |