義経北行伝説の足跡を追う!(番外編)
| 「金売り吉次」、義経記は、この人物を京・三条の大福長者、毎年奥州に下る金商人で、名を吉次信高と記す。あるいは、炭焼き藤太と京・三条の右大臣の娘おこや姫の子で、その名を三条吉次信高、又は末春とも伝えられる。 云わずと知れた、義経を秀衡に仲介したとされる人物であるが、その伝承は、父とされる炭焼き藤太と同次元で全国各地に広く分布している。又、東北における藤太・吉次の伝承地は、義経北行伝説地と重なっているやにも考えられる。 |
その2 「炭焼き藤太・吉次」の黄金伝承譚異説…青森市鶴ヶ坂
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義経北行伝説で取り上げた青森県にも、藤太・吉次の伝承は残されていた。曰く、 戸建沢(青森市鶴ヶ坂)に「炭焼き藤太」という若者がいた。一方、京の都の貴族の家に、「福姫」という醜女がいた。嫁の貰い手がなかったので出雲大社に願をかけると、「夫となる人は陸奥国の津軽は戸建沢というところの藤太という若者だ」と告げられた。 そんなある日、一人の男が福姫の家を訪れた。吉次と云う名の砂金を商う津軽の商人だった。そこで福姫の両親は、吉次に頼み福姫を津軽に旅立たせた。 やがて戸建沢に着いた福姫は、小川で顔を洗い、小さな神社脇の杉の小枝を使って黒く歯を染めた。終わって鏡をみると、きれいな女の顔が映っていた。この故事から、顔を洗った川を「美人川」、楊枝に使った杉の大木を「楊枝杉」、お歯黒を染めた神社を「羽黒神社」、この辺り一帯をを「羽黒平」と云う。 |
| やがて藤太と出会った福姫は、炭焼き暮らしの貧しさに同情し、黄金を出して与えた。ところが藤太は、「こんな物はいくらでもある」と言って、近くの沢を掘って黄金を積み上げた。 こうして福姫によって黄金の価値を知った藤太は、たちまち長者になり、福姫と夫婦となって幸せに暮らした。 その後藤太の身元を調べると、十三湊の福島城主だった藤原秀直の子であった。安東氏との抗争で城は落城、父は討ち死、まだ幼かった藤太だけが乳母に抱かれ、戸建沢に隠れていたものと云う。 藤太の身の上に同情した鎌倉幕府は、藤太に藤原頼秀と名を与え、津軽の一城を護らせた…。 |
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このように、鶴ヶ坂に伝わる「炭焼き藤太」と「吉次」の伝承は、他の地域のそれとは大きく異なる。最後の藤太の身元云々のくだりは、津軽家の祖を藤太(十三藤原氏→平泉藤原氏)に求め、津軽家と近衛家(福姫の実家)を関係付けようとして伝説を利用(?)した節があり、さて置くとしても、同じ東北地方でも岩手県及び宮城県の伝承は、一貫して藤太が父で吉次が子なのに対し、ここでは吉次と藤太の間に血縁関係は認められない。又、吉次の方が藤太よりも世代が上である。 吉次、あるいは藤太という人物の実体は不明である。が、おおよそ次のような人物と言えそうだ。 a,金商人で、隊商を組んで都と奥州を往復していた b,平泉藤原氏と関わりがあった c,源義経と関わっていた d,鉱山を経営していた |
| 本編では、もちろん前記a〜cの観点から藤太・吉次を取り上げている。が、鶴ヶ坂には、dの要素も認められた。鶴ヶ坂戸立(建)沢が金山として津軽家(藩)の記録に残されているのだ。又、奇しくも義経北行伝説のコース上には、金山が点在している。 大雪に悩まされた厳しい冬もようやく終わり、そこかしこに春の息吹が感じられる3月の下旬、鶴ヶ坂を訪れた。1/5万、及び、1/2万5千の地図、さらには住宅地図まで念入りに調べたが、戸建(立)沢の地名表示は見当たらない。関連書籍の記載内容と地図を詳細に照らし合わせ、しばし逡巡した後、勘を頼りに両側に未だ回廊のように雪が残る細い林道に車を乗り入れた。対向車が来ないことを祈りつつ…。 |
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やがて急峻を一気に上り詰め、しばし平坦になった林道の脇に、地図には記載の無い神社の鳥居と石碑が目に付いた。期待と諦めの入り混じった複雑な思いで目を凝らす。すると、「戸建沢神社」という文字がハッキリと読み取れた。不思議な感慨に浸りつつ、参拝後、デジタルカメラのシャッターを切った。 戸建沢に臨んだ山の中腹には、洞窟があると云う。伝説を彷彿させるその洞窟を、是が非でも目にしてみたい。 しかし、山の斜面は未だかなりの雪である。この雪が消える頃、きっと再訪しようと心に誓い、地図には無い神社を後にした。 |