義経北行伝説の足跡を追う!(青森県編)
| 円明寺に詣でた義経一行のもとに、十三湊から迎えの使者が使わされた。こうして義経一行は、この案内人に導かれ、十三湊へとおもむいたと伝わる。 十三湊は、古代末期から中世にかけ、三津七湊の一つに数えられた日本を代表する湊の一つであり、当時は平泉にも匹敵する程の繁栄を極めていたとされる。義経の本来の目的地は、実はこの十三湊だったとする説がある。藤原秀栄の存在がその理由である。 |
その7 市浦村「十三湖」
| 秀栄は、平泉藤原氏二代目当主「基衡」の次男、即ち、義経の最大の庇護者であった三代目当主「秀衡」の弟であると云う。十三湊の支配者だった安東氏季の養子に迎えられたが、藤原の姓に誇りを持つ故か安東を名のらなかった。氏季の後継後、交易によりその富を一層拡大し、当時視浦城と呼ばれていた一族の城を、東西南北を土塁で囲み外側一帯に堀を巡らした壮大な城、福島城に大改修した。又、信仰心も厚く、十三湊一帯を平泉のような一大法城の地にしようと、世に十三千坊と呼ばれる数々の神社仏閣を建立、治承5(1181)年には、兄秀衡の奉請により従五位上陸奥権守に任ぜられたとされる。 息子「秀元」に跡目を譲った後は、自ら建立した寺院の一つ、「檀林寺」を隠居所と定め、頭を丸めて栄連と名乗り、御仏に仕える毎日を送っていた。この秀栄の住む檀林寺に、義経一行はしばしかくまわれていたと云う。 秀栄が平泉藤原氏の一族であるならば、当然義経との面識はあったであろう。義経は16歳から22歳迄の7年間を平泉で過ごした訳であり、その間見聞を広める為十三湊へ足を伸ばしたことも十分考えられる。 |
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又、秀衡は臨終にあたり、実の息子である泰衡や国衡を差し置いて、義経に平泉の将来を託したとされる。用意周到な秀衡のこと、当然秀栄とも何らかの気脈を通じていたであろうことは想像に難くない。さらにうがった見方をすれば、あの高館襲撃の真相は、実は泰衡等との共演による演出であったと考えられないこともない。 それでは何故義経はすぐにも十三湊を訪れなかったのか? どうして宮古や八戸等であんなにも足踏みしなければならなかったのか? それには安東一族の複雑な生い立ちが災いしていたとは考えられまいか。 秀栄は平泉藤原氏の一族とはいえ、その立場は安東一族の統率者であり、養子である。一方、安東一族にとって源氏は、その出自と仰ぐかつての陸奥の覇者、安倍氏を滅ぼした仇敵であり、その安倍氏の後継とも言える平泉藤原氏も又、源氏により滅亡させられたことになる。いかに秀衡が義経を尊重したとて、所詮義経の悲劇は仇敵である源氏一族の内紛に過ぎないと考えていたとしてもおかしくはない。 |
| 秀栄はこの微妙な雰囲気を敏感に察し、義経の北への逃避行を影ながら援助しつつ、ひたすら時節の到来を待っていたのではあるまいか? 義経の北行伝説を追うと、長らく滞在した場所ではその土地の有力者が深く関わっており、又、次の滞在地へと移動する際は不思議と案内人が現れていることに気付かされる。これも秀栄の庇護とみれば納得できる。 しかし、鎌倉方の探索の手も次第に伸びてきており、いつまでも陸奥に潜ませるには危険が伴った。やむを得ず、秀栄は義経一行を遂に自らの本拠地十三湊へと誘った…。しかし、やはりここも安住の地とはならなかった。 こうして義経一行は、ようやく到達できた十三湊へも別れを告げ、未だ頼朝の手の及ばぬ地を目指し、さらに北へと旅立つことになる。繁栄を極める十三湊でようやく巡り合えた秀栄と義経は、果たして何を語りあったのだろう。 |
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