義経北行伝説の足跡を追う!(青森県編)

世の無常を痛感しながら高館に暮らす義経は、さらなる不幸に見舞われる。妻、北の方(久我大臣の娘)の死である。北の方は、産後の肥立ちが悪かったと伝えられ、仮に北行伝説が事実なら、養生する間もないまま宮古へ八戸へと逃避行を続けたことになり、心身ともに衰弱したものであろう。死して後、北の方は京ヶ崎に葬られ、報霊大明神として崇められたと云う。現在のおがみ神社がそれである。




その3  八戸市「おがみ神社」

おがみ神社は、八戸市で最も古い氏神で、「類家稲荷大明神縁起」、並びに、北の方の愛用品だったと伝わる手鏡を所蔵している。
「類家稲荷大明神縁起」は、医師「関諄甫」が享保17(1732)年に、義経が八戸にやってきた時にお側近くに仕えたと云われる「榊」氏の子孫、法名「浄円」なる人物の語りと、三戸の松尾某や、天聖寺の即誉守西和尚の話を書き残した文書と伝えられ、文治4(1188)年から元久2(1205)年に至る八戸地方の義経の足跡が記されている。
又、手鏡は、菊の花と雀を紋様にあしらった直径6センチほどの青銅製という。
尚、神社の命名の由来には諸説あるが、義経の妻、つまりオカミさんを祭っているのでそう呼ばれた、との説もその一つとのこと。


おがみ神社本殿


おがみ神社裏

北の方の死に悲嘆にくれていたちょうどそのころ、義経がまだ生きているとの噂が立ち、鎌倉から討ってが来るとの話が伝わってきた。
何の関係もない多くの民人を抗争に巻き込むことを嫌った義経は、北の方の供養も十分には済まないうち、複雑な思いでさらに北を目指して旅立った。元久2年(1205)4月末のことと、類家稲荷大明神縁起は記す。
境内を神社裏に廻ってみた。本殿正面からはわからないが、裏からみると、神社本殿が正に塚のような地形に建てられていることに気が付いた。まるで北の方の塚を守っているかのように、2本の巨木が屹立していたことが妙に印象的だった。




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