義経北行伝説の足跡を追う!(青森県編)

義経が高館に移り住んだ頃の八戸地方は、山辺、海辺の高台に小さな農家が点在するだけの、見渡す限り茅やよしが生え茂る野原と湿地帯だったと云う。
高館に居を構えた翌年の春、何を思ってか義経は、常陸坊海尊を京都へ派遣する。藤ヶ森稲荷を勧請する為だったと類家稲荷大明神縁起は記す。

その2  藤ヶ森稲荷神社(類家稲荷大明神)

自身の産土神だった故か、はては他に何か念願でもあったのか、義経は、海尊が京都の藤ヶ森稲荷の社から持参した一握りの土を類家の北の州先に埋め、小さな祠を作ったと云う。今に残る、類家の「藤ヶ森稲荷神社(類家稲荷大明神)」がそれである。
類家稲荷大明神縁起には、京都も賑やかなのは藤ヶ森の西方一帯である。よってこの地も自ら建立した社の西に開けた野原は、後々必ず家も建ち人里になるであろうと考え、「京ヶ原」と名付けた。又、京ヶ原の東の洲崎に、柏の木が2本あったことから、そこを「柏崎」と呼んだ。さらに、京ヶ原の北の洲崎には「京ヶ崎」と命名したと、この地区の地名の由来が記されている。
柏崎という知名は今も残っているし、正に義経の命名した京ヶ原一帯に、現在の八戸市街地が形成されたことになる。
類家の地名の由来についても縁起は以下のように記す。
義経は高館からしばしば藤ヶ森稲荷に参詣に出かけた。その為、社の近くに茅ぶきの小さな小屋が作られた。その小屋に入っている者達を、少しは家に似ているの意から、義経が戯れに「類家の者ども」と称したことに起因すると。

 
藤ヶ森稲荷神社(類家)


藤ヶ森稲荷神社本殿(類家)

又、義経一行の参詣の折、社の外に立てられた杭に烏帽子を掛けた故、「烏帽子屋敷」であると云う。
近年まで、「類家字烏帽子屋敷」なる地名は実際に存在した。が、街区整理の為、このあたりの現在の正式名称は、類家一丁目である。

「類家稲荷大明神縁起」の語り部

義経の藤ヶ森稲荷への参詣の折々に、榊の枝を差し上げる役目の者がいた。義経は、この者を名前の代わりに榊と呼んだので、義経の許しを得て榊を姓とし、以来その子孫は「榊」氏を名乗った。この一族が代々住んでいた所が三戸郡階上町の海岸に近い榊集落であると伝わる。
後に、類家の稲荷大明神が寂びれたことを憂い、先祖からの言い伝えとして、この社と義経との関わりを語った「浄円」は、この一族の子孫であると云う。



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