義経北行伝説の足跡を追う!(番外編)

三戸郡名川町にある法光寺は、北条時頼を開基と称する古刹である。鎌倉時代、出家して西明寺入道と名乗っていた時頼が、この地を旅した時の話しに由来すると云う。
この北条時頼を開基とする寺に、弁慶に関する伝説が残されていた。




その3 弁慶伝説を伝える北条時頼開基の寺名川町「法光寺」


名久井の法光寺として知られるこの寺には、弁慶自筆のお礼状が伝えられていたと云う。法光寺十三世不慧和尚が、宝永三年に書いた「白華山法光禅寺諸来歴記」は、法光寺に一泊した弁慶が、寺宛に出した宿泊のお礼状を保管していると記載する。八戸から三戸付近に所用の為出かけた弁慶が、その帰りに法光寺に立ち寄り、そのまま一泊したものらしいとのこと。しかし、残念ながらそれは明治年間の火災で焼失してしまったとのことである。又、この寺の境内には、土地の若者達が力試しに使った石に、「弁慶のカ石」と名前がつけられていたとも云う。義経の第一の家来武蔵坊弁慶の伝説も、義経同様人々の暮しの中に溶け込んで伝えられてきたものと思われる。
さて義経伝説の紹介が目的ではあるが、成行き上、法光寺の北条時頼開基伝説についても簡単に記載しておこう。



法光寺本堂


往時名久井岳に登った時頼が、その帰途、山の中腹にあった観音寺に一晩の宿を請うたが住職の桂竺法印に断られ、やむなく山奥の別の庵寺に宿を求めた。庵主の玉峰損城和尚は、ありあわせの品ではあるが心から時頼をもてなした。
そうした庵主の人柄に深く感激した時頼は、翌朝、庵主の姿が見えなかったので、自分の持っていた扇子の表に、「壱千石名久井通り右永代可令知行也」と、又、裏には、「水結ぶ 名久井が岳を 眺むれば 海より出でて山に入る月」と書き残し、西明寺入道時頼と署名・花押のうえ下山した。

 


爺杉
…樹齢1千年…


仏舎利塔

日本最古の仏舎利
が納められている


三重塔
…道元の霊骨が奉安…

ところが、下山の途中再度庵主に出会った。聞けば、朝食の糧がない為托鉢に出た帰りと云う。そして今一度寺にと懇ろに勧められたが、丁重に謝してそのまま別れた。これが今に残る出合坂の地名の由来という。
そうして翌年、この庵寺に鎌倉から使者が到着し、世話になったお礼にと七堂伽藍経堂を建立、寺名を「白華山法光寺」とした。山号の由来は門の下の蓮の池の白蓮華、開基は西明寺入道時頼、開山は当時の庵主・損城和尚と云う。
一方、宿泊を拒絶した観音寺の住職桂竺法印は、時頼に対する非礼を咎められ、無残にも逆さに生き埋めにされたと云う。御坊塚がその場所とのこと。
法光寺には、樹齢1千年を超え、周囲8mの爺杉や、日本渡来最古のものとされる仏舎利を納めた仏舎利塔、又、曹洞宗開祖道元の霊骨を奉安し、高さ日本一(33m)の三重塔、等々、他にも見るべきものは数多い。
冒頭紹介した弁慶の伝説が真実とすれば、それは法光寺の前身である庵寺が舞台ということになる。それにしても、義経にとっては因縁の宿敵ともいえる平氏の一族であり、且つ、義経を追討した鎌倉幕府の重鎮でもあった北条時頼が開基とされる寺と、義経伝説の一環である弁慶の伝説との組み合わせは、一種の歴史(?)の皮肉と考えるのは早計か。




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