義経北行伝説の足跡を追う!(青森県編)

八戸の高館を出発し、さらに北を目指して旅を続けた義経一行が、次に訪れたのは六ヶ所村平沼の橋本家であったと伝わる。現在の平沼地区では、全戸数の約六割が橋本姓を名乗り国道沿いにかたまっているが、往時は高瀬川を見下す高台の上に、橋本一族の本家があったと云う。
雨模様のある日曜の夕方、義経が潜行したと云われる橋本家の子孫の方のお宅を訪れた。アポイントメントも手土産もなしの、今にして思えば不明の極みの訪問であったが、橋本家の人々は訝りもせず丁寧に応対して下さった。
苦しい北行の旅のひととき、往時の義経一行もまた、橋本家の祖先の厚い人情にさぞかし安堵したことだろう。


その4  六ヶ所村「橋本家」

今は国道端で商店を営んでいる橋本さんから、この家から嫁いだ沼辺さんが語ったというお話を伺った。
沼辺さんは、幼少の頃祖母の膝に抱かれて、この家は判官様の御宿だった。奥方や姫様も来られたと、何度も教えられながら育ったと言う。判官様というだけで当時はよくわからなかったが、今は九郎判官義経のことだったと思っておられるとのこと。
又、源氏の紋所の入った風呂敷も戦前までは残されており、平沼の橋本氏はその姓のほかに、「源氏」、「河内屋」を使用したとも言う。
橋本さんに、蔵屋敷跡と呼ばれ、かつて義経が隠れ住んだと伝わる土蔵があったという場所に案内していただいた。跡地には葦やススキが生い茂り、往時の面影は残念ながら今はない。



蔵屋敷跡



秋葉小祠

蔵屋敷跡の隣に、秋葉小祠が鎮座していた。義経が残したものとの口伝が残るが、何ら資料は残されていない。
2月24日の縁日に幟を立てる。かつて平沼で火事が起こった時も、この一帯だけほ難を逃れたとも云われている。
小祠の中には「鹿島大明神」と墨書された木札が納められているが、秋葉様として信仰を集めている。
この秋葉様が古くから祀られていたことは確かであり、平沼の別当家、平群左右治家の「棟札控」によると、明和2(1765)年、天保16(1845)年、そして慶応4(1868)年の三枚が残っている。又、文政2(1819)年の「伊勢参宮道中記」によると、六ヶ所村の代参講の人々が、同年4月27日、三重県の伊勢神宮へ参詣する途中、静岡の秋葉山に参拝している。 
沼辺さんの話は続く。
義経が平沼から青森に向って出発する時、当主与兵衛(与次右衛門とも伝わる)がお供を申し出て許された。
途中、東北町石文にある「日本中央の碑」に寄り、義経は田村麻呂を偲んで歌を詠む。

「三熊野に つづく小山のふみ石を
          見るにつけても都恋しき」

こうして善知鳥村(青森市)までお供をし、義経一行と別れる時、義経は、附近一帯が広々とした原野だったこの地を指差し開拓するように言った。与兵衛はその指示に従い、この地に留まり開拓に従事する…。橋本の地名の由来と云う。
青森市に橋本の地名は今も残るし、そこで橋本を名乗る人もいる。が、当時の直接の子孫は、平沼に戻り漁業や農業に従事したとも伝わり、関係は不明である。



現在の青森市橋本地区
(橋本小学校付近)


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