北部王家…参考文献<北洋伝承黙示録>
著者;渡辺 豊和、発行所;株式会社新泉社、東奥日報
| 青森県下北半島の中心むつ市矢立山に、大塔山大照院阿吽寺なる寺がある。現在の建物は、昭和46年に再興されたものであるが、その由緒は後醍醐天皇の孫、良尹(ナガタダ)王が、足利方の手によって殺された父、大塔宮護良親王の霊を慰める為に建立したものと云う。 |
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話は正平2(1347)年に遡る。大塔宮護良親王の子八幡丸良尹王が、護良親王の弟後村上天皇から南部信政に託され津軽郡鼻和城に入城、その後平館より九艘泊に着船し、むつ市城ヶ沢の順法寺城に入った。当時まだ16歳の若さだったと云う。良尹王は父の護良親王に似て知勇に優れ、又、信仰心も厚く、護良親王の23回忌にあたる正平12年(1357)平泉の学匠真照を北部(キタベ)に招き、大塔山阿吽寺を建立したと伝わる。尹王は同24年(1369)、37歳で死亡、以来その子孫は北部(キタベ)王家を名乗り、百年余りこの地で栄える。 しかし、文安5年(1448)5代義純の代に、この名家に危機が訪れる。後に蝦夷地松前家の始祖となる野心家武田信純(蠣崎蔵人ともいう)の出現である。信純は義純の妹婿となるが、文安5(1448)年義兄義純、その子息義元、二郎、孫娘環姫を船遊びに誘い出し溺死させ、義純の甥で、自分の子でもある茂丸をも毒殺し、大塔宮の系統を絶やしてしまったと云う。 |
| ちょうどその頃、北部王家には後村上天皇の第八皇子宗尹王が寄寓しており、信純はこの宗尹王を押し立て主とする。しかし宗尹王は老齢であり飾物に過ぎない。こうして信純は、北部王家を横領し下北の実力者となるが、やがて南部氏との抗争に敗れ、武士泊から船で蝦夷地に落ちて行く。良尹王が建立した大塔山阿吽寺も、北部王家が滅びるとともにいつとはなしに消滅していった。 下北の由緒ある寺を中興したいと考えていた高賀山大善院住職蒔田照範僧正の手によって、こうした北部王家の悲しい歴史を塗りこめながら再興されたのが、現在の大塔山大照院阿吽寺であると云う。 |
| 本州最北の下北に、護良親王の遺児が定住したなどとは俄かには信じ難いかも知れない。しかし南北朝の騒乱当時人の動きは以外に激しく、又、海路を利用すれば遠距離の移動も然程困難ではなかったとも考えられる。 しかも当時の下北は金を産出していた節があり、豊富な海産物と合わせ、現在のイメージとは異なり豊かだったと思われる。現に今でも霊山恐山の地下には金鉱床の存在が確実視されていると聞く。 北の大地は貧しいというイメージが定着したのは、本来の価値を離れ、農耕中心の価値観・社会に移行してからのことであり、当時は財政的基盤もそれなりに整っていたのではあるまいか。 北奥羽の地は、中央(?)の政争に敗れた所謂貴種の吹き溜まりの感すらある。南朝の忠臣北畠氏の子孫が津軽の浪岡に定住した事実からも、最北の下北に南朝の皇子が逃れて来たとしても決して単なる伝説とはいい難い…。 |
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