石田三成の墓伝承…秋田市「帰命寺」
| 秋田市八橋本町に、石田三成のものと伝えられる墓が残る寺がある。帰命寺がそれである。帰命寺に現存しているのは木食唱岳長音上人の墓で、寺伝によれば、”木食唱岳長音上人=石田三成”ということらしい。 しかし、石田三成が慶長5(1600)年10月1日、京都六条河原で処刑されたことは紛れもない事実である。その三成の墓が、何故秋田市に存在するのか? |
| 伝説によれば、関ヶ原での敗戦後、石田三成は侍臣三人と共に伊吹山を落ちのび、百姓姿になって近江から北国を抜け、会津へ逃れたと云う。そこからさらに出羽へと進み、暫く米沢に足を止め形勢を伺った後、慶長7(1602)年に佐竹義宣を頼って秋田に入った。佐竹義宣は三成を手厚くもてなし、八幡村に寺を建てて三成の住居とし、表向きは京都の知恩院から名僧を招いたと称した。その寺の広さは東西70間、南北75間で、50石の寺領を付けたと云う。即ち帰命寺である。三成はその後寛永10年(1633)正月、帰命寺にほど近い「穴入開山」と呼ばれる小丘に於いて、生きながら土の中に入り入定したと伝えられる。享年71歳のことと云う。 一方、後年書かれた佐竹家(藩)の調書には、「帰命寺の開山・木食唱岳長音上人は石田三成の弟で、ある事情で出家し僧になった人であり、佐竹義宣に招かれて当地に参りました。不審の点はいささかもございません」との意味の報告がなされたとある。ここでは帰命寺に残る上人の墓は、石田三成本人のものではなく、その弟のものとされている。 |
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それでは、木食唱岳長音上人とは一体何者なのか? 秋田家(藩)家老の手による「岡本元朝日記」によれば、上人は慶長7(1602)年、越前の金津に生まれたとある。俗姓は石田氏、幼名は吉六、数え年3歳で孤児となり、8歳の頃剃髪したと云う。 木食唱岳長音上人が秋田に現れたのは、明暦3(1657)年、佐竹家(藩)二代、義隆の代とされ、その後佐竹家(藩)の援助によって、八橋の地に広大な寺域を得て帰命寺を創建した。さらに寛文11(1671)年、佐竹義隆は将軍家御霊屋の寺に帰命寺をあて、上人をその御霊屋の別当職に当てている。木食唱岳長音上人が入定したのは、廷宝6年(1678)年8月16日、享年77歳だったと云う。又、即身成仏したとの説も事実らしい。しかし、上人と三成ではその生きた時代に年代的にはやや無理がある。 |
| 一方、隣地津軽には三成の子孫を称する一族が現存しており、津軽家(藩)の記録にもその一端が伺える。その一家系である小国石田家に同行したと伝わる大科家には、「長男は三成の遺品の一部を持って秋田に行った」との伝承が残ると云う。 それにしても、源義光の直系という名家ながら、関ヶ原の合戦後所領を奪われ秋田に移封されたというその経歴故か、あるいは又、初代義宣の弟の正室に真田幸村の娘小田姫が迎えられているという事実故か、秋田佐竹家には石田三成や真田幸村など、関ヶ原で敗れた西軍著名武将に関する伝承がつきまとう。 GWのある日、かねてより関心のあった帰命寺を訪れた。住宅地図を頼りにどうにかその場所にはたどり付けたものの、現在の帰命寺には、将軍家御霊屋の寺だった頃の面影は微塵もなかった。宅地の中にひっそりとその寺領を留めるだけであり、後世一ヶ所に集められたと思しき古い墓碑群の中から、寺伝に残る”木食唱岳長音上人=石田三成”の墓碑を判別することすら、一見の好事家には難しかった。 さて問題の上人の墓は、佐竹家(藩)の調書が記すように三成の弟のものなのか、それとも大科家に残る伝承のように三成の長男のものなのか、果ては又寺伝の通り、石田三成本人のものなのだろうか? |
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