真田幸村の娘・豊臣秀次の孫…「顕性院」

 秋田県由利郡岩城町にある日蓮宗の古刹、顕性山妙慶寺の一角に、大光院(真田幸村)を父、隆清院(豊臣秀次の娘)を母に持ち、数奇な運命をたどった顕性院(御田姫)の墓がある。
妙慶寺は、顕性院が真田家菩提の為、寛永6(1629)年に建立した寺であるという。




 曾祖母に当たる瑞竜院(豊臣秀吉の姉・秀次の母)のもとに身を寄せていた顕性院(御田姫)は、大坂落城後、身を町人に紛し難を逃れたが、遂に捕らわれの身となり、真田信之(幸村の兄)のはからいで人質として大奥へ3年間勤めた後、帰洛を許された。
 その後女衆に薙刀を指南する傍ら、礼儀作法の心得をかわれ、偶然上洛した羽州佐竹家当主・佐竹義宜の給仕姫を勤めた縁で、義宜の弟佐竹宜家の側室へと迎えられた。
 波瀾に富んだ運命はさらに続き、佐竹家の継嗣問題のこじれから、宜家との間に生まれた長男重隆がやがて羽州岩城家の当主を拝命、同時に顕性院(御田の方)は宜家の正室となり、親子共々亀田(岩城町)へと赴任した。



由来書



本 堂



六紋銭の額

 こうしてこの地で重隆を名君として育成する傍ら、夫宜家の協力を得て真田家の再興に尽力した。寛永10(1633)年、母隆清院の逝去にあたっては、妙慶寺円乗院日砌上人を岩城家の特使として京に派遣、日砌上人は明正天皇に登殿を許され御詞と法衣を賜った。
 顕性院(御田の方)がその波瀾の一生を終えたのは、寛永12(1635)年、江戸に参勤交代中の長子重隆を訪ねた折、享年32歳、病を得てのことと云う。葬儀は江戸で済ませ、遺骨は妙慶寺に埋葬された。
 現在、妙慶寺には顕性院の甲冑、薙刀、大小刀、短刀、衣桁、衣類、御膳部、調度品、等々が奉納されている。



顕性院水行の井戸



顕性院着用の鎧



真田一族の供養墓




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