津軽の北条時頼廻国伝説…藤崎町「唐糸塚」
| 鎌倉幕府第五代執権北条時頼は、20歳の若さで執権の座につき、北条氏全盛時代を築きあげた。又、30歳で出家して後も、37歳で没するまで厳然として幕府の最高指導者の地位を占め続けた。 この時頼が、出家後旅の僧の姿で諸国を巡り、各地の民の窮乏を救って歩いたという時頼礼讃の伝承、所謂北条時頼廻国伝説なるものが全国的に分布している。又、文献においても太平記や増鏡、弘長記、鎌倉北条九代記、等の歴史物や軍記物、その他各地の寺社の縁起や地誌等々に広く記されている。 ところが、鎌倉幕府の正史ともいうべき吾妻鏡には、時頼廻国に関する記述はない。一方、太平記や増鏡も、他の歴史書にはない重要な史実を記載していることも少なからずあり、単なる物語と侮ることは早計である。又、そもそも時頼の廻国がお忍びの行動だったとすれば、それが吾妻鏡などの正史や記録には記載される筈もなかったとも言えよう。 |
| 本州の果て青森にも、この北条時頼廻国に関する伝承が残されている。 一つは”義経北行伝説の足跡を追う!(番外編)その3「弁慶伝説を伝える北条時頼開基の寺」で既にご紹介した、名川町にある法光寺の縁起である。 又、同じくその2「炭焼き藤太・吉次」の黄金伝承譚異説でご紹介した、藤太の身の上に同情して藤原頼秀なる名を与え、津軽の一城を護らせたとされる人物は、奇しくもこの時津軽を廻国していた北条時頼その人であると記した古文書も存在すると言う。もしその説に従うならば、「頼秀」の名は、北条時頼の頼と、藤太の父とされる藤原秀直の秀を合わせたものとも考えられる。 当コーナーでは、もう一つ津軽に伝わる著名な時頼廻国の伝説、「唐糸塚」に関する伝説をご紹介したい。 |
![]() 公園内の唐糸塚保存区域 |
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南津軽郡藤崎町に、唐糸御前の墓と伝わる塚が現存する。この唐糸御前と呼ばれる女性は、藤崎町の生まれで長じて北条時頼の妾になった。ところが他の侍妾に妬まれて、いたたまれず、とうとう故郷の藤崎の地に落ちのびた。後に時頼がこの地を訪れたのを知り、愛しさに胸を焦がすが、かつての容色が衰えた我が身を恥じて、柳が池に入水したと云う。 これを知った時頼は深く悲しみ、唐糸御前を手厚く弔って塔婆を建てた。その後も時頼は唐糸御前の供養を怠らず、丁度一七日(ひとなぬか)に当たった秋田と、二七日に当たった山本郡でも塔婆を建てて供養した。これが唐糸山初七日寺、並びに唐糸山二七日寺の由縁と伝わる。 一方藤崎では、その後、唐糸御前追善の為に安東氏が五輪塔を建てて田地を寄進した。やがてこれは護国寺という寺になったが、その後の兵火で焼失し、現在の弘前市にある禅林街に移された。唐糸山万蔵寺がその後身と言う。 |
| 津軽家の手による古碑調査書に、護国寺の移転後、その跡地に石碑が建てられたと記載されている。この石碑は今も存在し、唐糸の小字も残っている。 小雨模様の晩夏の日曜日、唐糸塚を訪れた。その場所は、塚を一角に保存するすこぶる広く小奇麗な公園となっていた。しかしそこは、藤崎の街並みから遠く離れた林檎畑の只中だった。 |
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