最北端の徐福渡来伝承地…小泊村「権現崎」

 今から2,200年程前、中国を統一した秦の始皇帝の命を受けて、方士徐福が五穀の種と共に多くの技術者を含む三千人もの若い男女を伴い、東海の蓬莱(日本)へ不老不死の仙薬を求めて渡来したという伝説がある。


 渡来後、徐福は 不老不死の仙薬を求めることこそできなかったものの、各地で稲作、捕鯨、医療、鉄工、建築、織物、造船等の先端技術を指導しながら定住し、第8代孝元天皇7年(BC208年)、70歳で他界したとされ、死後は各地で漁業・農耕・養蚕・医療・織物・雨乞い・陶芸、等々の神として崇められている。
 渡来伝承地は、熊野市、新宮市、佐賀市、諸富町、伊万里市、串木野市、富士吉田市、河口湖町、八丈島、伊根町、男鹿半島、等広範囲にわたり、又、「徐福之墓」なるものも、新宮市、熊野市、富士吉田市等に残されていると云う。
 一方、青森県小泊村の権現崎は、最北端の徐福渡来伝承地として知られ、徐福が航海の神として祀られている。
権現崎の岩頭に鎮座する尾崎神社の神官尾崎氏は、徐福の後胤と伝えられ、尾崎別当として熊野大社からも重んじられていたと云う。



権現崎



尾崎神社

 又、神社には古くから徐福の木像が祀られている。この徐福像は、像高6.5cmの木彫、一木造りの立像で、頭部には三角形の冠をかぶり、直衣束帯を結び靴は挿鞋、両手に持物を持っていたようだが今は脱落、所々に着色が施された高貴な中国風の服装で、波浪台に立っている。波浪台2.5cm、台座2cm、幅2cmで、造像年代や作者は不明だが、江戸時代末期の作と思われるとのこと。
 徐福渡来伝承の片鱗は、小泊村小泊地区と下前地区(徐福が渡来したとされる伝承地)における漁船の櫓に関する風習の違いにも窺える。たいして距離が離れていないのに、小泊地区は左櫓、下前地区は右櫓と聞く。
 左櫓、右櫓とは、船首に向かって左右どちらで櫓を漕ぐかということだが、佐賀市刊行会「弥生の使者徐福」によると、日本の漁船はほとんど左櫓で、右櫓はきわめて稀であり、中国と九州長崎の一部と有明海に面した漁港の船に多いと言う。
日本に徐福伝説が伝わったのは、平安時代末期から鎌倉、室町時代のことである。
 一説には、中国の「史記」に書かれてある徐福東方へ出海の記事が、貴族や僧侶、さらには修験の本拠地熊野へと伝わり、熊野信仰を広める修験者らによって国内各地に伝えられたとされる。
 権現崎の尾崎神社と紀州熊野大社は古くから密接な関係があったことから、小泊村の徐福渡来伝承も又、その流れと考えられないこともない。
 一方、古代から権現崎を含む東北地方の日本海側と大陸沿岸部は、海を介してつながっており、今でも毎年行われる海岸清掃の折りには、中国・朝鮮半島製の漂着物が少なからず収集される。又、奈良から平安初期における渤海国使等の数度にわたる出羽国漂着の事実からも、徐福の小泊村渡来はその可能性としては否定できない。
 最北端の徐福渡来伝承地権現崎の岩頭に立ち、海上遥かに津軽の霊峰岩木山、北海道の大島・小島らを眺めると、かつて始皇帝と徐福が中国琅邪海岸で見たと云う蜃気楼を彷彿させ、ふとこのロマンに満ちた伝承を信じてみたい感傷にとらわれた。



小泊村遠望




伝承コーナーへ!

トップページへ!