真田幸村父子の墓碑(大館市一心院)
| 真田幸村、智将として有名なこの武将は、定説では元和元(1615)年5月7日、大坂天王寺表で討死したとされている。享年49歳であったと云う。又、嫡男幸昌(大助)は、翌8日、主君秀頼や淀方等と共に大坂城で自害、享年15歳と伝わる。 一方、幸村等は実は九州へ逃げのびて、薩摩の島津家にかくまわれたという風説も根強く囁かれ、長野市松代町の長国寺、和歌山県高野山の善名称院、宮城県白石市田村墓地には供養墓(?)が、そして京都市竜安寺塔頭大珠院、和歌山県高野山の蓮華定院、秋田県由利郡岩城町の妙慶寺には位牌が残されていると聞く。 |
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秋田県大館市にある一心院にも、幸村のものと伝わる墓碑が現存する。そもそも一心院は、弘治元(1555)年常陸国那珂郡小場に建立された寺である。現在も茨城県那珂郡大宮町小場には「字一心院」の地番が残り、その痕跡を留めると言う。 その後佐竹氏の秋田転封に伴い慶長16(1611)年大館に移り、元和3(1617)年現在地に再建された。しかし明治元(1867)年戊辰の役の戦火で堂宇が焼失し、明治13(1880)年仮本堂を建立、さらに85年たった昭和40(1965)年にようやく新本堂が完成して現在に至っている。 一心院過去帳、及び、子孫とされる飯田家に伝わる信濃屋旧記等の古文書によると、天王寺表で討死したのは、実は幸村の身代わりの家臣「穴山小助」であったと云う。幸村等の一行は、島津義弘を頼って海路鹿児島に渡り、薩摩の南、頴娃(エエ)に隠れ住んで、信濃国から来た商人「信濃屋長左衛門」と称した。しかし頼りとした島津義弘が元和5(1619)年病没した為、幸村は長子大助と共に全国を行脚、奥州恐山より弘前を通り、矢立峠を越えて寛永2(1625)年春、大館の岩神を安住の地と定めた。 |
| その後は農耕に励みながら、真田紐を商い生計の資としていたが、寛永18(1641)年12月15日、75歳で没し一心院に葬られた。 又、長子大助は、初め「真田長左衛門幸昌」と称したが、後、「信濃屋長左衛門」と改称、さらに「信濃屋市兵衛」と改め、89歳の長寿を保って元禄15(1702)年4月3日に死亡、幸村同様一心院に葬られたと記す。 飯田家では、初め「信濃屋」と称していたが、天保年間に苗字帯刀を許され飯田氏を称した。古文書を初め、真田家の裏紋「六連銭」の画かれた南京奈良茶碗等を秘蔵していると言う。 一心院境内に残る幸村父子のものと伝わる墓碑は、崩落して今は墓銘が読み取れない。昭和28年、その隣に「信濃屋長左衛門事真田左衛門佐幸村之墓」と記した墓碑が、子孫の方の手により再興された。 一心院では、幸村父子の墓碑の他、妻(側室、関白豊臣秀次の娘)の位牌を祭っている。 |
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| 大坂で討ち死にしたとされる真田幸村の墓が、こともあろうに秋田の北辺大館市にあるなどあり得ないと思われるかも知れない。しかし、仮に幸村生存説が事実とすれば、俄かにこの伝承は真実味を帯びてくる。 大館は佐竹氏の領内である。佐竹氏は、源義光の子孫という名門ながら、関ヶ原の合戦において旗幟を鮮明にしなかった咎を問われ、常陸から出羽に転封された身である。幸村に対して同情の念を抱いたとしてもおかしくはない。又、何よりも幸村の四女御田姫は、秋田佐竹家初代当主佐竹義宜の弟、佐竹宜家に嫁いでいるのだ。さらに御田姫の長子重隆は、佐竹領の南端に隣接して所領を持つ岩城家の当主を継ぎ、御田姫は夫宜家の協力を得て、真田家再興に尽力している。 岩城領内や、佐竹領中心部ではいくら何でも憚りがあろうが、佐竹領北端の大館は、幸村父子を匿うに絶好の地とは考えられまいか? 幸村父子が葬られた寺が、一心院という佐竹家が常陸時代から所縁を持つ寺であることも、何やら曰く有り気である。 |