<日本中央碑>

 「日本中央」と刻まれ、「つぼのいしぶみ」として数々の伝説と謎を呼んだ石碑が、現在、青森県東北町の「日本中央の碑保存館」に鎮座している。
所以としては諸説あるものの、「日本」は「日の本(ひのもと)」と読み、往時大和朝廷の支配に屈しなかった先住民の居住地を指す呼び名で、大和朝廷の支配地が北進するにつれ、その地域も北へ北へと次第に狭まり、陸奥の「都母」がその中心(中央)であったとする説が妥当と考えられている。

<つぼのいしぶみ伝説>

 九世紀初頭、大和朝廷による蝦夷征討が北上し、坂上田村麻呂征夷大将軍が陸奥の奥地、蔀母(つも・つぼ−現在の東北町、天間林村を中心とした上北地方とされている)の地に、大きな石の石面に弓の矢で「日本中央」と彫り、建立したと云う。その後、「つぼのいしぶみ」として都に知れ渡り、多くの歌人に詠まれた。



日本中央の碑



袖中抄

<「碑」発見後の報道記事>

<昭和24年6月29日(東奥日報)>

 「日本中央」の文字の意味は、青森県が本州の北端なりという頭があるため容易に解釈つかぬがこれも史実に合っている。書体も刻みも後年のものとは思えない。ただ伝説に残るように田村麻呂が刻んだものとは思えない。田村麻呂は現在の岩手県水沢付近までしか来なかった。だから田村麻呂の次に蝦夷を追って来た文屋綿麻呂ではなかろうか。…いずれにしても今度の石を直ちに「壷の石碑」と断定できないが十分学会の問題になりうるものと信ずる。(東京文理大学教授松本彦次郎氏)

<昭和25年9月27日(東奥日報)>

 横浜市在住の歴史家中道等氏にたのみ新しい史眼で問題の「つぼのいしぶみ」を鑑定してもらった。…(中略)…石質は石英粗面岩である。現に碑面に見える「日本中央」の四彫字の外側にもう一つ矢張り「日本中央」の四彫字をそれとなく見ることが出来る。…(中略)…要するに「日本中央」の四字が摩滅するほど古いものを彫り返したものだと言うこと及びその四彫字の解釈から按ずるにこの「壷の石碑」は延暦か大同、つまり千二三百年前のものでしかも田村麻呂個人かまたはその兵員と深い関連を持つ史的価値に富む貴重なものと考えられる。


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