長慶金山…参考文献;<秋田不思議探訪>…編 者;無明舎出版、発行者;安部 甲

 秋田県田代町の最奥部、長慶森と呼ばれる深山の山中に、昔栄えたと伝わる金山跡が残存する。長慶の名の由来は、南朝三代として在位16年にも及ぴながら、大正15年に初めて皇統入り(第98代)を認められた長慶天皇に関わると云う。所謂長慶金山伝承である。
 長慶天皇は、一説には退位後青森県相馬村へ隠棲されたとの伝承も残る。事実、長慶森へのメーンルートは、青森県相馬村から東股川沿いのルートといってよく、山師も坑夫も多くは津軽人であったと云う。



峰越連絡林道から臨む山塊

 このように、長慶金山伝承はそのプロローグからして神秘的な雰囲気を漂わせているが、特筆すべきは寧ろ閉山に関する伝承である。
 長慶森は、中世には「奥古山」とも呼ばれ、佐竹氏の秋田転封後その隠し金山になったとも伝えられる。しかし、やがてそれが幕府の知るところとなり、幕府の追及を恐れた佐竹家はやむを得ず閉山を命じた。さらには証拠隠滅の為、二百人の坑夫を全員坑内に入れたまま坑口を閉ざしたと云う。
 そして、いつの日か再開される時の為に、その場所に目印として桐の木を植えたというのである。
 佐竹家がその後長慶金山をどう扱ったかは定かではない。又、今日まで多くの山師が伝説の坑口を探してこの山に入った。地元田代町でも何度か調査隊を送り、いくつか坑道らしきものや、鉱石を砕くのに用いた石臼などの遺跡・遣物を発見したものの、金鉱脈にまで近づく手掛がりを得るには至っていない。又、その人たちは決まって夢の中で助けを求める多くの人々の叫びを聞き、うなされて眠りを覚まされたと聞く…。
 秋田県田代町側からは入山が困難といわれたこのルートにも、現在は、峰越連絡林道、田代相馬線が開通し、秋田県と青森県とが結ばれている。私が秋田県側から入山し、青森県側相馬村までこの深い山塊をともかくも車で越えたのは、紅葉盛りの10月下旬のことだった。
 それにしても深い山並みだった。学生時代山岳部に所属し、単独行もずいぶんこなしたつもりだが、ともすれば恐怖感を覚える程の山の深さだった。
 長慶金山跡と思しき場所は、この林道から2キロ半ほど山地に分け入ったところと聞く。分岐の渓谷脇に車を止め、しばし感慨に耽った後、ふと足を踏み入れたい誘惑にかられたが、いかんせん午後3時を過ぎたこの時間では無謀と諦めた。撮影用のディジタルカメラが何故か不調だったのは、偶然だろうか? ここは気軽に人が立ち入るべき場所ではないのかも知れない。


峰越連絡林道


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