長慶上皇…参考文献;相馬村史
| 長慶上皇は、謎につつまれた上皇である。伝記には諸説があって一定せず、即位そのものが疑問視されたこともあった(大正15年皇統入り、第九十八代)。譲位後は諸国を流転したとされ、南北朝統一の際入京した後亀山天皇に随行した一行のなかに、長慶上皇の姿はなかったと伝えられる。 崩御の地と伝わる場所も全国26個所にものぼり、唯一高野山に残るご宸筆の祈願文だけが、長慶上皇の怨念を今目に伝えている。 |
| 南朝支持派の最後の拠点だったとも云える北東北には、長慶上皇に関する伝承が多い。岩手県宮古市の黒森神社、青森県三戸郡名久井岳の長谷寺、上北郡七戸町長福寺、南津軽郡浪岡町天の岱、中津軽郡相馬村紙漉沢などに終焉の地の伝説が残り、特に相馬村紙漉沢の上皇宮の地は、昭和19年に京都嵯峨の慶寿院が御陵と措定されるまで御陵参考地の一つであった(明治21年御陵墓伝説参考地、同41年御陵墓参考地)。 紙漉沢には、長慶上皇と共に多くの人々が潜幸し、子孫が定住したとも伝えられている。その子孫の一人で同地の修験者だった石田家には、古文書、御製の短冊、位牌などが残されており、上皇宮からは短刀一振りが発掘された。 |
|
|
| 長慶上皇が紙漉沢に潜幸されたと伝わるのは、南朝方の安東氏と、北朝方の三戸南部氏の武力衝突が激化しつつあった南北朝時代末期を舞台とする。足利幕府の安定に伴い、諸国は北朝に有利な形勢となり、南朝の陸奥国司北畠氏も敗走して津軽に逃れ、浪岡城(南津軽郡浪岡町)に定着して、安東氏の庇護を受けたと云う。さらに、南朝方の中心勢力の一つだった南部氏一族にも盛衰が生じ、南朝方を貫いた八戸南部氏は衰退、北朝方に転身した三戸南部氏が増勢して津軽の安東氏を攻撃した。 |
|
このような状勢下、最初は南部氏を頼り大平洋岸の三戸から七戸へ、やがて南部氏の変節と共に安東氏を頼って七戸から浪岡に至り、最後は相馬へと居住の場所を変えていった跡が、後に終焉の地として言い伝えられるようになったとも想像される。 紙漉沢の上皇宮を探して独り迷路のような相馬村の小道を辿り、ようやく着いた時、ふと不思議な感覚に囚われた。 どちらかと言えばそれは、神前で感得することのある清々しさよりは、不吉な曰くのある場所等で感ずるある種の禍禍しさに近いものだった。上皇宮裏の丘陵を登り、旧御陵墓参考地の前に立つとその感覚はより強まった。 聞けば正式に御陵として認知された京郡嵯峨の慶寿院にしても、何ら明確な根拠があった訳ではなく、単にその寺と長慶上皇の皇子との関係から、晩年はそこで過ごされたと推察されただけであり、なかんずく御陵に至っては、昭和19年の御陵指定後に新しく造営されたものと云う。 |
| 北朝に対する怨念を生涯抱き続け、死しては北朝の後裔の手で全く無関係な場所を御陵とされる。ひょっとすると、長慶上皇の怨念は未だに消えていないのかも知れない…。 一方、上皇宮に至る手前には、長慶上皇の皇后”菊理姫”の墳墓に建てられたと伝えられる白山堂がある。別名”皇后堂”とも呼ばれる。 菊理姫は、”新田宗興”の養女で、上皇と共に各地を転々とされた後紙漉館に入られ、この地で盛徳皇子が誕生したと云う。皇后のご逝去は応永23(1416)年11月18日、法名は「賢門院長雲大姉」と伝えられる。 |
|
|