幻の長慶金山と共に栄えた寺…能代市「萬年山長慶寺

 霊峰田代岳の奥、白神山地東部の秋田・青森県境付近に位置する長慶森には、往古金山があったと云う。所謂長慶金山である。
 昭和30年代後半から、多くの人々がこの長慶森で金鉱跡探しを試みた。又、地元の田代町でも何度か調査隊を送り、いくつか坑道らしきものや、鉱石を砕く為に使用されたと思われる石臼などの遺跡・遣物が発見された。だが、金鉱脈に近づく格別な手掛がりまでは得られていない。現在も尚、幻の金山なのである。
 一方、往時この謎の金山付近には、長慶寺という天台宗の寺があったと云う。




 長慶金山の開鉱は、鎌倉時代(1270〜1280年頃)とも、より古い源平時代(1150年頃)とも云われ、南北朝期には南朝第三代長慶天皇(上皇)が陸奥に下向し、この金山を掘らせた(1368〜1383)との伝承も持つ。
 そして江戸時代には、秋田佐竹家が隠し金山として再開発させたが、慶長の頃主用な金山を幕府が直轄するという動きがあった為、その事実を隠そうと、坑夫達を坑内に入れたまま坑口を塞ぎ、そこに目印として桐の木を植え、この金山を閉鎖したとも伝承される。
 長慶寺の寺伝に寄れば、貞観4(862)年頃、慈覚大師の使僧が霊峰田代岳に十一面観音を勧請し、草庵を結んだのが同寺の前身とされる。又、平安中期には秋田六郡三十三観音第三十番札所七倉山観音の別院として栄えたとも云う。


長慶林道


 
長慶寺碑

 こうした古刹だけに、菅江真澄の著述など様々な文書にその名が登場するが、幻の金山長慶金山と関わりを持つということは、各書が等しく伝えるところと聞く。
 曰く、この古寺は長慶金山が開発され栄えたが、やがてその閉鎖と共に廃寺になった。そして長禄年間(1457〜1460年頃)、名跡のみを移して能代小楯岬に長慶庵として建立された。その後享禄年間(1528〜1532)に一旦大森近辺に移った後、戦国末期の弘治年間(1555〜1558)には、寺号を萬年山長慶寺と改め曹洞宗となり、能代湊上町に新たに建立されたと云う。
 現在の長慶寺は、能代市の風致地区”風の松原”のすぐ側に建つ。昭和24年の第一次能代大火で焼失した翌年、新しい都市計画に基づき、旧地を離れて移転したものと言う。又、今でも慈覚大師作と伝えられる25pの胎内仏十一面観音像が、寺宝として本尊の胎内に納められていると云う。
 この十一面観音像が、寺伝の如く貞観4(862)年頃、霊峰田代岳に勘定された当時のものかどうかは知る由も無いが、何度かの火災の折にも焼けずに運び出され、現在に伝えられたものと聞く。


 北東北では、おそらくこれが今年最後かと思われる程の好天に恵まれた11月中旬の土曜日、長慶寺を訪れた。その有する古い歴史や連綿と伝えられた伝承とは裏腹に、現在の境内や伽藍にはさして見るべき程のものとて無い例が、地方には少なからず存在する。長慶寺もおそらくその類だろうという気持ちが、私の気持ちの何処かに無かったと言えば嘘になる。
 だが、まずその壮麗な山門に驚かされた。秋田県内最大とも言われるこの豪壮華麗な山門は、総欅造りで、日本の伝統技法が余すところなく駆使されていると言う。正面に阿吽二形の仁王像、そして背面には風神と雷神を祀り、回廊風の袖塀がめぐらされていた。
 そしてこの山門をくぐると長い石畳が続き、最奥に本堂が建っていた。又、境内には石庭や山灯龍、手洗鉢などが配され、随所から禅寺の風格が伺えた。
 


長慶寺山門



長慶寺本堂

 ただ惜しむらくは、山門は平成4年、本堂は昭和35年に完成したものと言う。これらの伽藍がより年月を経て、建物自体も歴史の風格を漂わせてこそ、名実共に秋田県を代表する名刹足り得るだろうと考えるのは欲張り過ぎか…。
 境内を気ままに散策していると、住職らしき坊さんが偶然車でお帰りになった。年齢は未だかなり若そうに見えたが、動きが大変機敏で、見るからに実直そうな好感の持てる方だった。これはチャンスとばかりに非礼をも省みず、寺伝につきお話しを伺ったところ、丁寧に答えていただいたのみならず、わざわざ寺を紹介した書物のコピーを取ってきて持たせて下さった。
 そんな親切に対して名乗りもせず、又、お名前もお聞ききしなかったことは、不躾の極みと反省している次第である。




伝承コーナーへ!

トップページへ!