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第六章 あたしのココロを見せちゃうゾ!
漆黒のドレスを着た香織と、純白のロケット・ライダーの衣装を着た香織が、電脳空間で戦っていた。
二つに分裂し、データの世界に捕らわれてしまった香織は、わけもわからず戦い続けていた。この電脳空間に来てから、黒の香織は、自分でもわからないうちにナナバ・ワークスのボスと呼ばれていた。白の香織は、ナナバの陰謀をうち砕くために奔走するロケット・ライダー・H2Aだ。
香織たちは、あらゆるネットワーク、あらゆる電子の海を渡り歩いて激しい戦闘を繰り広げた。
そして、その様子を、注意深く監視している人物がいた。その男は、脈打つ壁の繭の中で、コードに繋がれた猿とともに戦う香織たちを見守っていた。上背があり、丸いメガネをかけた黒づくめの男は、香織にデュオ・スラッシャーを撃ち込んだ張本人だった。
礼二郎は、自宅に帰り着いた。庭にバイクを止めると、穂菜華が心配顔で飛んできた。家を出るときにバッテリーを外した穂菜華が動いているということは、麻生礼太郎が帰っているということだ。
あのあと、礼二郎は学校の屋上で目覚めた。爆発したナナバの基地から、数十キロは離れた場所だった。彼は、自分がどうやってそこに来たのか、まるで覚えていなかった。
ナナバの基地の奥の、生きているように脈打つ部屋の中で、礼二郎は兄と名乗る人物に会った。
兄……。
そして、ナナバ・ワークス……。
そして、データの世界に捕らわれてしまったという香織。
「れいくん……」
穂菜華が、礼二郎のボロボロの格好を見て、うるうると瞳を潤ませた。
「お風呂、用意しますね」
そう言って、きびすをかえした。
その背中に、礼二郎は訊いた。
「親父は?」
穂菜華は、ふわっと振り返った。
「離れの地下に。香織さんもご一緒です」
「ありがとう。穂菜華」
礼二郎は、母屋には上がらず、そのまま離れに向かった。離れの地下に降りて、地下の実験室に入る。
「遅いのう。いったい、いつまで寝とったんじゃ?」
入室した礼二郎を振り返りもせず、礼太郎はパソコンの画面とにらめっこしていた。
「俺のこと、心配しなかったのかよ?」
「あの部屋が安全なのは知っておる。あれは電脳世界とリアルワールドの中間に位置するとても不安定な閉じられた繭だ。場のエネルギーが集まった場所とシンクロし移動する。おまえは異質だ。そのうち吐き出されると思っておったわい」
「あ、っそ」
礼二郎は、実験室のソファでキャラクター柄のパジャマを着て眠っている香織の側に歩み寄った。そっとひざまずく。
「言っとくが、着替えさせたのは穂菜華じゃぞ。そのかわいいパジャマも穂菜華の趣味らしい。わしの穂菜華は、そんな少女趣味じゃなかったんじゃがなぁ」
わしの穂菜華というのは、礼二郎の母のことだ。
「香織……」
礼二郎は、香織の手を握りしめた。
「香織ちゃんが撃ち込まれたデュオ・スラッシャーは、人間を善と悪、表と裏、のような相反する概念によって分裂させ、電脳空間に脳内の記憶を転写してしまうものじゃ。ま、データは整理したほうが電脳空間で動きやすいからな」
礼二郎は、礼太郎の説明を背中で聞いた。
「物知りだな。まさか、それもあんたが作ったなんて、言うなよ」
「いかにも、わしが作った」
礼二郎は立ち上がった。クッと拳を握りしめる。
「まあ、わしを殴るのはいつでもできる。先に話を聞け」
礼二郎は、拳を握りしめたまま礼太郎の傍らに歩み寄った。
「奥の部屋で、俺の兄だという男に会った。その話か?」
「そうじゃ。あの男の、電脳空間での通り名は香蕉(シャンジャオ)。中国語でバナナという意味じゃ」
「またバナナか……。なんだって、そうバナナにこだわるんだ?」
礼太郎は、少し笑った。
「それは、おまえにも責任がある」
「あぁ?」
「母さんが、おまえたちを妊娠していたとき……。いや、妊娠すると味覚が変わり、普段、嫌いだったものばかり毎日毎日、口にするようなこともあるんじゃが、それが、母さんの場合……」
「バナナだった?」
「当たりじゃ。もう、来る日も来る日もバナナバナナで、わしゃもう、二度とバナナなど見たくないと思ったものじゃ」
「マジかよ……。で、今、おまえたちって言ったよな?」
礼太郎は、うなずいた。
「おまえたちは、双子じゃった。だが、一人は死産。それが礼一郎じゃ」
礼二郎は、目を細めた。
世界を見ることもなく灰になる運命だった我が子を不憫に思った麻生礼太郎は、その幼い記憶をデータ化して電脳空間に解き放った。やがて、赤ん坊だった礼一郎のデータは、電脳空間ですべてのものを吸収し、成長した。
そうして彼は、電脳界のアンダーグラウンドを取り仕切る電脳テロ集団、ナナバ・ワークスを結成した。実体を持たず電子の海を泳ぎ続ける彼の目的は、自分を受け入れなかったリアルワールドへの復讐なのかもしれない。
「兄貴……か。どうりで、俺を呪い殺しても足りねぇって感じだったぜ」
礼二郎は、香織を見やった。
「ナナバのボスは、体中をコードで繋がれた猿だった。あれの意味は?」
「電脳空間から、生体にデータを取り込む実験をしたんじゃ」
「猿が……進化してた」
礼太郎はうなずいた。
「データが複雑すぎて、猿は異様な進化を遂げ、やがて電脳空間に取り込まれた」
礼二郎は、脈打つ壁に体の半分を呑み込まれた姿勢で眠っていたコードだらけの猿を思いだした。だが、あれが猿ではなく人間の脳だったら、もう少し事情は変わってくるかもしれない。
「ちょっと待てよ、そんなに詳しいってことは……、あんたが、香蕉(シャンジャオ)に、肉体を与えようとしたのか? ナナバの本当のボスは、あんたなのか?」
「穂菜華は、最後まで礼一郎が不憫だ、申し訳ないと言い続けて死んでいった……。わしゃ、穂菜華の願いをかなえてやりたくてのぉ」
礼太郎の言うお涙頂戴な台詞になど、礼二郎は耳を貸さなかった。
「よく言うぜ。あんたのことだ。もし、電脳空間のデータをダウンロードして人間がつくれるなら、すげぇと思っただけに決まってる」
「ま、まあ、それはそれとして、だ。秘密結社ナナバのボスじゃが、それはあの猿に間違いない。あの猿は、生きて、思考し、電脳を持った者たちに指示を出しておった。無論、わしも兵器を造ったし、香蕉(シャンジャオ)が全く噛んでいないわけでもなかったが……」
「01郎の他にもロボットが?」
「なにもヒューマノイドタイプだけが電脳を持つわけでもないじゃろう」
「なるほど」
コンコンと実験室のドアがノックされた。
「れいくん、お風呂用意できたわよ」
かちゃっとドアが開き、穂菜華が顔を覗かせる。やわらかな笑顔でニコッと笑った。
礼二郎は、礼太郎を見た。
「いいから言ってこい。わしのほうは、もう少し時間がかかる」
礼二郎は、穂菜華にまとわりつかれながら、母屋に戻った。
いつものれいくんじゃないのね? 怖い顔してるわよ? 怪我はしていない? お熱は下がったの? 辛くなったらいつでも言ってね? 夕飯はなにがいいかしら? あのお嬢さん、あんなところで寝かせていていいのかしら?
礼二郎は、脱衣所までついてきた穂菜華の肩をぐいっと抱き寄せ、その耳元でささやいた。
「心配かけて、すまなかった。この一件が片づいたら、もとの礼二郎に戻るから……」
礼二郎は、穂菜華の額にキスをする。
「はい……。マスター……」
スッと憑き物が落ちたように穂菜華は大人しくなり、礼二郎に頭を垂れると台所へ戻って行った。
「ごめん。穂菜華……。都合が悪くなるとリスタートかけるのって、ずるいよな……」
礼二郎は、穂菜華の背に詫びた。
風呂でさっぱりした礼二郎は、もう一度、離れの実験室に戻った。礼太郎が香織の頭に電極を貼り付けている。
「まさかとは思うが……、あの猿と同じ実験をするんじゃないだろうな?」
コードに繋がれ、脈打つ壁に呑み込まれ、異形の進化をとげたナナバのボスの姿が、礼二郎の脳裏をちらついて離れなかった。
「心配するな。あれからわしも研究を重ねた。それに、今回は、おまえにも働いて貰う。二つに分裂した香織ちゃんを元に戻すには、データを融合させねばならん。ダウンロードするデータにゴミが入らぬよう、見てきてくれ」
「わかった」
「なんじゃ、今度は素直じゃな」
礼二郎は、ふっと大人びた笑みを浮かべた。
「……俺には、異形化した猿を愛し続ける自信はないからな」
礼太郎は、驚いたように礼二郎を見た。
「ほう」
礼太郎は、電極のついたヘルメットを礼二郎に渡した。
「ツールはデータで送っておく。電脳空間とはいえ、データを破壊されたら脳死に陥る可能性のあることを忘れるな」
「で、俺はどうすればいい?」
椅子に腰をかけ、礼二郎はヘルメットを被った。
「わしの開発したデータ融合弾薬、カオリモドールを二人の香織に撃ち込むのじゃ。銃は、S&Wの44マグナム。かっこいいぞ」
礼二郎は、うなずいた。
「ところでな、礼二郎。香織ちゃんとは、もう、ちゅーぐらいしたのか?」
唐突な話題の転換に、礼二郎は面食らう。
「あぁ?」
礼太郎は、白い髭をなでつけながら楽しそうに笑った。この男が、悪巧みをするときの、昔からの癖だった。
「あんた、なにか細工したな?」
「ふわっふわっふわ。心配いらんよ。なに、データの正確性を期すための処置じゃ。ま、ちょっとしたサービスじゃな。しっかりやれ、息子よ」
なんとなくひっかかるものを感じながら、礼二郎は電脳世界へダイブ・インした。
電脳空間は、宇宙と同じだ。上下左右の定義がないので、自分でそれを設定し、目を回さないようにしなければならない。
礼二郎は、ロケット・ライダーの姿で電脳空間に浮いていた。頭の中に、礼太郎の声がガンガンと響く。
『礼二郎、聞こえるか? 香織ちゃんたちは、原子力発電所のラインに侵入している』
「あぁ? どーでもいいけど、もう少しボリュームを絞ってくれ」
かまわず、礼太郎はがなりつづけた。
『香蕉(シャンジャオ)が計画したサイバー・テロだ。原発の制御系システムに侵入し、冷却水を抜いてしまえば、炉心溶融を起こすことも可能じゃ』
「なんで香織がそんなこと?」
『忘れたのか? 香織ちゃんは二つの人格に分裂している。白と黒、明と暗、光と闇、善と悪!』
「なるほど。香蕉(シャンジャオ)の計画に、黒いほうの香織が協力するってわけか。厄介だな」
『浮標(ブイ)を撃つ。それを目印にして香織ちゃんを捜せ!』
礼二郎がくるりと見回すと、仰角三十度、九時の方向に浮遊する礼太郎の顔が現れた。そいつは、ゆらゆら揺れながらニカニカ笑っている。
「嫌な浮標(ブイ)だな……くそ」
猛烈にやる気を削がれながらも、礼二郎はニカニカ笑う礼太郎の顔を次々と追いかけた。
香蕉(シャンジャオ)は、脈打つ壁に取り込まれ、眠ったままの猿に語りかけた。
「礼二郎が来たみたいですね。家族団欒といきましょうか……。母さん……」
香蕉(シャンジャオ)は、ふわりと猿の頬を撫でると、電脳空間に消えていった。
礼太郎の顔をした浮標(ブイ)を追っていた礼二郎の前に、突然、香蕉(シャンジャオ)が姿を現した。
「とうとう、ここまで来ましたか。無事に帰れる保証もないのに」
「そうだな。おまえは、天の采配で生を拾った俺を、殺したいほど憎んでいるだろうからな」
「天の采配? もし、双子のどちらかが生後間もなく死なねばならなかったことを采配と呼ぶのならば……。でも、この世界には神はいません。あるのはただ、0と1。単純なパルス信号だけです」
「0と1……。礼一郎か……」
「まったく、麻生礼太郎のネーミングセンスには頭が下がりますよ」
礼二郎は、破顔した。
「違いない。だが、それは、この世界の理を名に持つおまえが、この世界の神たる存在だと言っているわけだな?」
香蕉(シャンジャオ)は、薄く笑った。
「バレましたか……。今、私がなにを考えているかわかりますか? 私には力があります。ここであなたのデータを破壊し、リアルワールドのあなたの体に、私のデータをすりかえることも可能なのですよ」
「そして、オーバーフローして異形の進化を遂げる礼二郎になるのか? ゾッとしねぇな」
「確かに、私はデータを増幅しています。でも、適度にそれを切り離せばいいだけのことです」
礼二郎は、うつむいた。
「オフクロのデータをダウンするときに、そのワザ、使えばよかったのにな……」
香蕉(シャンジャオ)は、黙って礼二郎を見た。
「麻生礼太郎が話しましたか? 母、穂菜華のことを」
ナナバのボスである異形化した猿は、穂菜華のデータをダウンロードし、オーバーフローしてしまった結果の産物だった。
赤ん坊のデータを電脳空間に移した男が、妻のデータで同じことをしたとしても不思議はない。
「いや。言えねぇだろ? 普通。でも、まあ、なんとなく……な」
「そうですね。あなたは、母の子宮の中で、だんだん冷たくなっていく私をずっと抱きしめていた。あの場所を共有したのですから、わからないわけはありませんでしたね」
香蕉(シャンジャオ)は、すっと左腕を掲げた。
「湿っぽい話は終わりにしましょう。結局、あなたは私を再び殺すために来たのでしょう?」
香蕉(シャンジャオ)の差し上げた掌に、星くずの煌めきが集まったかと思うと、一瞬にして中世の騎士が腰に下げていたような両刃のソードが現れた。
礼二郎も、真似をして左手をかざす。反りの浅い、抜き身の日本刀になった。
「時代劇の好きな麻生礼太郎の趣味ですね」
どうやらこれも、送ったツールらしい。
香蕉(シャンジャオ)は、ソードを腰だめに構え、ブン、と水平に振った。
もの凄い勢いで剣が礼二郎に迫る。
礼二郎は、間一髪で後方に飛び、それをかわした。手にした日本刀を見よう見まねで構える。ゲームのキャラクターなんかが、格好良く額の前に握りを寄せ、手首を返して構える、アレだ。
素早く踏み込んで袈裟に斬り下げる。白刃の残像が、中空で弧を描いた。
香蕉(シャンジャオ)はソードを水平に構えて礼二郎の撃ち込みを受けた。
ガキッと鳴った瞬間、刃物同士のデータが交錯して、刀とソードが十字架の形で融合した。
データの世界は、不思議がいっぱいだ。予測不可能なところでバグが出る。
「あちゃ〜」
礼二郎は、柄を離した。
香蕉(シャンジャオ)は、十字架型に組合わさった武器を乱暴に振り回す。細身の外見に似合わぬ蛮行だ。
礼二郎は後ろにトンボを切って、距離をとった。舞うように回転しながら、腰のベルトの後ろに挟んだS&Wを引っこ抜く。装填されているのは六発。香織をもとに戻すためのカオリモドールが三発。データを破壊する力を持つウイルス弾が三発。
礼二郎は、シリンダをスイングアウトさせた。装填されているのはカオリモドール。香蕉(シャンジャオ)には効果がない。後退しながらシリンダを回転させ、手首のスナップを使って元のように収めた。ウイルス弾が、次に引き金を引いたときに発射できる位置にくるよう、弾の順番を変えたのだ。
礼二郎は、流れるような動作で香蕉(シャンジャオ)に照準した。かすかなためらいが、指先を震えさせた。
礼二郎は、息をつめてトリガーを引き絞る。
ウイルス弾は、香蕉(シャンジャオ)の心臓に命中した。
「ば……かな……」
香蕉(シャンジャオ)は、信じられないという表情で胸に開いた穴からこぼれ落ちていくデータを見つめた。それは、0と1、オンとオフのキラキラ光る電気信号だ。
虹色に輝きながら拡散していくデータをなすすべもなく見つめて、香蕉(シャンジャオ)はかすかに笑った。
「兄さん……」
かすれた声で、礼二郎はつぶやいた。
香蕉(シャンジャオ)は、左手で胸を押さえ、ちらりと礼二郎に視線を向けたが、なにも言わずに背を向けた。そして、トボトボと歩き出し、どこへともなく消えていった。
香織たちの大乱闘により、世界中のネットワークは混乱のルツボだった。黒の香織が、原子力施設を執拗に狙い、白の香織がそれを必死に阻止する。
あわや全世界の原発がメルトダウンの危機に陥ったとき、香蕉(シャンジャオ)を駆逐した礼二郎が香織たちのもとに駆けつけた。
「香織っ!」
礼二郎は、S&Wの弾丸をカオリモドールにセットし直し、二人を狙って素早く撃ち込んだ。
二人の香織の輪郭がぼやけたかと思うと、白と黒の二人が互いを求めるように抱き合い解け合う。ゆらゆらとゆらめくデータが再び結実し、分裂していた香織は、もとの一人に戻っていった。
が。
「きゃーーーーーーっ!」
香織は、脳天を突き刺すような悲鳴を上げた。
礼二郎は、ポカンと口を開けたまま、悲鳴を上げてうずくまる香織を見つめている。
あろうことか、香織は、なにも身につけていなかった。いわゆる、すっぽんぽん、というヤツだ。
「酷い! 酷いよ! 礼二郎のエッチっ!」
感動の再開で、熱き抱擁が待っているようなシーンのはずなのに、助けに来たヒーローがケチョンケチョンに罵られる結果になった。
礼太郎が、データに正確性を期すためとか、サービスとか、ごにょごにょ言っていたのはこのことかと思って、礼二郎はやれやれとため息をついた。
礼二郎は、肩のマントを外し、しゃがみ込んで泣きべそをかいている香織の肩に、そっとかけてやった。
赤いマントをギュッと胸の前で抱き込んで、香織は立ち上がった。不自然なマント姿から白い足が覗いていて、一糸まとわぬ姿よりもさらに刺激的になった。
鼻血を吹きそうになって、礼二郎は、香織に背を向けた。
「と、とにかく、早く戻ろう」
その、礼二郎の背に、ふわっと重みがかかった。香織があられもない姿で背中から抱きついたのだ。
――うわうわうわ……。
体にきたした変化を悟られないように、礼二郎は目を閉じて深呼吸した。
コードに繋がれて眠る猿の足元に、男が倒れていた。そこは、電脳空間とも、リアルワールドとも微妙に違う生きた繭だった。
香蕉(シャンジャオ)は、サラサラと光る砂になって、少しずつ消えて行く。
「母さ……ん。もとに戻してあげられなくて……ごめ……ん……」
異形の猿に向かって伸ばした指先の輪郭がにじみ、ぐずぐずになって光の粒に変わっていった。
香蕉(シャンジャオ)は、そうして母の子宮に還った……。
礼二郎は、離れの地下の実験室に戻って来た。目を開け、ヘルメットを脱ぐのももどかしく、側でほこほこと喜んでいる礼太郎に詰め寄った。
「あれはなんの真似だよ! ったくっ!」
白衣の襟を掴んで締め上げる。
「ふわっふわっふわ。まだまだ青いのう」
殴る気も失せ、礼二郎は香織の眠るソファに歩み寄った。
「う……ん」
香織が身をよじる。
「さぁて、わしは、穂菜華とお茶でもしてこようかの〜」
聞こえよがしに言って、礼太郎は実験室を出ていった。どうやら、あれでも、気をきかせたつもりらしい。
礼二郎は、香織の傍らに跪き、そうっと顔をのぞき込む。
香織の瞼がかすかに震えた。
「香織」
優しく呼びかける。
香織は、ゆっくりと目を開けた。
「礼二郎……」
香織は、小さな声で囁く。うるんだような瞳で礼二郎を見上げた。
「ありがとう。礼二郎が来てくれて、嬉しかった」
「ああ」
「あたしね、ロケット・ライダーのときのかっこいい礼二郎も好きだけど……。ぼーっとしてるときの礼二郎も好きだよ」
「香織……」
香織は、クスッと笑って、静かに目を閉じた。
このシチュエイションで目を閉じるということは……。
礼二郎は、急に高まった動悸を抑えて、そっと顔を近づけた。
唇と唇がかすかに触れ合う。
その瞬間。
「ぶひゃん!」
香織はくしゃみをして、二人は互いのおでこをゴツンとぶつけた。
「あた」
礼二郎は、額を押さえる。
「ごめん」
香織は首をすくめ、半身を起こした。
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑い出した。
「香織の花粉症、俺がきっと治してやるよ」
「ココロミエールは、もう嫌よ」
「わかってるって」
ひとしきり笑って、礼二郎は、香織の隣に腰を下ろす。笑いながら香織の肩を抱き寄せた。
香織は礼二郎の肩に頭をあずける。
礼二郎は、もう一度、顔を近づけた。
香織は目を閉じた。
「あ、俺、もうだめ……」
礼二郎は、切なくささやいた。反射的に、香織はそのまま押し倒されるのを覚悟した。
が。
ぽて……。
急に、膝が重くなって、香織は目を開けた。
膝の上に上体をつっぷし、礼二郎が寝息をたてている。本当に、電池が切れたみたいな寝付きの良さだ。以前、礼太郎が言っていた。彼の電子部品から発生する熱を放散するための冷却装置をフル回転させるには、眠ってバッテリーを充電しなければならないのだと。
きっと、ずっと突っ張って、無理をしていたのだろう。
香織は、膝の上で無防備に寝コケている少年の、サラサラの髪をそっと撫でた。次に目を開けたとき、彼は、また、いつもの、ちょっと気弱で優しい礼二郎に戻っているのだろうか……。
平和な日常、それは膝の上の心地よい重さだ。
香織は、幸せで豊かな気分だった。そして、こんなひとときがずっと続けばいいと、心の底から願っていた。
了
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