home back

第一章 みんなおサルにされちゃうゾ!

 なぁ、かおりー。
 いつまでもビービー泣いてんなよ。
 ああー、もう、オレが泣かせたみたいじゃんかよっ!
 泣くなったら!
 あんないじめっこたちなんか、
 いつかきっと、ロケット・ライダーがやっつけてくれるんだからさっ!
「……ロケット・ライダー?」
 お、おう。
 こーんなゴーグルと白いマフラーで、顔、かくしてて……。
 ジェットで飛べる靴と、まっ赤なマントでさ。
 悪いヤツを、ぎったんぎったんにノシちゃうんだぜ?
「ほんと?」
 ぜったいのぜったい!
 ロケット・ライダーは、宇宙一、強いんだ!
 かおりが泣いてるときは、
 ロケット・ライダーがたすけに来てくれるからさ!
 だから、もう、泣くなよ。
 な?

 ぽかぽかと暖かな日差しが、窓際の席の生徒たちの安眠を誘っていた。
 春の陽光に護られた三時間目は、まるで母親の子宮に戻ったような寝心地の良さだ。
 国枝香織は、子供の頃の夢をみながらまどろんでいた。いつか、香織が泣いているときは助けに来てくれるとあの子が言っていた。
 ロケット・ライダー……。
 そんなことを言っていたのは、確か、近所に住んでいた男の子だったような気がする。
 でも、その子が誰だったのか、香織は思い出せなかった。

 腹減ったな〜 坂野くん彼女いるのかな? ちくしょう禿先公ぽっくりいかねぇかな さんえっくすぷらすよんわい…… だー眠い あ、シャーペンの芯折れちゃった 委員会さぼっちゃおうかな もぐもぐもぐ…… 部活のあと七海とへっへっへ…… やだ、おなら出そう えっくすいこーる…… 次、体育だ 焼きそばパンまだ売り切れてないかなぁ やっぱり演歌だぜぇ みっちゃんとブルーベリータルト食べよ マニキュアはがれちゃった 俺、足くさくないかな? 消しゴム消しゴム 最悪、木田の肩にフケ! ぐーぐーすやすや 遠い宇宙からきっと僕を迎えに来てくれるんだ…… サイテー、枝毛なってるじゃん ママのお弁当早く食べたいな〜 きしし、佐田のブラウス透けてやんの…… ママだってよ…… 佐田のブラ見えてんのか? 電波入ってるぜ いやらしい目でみないでよ! え? あれ? 誰だ? 屁こいたの…… 変だよ やだ、あたしじゃないよ わしはまだ死なんぞ! これ、変だって 俺じゃねぇよ なに考えてんのよ? これなに? マジかよ? なんだよ? どういうこと? なんでわかるの? 誰が考えてるの? ぐーぐーぐー うわ、気持ち悪い 誰の考え? あたしじゃない 俺の考えを読むなぁ! 嫌だったら! 頭の中ぐちゃぐちゃだぁ ぱんくするぅぅぅ! うわうわうわ これは宇宙の意志だね…… るせーな、電波野郎! 罵らないで! もうこんなの嫌っ! たすけてくれぇ!

「へっくしっ」
 香織は、くしゃみをひとつして鼻をすすりあげた。花粉症ってヤツにかかって以来、授業中の居眠りさえままならない。目が猛烈に痒くて、香織は指で目をこすった。愛用の目薬を、ついさっき切らしてしまったのだ。放課後、薬局に寄って目薬を買わねば目も開けられない。そんなことを考えながら、黒板に板書し続ける世界史の教師の後ろ姿を見た。黒板には、ロシア革命がどうとか、ボリシェビキがこうとか、延々と書き記されている。
 香織は、大きなあくびをした。涙で目が潤って、少しだけ痒みがましになった。
 と、そのとき。唐突に、壁一枚隔てた隣のクラスで、叫び声が上がった。
「たすけてくれぇ!」
 その声を合図に、堰を切ったように、皆がぎゃあぎゃあと騒ぎ始める。どれもこれもが鬼気迫るといった感じの叫び声だ。
 つまらない授業に飽き飽きしていたクラスメイトは、みんな、驚いて顔を上げた。
 黒板の向こうにある別の空間で起こっている何事かを、注意深く見極めようとしていた。
「あー、君たちは、自習していなさい」
 世界史の日野が、指示棒を握りしめたまま注意深く廊下に出た。
「ねぇ、礼二郎」
 隣の席につっぷしてだらしなく寝こけている礼二郎の脇腹を、香織は定規でつついた。
「いやん」
 変な声を出して、礼二郎は身をよじる。
 ガクッとずっこけて、香織は丸めた教科書で礼二郎の頭をスパンと叩いた。
「気色悪い声出さないでよっ!」
 礼二郎は、もそもそと叩かれた頭に手を持っていき、冬ごもりの動物が雪解けで首を伸ばすように緩慢な動作で顔を上げた。口の端に、白くカピカピになったスジがついている。
「ヨダレ」
 香織は、冷たく言った。
「え? ああ、うん」
 礼二郎は、制服の袖で口許をぬぐう。
 香織は、ほんのりテカっている礼二郎の袖口を見て、毎日そこでヨダレをふいているのだろうかと、うんざりした。
「なんか、叫んでない? 隣のクラス……」
 眠そうな目をこすりながら、礼二郎はのほほんと言った。
 叫んでない、どころか、机が倒れる音やら、何かが壊れる音やら、ののしり合う声やらで、メチャクチャやばい状況だ。既に、先生が何人もかけつけて、これを制圧しようと大声で怒鳴っている。
 だけどそんなことで収まるような騒ぎじゃなかった。
 ガッシャーン! 音に驚いて窓から外を見ると、隣のクラスの窓から椅子が飛んでいった。椅子は下の花壇に落ち、そのあとを追うようにキラキラと虹色の破片が落ちていく。
 うわぁ、綺麗……。
 陽光を浴びて、輝きながら散っていくガラスの破片はとても綺麗だった。でも、わずか壁一枚隔てた向こうで起こっていることを考えると、そんなことは口に出せなかった。
 クラスの中は、小声でこの事態について話し合うくらいで、思いのほか静寂である。
 静かなのは、みんな怖かったからだ。
 突然、隣のクラスが猛獣の檻になってしまったような気がした。しかも、動物園の檻には鍵が付いているけれど、学校の教室の扉には鍵なんかない。今、隣のクラスで叫んでいるやつらが、怒濤のようにこのクラスにも押し入って、暴れ回るかもしれないのだ。
 みんながみんな、イザというときには逃げだそうと注意深く状況を見守っていた。
「うわぁ。綺麗だねぇ〜」
 いつのまに横に来たのか、礼二郎が香織の隣で虹色に輝くガラスの破片を見て顔をほころばせていた。いつものようにのんびりした口調で、香織が心の中で思ったけど口には出せなかったことをさらりと言う。
 香織は、肘で礼二郎をこづいた。
「あんたね、まったりしてる場合じゃないのよ。わかってる?」
 コクコクとうなずいて、礼二郎は笑った。サラサラの前髪が丸いフチのメガネにかかっていた。ほんのり紅潮した頬が、つるつるで赤ちゃんのほっぺのようだ。香織は、不覚にも、その笑顔を可愛いと思ってしまった。隣のクラスが酷い状況なのに、母性本能くすぐられている場合じゃないのは百も承知だ。
「あ」
 礼二郎は、ほわほわした笑顔をひっこめ、耳をそばだてた。
「救急車」
 礼二郎がそう言うと、香織の耳にもピーポーピーポーという独特のサイレンが聞こえてきた。しかも、隊列を成して道路を疾駆してくるような、絡まり合ったサイレンだった。その壮絶な音に、じっとしていられなくなったクラスのみんなが、窓際に押し寄せた。
 校庭に、回転灯をぐるぐる回した救急車が、次から次へと走り込んでくる。まるで映画の撮影でも見ているようだった。
 担架を抱えた制服の人たちが学校にドッとなだれ込んできた。
 彼らが持っているのは、二つ折りにして運べる屈折式担架だ。その様子を見て、なんだかジェラルミンの盾を構えた機動隊の強行突入みたいだな、と香織は思った。
 救急隊の突入で、隣のクラスがいちだんと賑やかになった。
「ぼく、おしっこ、行ってくる」
 礼二郎はモジモジしながら切なそうに言って、ひょこひょこと廊下に出ていった。
 この緊迫した異様な状況ではトイレが近くなるのも無理はない。香織も、なんだかもよおしてきて、さんざん迷った挙げ句、廊下に出ることにした。
 そっと廊下に出ると、先生たちが2ーBの教室を隔離するように立ちふさがっていて、その向こうのトイレにたどりつくのは不可能だと思われた。
 困っていると、礼二郎が先生の脇をくぐり抜けてこちらに戻ってくるのが見えた。
「やだ、礼二郎、そんな堂々と……」
 香織は、焦って礼二郎を手招きする。
 礼二郎は、天然の笑顔で笑った。
「香織もおしっこ?」
 ガクッと香織は脱力する。
 花も恥じらう十六歳の乙女に、「おしっこ」はないだろうと気が滅入ったが、相手が天然寝ボケの礼二郎では怒ってもしかたがない。そう。いつも居眠りをしている礼二郎は、天然ボケならぬ、天然寝ボケと呼ばれているのだ。
 礼二郎は、ニコッと笑うと香織の腕を掴んだ。意外なほどの力で、強引に先生のバリケードまで香織を引っ張っていく。
「せんせぇ〜」
 情けない声で、礼二郎は、さっき、脇をすり抜けた体育教師に声をかけた。
 香織は、心臓が縮み上がった。
「国枝さん、おしっこ漏れそうなんですって〜」
 ぎゃ。心の中で悲鳴を上げ、香織は体育教師を見上げて情けなく愛想笑いをした。
「なんだ、しょうがないな。さっさと行ってくるんだぞ」
 ね? という顔で香織に微笑んで、礼二郎はさっさと教室に戻っていった。
 香織は、体育教師の脇をくぐって、問題の教室の前を壁にへばりつくようにして進んだ。
 横目で教室の様子をうかがう。獣の檻のような声が上がっていた教室も、救急隊の突入で、いくぶんトーンダウンしているようだ。
 でも、ちらっと見えた教室の中は、惨憺たる状況だった。机が倒れ、重なり、教室の隅に積み上がっている。椅子と鞄、文房具などが無惨に散乱して、その、机のジャングルジムの中に挟まるようにして、何人もの生徒が気を失っていた。
 屍累々……。そんな言葉が浮かんで、香織はブルッと身を震わせた。
 あまりに身がすくんだので、なにもないリノリウムの床でつまずいた。前につんのめってコケて、したたかに膝をうちつける。
「ったー……」
 焦って立ち上がって、反対側の廊下を封鎖している数学教師の脇をくぐり抜けた。
 パタパタと廊下を駆け、トイレに飛び込む。一目散に個室に駆け込んで、衣服に手をかけたとき、左手に何かを握りしめていることに気が付いた。
「あれ?」
 驚いて手を開いてみると、小さなイチジク型の容器だった。ラベルには、目玉をハートにデザインしたような絵が描いてある。蓋がネジ式になっていて、中に入っている透明な液体は、容器をほんの少し押すことによって一滴ずつ落ちてくる仕組みだ。いわゆる、香織のよく知っているところの「目薬」といったものの形状に酷似していた。
 香織はひどい花粉症で、とにかく目が痒かった。それで、薬局に流通しているありとあらゆる種類の目薬を試している最中だった。
 隣のクラスがあんな状況になってしまって、正常な判断能力が麻痺していたのだろうか。普段は、そんなアヤシゲなものは、絶対に自分の目に使ったりはしない。
 けれども、香織は、目の痒みに耐えかねて、手に握りしめていたその謎の目薬を自分の目にさした。
「く――――っ」
 今朝から目をこすりつづけていたので、角膜に傷が付いている。目薬は、ことのほか痛烈に目に染みた。でも、重度の花粉症患者にとって、目が潤い痒みが引く快感は、既にドラッグのそれに近いモノだ。
「きもちいー」
 誰もいないのをいいことに、トイレの個室から聞こえたらアヤシイだろう言葉をつぶやいて、香織はその目薬を制服の胸のポケットに落としこんだ。
 すっきりさっぱりしてトイレから出た香織は、教室に戻ろうと再び先生たちがバリケードを作っている廊下に出た。
 ――オサルニナールを捜せ……。
「は?」
 変な言葉が聞こえたような気がした。
 オサルがどうした? 香織は失笑した。動物園の檻みたいだと思っていたから、2ーBの前でおかしな幻聴を聞くのだろうか。
 香織は気にせず、数学教師の脇を申し訳なさそうな顔をしてくぐり抜けた。
 ――を。胸の谷間が見えるじゃないか……。
「え?」
 反射的に先生を振り仰いだ。
 ――な、なんだ?
 香織は、頭の中で響く声に当惑した。
 まじまじと先生を見つめてしまったので、焦って顔をうつむけ、廊下の壁際を走る。
 反対側の体育教師の脇をすり抜けた。
 ――おしっこか……。へへへ……。
 なに、これ……?
 香織の心臓が、バクバクと口から飛び出そうな大きな音をたてて鳴り始めた。
 もしかして、この先生の、心の声……?
 異常な状況の異常な事態には異常な考えがつきものだ。とんでもないことを考えつく自分に、香織は驚いた。
 ――なんだ? 俺に気があるのか?
 茫然と体育教師を見つめている香織の頭に、また、声が響く。
「ないです! ないですっ!」
 慌てて叫んで、香織は自分の教室に飛び込んだ。なにがなんだかわからなかった。
 教室に戻って自分の席に座ると、ほどなくして担任が教室に入ってきた。原因はわからないが、おそらく集団ヒステリーだろうと先生は隣のクラスの状況を説明した。大事をとって全員が入院し検査を受けるのだそうだ。
 そんな説明を、香織は上の空で聞いていた。ときどき、頭の中に変な声が聞こえる。それは、さっきみたいに体が触れ合った人の声と、忌々しく耳について離れない『オサルニナールを捜せ』という声だった。
 香織は、動揺をおさえて必死に考えた。
 隣のクラスの前を通ってトイレに行ってから、この変な現象は香織の身に降って湧いた。
多分、触った人の心の中で考えていることがわかるのだ。
 ためしに、前の席の美咲の背中をつついてみた。
 ――やだなー。早く帰りたいなー。
 美咲の声だ。やっぱり間違いない。どうしたわけか、香織は他人の考えていることがわかるようになってしまったのだ。
 だが、説明がつかないのが、今も断続的に響く「オサルニナールを捜せ」という声である。あれは、誰の声だろう……。命令するような、深層心理に刷り込もうとするような、不思議な響きの声だった。
 先生の説明のあと、この日は、一クラス全員が心神喪失状態で入院という事態で生徒たちも動揺しているとのことで、全校生徒が午前中で下校となった。
 先生たちも、警察やら病院やら父母との対応で忙しいし、善後策を講じるために職員会議も開かねばならない。そんなわけで、大忙しとなった先生たちにかわって、生徒たちの対応には、生徒会があたることになった。香織は生徒会の書記なので、急いで生徒会室へ行こうと身支度を整えて廊下に飛び出した。
 廊下を少し行くと、生徒会長の麻生礼一郎とでくわした。礼一郎は、すらりと背が高くものごしもやわらかで、密かに香織が憧れている先輩だった。同じクラスでいつも居眠りをしている天然寝ボケの麻生礼二郎と名前が似ているので、最初の頃、実は兄弟ではないかと騒がれたが、ぜんぜん関係ない真っ赤な他人だ。
「君に頼みたいことがあるんだ」
 甘いマスクと甘い声で礼一郎は囁いた。香織は二つ返事でうなずくと、そのまま礼一郎のあとについていった。
 礼一郎は、屋上に通じるドアの鍵を持っていた。生徒の安全対策のために、普段は屋上は使用できなくなっている。
 礼一郎は鍵を開け、屋上へ香織を導いた。
 香織は、なんで屋上なんだろうと思って、ちょっと礼一郎の腰のあたりを、ぶつかったふりをして触ってみた。突然、他人の心が見えるようになって動揺しているはずなのに、ちゃっかりその能力を使おうとするところが香織の大胆なところだ。
 もっとも、「オサル」という声以外は触った相手の心が見えるだけで、誰にも触らなければ普段と変わりないのでそう特別なことになったとも思えなかった。今は、香織個人におこったことよりも、隣のクラスの状況のほうが特別で大変なことだったのだ。
 ――ざざざざざ……。
 あれ? と思って、香織は礼一郎に触れた左手をマジマジと見た。
 なんだか、深夜、放送が終了したあとのテレビのようなザーというノイズが聞こえたような気がした。
 試しにもう一度、ふわっと礼一郎の背中に触れる。
 ――ざざざざざ……。
 同じだ。
 香織が内心、変だなと思っていると、香織の前を歩いていた礼一郎が口許に冷笑をうかべて振り返った。その、いつもと違う酷薄な笑みに、香織の背筋はゾクッと震える。
「残念だったね、国枝さん」
 礼一郎は、冷たく言い放った。
「な、なに?」
「ぼくの心は読めないよ」
「えっ?」
 香織は、思わず後ろにあとずさった。
 心を読もうとしたことを見透かされ、香織の心臓は早鐘のように脈打った。
「実験に使ったココロミエールがひとつ足りないんだ、持っているのは君だね?」
 礼一郎は冷たい笑みのまま言った。
「ココロミエール?」
 香織は反問する。
「ほら、これだよ」
 礼一郎はポケットから小さな瓶を取り出して香織に見せた。
 香織はハッと息を呑む。それは、香織がいつのまにか握りしめていたあの目薬だった。
 そもそも、あの目薬は、どうして手の中にあったのだろう。そういえば、さっき、2ーBの前で派手に転んだ。転んで手をついた時、手元に落ちていた目薬を偶然掴んできてしまったのだろうか。
「な、なんなの? それ」
 内心の動揺を悟られまいと、香織は必死に平静な声を出す。それでも語尾が少し震えた。
「もうわかっているだろう? 他人の心が見えるようになる目薬だよ。これを使って、我々ナナバが開発した人間を猿に変える薬オサルニナールを捜させようとしたんだけど……。人間ってのは不便なものだね、せっかく心が見えるようにしてやったのに、パニックを起こして、あの有様だ」
「パ、パニックって……2ーBの騒ぎは……」
「そう。このココロミエールを花粉症目薬の新薬だと偽って、ちょっと試して貰ったんだ。勿論、抗アレルギー作用もあるから花粉症にも効くんだけどね」
 そう言われてみれば、香織も目の痒みが止まっている。
「だけど、君は目薬に耐性があるのか、少しばかり反応が違うようだ。そこで相談なんだが、君はこのココロミエールを自由に使ってもかまわない。そのかわり、盗まれたオサルニナールを探し出してはくれないか?」
「盗まれた? オサルニナールって、なに?」
 礼一郎は、哄笑した。
「言っただろう? 人間を猿にする薬さ。人間を猿に変え、完全に服従させて、我が秘密結社ナナバが世界を征服するのさ!」
 はははははー! という笑い声が、香織の耳について離れなかった。
 なにがなんだかわからなかったが、礼一郎がそのナナバの一員であることと、そんなばかげた組織が存在するらしいことはよくわかった。
 それに、あの声は……。あの、「オサルニナールを捜せ」という声は……。
 この麻生礼一郎の声だ。
 香織は、礼一郎を睨み付けた。
「嫌よ」
「は?」
 高笑いがピタリと止まる。
「今、なんと言ったかな? 国枝香織」
「嫌だと言ったの! なぁにがオサルニナールよ! そんなセコイ秘密結社の手先になんかならないわ!」
 勢いに任せて言い放って、香織はぜぇぜぇと息を整えた。
「ふうん」
 小馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、礼一郎は、香織に向かって手を伸ばした。
「じゃあ、しょーがないねぇ……」
 香織に向かって伸ばされた右手が、ガシッと彼女の細い首を掴む。
 香織は慌てて身をよじるが、恐ろしい力で締め上げられ、どうすることもできなかった。
「や……たす……け……」
 香織は、苦しいノドの奥から必死で声を絞り出す。
 しかし、礼一郎は無情な台詞をさらりと言った。
「秘密を知られたらどうなるか、わかるよね? 死んでもらうよ」
 憧れの先輩だったのに……。どうして生徒会長が? ココロミエールでも心の読めない礼一郎は何者なの? 秘密結社ナナバって?
 息が詰まって、頭がぼうっとしてきた。

『かおりが泣いてるときは、ロケット・ライダーがたすけに来てくれるからさ!』

 消えそうになる意識の片隅で、あのときの少年のあどけない声が蘇った。
 そんなばかなこと、あるわけないのに……。
 香織は、苦しい息の下、そんなことを思いだした自分を嗤った。

 その刹那。
 突然、香織の首を締め上げていた礼一郎の右手が離れた。
 香織は、ペタンと屋上の床にすわりこむ。
 急に息ができるようになって、香織は、酸素を求めて水面でパクパクする金魚のように大きくあえいだ。
 締めつけられていた首をおさえて目を開くと、少し離れたところに礼一郎が倒れていた。
 何が起こったかわからず辺りを見回すと、給水タンクの陰から、赤いマントと白いマフラーをなびかせ、ウルトラマンみたいなヘルメットとゴーグルを身につけた変てこりんな人影が現れた。
 人影は、その手にY字型をした武器らしきものをしっかりと握りしめ、戦隊もののヒーローが登場するときのような無駄な動作をしてから、ピシッとキメポーズをとった。
「ロケット・ライダー、推参!」
 ……推参……って……。
 香織は唖然とした。
 秘密結社の次は変身ヒーローの登場だ。
 あまりの展開に、香織はその場にへたりこんだまま事の成り行きを見守るしかなかった。
 倒れた礼一郎は、むっくりと起きあがり、首のあたりを撫でさすった。
 礼一郎が撫でたあたりを見て、香織はギョッとする。火花が散っていた。礼一郎の右耳の下の第二頸椎あたりから、なにやら尖った物体が覗き、そこが蒼白くスパークしている。
「観念しな! 01郎! 今、スペシャルボンバーパチンコで撃ち込んだのは、速攻爆裂ウイルス弾だ!」
 スペシャルボンバーパチンコ……。
 速攻爆裂ウイルス弾……。
 強いんだか弱いんだかわからないようなネーミングの武器の名を高らかにアピールし、謎のロケット・ライダーは胸を張った。
「オサルニナールはここだぜ?」
 ロケット・ライダーは、赤いラベルに猿の絵がプリントされたドリンク剤をかざして誇らしげに言った。
「このプロトタイプがないと量産できないんだってな。こんなもの、こうしてやる!」
 ロケット・ライダーは、手にしたドリンク剤の瓶を床に叩きつける。パンという音を響かせて、オサルニナールは床の染みになって広がった。
「き……さ……ま……」
 対する礼一郎はギギギといった効果音が聞こえそうなほど緩慢な動作で、両手をロケット・ライダーに向けて差し上げた。
 香織の胸に嫌な予感が走る。
 さっき、首を絞められたときの力は、とても人間のものとは思えなかった。それに、心も読めない。
 生徒会長は、人間ではないのだろうか。
 だとしたら、あのロケット・ライダーに向けられた指は……。
 子供のころに見た、ロボットの出てくるアニメーションを思いだした。ああいうポーズをしたら、たいていの場合……。
 香織がそう思った瞬間、礼一郎の指が、バシュバシュバシュ、と火花を吹いて飛んだ。
「きゃぁっ!」
 十本の指が、ロケット・ライダーを襲う。
 パンパンパン!
 ロケット・ライダーは懐から取り出した宴会用……にしか見えないクラッカーを、続けざまに破裂させた。
 キラキラキラキラ……。
 七色に光るホイルが、そよぐ風に乗り屋上いっぱいに広がって光り輝いた。
 さっき見た割れたガラスが飛び散る様のように、その美しさは、幻想的でさえあった。
 すると、礼一郎の指ミサイルが、とたんにヨロヨロと目標を失ったようにどこかへ飛んでいってしまった。
 どんな魔法を使ったのか香織にはわからなかった。実は、これは、戦闘機などで使われる電波の反射材、チャフと同じ原理だ。
 ロケット・ライダーは、タンと床を蹴って飛ぶ。靴に仕掛けられたジェットが唸った。
 ロケット・ライダーは、勢い良く礼一郎、いや、秘密結社ナナバの工作ロボット01郎に、強烈な蹴りを喰らわせた。
 蹴りをまともに喰らった01郎は、ブルブルと全身を震わせた。
 ロケット・ライダーは、スタンと片膝を曲げて着地すると、01郎の様子を見てハッとしたように香織に向かって駆けてきた。
「香織っ! 伏せろっ!」
 どうして自分の名前を知っているのか、そんなことを疑問に思う間もなく、赤いマントをなびかせたロケット・ライダーが目の前に迫ってきた。その背後で01郎が光る火球になって爆散する。
 ロケット・ライダーに押し倒されるようにして、香織は屋上の床に倒れ込んだ。
 恐ろしい爆発音が脳髄までビリビリ響く。
 ――香織……香織……香織……。
 香織は、ロケット・ライダーに護られて身を伏せたまま、彼の心の中に響く自分の名前をどこか懐かしい想いで聴いていた。

next