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ウェルカム・トゥ・サラエボ(1997英)
2002.07.01.bs2
ボスニア内戦を取材するイギリス人ジャーナリスト。
罪もない市民が白昼、無惨に死んでいく様子をスクープした日、
イギリス本国のトップニュースはヨーク公離婚のニュース。
前線に取り残された孤児院の子供達の命は風前の灯火。
国連の高官は言う。
世界には、サラエボよりも悲惨な状況の国が13はあります。
それは事実か根拠の薄いその場しのぎか。
ボスニア政府は前線の孤児院の子供たちの避難嘆願に耳を貸さない。
セルビア人に攻め込まれる土地を明け渡すことになってしまうからだ。
子供たちの命を盾に繰り広げられる内戦。
政府の決定に従い、人道避難用に用意された輸送機は誰も乗せずに飛び立つ。
そんな中、子供達を少しでも国外に退去させようと、
バスで国境を越える計画が持ち上がる。
孤児院で育った少女、エミラは、このバスに乗り、
ジャーナリストのマイケルに引き取られる僥倖を得る。
対して、途中、セルビア兵に引きずられていってしまう5人の子供達の姿が、
あまりに哀れだ。
彼らは回教徒と決めつけられ、引き立てられて行ってしまうのだが、
まさに、天の無作為抽出としか思えない空恐ろしさだ。
この映画に正義の味方は出てこない。
ピンチに陥った子供達を救うために颯爽と現れるヒーローなんかいないのだ。
そして、
一面に広がる壊れたビル、崩れた家、廃墟に次ぐ廃墟。
鮮やかな赤色をした血液を流して横たわる凄惨な死体。
恐らく、目を背ける人が多いだろう、おびただしい死体の数々は、
それが世界のどこかで、
日常的に見られた光景なのだということを、
激しい非現実感を伴って思い知らされる。
道ばたに顔面を吹っ飛ばされた死体が転がっていたら、
この日本では大ニュースだ。
だけど、それが日常な場所もある。
重い映画だった。
戦争という現実を、非戦闘員が容赦なく巻き込まれていく様を、
かいま見ることができた。
そう。
この映画は良くできているけれども、
恐らく、本当の戦争は、もっととんでもないのだ。
もっととんでもなく酷たらしくて救いがない地獄絵図なのだ。
私は、平和な我が家からそれを覗くことしかできない。
とはいえ、そういう平和なゆりかごでまどろんでいる人たちに、
この映画を提供することは非情に意味があることだと思う。
だからといってこの映画のあり方には、諸手を挙げて絶賛するわけでもない。
現実問題としての民族紛争、宗教戦争などについては、
一刻も早く誰の血も流れないようになってほしいと願うのは当然だが、
映画としての評価は保留だ。
これは反戦映画なのだろうか?
けれども、有史以来、闘うことをやめない人類に対して、
ただ反対を唱え、大国のご都合主義と怠慢を批判するだけでは
足りないのではないか。
確かに、こんな現実を知らない平和ボケした人たちを啓蒙するだけの
インパクトはあるかもしれない。
でも、だから、それでは、どうすればいいのか?
少しでも、そのへんに踏み込んでくれれば、頻発する紛争解決への
かすかな糸口にでもなるのかもしれないのに……と、
ついつい思ってしまうのだ。
メディアは、事実を描き出すことは出来る。
批判することも簡単だ。
しかし、提案することは情報操作にも繋がるからあえてやらないのだろうか?
だから、提案しないのだろうか?
謎だ。
などと、少々熱くなってしまった。
この映画には、ERのレギュラーのコバッチュ先生が出ている。
ERでのコバッチュ先生も、確か、クロアチアだかの内戦での悲劇を
体験しているという設定だった(サラエボだったっけ?)
この映画から、ERへと続いたのかどうかは判らない。
ラストのクレジットでは、
エミラは実在の人物のように描かれているが、どうか?
そんな幸運を得た子供はいたのだろうか。
その真偽はともかくとしても、
このエミラが、実母と交わした電話の台詞をはじめ、
イギリスに渡ってからの彼女の様子が、
映画そのものを釈然としないものに引きずり落としていると
思えてならない。
私は、このエミラの幸せを素直に喜べない。