陪審制
 
2000.11.4(2004.5.10)

   裁判員制度の導入をめぐる検討経過の中で、最高裁が「参審制」の導入をとなえ、日弁連は「陪審制」を導入するとの決議をするなど、制度設計をめぐっての綱引きが行われてきました。アメリカの映画などをみてみると、弁護士が陪審員に向かって様々なパフォーマンスをしながら、被告人の無罪を訴えてみたりしています。またO.J.シンプソン判決などは日本でもテレビ中継されていました。日本の裁判制度においては、現在は職業裁判官が事実の認定から判決までをすべておこなっていますが、アメリカでは、評決(「有罪」「無罪」の認定)を下すのは陪審員であり、裁判官は原則としてその陪審結果に従って量刑を決定します。裁判員制度は陪審制度でも参審制度でもない全く新しい制度といわれていますが、比較のために陪審制度を知ることは役立ちます。そこで、今回は陪審制について簡単にみてみましょう。 
その1  陪審制とは

   陪審(jury)制とは「素人である一般市民を裁判に参加させる制度」のことです。我が国では、一般市民は被告人となるか傍聴人として裁判を見るか以外には裁判と関わりはないのですが、英米法の裁判においては「陪審制」が取られており、一般市民の中から無作為に選ばれた陪審員が評決に加わっています。陪審というばあいには、「大陪審」と「小陪審」がありますが、通常陪審制と言われているのは小陪審のことです。
<小陪審と大陪審>

    大陪審は、刑事事件において被告人を正式起訴するかどうかを決定するものです。我が国では、刑事事件の犯人を被告人として起訴する権限は国家の機関として検察官のみが有しており(国家訴追主義)、実際に犯罪を犯していても様々な事情を勘案して起訴するかいなかは、検察官が決定します(起訴便宜主義)。この、検察官の役割を一般市民が行うのが大陪審(起訴陪審)です。現在は、米国の若干の州や英国では大陪審は廃止されており、通常陪審という場合には小陪審を言います。
   小陪審とは、裁判に立ち会い、事実を認定し評決を下すものをいいます。映画などでみている陪審はこの小陪審です。勿論、陪審制の導入をといっている陪審制は、小陪審にことです。


その2  我が国の陪審制

   じつは、我が国においても陪審は存在していました。また、現在でも「陪審法」という法律は存在します。また、太平洋戦争後も我が国に復帰する前までは沖縄において実際に陪審がおこなわれていました。時代を遡ること約80年前の大正12年に12名の陪審員から構成される陪審を行う陪審法が制定(昭和3年施行)されました。なお、悪名高き「治安維持法」の成立は大正14年であり、陪審法が治安維持法の制定と引き換えに成立したという見解は誤りといえます。
   当時の陪審は、刑事事件に限って、しかも被告人が陪審による裁判を希望した場合にのみ行われるというものでした。また、陪審にしたときには、陪審員の日当その他の費用はすべて被告人持ちとなること、陪審員の認定した事実については控訴して争うことはできず事実上1回の裁判ですべてがきまること(もっともこれは我が国だけでなく陪審制を取っている国においては一般的なことです)、陪審員の答申は裁判官を拘束せず、裁判官が改めて(そして何回でも)別の陪審の評決を求めることができたこと、などの問題点がありました。
   そのような中、昭和18年4月1日に戦争の激化に伴い「陪審の停止に関する法律」によって施行を停止されました。停止された理由としては、@全体主義・軍国主義の台頭、A戦時状況下において、裁判において負担の大きい陪審を法律家自体が避けるようになったこと、B被告人自体が陪審を辞退し、陪審事案が低下したこと、が考えられます。
  @はともかく、ABについては、戦前の我が国では一般市民の司法に対する啓蒙が不十分であったために、陪審制度それ自体が黎明期であったため、その本来の機能を発揮できない状態にあったことは否定できないものの、現在の我が国においては国民全体の教育水準からしても問題はないでしょう。
   また、この法律は付則の中で「陪審法ハ今次ノ戦争終了後再施行スルモノトシ其ノ期日ハ各条ニ付勅令ヲ以テ之ヲ定ム」として、法律の廃止ではなく「停止」であって、戦後は陪審制度を復活させることを規定しています。つまり、我が国においては、再開しようとおもえばすぐにでも陪審制を復活させることができる状況にあるのです。   では、戦後の混乱で行方不明になってしまった陪審制度ですが、現在は全くその姿形もないのかというと、検察審査会制度の導入の際には陪審法の運用の経験がおおいに生かされましたし、現行の刑事訴訟法における証拠の規定についても陪審法の経験が生かされました。また、戦後の陪審制復活の議論の過程の中で裁判所法に「刑事について、別に法律で陪審の制度を定めることを妨げない」という条文が加えられています(裁判所法3条3項)。
<検察審査会>

    選挙名簿から無作為に抽出された国民(但し、公務員や、本人及びその身内が司法関係者である者は除外される)11名によって構成されるもので、検察官による公訴権(犯人を起訴するかどうか)の実行に対して、一般市民の民意を反映させるもの。各都道府県ごとに設置されている。
   たとえば、検察官がある被疑者(犯人)を起訴しなかったときに、被害者が「どうして起訴しないのか!?」と検察官の処分に不服を持ったときに、検察審査会に申立をすると、検察官の処分が適正であったのかいなかを検察審査会が判断します。最近でも、トラックで子供を轢き殺した被疑者を検察官が不起訴処分にしたところ、検察審査会が起訴相当の結論を出し、その結果として、改めて被疑者が起訴されたというものがありました(新聞やテレビでも何度も報道されていましたね)。
   この検察審査会は、司法関係者を除外し、全くの一般市民のみで構成されており、市民の目から見て検察官の処分が妥当であったのかどうかを判断するものであり、陪審制とその構造が似ているものです。
【なぜ陪審制は戦後復活しなかった?】

    戦後すぐに陪審制の復活は議論されました、枢密院やGHQ、弁護士会や学者においても復活すべしとの意見が提言されていました。また、法務省(当時の司法省)も復活を想定して、内閣も昭和21年3月には陪審制度復活を閣議決定しています。
   ところが、司法官僚の一部が陪審制の復活に強硬に反対し、戦後の混乱のなか、いつの間にか陪審制復活はうやむやになってしまい、いつしか我が国に陪審制度があったことすら忘れられることとなってしまいました。なぜこのようになってしまったのかは、正直言って分かりませんが、一度期を失してしまうとうやむやのまま棚ざらしにされてしまうのは、我が国の国民性なのでしょうか。
 裁判所法3条(裁判所の権限)
 裁判所は、日本国憲法に特別の定のある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する。
2  前項の規定は、行政機関が前審として審判することを妨げない。
3  この法律の規定は、刑事について、別に法律で陪審の制度を設けることを妨げない
 陪審法
 陪審の停止に関する法律
 


   

その3  似て非なるもの「参審制」

    裁判に市民が参加するということでは陪審制と同じになる制度として「参審制」(Schoffengericht)があります。裁判員制度の導入検討経過の中で最高裁判所が導入に積極的な姿勢をしめしたのは、陪審ではなく参審です。参審制とは「一般市民から選ばれた数人の参審員が、職業裁判官とともに合議体を構成して裁判を行う制度」をいいます。大陸法系の国々では参審制を取り入れており、ドイツやフランスでは、当初陪審を行っていたものの今現在は参審制を採用しています。我が国においても、きわめて例外的な分野である海難審判において参審員の制度を取り入れています(海難審判法14条)。
   最高裁が「評決権のないかたちでの一般市民の司法参加」を取り入れたいと言っていたことからも、最高裁は裁判員制度を陪審制に類する制度としてではなく参審制に類する制度として導入しようと志向していたといえるでしょう。つまり、職業裁判官が依然として司法を掌握する、しかし、国民にも司法への参加の道を開く、というものといえます。結局のところ、主導権は裁判所が握り、国民を司法へ参加させることでお茶を濁そうという感覚がよく出ていたといえます。
   参審制は、国民の司法への参加という点では大きな意義を有しているといえますが、職業裁判官が主導権を握って、参審員は裁判官に意見を述べる程度で終わってしまうのでは、真の意味での国民の司法参加とはいえないでしょう。また、裁判所の見解の根底には、国民に対する不信感(一般市民が適切な評決・認定ができるはずない)が横たわっているともいえます。単に一般市民がお飾りとして法廷に鎮座するような制度であれば、むしろ何もしない方がいいのではないかとさえ思われます。
<陪審制と参審制の違い>
    あまり難しい説明をしても仕方ないのですが、陪審制と参審制の根本的な違いは、司法に対する不信感の有無といえます。英米法の国家(アメリカ・イギリス)では国家形成の歴史において職業裁判官(司法)に対する歴史的な不信感があり、国家の手先である職業裁判官ではなく、自分たちの同僚によって裁かれることが望ましいという価値観が根底にあります。例え同僚が間違った判断をしたとしても、その方が国家によって裁かれるよりは正しいことであるという感覚です。
   これに対して、参審制を取り入れている大陸法の国家(ドイツ・フランス)では、職業裁判官(司法)に対する信頼感があり、一般市民である同僚よりも国家機関である裁判所の判断を尊重するべきという価値観が根底にあるといわれています。
   我が国は、明治維新以来ドイツ・フランスを中心とする大陸法の影響を強く受けており、その中で刑事裁判においても職業裁判官による裁判が行われています。これも、大岡越前のお裁きではありませんが、悪事を裁くのはお上の仕事という国民感に合致していたからかも知れません。

    陪審制も参審制も一般国民の司法参加という点では共通していますが、本質的な違いがあります。陪審員は職業裁判官からは完全に独立して評決を行うのに対して、参審員は職業裁判官と一体となって評決を下すこととなり、また陪審が12名(6名)で構成されることが多いのに対して、参審では職業裁判官1名(あるいは3名)に対して参審員2名という少ない人数で構成されることとなります。このような点からもわかるように、本質的には「陪審制=国民による司法の掌握」、「参審制=国民の司法への参加実績構築」という違いがあるのといえます。


その4  陪審制導入の問題点

    参審制について問題があることは既に述べましたが、陪審制においても問題点はたくさんあります。現に、ドイツやフランスでは陪審制を廃止して参審制に移行していますし、アメリカにおいても近年は陪審員の評決の拘束力を弱め、裁判官が評決のやり直しを命ずることができるという扱いもされるようになってきています。
   陪審制の一番の問題は、なんといっても一般市民がどれだけ検察官や弁護人の言っていることを理解できるのか、ということでしょう。複雑な事案(例えば知的財産に関わる案件や、経理知識を必要とする横領・背任事件など)をどの程度理解し把握できるのかは確かに疑問もあります。それゆえに、知的財産などでは専門部を設けて裁判官以外の専門スタッフを関与させるという新しい裁判手続が司法改革の中でも取り入れられているのです。また、人情としてついつい感情論に流れてしまい、弁護人のパフォーマンスや情状証人の涙に流されて、ものの判断を誤る可能性も否定できないといえます。
   アメリカでは陪審員は裁判期間中は外部との接触を一切禁じられ、裁判所外への外出は勿論、新聞やテレビ報道を見ることも制限されます。実際にはほとんどの裁判が1日か2日で終わりますし、その日の法廷が終われば家に帰るのも自由という場合がほとんどではありますが、検察官と弁護人とが真っ向から争うような事案では、長期間にわたって陪審員は身体を拘束されることとなり、その負担は非常に大きいといえます。それだけに、アメリカでは会社などで重要な地位についていたりして時間を拘束されたくない人は、陪審員になることを拒否するようになり、得てして主婦や失業中の人などが陪審員に集中するという事態も起こっています。このような陪審制の問題点が大きくクローズアップされたのが、O.J.シンプソン事件でしょう。これは我が国でもかなり報道されましたが、彼が無罪になったのはひとえに陪審制のおかげであるという評論がされてもいます。この評価に対する是非はともかく、陪審制にも様々な弊害があるのは事実でしょう。
   しかしながら、現在の我が国においては、市民一人一人の教育水準の上昇によって、陪審員として評価・判断を下す能力がないというような人はいないといえます。また、数々の冤罪事件を見ても、職業裁判官による事実認定がいかに危ういものかはいうまでもないでしょう。加えて、社会の耳目を集めるような事件に対しても、国民は蚊帳の外で傍観しているだけでは、真の意味での民主主義とはいえないのであり、国民が司法に携わることが本当の民主主義のために必要であるといえます。
    陪審法、また陪審制それ自体に様々な欠陥があるのは事実といえますが、それらを克服して採用するだけの価値が陪審制にはあったといえるでしょう。裁判員制度においても、より陪審制度に近い制度となるのかどうかが国民が主権者としての地位を司法においても確立できるのかの問題と結びついているといえるかもしれません。


その5  陪審制導入に向けて、改め、裁判員制度の導入

    陪審制度の導入に向けては、日本弁護士連合会もこれまで積極的な活動を行ってきていました。しかし、裁判員制度という新たな裁判手続が導入されることが決まったために、陪審制度そのものの復活という話はなくなっています。残念なことに陪審制に関する知識は、一般市民に広まっていないのは勿論、法律関係者においても正確な理解がなされていないといえます。私は個人的には陪審制・法曹一元というものの導入に肯定的な立場をとっていますが、肯定するにしても否定するにしても、互いに正確な理解を持っていないことには正しい議論もできないでしょう。社会一般に陪審制が正しく理解されてない現段階でいきなり裁判員制度を実質的には陪審制に等しいものにするべきであるという意見には躊躇を覚えます。しかしながら、大きな方向としては、職業裁判官による裁判よりも陪審制に類する制度の方がいいのではないかと考えています。裁判員制度の運用においても、陪審制の理解を前提に、よりよい制度にしていくことも重要な課題といえるでしょう。


その6  陪審制をもっとよく知るために 

   裁判員制度という新しい制度が出来上がった以上、なにも今更陪審制など調べなくても、という気持ちになるのは当然だと思います。しかし、裁判員制度が真の国民の司法参加制度となるのか、裁判官にお墨付きを与えるお飾り市民参加に止まってしまうのか、これから本当の試練が始まるともいえます。そのため、いま改めて陪審制度を理解することにはそれなりの意味があると思います。もっと陪審制のことを知りたいという方は、次の書籍が参考になるかと思います。
『O・J・シンプソンはなぜ無罪になったか〜誤解されるアメリカ陪審制度』      四宮啓(現代人文社)
『陪審手引』(復刻版)   四宮啓監修(現代人文社・大学図書)
『市民の手に裁判を  陪審制度』   新潟陪審友の会編集(尚学社)