第7章      (補追)原状回復をめぐる最近の判例

(2006.6.18)

1項    平成17年12月16日最高裁判例

    平成17年12月16日に最高裁判所が、敷金からの原状回復費用の差し引きをしたことについて、原状回復特約(経年劣化・自然損耗分の修繕費用を賃借人負担とする特約)の効力を否定する判断をした。これまで簡裁レベルではほぼ賃貸人側敗訴、地裁・高裁でも賃貸人側が敗訴するケースが立て続く中、ついに司法の頂点である最高裁も原状回復特約を無効と判断したとして、賃管業界内に年末の激震をもたらしたと言われる判例である。

<事案の概要>

   賃貸人が、退去時における負担区分表を定めた賃貸借契約書の負担区分表に基づき、敷金( 35万3700円)から原状回復費用30万2547円を差し引いて、残額5万1153円を返還した。賃借人は、経年劣化・自然損耗についての補修費用を含む修繕費用を差し引くのは違法であるとして敷金返還請求を申し立てた。
※ 大阪府が賃貸人となっているがこれが判断に特別な影響を及ぼしているわけではない。
判決の全文
2項    速報記事に見る判決の概要

    この判例は、翌日には全国紙にも取り上げられた。その報道記事をみた不動産業者は、突如あらわれた最高裁判例に頭を殴られるようなショックを受けた。

「二重取りおかしい」賃貸住民ら歓迎 敷金返還訴訟

 普通に暮らしていて生じた汚れや損傷の修繕費をどこまで負担しなくてはならないのか――。「賃貸暮らし」の人たちの多くが抱く疑問に司法が答えた。最高裁第二小法廷は16日、家賃以外の費用を求める場合は、契約書などで負担範囲を明確にしていない限り無効とする初めての判断を示した。「二重取り」に遭ってきた賃貸マンションの住民らからは、歓迎の声が相次いだ。
 「これまでの二重取りのような仕組みがおかしい。適切な判決だろう」。3年ほど賃貸マンションに住んでいる、滋賀県草津市の男性会社員(26)は、最高裁の判断を評価した。「普通に生活していて出る汚れは家賃に含まれるのが当たり前だと思う」
 大阪府四條畷市の女性会社員(22)は17日、3年間住んだ賃貸マンションを退去する。敷金は30万円。「壁がカビなどで汚れているため、どれほど敷金から引かれるか心配。ちょうどいいタイミングで、賃貸マンション住民にとってありがたい判決が出てくれた」と話した。
 全国に店舗がある大手旅行会社で転勤者の家賃補助業務に携わっていた社員(38)は「十数万円の修繕費を家主から請求されるケースは多く、なんとかならないかと思いつつも、慣習のように支払っていた」という。 ただ「引っ越し間際になって、『家主ともめるくらいならええわ』とあきらめてしまう人も多いのではないか。会社としても、社員に無理な交渉を強いることができるかどうか」と話した。
 大阪府住宅供給公社の福山樹三夫・民間住宅課長は「予想していなかった判決。早急に特約を見直す必要がある」と話した。
 同公社は計約2万8200戸の賃貸住宅で、退去時の修繕費を借り主が負担する特約をつけている。福山課長は「もともと関西では、退去時に一定の金額を敷金から差し引く『敷引き』が商習慣としてあった。我々の特約は補修の実費だけをいただくもの。理解を得られてきたと考えていたのだが」と困惑していた。
 一方で、修繕費の貸主負担は、すでに一般的になりつつある。独立行政法人「都市再生機構」(旧都市基盤整備公団)は、99年から畳やふすまの自然損耗について、国の指針に沿って、機構側の負担を明確にする条項を賃貸契約書に盛り込んでいる。大阪市住宅供給公社も99年に「特約」を廃止した。
 大阪市で賃貸マンションを扱う不動産会社の担当者は「業界では、日常生活でできた損耗は貸主が負担するという考え方が定着しつつある。最高裁の判断には『いまさら』という気もする」と話す。
 同市内で賃貸マンションの仲介業をしている男性は「まだまだ『敷引き』の特約つきの契約も多い。この判決で『家主払い』の認識が加速するだろう」と話した。
     ◇
 原告側は16日、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見。最高裁判決の意義を語った。
 松丸正弁護士は「今回の判決はわずか30万円の小さな成果だが、日本の住宅賃貸制度に与える影響は大きい」と評価した。
[2005年12月16日・朝日新聞社(asahi.com)の配信記事を引用]

3項    実際の判決内容の判断

    上述の報道をみると、どのような契約をしても原状回復費用(修繕費用)を賃借人に負担させることは不可能と思われてしまう。それだけに不動産業者は誰もが頭を抱えた。しかし、判決書を検討してみると、実体は次のようなものであった。

<事案の争点>

   マンションの賃貸借契約で、原状回復と修繕費負担区分表に基づく費用の負担を賃借人とする特約が、自然損耗・経年劣化などのいわゆる通常損耗についての修繕費用まで賃借人の負担とするものとして有効なのかいなか。
※ 判決において前提とされていた認定事実によると、この事案では賃貸借契約書の付属書類であった「負担区分表」では、補修が必要となる「基準になる状況」として、ふすま紙・障子紙は「汚損(手あかの汚れ、たばこのすすけなど生活することによる変色含む)」、床や壁は「生活することによる変色、汚損、破損」などと記載されており、これらの補修費用は賃借人の負担と記載されていたようである。

<最高裁の結論>

   大阪高裁が判断したところの、「賃貸人が作成した修繕費負担区分表は契約書の一部であり、通常損耗の補修費用も退去者が負担するものであり、賃借人は負担区分表の内容を理解した旨の書面を提出していることから、通常損耗の補修費用の一部について、賃借人が負担することを定めた内容の契約が成立している」というものは、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があり、破棄を免れない。通常損耗によるものを除く補修費用の額についてさらに審理させるため、本件を差し戻す。
※ つまり、通常損耗部分についての修繕費用を賃借人の負担とした判断は違法である。そこで、通常損耗分とそれ以外とを明確に区分して賃借人が負担するべき費用を確定させ、賃借人が負担するべき費用についてのみ認めなければならない。最高裁は事実認定は行わないので、通常損耗なのかそれ以外なのかを認定する必要があるために、大阪高裁で改めて審理をする必要があるという内容。

4項    最高裁判断の骨子

   では、改めて最高裁が原状回復特約とそれに基く原状回復費用(通常損耗などについての修繕費用の請求)について、どのような考えを提示したのかを見てみると、次のようなものである。



@ 特約の有効性についての一般的な判断

   賃借人が契約終了により負担する原状回復義務には、特約のない限り、通常損耗によるものは含まれない(補修費用は賃貸人が負担すべきである)。しかし、これと異なる特約を設けることは契約自由の原則から認められる。(原審である大阪高裁の判断を是認)

A 個別の特約の有効性についての判断理由

(1) 特約の有効性判断にあたっての前提
(a) 賃借人は契約が終了時に物件を原状回復して返還する義務がある。
(b)  物件の損耗発生は賃貸借という契約の本質上当然に予定されているものである。
(c)  建物の賃貸借においては、賃借人が社会通念上通常の使用をした場合に生ずる物件の劣化、価値の減少を意味する通常損耗にかかる投下資本の原価回収は通常、減価償却費や修繕費などの必要経費分を賃料の中に含ませて、その支払いを受けている。
                                             

賃借人に通常損耗の原状回復義務を負わせるのは、賃借人に予期しない特別の負担を課すことになる。

                                             

(2) 個別の特約の有効性の判断基準

   賃借人に通常損耗の原状回復義務が認められるためには、少なくとも、賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が契約書の条項自体に具体的に明記されているか、仮に契約書で明らかでない場合には、賃貸人が口頭で説明して賃借人がその旨を明確に認識し、それに合意したと認められるなど、その旨の特約(以下、通常損耗補修特約)が明確に合意されていることが必要と解するのが相当である。

                                             

○具体的な事案への当てはめ○
   本件では、契約書には通常損耗補修特約の内容が具体的に明記されていない。また負担区分表についても、要補修状況を記載した「基準になる状況」欄の文言自体からは、通常損耗を含む趣旨であることが一義的に明白とはいえない。

                                             

○結論○
   通常損耗補修特約の成立は認められないので、賃借人が通常損耗補修特約を認識して合意の内容としたものということはできないから、通常損耗補修特約の合意が成立しているということはできない。

 
  これをみても分かるように、報道の速報で賃貸人側がコメントしているような「予想していなかった判決」というものではないことがわかる。ここまで読んでみて改めて速報を見てみると、さすがに朝日新聞の記事だけはあって、事実は事実のとおり記載されていることに気がつく(冒頭の「契約書などで負担範囲を明確にしていない限り無効」の部分)。ただし、全体の記載の仕方が明らかに賃借人寄りの構成になっているために、読み終えたオーナー・管理会社は、「通常損耗などの費用はこれからはオーナー負担でなければ裁判で負けてしまう」という錯覚を覚えてしまうのである。
5項    判例の評価

    当然であるが、消費者側(賃借人側)はAsahi.com速報のコメントにもあるように、これを画期的な司法判断であるとして高く評価し、同時に賃貸人・管理会社に対しての警告であって、今後は通常損耗の費用負担を賃借人に負わせるようなことは出来なくなる、と評価している。
最高裁の判断である以上、これを無視することはできないし、今後の賃貸管理の実務に与える影響は極めて大きいのはその通りである。しかしながら、この判例をよくよくみると


@ 原状回復費用を賃借人負担とする特約は、それだけで無効となるものではない
→ 個別具体的な検討結果いかんでは無効となることもあるが、基本は契約自由の原則によって、特約そのものが直ちに違法無効なのではない
A 具体的な修繕費用の範囲が契約書などに明記されており、その「通常損耗」についても賃借人が負担するものであることを認識してなされた合意であれば有効な特約となる
→ 判例が示した要件を満たせば、賃借人に通常損耗についての修繕費用(原状回復費用)を負担させることも問題ない

という内容になっている。
    これまでの下級審の裁判例(特に簡易裁判所の判断)では、賃借人に通常損耗についての修繕費用を負わせるような特約は、それ自体が違法で無効であると言い切ったものもあり、内容の具体的適切性や当事者間の真意の合意の有無などにかかわりなく、公序良俗に反するなどと判断しているケースすらあった。それに対して、この最高裁判例は、いわゆる原状回復特約は契約自由の原則にもとづき「有効」であると判断した(原審の大阪高裁の判断を是とした)ところに極めて大きな意義がある。この最高裁判断によって、「通常損耗についての修繕費用は賃料に当然に含まれているものであるから、これを賃借人に負担させる特約は公序良俗に反して無効」という賃借人側の主張はその根拠を失うこととなる(賃借人側の主張根拠が一つ失われた)。
    次に、個別具体的な特約の効力の有効性を判断するための基準を最高裁自体が定立していることは極めて重要である。なぜならば、この最高裁の基準を満たせば特約の効力が認められる(賃借人に通常損耗についての修繕費用も負担させることが認められる)からである。しかも、最高裁の判断をみると、契約書そのものに記載があることまでは必要ではない(「仮に契約書で明らかでない場合には、賃貸人が口頭で説明して賃借人がその旨を明確に認識し、それに合意したと認められるなど」の記載)としており、それについての実際の判断もしている(「説明会でも、通常損耗補修特約の内容を明らかにする説明はなかった」という部分は、口頭での説明でも十分であると読み取れるものである)。このように見るならば、
・ 契約書またはそれに準ずる書面で「通常損耗」についての費用負担であることを明記
・ 費用負担の内容が具体的に明記
・ 賃借人が「通常損耗」についての費用を負担することを明確に認識した
という点をきちんと満たせば、原状回復特約の効力が認められるということになる。これは、賃貸人・オーナー側にとって極めて有利な判断内容を最高裁が示したのだと理解するべき。

6項    判例の射程距離

   もっとも、今回の最高裁判例は、公序良俗違反の観点で原状回復特約を判断したものである。従って、最近特に問題となっている消費者契約法上の判断については全くなされていないことに注意が必要である。基本的には、公序良俗違反と消費者契約法における信義則違反はクロスオーバーして判断されるものと考えられるが、消費者契約法に基づく主張においては信義則違反のハードルが低くなる(オーナー・管理会社に不利になる)可能性もあるので、その点については今後の裁判の動向などを見極めて慎重な対応を取る必要はある。
(参考)  原状回復特約と消費者契約法

第6章  原状回復工事と敷金精算
オーナー・管理会社のための原状回復と敷金返還