エッセイ:「はこだて」の幕末 その1 

  「雪の峰」の追跡
   ペリー艦隊日本遠征記の挿画が語るもの―


目次
梗概
第1部 ハイネ 「雪の峯」の追跡
1.1  「雪の峯」が描かれた事情そして未解明の疑問      <第1回>
1.2 絵が語ること
1.3 パソコン3Dによるシミュレーション                <第2回>
1.4  5万分の一地図で庄司山をみる
1.5  文献資料からの探索  米国側史料            <第3回>
1.6  文献資料からの探索  日本側史料            <第4回>
1.7  ペリー海図の検討  その1                  <第5回>
                その2                 <第6回>
1.8  ハイネ:世界周航日本への旅
                <今回>


    注:左の欄の写真または本文中に下線部のある、色の変わった箇所をクリックすると関連の参考図の      拡大版がみられます

梗概:ペリー艦隊日本遠征記に箱館を俯瞰した一枚の石版画が収録されている。「雪の峯からみた箱館の風景」というタイトルである。艦隊付の画家ウィルヘルム・ハイネの手になるものとされ、箱館を北方の渡島半島側の山間部から描いたと想像される構図である。しかしハイネが「雪の峯」と呼んだ描画地点自体の特定は今までなされてこなかった。ペリー側,日本側双方に、この「雪の峯」の場所を直接示す記録史料が残されていないからである。筆者は最近開発された3D地図ソフトを活用するなどしてハイネ画の構図の分析検討をおこない,「雪の峯」の地点を探索した。加えて当時のペリ−艦隊の記録や日本遠征記に付された海図などを解読することで、ハイネが箱館山を遠望した地点の確定に成功したと確信するにいたった。さらに、当時の両者の交渉を跡付けることで、「なぜ「雪の峯」の場所が記録に残されなかったのか」という疑問に対しひとつのみかたを提供する。


11999.12.30

Yutaka Hoshino
E-mail
yhoshi2@mb.neweb.ne.jp

1.ハイネ「雪の峯」の追跡 

1.1 「雪の峯」が描かれた事情そして未解明の疑問

ペリーの箱館訪問―1854年5月  

「View of Hakodade from Snow Peak」(雪の峯からの箱館の眺望)と名づけられた石版画が「ペリー艦隊日本遠征記」の挿画の一枚として今日まで伝えられている。


遠征記には多数の石版画、木版画が集録されているが、その中でもこの「雪の峯」は特別に印象深い作品のひとつといってよかろう。
津軽海峡に一見独立島のように屹立する箱館山。その山裾から手前の渡島半島をつなぐ狭い地峡の砂州地帯。これらをを北方の方角の小高い山の上から遠望したとみられる構図。近景に捉えられた従者たちとおぼしい人物群や周囲の大木、岩塊などの描写を含め、まるで一幅の山水画のような典雅な趣さえある。もちろん、写実性や遠近感を重視した技法自体は忠実に西洋画の伝統に立脚している。

1854年517日。ペリーとその艦隊は突然箱館港沖にその姿を現した。先着の帆船3隻に、あとから加わったペリー提督みずから率いるパウアタン号とミシシッピ号の2隻の蒸気船を併せ、計5隻の威容である。当時函館の治安の責に任じていた松前藩の家臣達はもとより、一般住民も時ならぬ大艦隊の出現と夷人たちの上陸に周章狼狽したと当時の記録にある。前年ペリー艦隊が浦賀に来航したとのニュースはもちろん庶民レベルにも充分浸透していたことであろう。しかし、2度目の浦賀来訪からきわめて短時日の間にペリーと幕閣のあいだに和親条約が締結され、その中で伊豆国下田と並んでこの北辺の新興の港、蝦夷箱館が開港場として指定されていることを知る立場にいたのは、松前藩上層部でもほんの一握りの人達に限られていた。

一時は夷人との接触を恐れて女と子供は近郊へ退去すべしとの触れ書きが出たとされる。上陸を許され街中を散策したペリーらは街中の商家住居が戸を閉ざし、街頭から人影が消えてしまっていることを訝った。挙句には、松前藩の役人達に対し、住民の姿がみえないのは、われら外国人への敵対感情を煽った結果ではないかと詰問するという一齣もあったと記録にあるほどだ。
200年の鎖国の祖法を破って日本が最初に外国に対して開いた開港場箱館。その箱館にペリー一行が滞在した18日間。その間、艦隊付き画師であるハイネは写真師ブラウンとともに特別の許可により下船して宿舎として提供された箱館山山麓の実行寺で起居したとされる。一般の士官、水兵たちが滞在期間を通じて湾内碇泊中の船内で起居することを命ぜられたのに比べれば、破格の待遇である。ペリーが未知の国の事情を調査、記録するにあたって絵や写真をいかに重要視していたかがうかがえる。

 これらの写真や絵は1856年になって、航海の唯一の公式記録として刊行された「ペリー艦隊日本遠征記」中で総数180点という膨大な分量の挿画として掲載される。この「遠征記」は米国海軍省がスポンサーとなって発刊されたが、大版の全3巻、総ページ1500ページという大部のものながら、米国内でも当時としては破格の3万4千部を刷る大ベストセラーとなったという。もちろん欧州各国でも刊行され、版が重ねられた。

 当時西欧各国にとって、マルコポーロの東方見聞録によってのみ知られていた「黄金の国ジパング」の開国がいかに衝撃的なニュースであったかが推定できる。しかし、本文の内容もさることながら、ハイネの挿画、ブラウンが残した写真〔掲載されたのは写真をベースにあらたに起こした版画〕によってはじめて紹介された当時の日本の風景や風俗、人物像などが同時代の西欧中産階級の読者層に強いインパクトを与えたからでもあろう。

ぺりー航海記の挿画

「ペリー艦隊日本遠征記」に収録された箱館関連の挿画は全部で18点、うち滞在中ハイネによって描かれたとみられるものが10点を数える。他の8点は写真師ブラウンによるとされる。ブラウンが滞在中撮影した銀版写真に基づいて石版画に起こしたものである。ちなみにブラウンは日本にもっとも早く写真機を持ち込み、「日本最初の写真」の撮影者として日本写真史にその名を残した。箱館を舞台にした初期の写真師たちがその後、横浜、長崎に並んで、幕末明治の写真術の導入と発展に大きな足跡を残したのも、この時のブラウンの先駆的な仕事がきっかけとなったといってよい。

さて、ペリー艦隊日本遠征記の「雪の峯」View of Hakodadi from now Peak)と題する、箱館の鳥瞰図に話をもどそう。ウィルヘルム・ハイネ作とされるこの石版画は函館の北方の山頂とおぼしき地点からはるかに箱館山、箱館市街と港を遠望したものであると想定されるものであることはすでに述べた。ぺリー日記の説明によれば、この挿画は18545月 ハイネ作の原画により、サロニーが作成した石版画とされ、遠征記に採用される前にすでに独立した作品として世にでていたもののようだ。収録当時すでにニューヨーク在住のジョン・ケニー氏夫妻の所有となっていたとされている。ペリーは公式の記録の内容、体裁に相当に心を砕いたものと見え、この原画を含め多くの資料をわざわざ借り受けて遠征記の中に収録している。

「雪の峯」にまつわる疑問

ところが実際に、当時の文献を調べる限り、この絵がどいう経緯で描かれたものかについての具体的な記録が残っていないのである。ハイネ自身の著作である世界周航日本への旅(中井昌夫訳)は、「箱館」という独立の章(12章)を設けてハイネの箱館滞在中の見聞を記しているが、箱館山には5回も登ったという記述があるのに、「雪の峯」に直接言及した箇所は見当たらない。 
同行した通訳のウィリアムズは日記体の「ペリー艦隊日本遠征随行記」を著し、箱館滞在中の見聞をいちいち日付を付して、相当細部にわたって叙述しているが、ここにも「雪の峯」に関する記録は見られない。ぺリー自身の「日記」も同様である。したがってこれらの日記、報告の類の集大成である「ペリー艦隊日本遠征記」の本文中にもいささかも「雪の峯」についての記述は見あたらない。遠征記の挿画の大半が本文中に関連の記事が見出されるのに対し、この「雪の峯」は、独立した一枚の絵として、一ページ大のスペースを占めているにもかかわらず、なぜ本文中に何の記載もないのだろうか。

こうなってくると、本当にハイネ自身が実際に「雪の峯」なる山に登ってスケッチをしたのかどうか、さらには「雪の峯」なる場所がそもそも実在するのかという疑問がでても不思議ではない。もしかすると、他の人物、たとえばブラウンの写真などに拠って、後に描いたものなのかも知れない。あるいは、日本側になんらかの資料〔たとえば古絵図〕があってそれに準拠して描いたという可能性も捨てきれない。もっとも極端な想像として、もともと「雪の峯」などは実在せず、箱館山からの眺望を参考にして、ハイネ自身が想像で組み立てて描いたのかもしれない。疑問はつぎつぎに湧いてくる。 
 この石版画は実に多くのペリー関連の著作に引用,再引用されている有名なスケッチである。にもかかわらず、筆者の知る限りこのスケッチの成立の事情を本格的に探求した論考もない。
(以上第一回)

1.2  絵が語ること

 まずこの絵自体を仔細に検討してみよう。 

箱館の中心部遠望
 構図の中心をなすのは、絵の全体面積の約1/3を占めるにすぎず、また位置的にもやや左側に偏しているものの、やはり箱館山とその麓から手前の陸地につながる地峡部にあたる砂州を俯瞰した部分であろう。箱館山は高さが強調されているが、姿はかなり正確に描かれている。地峡の砂州部分も左手に大森浜、港側は弁天方面から手前の亀田浜、有川、当別方面までなだらかに内側に湾曲する海岸線がすべて収められている。右側の海岸線のみえかたから、視点が箱館の市街地〔砂州〕を真っ直ぐに貫く軸線よりも北側にあることが予想される。
箱館山のさらに後方には遠く当別、茂辺地方面の山並みがみえる。箱館山とそれら遠景の山並みの見え方から、視点の位置が平野にではなく、箱館山の山頂地点とほぼ同程度か若干高いくらいの場所にあるらしいことも容易に納得される。 注目すべきなのは、パノラマの広がりである。周囲に同規模の山が迫っていると当然視野は限られる。しかしこの絵では、周辺部分に立ち木などがあるものの、箱館方面については、非常に広い視野がえられている。左は大森浜の海岸の一部と立待岬を収め、右は箱館湾の全貌を収めきり、さらに七重浜から茂辺地方面までの海岸線が視野に収められている。つまりこの絵を描いた場所が非常に眺望に優れた場所であることがわかるのである。

 ・近景

 近景には山頂のなだらかな場所に12人ほどの人物がそれぞれ3つの小さな集団をなしてくつろいでいる姿が描かれている。4頭の馬、7−8匹の犬も見える。衣服から判断して西洋人とおぼしき人物は2人または3人。あとは日本人であろうが、警護の武士と思われる編み笠を被った人物達と馬をひいてきた者たちとがみえる。馬の存在から、この場所まで登ってこられる程度の道があることが想像される。その山道も多分それほど急峻ではないであろう。犬の存在はこの集団が狩猟の途中であったことをうかがわせる。以上の観察から、この絵が実際の観察によるものとすれば、それは箱館の地峡部の延長線上であり、しかもやや北側山間部200-400メートル程度の標高の場所、しかも地峡部の付け根からそれほど離れていない場所であろうという推察が可能である。またその場所に到達した集団は外国人(多分ハイネを含む)と日本人の混成で、周到な狩猟の準備がなされていることもうかがえるのである。

1.3 パソコン3Dによるシミュレーション 

 つぎに最近利用可能になったパソコン用の地図ソフトを駆使して、この「雪の峰」の場所を特定できないだろうかと考えた。数値地図という名前のソフトを日本地理センターが日本全土を網羅すべく逐次編集発行している。この数値地図とランドサットからの写真映像を組みあわせることで、任意に指定した範囲の地上の三次元画像をパソコンのモニタ上に描き出すことが可能になったのである。最も威力を発揮するのは、上空の任意の点からの鳥瞰図を描き出す機能を持っていることである。今回のようにまず鳥瞰図があって、それを描いた地点を探し出すという目的にも活用できる。ハイネ絵に描かれている箱館山とその後景の当別、福島方面の山並み、そして、観測地点とおぼしい箱館の後方の山塊群を範囲にとって、方位と視点角度を変えながら,何度かシミュレートする。
 何度かの試行の末に観測点を視点角度2度、方位角度を真から25度西へとる。得られたパノラマはまさしくハイネ図の構図と非常に似通ったものとなった。この場合の方位の軸線は箱館山の最高峰からちょうど横津岳の方面に伸びる。

庄司山。標高570メートル。七重浜より直線距離で約10キロ。

横津岳を最高峰とする函館の北方から東北方面を扼する山塊群からわずかにせり出したこの小高い山、庄司山は、高さといいその眺望のひろさといい、ハイネの絵の眺望をえるにふさわしい資格をもっているといえよう。。
(以上第2回)
1.4  5万分の一地図で庄司山をみる 
 亀田川。かつては箱館湾に注ぎ、後年河道の改修工事で、大森浜側にその流路を移されることになる川を源流に向かって遡ってみよう。笹流貯水池を右に赤川町を通過、両側にはかなり切り立った崖が迫ってくる。赤川から約四キロ、新中野ダムを見上げる広い視界のえられる緩やかな斜面に達する。この地点から北西方向に、独立した峯をもつむっくりとした感じの山塊がみえる。これが庄司山である。
 すでに江戸中期くらいから、絵地図などには「庄司山」としてその名が見えている。
5万分の一地図(函館)で仔細にしらべていくと、横津岳、袴腰岳など1000メートル級の山並みをバックに、その前面をうけもつ500‐700メートル級の山塊群の中にこの庄司山は位置している。そして、先程のべた亀田川を右手に(函館方面からみて)、反対側には蒜沢(にんにくさわ)川という比較的水量豊かなふたつの川に挟まれている。そのため山の両裾がかなり明確に切れこんだ地形をなしている。その結果、庄司山の形は並びの中規模な山塊群からは独立して見えることになる。要は遠望したときに目立ち易いということが納得されるのである。この遠くから見たときの目立ちやすさというのは、あとから重要な意味をもってくるが、ここではこれ以上たちいらない。
 なお、庄司山の前面は標高570メートルの山頂から一気に350メートル付近までが急峻な斜面をなしており、それより下は南南西方面、ちょうど函館の市街地の方向へ向かってのなだらかな丘陵となっている。

1.5 文献資料からの探索  米国側資料
 ペリー艦隊の日本遠征についてはすでに述べた「ペリー艦隊日本遠征記」という公式報告の他にも、司令官ぺリー自身の日記他、同行者の手による、日記、手記などが多数刊行されている。そのうち比較的入手が容易でかつ箱館におけるペリー一行の行動に詳しいものを可能な限り渉猟した。
対象とした記録は下記の通り

  ペルリ提督日本遠征記  (土屋喬雄、玉城肇訳 1955年 岩波文庫)
  ペリー:ペリー日本遠征日記 (金井 圓訳 1968年 雄松堂出版刊)
  ウィリアムズ(通訳):ペリー日本遠征随行記(洞富雄訳 1970年 雄松             堂書店刊)
  
 上記のうち、もっとも詳細で、かつ日時が明瞭なウィリアムズの日記から、ペリー一行の箱館滞在中の行動を概観することができる。以下、ウィリアムズの「ペリー日本遠征随行記」に拠りつつ、ウィリアムズの箱館上陸時の行動を中心に日録を作成してみた。
 
5月17日 乗船のパウアタン号と僚船ミシシッピー号が箱館港内に投錨、先着の3隻 (マセドニアン、サザンプトン、バンダリア)と合流役人一行が艦に到着。
5月18日 ベント,ウィリアムズ,ペリー(子息)、羅森(中国人通訳)ら6名上陸。海辺の公の応接所〔弁天町の御用商人山田寿兵衛宅〕にて協議開始貿易上の便宜、陸上の宿舎、遊歩の自由につき申し入れ。近隣を散歩、(浄玄寺 高龍寺)別の士官数名らは山脊泊の砲台視察。
5月19日 応接所で協議続行。おおむね米側の要望事項が了承される。
松前勘解由ら3名の役人(遠藤,石塚、工藤)がミシシッピー号訪問。ペリー提督らと会見。  
5月20日 会見場所として、公の応接所,士官たちの利用のためには沖の口役所(税関)。ハイネ,ブラウンの宿舎として実行寺の提供が正式に決定。
5月22日 提督と艦長が松前勘解由を答礼訪問(公の応接所)
遊歩制限区域に関する協議難航 (米側,7里を主張)日本側の協議の間、提督らは散歩に出る(実行寺など)
上陸した米国水兵の乱暴に対する抗議書を受領
5月23日 日本側抗議をうけて終日上陸禁止
5月24日 士官らに買わせるための商品の収集。
遠藤,石塚らに銀板写真手交。  
5月25日 死亡水兵の埋葬場所について遠藤と相談。高龍寺から山脊泊を検分。神明社など三箇所の神社を見学。 
5月26日 水兵の埋葬。葬列、葬儀実行。
提督のための特設市場の設営
5月27日 モロー博士〔植物学者〕と散歩。墓地,半島突端、多くの植物採集。丘の頂からの眺め、周辺の農村の眺めはすばらしい。町の北方の平原は手付かずの荒地。西に見える山頂には残雪が美しい。
5月28日 さらに一人の水兵死亡。その件で遠藤と協議。
5月29日 日本側役人らを旗艦に招待
5月30日 遠藤と歓談、昼までギリアム博士(軍医)と散歩。   
5月31日 記念の持ち帰り用の石材探し。ベント氏と墓地へ。
6月1日 堀部らと幕府側使者との会見準備打ち合わせ(応接所)    蛯子次郎と石材探し。尻沢部まで至る。
日本側が会見に現れず。ペリーは怒って、示威行動を指示。
夕刻になって安間ら到着。艦で協議。自由歩行区域の問題は後刻江戸での林大学頭との協議に持ち越される。
6月2日 荒天のためぺりー上陸取りやめ。贈り物交換。
6月3日 早朝に出港
 長々と書いてきたが、要は、ウィリアムズを含む、艦隊の上級士官らは専ら弁天町にあったとされる公の応接所と艦の往来に大半を費やし、5‐6回を数える「散歩」も弁天を起点に山脊泊から尻沢辺(現在の谷地頭付近)と箱館山山頂付近が歩き回った範囲と思われる。
 羅森(中国人通訳)およびハイネの記録、さらにはペリー自身が残した「日記」においても、箱館市内及び周辺への探索行についてはほとんど何の記録も残していない。
 唯一手がかりになりそうな記事は、5月27日付けのウィリアムズの日記に見える「丘の上からの眺め。そして西に見える山頂の残雪」という箇所である。一見して、箱館の東側に連なる連山の頂から、箱館山を望んでそれを「西に見える山頂」と表現したかのようにも読める。しかし、当日の歩行の記録が「墓地と半島突端」から始まっていることから、箱館山の近傍からわざわざ、市街地を通り抜けて東方の山まで遠出を敢行したとは信じにくい。馬の使用の記述がないことからも、絵に描かれた馬を伴う集団行動とは異なる。またハイネとの同行という記述も見えない。
(以上第3回)
1.6 文献資料―日本側の記録 (亜国来使記)
 当時の日本側の記録の中で、「亜国来使記」と題する史料が市立函館図書館に残されている。上述のウィリアムズの日記と同様に日付がはっきりした、かなり詳細な記録であり、記録者名は不明であるが、少なくとも、直接ペリーらの応接にあたった松前藩高官の筆になるものと推察されている。交渉全権、松前勘解由自身との推測もある。その5月24日の記録に、米国艦船からボートで亀田に降りたった外国人の一部の者らが、内陸に歩を進め赤川付近まで至ったという、興味深い記述が見出される。当該部分はこういう内容である。(著者の現代語訳) 
 今朝六つ頃(早朝の4時半頃)亀田村のコミ川というところへ異人らが上陸し、引き網などをしていたが、その内の上位者とおぼしい者たち三名が四つ時(午前9時)頃、亀田村からさらに赤川村の方へ向かったため、警護のための人数を派遣して対応した。異人たちが途中で空腹を訴えたので赤川村の名主宅で昼食をとらせ、いろいろと説得したところ、漸く夕七つ(午後4時半)頃になって、帰途につき、亀田浜よりボートで帰艦した。以上亀田にて警護にあたっている佐藤大庫(*)より報告があったので、今後の取り締まりについて、さらに入念を期すよう指示した。(亜国来使記「箱館湊日米応接日記」昭和47年刊行所載 P25)

 赤川といえば,亀田川の上流の寒村である。そして、ハイネの絵が描かれたと推察される場所と方角的にも近い。しかも時間的には亀田村からの往復で7時間を費やしていることから、赤川村からさらに近くの丘陵へのぼってみるくらいの時間的余裕はあったとみてよい。赤川まで赴いた3人の米人たち。そして同行の警護の役人の存在もハイネ「雪の峯」の人物配置にも一致する。

 実は、沖の口でペリーらが松前藩の役人らと断続的に協議を続行し、また、ウィリアムズらが箱館山山麓付近を「散歩」していた頃、亀田から有川、茂辺地、当別付近の沿岸にはほとんど連日のようにペリー艦隊からはボートが出され、水深測量が実施されていた。また一部の水兵らはそれらの海岸に上陸し、引き網で漁をしたり、小銃で狩をしていた。それらはすべて「亜国来使記」に逐一記録されている。なお、通常、有川・亀田方面などの陸上の探索にあたっては港内に停泊中の艦船からボートを下ろし、それらの海岸に接岸しているのであり、箱館山山麓付近から陸行して亀田方面へ出向いたとケースは見当たらない。
 もちろん日本側は手をこまねいていたわけではなく、海岸警備の者たちがその都度密着して、不測の事態が起きることを防止した。測量についてはすでに幕府側が認めていたのであるが、外国人が自由に歩き回れる範囲(遊歩区域)については、まだ協議中であった。ペリー側は当初10里の半径の区域を希望、折衝では箱館付近の地理環境を考慮して7里まで要求をさげた。しかし松前勘解由は遊歩規定については自分の権限外とつっぱねたため結局交渉は下田での林大学らとの再交渉にゆだねられた。最終的に幕府と妥結に至った遊歩地域は半径5里(20Km)であった。箱館の市街地を中心として、東は汐首岬、反時計回りで川汲峠、峠下から当別のやや奥を結ぶ半円の範囲内にあたる。したがって、これら亀田方面での米士官らの上陸行動も双方に何等かの別途の了解があったもしれない。あるいは、黙許であったかもしれぬ。それにしても、約10キロも内陸に入り込まれることまでは想定されていなかったであろう。上記報告でも、現地の役人が相当狼狽し、一刻も早く帰還させるべく説得に努めている様子が行間にうかがえる。
 いずれにせよ、「亜国来使記」に記された米国側水兵らの亀田方面での活動の中で、この方面での内陸への立ち入りはこの
524日赤川の一件のほかには61日の「異人」5名が有川に上陸。うち2名が大野村入り口まで達したという件があるのみである。しかし大野村近辺からではハイネ絵の眺望をえることは方角の点で不可能であるから、対象からはずさざるをえない。 

5
24日の赤川進出が唯一、ハイネが絵をスケッチするチャンスであったことになる。

 この日、ハイネはどこにいたであろうか。彼らが実行寺に宿舎を与えられ、そこに移動したのが5月20日。そして実行寺を退去したのが6月1日。しかし、この全期間を通じて実行寺に起居しつづけたという証拠は残されていない。常識的には時折艦船にも戻ったであろうから、5月24日早朝から敢行された赤川方面の探索行動に参加した可能性はあるといってよかろう。
 
1.7 ペリー海図の検討 その1 
 ペリー艦隊日本遠征記に収録された海図は大型のものだけで14枚。下田、那覇、小笠原、そして箱館、室蘭など。そのなかに「Hakodadi 1984」と題する海図が含まれている。箱館港付近の水深が細かく記されているのみならず,箱館山、地峡部からさらに周辺部の陸地の概観、さらに周囲の山間部についてもカバーされている。その海図中に箱館港への入港にあたっての指針が詳細に記されている。この記述は、「遠征記」にも同じ内容がみえる。 
航海家が箱館港に入港するためには、箱館の岬を回り、同岬下の凪を避けるために岬から一マイル離れて進んだ後に、 大体北の方角、駒ヶ岳(Komagadaki)の鋭鋒に向かって舵をとり、大体北寄り北東の方向にあるその山の鞍部の東峰が退いて、中腹にある円い瘤の西側が見えるまで進まなければならない。
それから東方及び北方に船首を向け、常に 東方及び北方に進みながら、地峡の上にある砂丘(*)の中央に向かって舵をとる。。.....

 もう少し奥に入港することが望ましいならば、ちょうど少し東寄り南にあたって町の南方及び東方に傾斜している隆起線の彼方に見える低い岩山の峯に向かって航送せよ。
                 (ペリー日本遠征記(4) P82)
 ペリー艦隊日本遠征記が推薦する箱館港へ安全に進入する経路として以下の3つのランドマークが指示されている。
@ 駒ケ岳  (鋭鋒と鞍部)
A 地峡の上にある砂山
B 町の南方及び東方に傾斜している隆起線の彼方に見える低い岩山の峯

  @とAはほとんど自明である。もっとも砂山の方は今はない。現在の競輪場あたりがかつて砂山であったというのはもはや遠い記憶である。しかしBの低い岩山の峯とはどこを指すのであろうか。
 
 この疑問を解くかぎは同じ海図の中にあった。

 まず、海図の最上端と最下端に描かれているスケッチに着目してみる。近代のヨーロッパ人が残した海図には頻繁に登場する、この種のスケッチは対景図と呼ばれ、船の側からみた陸上側の目標物、多くは特徴的な山容を描くことで、船舶の航路の目安とすることを目的としている。
ペリーの  Hakodadi海図に登場するこの対景図は湾内に入る前に見える海岸の風景を2つのポイントから描写している。

 下端の図は立待岬を南側からみたもので、箱館へ向かって津軽海峡を北に向かって進んできた船が箱館山の西側を回りこむ前に最初に遭遇する光景を写し取っている。箱館山がほぼ真南から描写されている。頂上の標高も記されている。メートル換算346メートル。ほとんど正確な測量結果である。

 1.7 ペリー海図の検討 その2

 上端の対景図が問題の絵である。この光景は船が箱館山の裏側から回り込み、彼らがWhite Bluff と名づけた岬を回りこんで、箱館の湾内にはいりこもうとする、まさにその地点からのものと考えられる。White Bluffは現在の穴墹付近のことである。切り立った崖が海岸線に迫っており、あまりにも急峻な崖の垂直面には植物も生息できず、岩石が露出している。まさに「白い崖」である。さて、View Entering the Bay of Hakodade(箱館湾入り口からの光景)と名づけられたこの絵では左に駒ケ岳が遠景として描かれている。Komagataki とある。当時の発音の訛りがそのまま写されているようだ。標高1141メートル。これも正確である。
右に目を動かすと、手前に箱館山の北端が、遠景には1000メートル級の連山が描写されている。そして、箱館山の北端部分、先ほど述べたWhite Bluffから点線が上に向かって伸び、そこにRound Knobと命名された小高い山塊がみえる。その山塊は頂上部分がほとんど水平になっており、まわりの山容とはあきらかに異なった形状になっている。さらに上方は先述した1000メートル級の連山のうち特に高い2つの頂きの中間点で、いわゆる鞍部をなしている。Saddleと表記されているが正しい形容である。

 前後の文脈から、ペリー航海記が箱館港への進入のガイドとしてあげた3つのランドマークのひとつ、東方に傾斜している隆起線の彼方に見える低い岩山の峯とは、箱館の穴墹付近からの見たこの対景図に記されたRound Knobのことであることは殆ど疑う余地がない。

 ペリー海図の上でWhite BluffとRound Knobを直線で結んでみる。ペリー海図でWhite Bluffとされる地点は現在の外人墓地からさらに奥の市営墓地付近の突出部分である。この地点からペリー海図のRound Knobまでの距離は地図の縮尺によれば、7.8マイル。約13キロメートル。方位は真北から25度東である。この情報をもとに現在の2万5千分の一地図で Round Knobを推定することができるはずである。予想通り、庄司山がRound Knobである可能性が高い。後方にみえる1000メートル級の2つの山は横津岳と袴腰岳に間違いない。

 ここまでの検討から推定できること。ハイネがなぜ庄司山に登ろうと決意したのか、その謎の一部が解けたとような気がする。湾内に進入する船舶にとってのよい目標物となっているRound Knob。画家であるハイネにとって、箱館山から俯瞰する絵とともに、そのちょうど反対側から箱館の港を眺望する絶好のポイントたりうるRound Knob。是非ともそこを踏破し、そこからの景色を目の当たりにしたいと思うのは当然のことではあるまいか。

 
1.8  ハイネ:世界周航日本への旅
 さて、第1部を終えるに際して、本論の主人公であるハイネその人の文章に触れないのはあまりにも不公平であろう。実はハイネ自身が残した大部の著作が存在する。邦訳名「ハイネ世界周航日本への旅」(中井昌夫訳)という。そして、もちろん筆者もその著作の中の「第12章 箱館」は参照した。しかし、そこには、ペリー航海記、そして先述したウィリアムズの日記の内容を超えるような部分がないと判断していた。ところが、大変な思い違いをしていたことに後から気づかされる羽目になったのである。

 この論文の構想がある程度まとまった頃、筆者は函館市役所にある市史編纂室を訪ねた。室長の紺野氏には前に一度電話インタビューし、ハイネの「雪の峯」図が描かれた場所について先行する研究がないことは確かめていた。そこで当時の文献、史料にそのことについての記述がまったくないかどうか、最後の確認にうかがったのである。その結果、1.6に触れた「亜国来使記」とほとんど同一の内容を含む、さらに詳しい当時の記録としての「亜墨米利加船箱館碇泊中御用記写」、また当時の状況を民間人の立場から描写した「亜墨米利加一条写」という記録を閲覧することができた。
 結果的にはいずれの記録も、米国士官,水兵の亀田方面での活動については亜国来使記の記事以上の事実をもたらすものではないというのものであった。
 そして「なぜこの絵の背景説明がペリーの報告にも、その他の記録にもあらわれないのでしょう。意図的に隠蔽したということは考えられないのですか」という私の執拗な問いかけに対して紺野室長はこう答えてくれたのである。
「ペリーの報告といっても、滞在中のすべての活動を細大漏らさず記述しているわけではありませんからね。外交的、軍事的にあまり重要でないことは相当割愛していますよ。報告にないからといって意図的に隠蔽したと決めつけるのはやや早計かもしれませんね」
 ところがそのあとにとんでもないどんでん返しがやってきた。

 編纂室の清水研究員が親切にいろいろな資料を書庫からだして閲覧させてくれた中に、「外国人の見たえぞ地」という著作(越崎宗一訳編 1976年刊)があった。幕末から明治にかけて北海道を訪れた外国人たちの書き残した記録のアンソロジーである。ペリー関連ではウィリアムズ、モロー博士(植物学者)そしてハイネの日記も抄録されている。ハイネの日記は、上述した「ハイネ世界周航日本への旅」と同じ典拠である。したがってすでに読んでいるはずの内容。ところが、ぱらぱらと飛ばし読みをしていると驚くべきことに、こういう記述が突然目にとびこんできたのである。
 
二時間も威勢よく登った後、やっと平らな山頂に着いた。そこからは眼下に湾を見下ろす素晴らしい眺望があった。

 これはまさしく「雪の峯」図にぴったりの情景描写ではないか。あわてて前後の文章に目を走らせると、その日ハイネが亀田付近から狩猟にでかけた様子は大略以下のようであったことが判明したのである。
 
 箱館の役人を船上でのパーティに迎えてから数日後、(つまり5月31日か6月1日頃)ハイネは亀田川を遡って狩猟にでかけた。いつものように奉行所からの役人の護衛(もしくは監視役)が随行している。亀田(Kamida)という(多分赤川村の)村長の家で小休止したあと、ハイネは近くの山に登りたいと申し出た。警護の役人たちはしきりに止めたが、その理由は「山が非常に険しい」ことそして「熊が出没するから危険」であるという。ハイネは熊と聞いてますますその希望を強く主張したようだ。なにしろ2連発の猟銃を持参している。熊が出ればけっこうな獲物であるというわけだ。結局日本側が折れて、村長の裁量で四人の付近住民が道案内につくことになり、さらに3頭の猟犬、それに馬までつけてくれた。そして上記の通り「二時間も威勢よく登った後、やっと平らな山頂に着」き、そこからの「眼下に湾を見下ろす素晴らしい眺望」をおおいに楽しんだというわけである。

ハイネはその場所からの眺望を直ちにスケッチしたとは書いていないが、この「山頂」からの眺めが問題の「雪の峯」の図につながったであろうことは容易に推察できる。

実はハイネの筆はさらに山中で実際に熊が巣篭もりしているとおぼしき穴を発見し、火を焚いていぶりだそうとして失敗に終わった体験をおおいに語るのであるが、ここではこれ以上立ち入らない。さらに、ハイネはこうも書いている。

どこもまだ深い雪だった。私はすっかり気が楽になり、ひとつかみの雪を掻き集め、ガツガツと食った。(中略)口に含んだ雪の冷たさは、わたしに最高の気分を催すものだった。

  当時の気候が現在よりはるかに寒冷であったらしいことは、後にブラキストン(博物学者、ブラキストンの命名者)らの記録からもみえている。西暦で6月といっても、小高い山にはまだ残雪があったのであろう。そして、自分が登った山が「庄司山」と名づけられていることを知る機会のなかったハイネは、この実体験に基づいて、自分が極めたこの山頂を「雪の峯」と名づけたのであろう。
ともあれ、ハイネの絵に描かれたのに酷似した人物配置と状況設定がハイネ自身によって語られていた!のである。
 
 ところで、先に書いたように、筆者が前にハイネの「ハイネ世界周航日本への旅」を読んだときになぜこのくだりを読み落としたのかという点に触れておきたい。実に筆者の怠慢であった。問題の箇所は「第12章 箱館」に続く13章に収録されていたのであるが、訳者のつけた章の見出しが「第13章 日本との別れ」とあったため、箱館に関する記述は12章で完結していると思い込んでしまったのである。あらためて清水研究員のご親切に感謝するとともに、歴史史料を読む際の基本に忠実でなかった不明を恥じ入るばかりである。
 

  (以上で 第1部 了)

(以下次号)
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