エッセイ はこだての幕末 その2

トラピスト修道院招致に関わったフランス軍人たち

箱館戦争の最中に語られたフランス人たちの夢

 

1. <デュプレックス号とプティトアール艦長>
2. <北海道とカソリック>
3. <北日本キリスト教復活史>
4. <アンブリュステル師>
5. <堺事件一周忌ミサ>
6. <函館とカトリック>
7. <資料の信憑性について>
8. <トラピスト修道院招致の目的>
9. <榎本からウトレー仏公使への秘密書簡>
10. <関係者たちのその後>
11. <あとがきにかえて>

              

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  1.<デュプレックス号とプティトアール艦長>

プティトアール艦長19682月仏軍艦デュプレックス号の艦長として来日、翌年6月離日までの期間、日本における仏国の駐在武官の一員として活動した。同艦長が日本に滞在していた時期はちょうど戊辰戦争の時期に重なっている。同艦長は、仏国公使ロシュに付き添って徳川慶喜に拝謁し、またロシュの宮中参内にも同行するなど、当時の激動の時期を直接目の当たりにした。しかし、同艦長が明治維新史の中で固有名詞をもって登場するのは、王政復古直後の攘夷事件として有名な堺事件の仏側当事者としてである。艦長はこの事件で部下11名を瞬時にして失っている。日本到着後わずか1月後の奇禍であった。

そのプティトアール艦長が遺した日記、書簡がパリで刊行されたのが1906年。同艦長の没後16年が経った時点である。そして、その約半分を占める日本関係の記述が邦訳刊行されたのが1993年,訳者は森本英夫氏。

さて、上述のごとく、プティトアール艦長が日本で遭遇した最大の事件に因んで、邦訳書名「フランス艦長のみた堺事件」とされたこの書には、箱館戦争に関連する、今日までの研究史の空白を埋めるような、興味深い記事が散見される。

 たとえば、同日記1869年1月21日付けの一節である。ちなみに18691月とは、函館が榎本率いる徳川脱藩軍(以下特別な場合を除き「榎本軍」または「脱走軍」と略記)によって占領されてまだわずか2か月目という時期である。そして、徳川幕府の要請に応えて派遣されてきた仏軍事顧問団から脱走したブリュネ大尉を筆頭とする10名の仏軍人達もその中にあったのである。一方でプティトアール艦長はその乗艦であるデュプレックス号とともに横浜に駐留していた。

日記は、仏艦サンライズ号が前日に箱館から帰還したこと。ロア艦長が榎本から朝廷あて及び仏英公使あての書簡を携えてきたこと。榎本はフランスの仲介を求めているが、書簡のなかでは、「蝦夷を徳川家の封土として与えること、徳川昭武がその主君として派遣されるべきこと、榎本ら脱藩家臣団の謝罪が認められること」などが盛られていること。フランスにとっては、仮に新政府と榎本軍との仲介の労をとるにしても榎本軍に加わっているブリュネ大尉の存在が、その障害になりかねないことなどを記したあと、やや唐突にこう続ける。

 布教者たちは信仰の自由を宣言し、島にトラピスト派の人々に指導された近代的な農場を建設するというブリュネ氏が彼らに示した約束に魅了されている。同時にわが国の軍事使節団の隊長はルッサン氏に、イギリス人技師ガーワーを更迭したので、船を離れて、蝦夷の炭坑の開発の指揮をとりにくることを申し出ている。 

この短い記述はいくつかの疑問点を含む。まずこの情報はどういう経路でプティトアールにもたらされたのだろうか。そして、ここでいう「布教者」とは誰のことを指しているのだろうか。「軍事使節団の隊長」とは文脈からブリュネのことを指すと思われるが、ルッサン氏とは何者か。

最初の疑問点。この情報の入手経路であるが、やはり、日記の書かれた前日に帰着したサンライズ号の乗員あるいはロア艦長自身からもたらされた情報であると考えるのが自然であろう。では、この記述がプティトアールの直接の伝聞である可能性は全くないのだろうか。以下検証してみる。彼自身が箱館に赴いたのは都合2回だが最初は68年9月であり、この時点ではまだ旧徳川幕府艦隊は江戸湾に居座っている。艦隊が品川沖を出航し、北を目指すのは10月4日(旧暦明治元年8月19日)のことである。2回目は69年の2月から4月にかけてのことであるが、日記記載より後のことであるから、これも無視できる。

第二の疑問点、「布教者」とは誰をさすのであろうか。一般的には当時日本に派遣されていたカソリック系宣教師(トラピスト修道会はカソリック系であるから、プロテスタント諸派などは除かれる)たちと考えられるが、さて、函館に当時仏人のカソリック宣教師が駐在していたという事実があるのだろうか。いたとしても、果たして軍事占領の当事者であるブリュネらとの接触の可能性があるのだろうか。 

最期の「ルッサン氏」であるが、たしかに、プティトアールの日記にはルッサン氏という固有名詞が何回か登場する。しかし、このルッサン氏、経歴が詳らかでない上に、プティトアールの日記による限りはジャーナリストのような職業のようで、どうも、ブリュネが招聘しようとしている人物とは別人のようである。この点については今回はこれ以上の追跡はしない。

 本稿での筆者の問題関心は、プティトアールが1869121日付けの日記に書きつけた、トラピスト招致という課題を巡る「布教者」と仏「軍人」の関係にあてられる。トラピスト修道院が渡島当別の地に実際に設立されたのは1896年のことである。それより27年を溯る箱館戦争の真っ最中にどのような経緯が布教者とブリュネの意見の一致をもたらしたのであろうか。

 探索の第一歩は、プティトアールのいう「布教者」の特定に向けられた。

2.<北海道とカソリック>

「北海道とカトリック」という書が1983年札幌で刊行されている。

この著作の中に、「トラピスト大修道院の創設」という節がある。ここに函館へのトラピスト会招致の経緯が簡潔にまとめられている。以下その叙述にしたがう。

ベルリオーズ司教が函館司教区の教区長をつとめていた1899年(原文のまま:1894年の間違いと思われる)にトラピスト修道院の招致計画が具体化した。もっとも招致の構想自体はかなり以前からパリ外国宣教会派遣の宣教師の頭にあったらしい。1867年当時函館で宣教にあたったアンブリュステル師、後には北緯代牧区教区長オズーフ司教らが実際に招致を計画したが、当時の日本政府による種々の制限により実現にいたらなかった。実現への道が開かれるのは1894年以降の「信教の自由」への動きが確認されて以降のことである。(修道院の創設は1896年−筆者注)

1867年という年は箱館戦争の1年前である。時期からみて、プティトアール艦長の記事にある「布教者」とはアンブリュステル師とみて間違いなさそうである。しかし、「招致を計画」したといっても具体的にその時期も、方法も述べられてはいない。トラピスト招致とブリュネを結び付ける記事はこの「北海道とカトリック」にはみあたらない。

 

3.<日本キリスト教復活史>

「日本キリスト教復活史」という著作は、キリスト教禁令発布後250年にわたる日本のキリスト教の通史を教会側の資料を中心に詳述した大著である。著者は日本にも滞在経験のあるフランシス・マルナス。刊行は1896年。日本語訳は久野 桂一郎氏、邦語版刊行1985年。日本の近代におけるキリスト教の歴史に触れる際は必ず参照される著作である。そして、「北海道とカトリック」はその記述の相当多くをこの大著に負っている特に箱館戦争の関係記事はほとんどフランス側の資料に依ったとわざわざ注記してあるほどである。その「日本キリスト教復活史」も相当なページを箱館戦争に費やしているというのに、当時の箱館におけるアンブリュステル師の活動については実はほとんど語っていないのである。ブリュネに関する記事も決して同情的ではなく、むしろ「ブリュネ大尉とその同僚の軽挙は一般フランス人に対して、ひいては宣教師とキリシタンにとって迷惑千万なことだった」とまでいうのである。(同書391)。この評価は箱館戦争当時のフランスの外交方針に沿っているというということもできる。また、執筆時期の関係から、同書が1895年までしか対象としていないこともあってか、トラピスト修道院についてもわずかに注記で触れているのみで、招致までの経緯についての記述もまったくみあたらない。

しかし、アンブリュステル師とトラピスト修道院の関連、ひいてはブリュネ大尉との接触については沈黙を守った「復活史」にも下記のような記事が見出される。間接的とはいえ、榎本軍と宣教師のあいだに何らかの交流があったことを示唆するような記事である。 

徳川軍の生き残った者は海路か陸路で江戸に送られ、そこで裁判をうけることになっていた。勝利者の最初にしたことの一つは徳川軍が一時廃止していた切支丹禁制令を法廷で再び取り上げたことだった。徳川軍はフランスの宣教師に対し、勝った場合について途方もない約束をしていた。宣教師はそこで従来よりも孤独となった。彼らの最初の信者で一年間極めて熱心だった者でさえ、恐怖に襲われているらしく、どうしても教会に連れ戻すことができなっかった。

 前後の文脈からみて、榎本軍が箱館占領後に切支丹禁令を廃止、すなわちキリスト教の信仰を自由化したことを指すことはほぼ間違いない。しかし、「途方もない」約束とは果たして、蝦夷政権(地方政権としても未熟であることを承知の上で、軍事上の呼称としての「脱走軍」「榎本軍」のほかに政治権力としての呼称を必要とする場合に榎本が使用した「蝦夷政権」を便宜上の理由から採用する)、が切支丹禁令を解き、信教の自由を保証するという方針をもっていたということのみをさすのであろうか。この記述部分に続いて、アンブリュステル師の告白としてこういうくだりがある。

我々はここで平穏です。戦争について、もはや残っているのは廃虚だけです。船も隊もほとんどいなくなりました。聖職については、我々は相変わらず完全な無為の状態におかれています。....私たちの希望は海峡の向こうにあります。

なにが、アンブリュステル師をここまで絶望的にさせたのであろうか。「復活史」を含め、後述の「函館とカトリック」その後継書もおしなべて「海峡の向こう側」の「希望」とはなにを意味するのかについて、解釈を提示できていない。なかには、691月にアンブリュステル師が戦火の災厄からの復興が遅々として進まない箱館を捨てるかのようにしてこれも開港場の一つである新潟へ向かったことをもって、「海峡の向こう側」=新潟と説く書もあるが、説得力に乏しいといわざるを得ない。

  

4.<アンブリュステル師>

アンブリュステル師は1866年パリ外国宣教師会から日本へ派遣された。同師が長崎の地を踏んだのは同年9月。当時の長崎には「キリスト信徒の最発見」で当時のカソリック世界を文字どおり震撼させたプティジャン師が日本管区長として駐在していた。禁教以来250年の信仰を密かに守りとおしたという浦上の隠れ切支丹の発見からまだ1年半という時期である。アンブリュステル師は翌年1867年にはムニクウ師とともに、開港場でありながら、久しく宣教師不在であった箱館に赴任を命ぜられる。この時からおよそ2年強のアンブリュステル師の箱館における布教活動が始まる。同師にとって結果的には布教の実りの少ない2年間であった。その原因を同師の個人的資質に帰するのは公平を欠くといわねばなるまい。しかし、どういうわけか、キリスト教会関連の書はアンブリュステル師の箱館駐在時代の布教活動について、内容、成果ともにほとんど触れていない。ただ、確かなことはこの期間の前半は旧幕府から新政府への移行期にあたり、従来のキリシタン禁令があらためて強調された時期にあたっていることである。新政府は宣教師たちの期待を裏切って、キリスト教の禁令を再確認した。単に再確認したのみではなく、積極的な弾圧に乗り出しさえした。長崎における信徒の弾圧や処刑をことさらに宣伝して市民達がキリスト教宣教師に接触することを強く妨害したりもしている。

そしてアンブリュステル師の箱館在任の後半にあってはそのほとんどの期間が新政府と榎本軍のいわゆる箱館戦争の戦火の中にあったことである。

禁令を掲示した高札は榎本軍の入城とともに撤去されたという。榎本は箱館の占領にあたり、特にここが開港場であり、榎本政権に対する諸外国からの支持の獲得が緊急の必要事とみなしていた。そのためには、むしろ積極的に「信教の自由」の保証をアピールしたものであろう。しかし、榎本軍と新政府軍との間で準戦争状態が続く中で、いかに禁令が解かれたとはいえ、長崎のような長いキリスト教の前史をもたない箱館市民にとってキリスト教への接近に二の足を踏むというのも無理はなかろう。

「復活史」の中でも、宣教師の主な仕事として港内に停泊中の仏艦や英艦の乗組員に対して礼拝、祈祷を司ることにあったと認めている。裏を返せば、一般市民に対する布教活動はほとんど進んでいないということであろう。実際、「復活史」のみならず他の書も一様に、この期間のアンブリュステル師らの活動については多くを語らない。むしろ紙数の多くを、箱館戦争の顛末に割いているのである。

 5.<堺事件一周忌ミサ> 

そうした時期にあって、興味深い出来事が、プティトアール艦長の日記のほうにみえる。      

196938日月曜日、箱館にて....堺の虐殺の一周忌にあたる。アンブリュステル神父がミサをあげ、この件について為になる講話をしてくれた 

アンブリュステル師によって、堺事件一周年のミサが執行されているのである。もちろん、直属の部下11名を失ったプティトアール艦長のほうからの依頼によるものであることは前後の事情からほぼ間違いなかろう。すくなくとも、これで693月時点でのプティトアールとアンブリュステル師の接触は裏付けられた。そのミサに当時箱館にいたはずのブリュネらが参加していたかどうかの記録はない。しかしブリュネらへの姿勢から考えて、大いに可能性はある。

実は、アンブリュステル師、プティトアール艦長ブリュネ大尉の三者が同時に箱館に滞在していたのは、プティトアール艦長とその乗艦デュプレックス号の2度目の箱館派遣となった1969年2月2日から4月7日までのわずか2か月に過ぎない。新政府軍の攻撃の始まった5月20日時点で箱館に停泊していた仏海軍の船舶はデュプレックス号の僚艦コエトロン号であり、アンブリュステル師やブリュネをはじめ当時の箱館在住フランス人の避難、収容にあたったのも同艦である。プティトアール艦長率いるデュプレックス号は当時横浜に待機しており、コエトロン号で「護送」されてきたブリュネらを受け取ると、ウトレー公使の指示により、あわただしく日本を去ることになるのである。ブリュネ大尉をインドシナに護送する任務を果たすためであったが、同時にプティトアール艦長にとって15か月に及ぶ日本駐在もこの時を持って終わる。

1969年6月19日。プティトアールはその日記の最後締めくくるにあたって、こう記している。

マラン、アンブリュステル、モニク神父達は徳の高い、活動的な人たちである。わたしは (中略) あの気の毒な布教者たちのこと、あの哀れなキリシタンたちに思いを馳せながら、ひどく胸が痛んだ。

 同時に、彼は自分が護送することになったブリュネら脱走士官達に対する配慮も決して忘れない。 

昨日、ブリュネ氏と彼の仲間が碇泊地に姿をみせたことによって生み出された当惑のために、出発の時期が早められることが決められた......一旦湾の外に出るとわたしはブリュネ氏を連れてくるように頼んだ。そして、彼に、きっとあなたが理解してくれるであろう感情にうごかされてしまうといけないので、航海中は日本での出来事が問題とされるようなことがないように願いたい。あなたとあなたに従った人たちに出来るだけ不愉快な思いをさせないように,できる限りのことをしよう。

 

6.<函館とカトリック>

さて、依然として、カトリック教会側の資料にブリュネ大尉とアンブリュステル師との接点を裏付ける記述が見出されていない。「北海道とカトリック」が参考文献としてあげている書籍の中で、この辺の事情を解く鍵が見つかりそうな書は1959年に函館カトリック教会が開基100年を記念して出版した「函館とカトリック」である。多分、信者向けを中心に小部数しか印刷されなかったもののようで、国会図書館でやっとみつけることができた。この本を読むと「北海道とカトリック」、を始めとする後代の日本カトリック教会史はこと箱館の布教にかんしては、ほとんどをこの書に依拠していることがわかる。さすがにアンブリュステル師についても一節を設けてその事跡を伝えている。もっとも、トラピスト関連の記事は、最終的に招致を実現したベルリオーズ司教の節ではじめて触れられるのであるが。

この書にはアンブリュステル師からプティジャン教区長にあてたとされる「トラピスト招致」の手紙は67年から68年にかけて出されたと記録されている。そして、ちょうどプティトアール艦長の日記に符号する記述もみいだされる。問題のブリュネに関する記事も下記のように出てくる。

当別トラピスト修道院の由来:
トラピスト修道院設立のことはかなり以前からミッション会宣教師の頭にあった。
アンブリュステル師は1867年から68年にかけてプティジャン司教に宛てた手紙のうちで、この地にトラピスト修道院を設けることについて話を出している。
箱館戦争で幕軍に荷担して活躍したブリュネ大尉はア師のこの考え方を是認し、もしも自分が援けている幕府党が北海道の地に独立の国家を建てることに成功するならば,ア師の考えを支持しようと約束した。勿論この約束は幕府党の敗北で実現されなかった。

 

7.<資料の信憑性について>

この記述で、プティトアール艦長の日記の記述が一応裏付けられたといってよい。しかし「函館とカトリック」はこの記述がどういう原資料に拠っているのか、何も示していない。これが学術書なら、公知の事実でない事柄については、その典拠を示すのが普通であろう。この本の性格が、一般信者むけ啓蒙書であることと、著者には学問的動機がない場合にこうしたことはえてして起こりうる。それでいて、一度書かれてしまうと、後続の書はそれをほぼ無批判に引用(しかも引用していると断ることもしない場合がある)していく。先に触れた「北海道とカトリック」(1983年)そして、「北日本カトリック教会史」(1970)もその例外ではない。一方、私の知見の範囲内では、維新関連の歴史書でこのことを取り上げたケースは他に見当たらない。これらのキリスト教関係者による著作が維新史に携わる研究者の目にまったく触れることがなかったとは考えにくい以上、この差違はどこからくるのであろうか。

アンリブリュステル師のプティジャン宛ての「手紙」が「函館とカトリック」の執筆当時利用可能でそれが参照されたというのであれば、もっとも強い信用力をもちうる。しかし、「函館とカトリック」はそうした「手紙」の所在を明記していない。

もっとも、そうした手紙が実在したのであるなら、同じフランス人司祭の手になる「復活史」にこの話が採用されていないのは不思議である。「函館とカトリック」がその多くを負ったと思われる「復活史」(1896年刊行)には先に延べた通り直接該当する記述がない。プティトアールの日記がフランスで刊行された時期は艦長の死後の1906年であるから、「函館とカトリック」がそれを典拠にした可能性が皆無とはいえない。しかし、「函館とカトリック」の記述のほうがブリュネとアンブリュステル師のやりとりに関してはあきらかにより具体的で詳細である。結局「日記」が伝聞ではあるが、同時代の記述である以上、その伝聞の根拠となる何らかの事実が当時すでに知られていたと考えるべきであろう。その事実を記述した記録が別に存在し、それを根拠に「函館とカトリック」が書かれたと考えるしかない。もちろん、アンブリュステル師が書いたとされるプティジャン師あての「手紙」が存在すればそれが第一級の原資料である。「復活史」の執筆段階でそれがすでに失われていたか、あるいは存在してはいたが、取り上げられなかっただけなのかは不明というしかない。

「函館とカトリック」によれば、アンブリュステル師はまとまった形では自身の活動の記録を残していないのみか、当時のことを語ることさえもまれであったとされる。しかし、「復活史」の方ではアンブリュステル師の「書簡」からの引用と明示した記事が4件採用されている。当時の宣教師たちはパリの宣教会本部に対しては相当頻繁に報告書を送っていたことが知られている。問題はそれらが学術目的であっても容易には外部に公開されていないことである。「メルメ・カション」(箱館に最初に赴任したカソリック司祭、後ロシェ公使付きの通訳官として幕府の親仏派形成に尽力)の著者、富田仁氏も自身がパリ外国宣教会を訪れた際の経験から、宣教師達の本部への報告書の閲覧を拒絶された経緯を述べている。

ちなみに、国会図書館に「プティジャン司教書簡集」という純心女子短期大学長崎地方文化史研究所が編んだ書籍がある。しかし、この書簡集はプティジャンからの発信のみを対象にしていて、肝腎のプティジャン「宛て」の書簡は収録されていない。念のためプティジャン発信の書簡にトラピスト問題に関する「アンブリュステル師」への返信がないかと探してみたが、徒労であった。また、別に公刊されている「パリ外国宣教会年報」にも関連の記事はみあたらない。

それにしても、三者、ブリュネ、プティトアール、アンブリュステル師を「トラピスト」の一点で結び付けた事情は何であったのか。依然として謎は遺されたままである。

8.<トラピスト修道院招致の目的>

ここでは、トラピスト招致の目的は何であったのかという論点に移る。この点では、プティトアール「日記」とカトリック関係の文書の間に大きな相違が見られる。しかも、後者についても、それぞれが微妙に異なった主張を持っている点が特徴的である。カトリック系三書籍はそれぞれトラピスト招致がベルリオーズの意図によるという点では同じだが、その趣旨としては下記のようにいう。なお、いずれも、最初の提唱者であるアンブリュステル師自身がどういう主張をもっていたかについては何も触れていない点が奇妙である。

「函館とカトリック」諸修道会の招致と布教地の分担:
布教活動の進展と収穫の増進とを図る目的
で、ベルリオーズ司教は明治
29年にシトー会、いわゆるトラピスト会に修道士の派遣を要請した。こうして、日本に始めて観想修道会が渡来し、まず当別に修道院が創設された
「北海道とカトリック」トラピスト会の招致計画:
ここに、布教の強化を図り、著しい効果を期待するため、有力な祈祷のバックの必要が痛感されて、トラピスト修道院の招致計画が具体化したのである。
「北日本カトリック教会史」
司教がトラピストの招致を決意するに到った主な動機はアイヌ部落の教化とトラピストの修道生活を通して、日本の伝導に神の恩寵を求める必要と、その模範によって教外者に感化を与えるためだった。(炬火 s11.1)といわれている。

 いずれも、トラピストが観想修道会としての立場から、直接には宣教活動には従事しないものの、カソリック教会の布教活動を側面から支えるという精神的バックボーンとしての役割が期待されているということが共通の要素として伺える。布教活動を旨とする外国宣教会の立場からの発言である点を割り引いても、少なくとも、修道会、修道院という禁欲的、超俗的な活動が、在俗の人々に対するある種の啓示的役割を果たすことが期待されているとはいえそうである。しかし、この理由とするならば、なぜこの時期に「函館」を候補地としたのかについて、説得力のある説明とはなしにくい。

 一方で、プティトアール「日記」は完結ながら明快である。 

布教者たちは信仰の自由を宣言し、島にトラピスト派の人々に指導された近代的な農場を建設するというブリュネ氏が彼らに示した約束に魅了されている。

 ここでは、信仰よりも、模範的な西洋式農場の実践者としての「トラピスト」が望まれているのである。たしかに、いまもトラピストといえば、人々は、戒律の厳しい、沈黙を旨とする厳律シトー派の修道院生活を想う前に、「バター」をそして、「クッキー」を思い浮かべる。日本で最初に乳牛を導入し、乳製品を生産したのはここ、トラピストであったとされる。

 ここまできたとき、北海道に近代的な農業経営を導入することを最初に言い出したのが、ブリュネ属する榎本指揮下の「蝦夷政権」ではなかったかと思い当たった。トラピスト招致はそもそも、蝦夷政権の首魁榎本武揚の発案ではなかったのかという想像が私を捉えたのである。現段階では、想像としかいえない。同時に今後の探索を導く仮説でもある。

 仮にトラピスト招致が榎本の発案だとするならば、後代の宣教師達が、もっぱら宗教的理由をあげてトラピストの招致に尽力したとされることが別の意味をもってくる。明治新政府に反逆し、賊軍とされ、捕らえられた榎本の計画は彼ら宣教師達の記録から消し去る必要があったのではなかろうか。したがって、アンブリュステル師は、トラピスト招致の最初の提案者としては記録されたが、その本当の意図については、注意深く伏せられたのではないのか。

 9.<榎本からウトレー仏公使への秘密書簡>

榎本が短命に終わった「蝦夷政権」の治世に関する方針の中で、植民、開拓事業に強い意欲を示していたことはよく知られている。

しばしば例にあげられるのが、七重村におけるプロシア人ガルトネルにたいする農地の長期貸与契約の件である。この事件は榎本軍敗北後、新政府が再交渉し、多額の違約金を払って買い戻しをするという問題に発展し、榎本の失策のひとつに数えられることになるのだが、それにしても、榎本の北海道開拓に賭ける意欲は理解できる。赦免後の北海道開拓史出仕後の榎本の経歴にもその意欲はますます濃く投影されている。北海道における近代的農場の開発(榎本農場)さらには海外植民事業(ニューカレドニア、メキシコ移民事業など)などがその例である。

 さて、箱館戦争当時の榎本に話を戻そう。ここに、榎本が当時のフランス公使ウトレイにあてて出したとされる秘密書簡がある。榎本軍の箱館占領後、箱館港を訪れた英仏海軍の艦長に託されたものである。当時、榎本は箱館占領後の新政府との戦争状態において、榎本軍を国際法にいうところの交戦団体として承認させることを強く希望していた。その意味で、外国公使団(英、仏、蘭、米、普,露)の意向をうけて箱館へ回航してきた英仏艦の艦長に対して、細心の注意を払ってその応接にあたっている。そして、両艦長に榎本から朝廷への「嘆願書」の取り次ぎを依頼するのである。この嘆願書は榎本ら旧幕臣が北海道をめざしたやむを得ない事情を述べ、北海道を徳川領地として下賜されることをあらためて「嘆願」したものである。ところで、その「嘆願書」とは別に、榎本は英国公使パークスと仏公使ウトレイあてにそれぞれ別個の書簡を認めている。原文が仏語であることや、表現の特殊性から、ブリュネが執筆したか、もしくは相当程度に関与したとみられる書簡である。そしてウトレイ公使あて書簡の中で、榎本は「蝦夷政権」が北海道の開拓・植民事業に大いなる意欲をもつのみか、それを実践するに足る有為な人材を傘下に多数擁していると述べる。さらに続けて、 

この国内資源(フランス式講習をうけた日本人達をさす)と、さらになかんずくわれわれに 奉仕するこのフランス人の良心的で根気のよい指導をもってすれば、われわれは、必ず やその多難な仕事を達成することができる。(とくに絶対的信頼を寄せるフランス人首領ブリュネについて)彼は軍事的活動におけると同じく、植民・開拓事業においても、われわれを指導する。彼は、いままでわれわれには知られていなかった限界を一歩ずつ開く。彼はわれわれを急速に開化させるため、精神的な面でも、物質的な面でも、すべての新しい事物を理解させてくれた。 (石井孝:「明治維新の国際環境」による)

とブリュネの軍事面以外の分野での才能を高く賞賛するのである。

 榎本が、あえてこの時期にウトレイ公使にこうした書簡を送った真意は充分に解明されていない。ウトレイ公使は前任のロシュの親幕府路線と決別し、対英協調路線のもとで榎本ら脱走軍に対し距離をおく態度を鮮明にしてきており、特にブリュネの行動に対しては強硬な非難の姿勢を明らかにしていた。したがって、いまさら榎本が北海道における「蝦夷政権」への支持や援助を要請したところで何らの期待ももてないのは明らかであった。

 しかし、本稿の目的からすると、この書簡で述べられていることは重要である。少なくとも、対外的には榎本が「開拓・植民」事業についてもブリュネの指導や助言を受けていると認めているという事実である。従来の箱館戦争に関する研究は軍事的側面に比重が高く、それはそれでよいとしても、一方で民政面での研究がややおざなりにされてきたと思われる。この書簡によって、初めて軍人ブリュネと榎本「蝦夷政権」の民政面での協力関係が確認されたのである。榎本は自身の北海道開発のビジョン、特に農業開発について、ブリュネの知識を活用しようとし、相談をもちかけていたことであろう。ブリュネは榎本らとの議論を、旧知のアンブリュステル師らに伝えたことは充分考えられる。箱館における布教の進捗の遅れに業を煮やしていたアンブリュステル師にとって、近代的農場の実践者にして、カソリック伝道の大いなる支援者たるトラピスト招致へと議論が発展することは自然の成り行きであったろう。ブリュネ大尉とアンブリュステル師、いずれがイニシアティブをとったかを解く材料は残されていない。しかし、こうした背景が明らかになったことで、「函館とカトリック」が伝えるアンブリュステル師からプティジャン司教へカソリック招致に触れた手紙が送られたという記事の信頼性は高まったとみてよいのではないか。

10.<関係者たちのその後>

上磯町当別の地でトラピスト修道院が発足したのは189610月である。箱館戦争終結からすでに28年の歳月が経っていた。発足に当たっては、1896年という年が二十六聖人殉教の年から数えて300年目の1897年の前年にあたることが関係者に広く周知されたようである。 28年前の関係者達はこの時をどこで迎えていたのであろうか。

 アンブリュステル師はすでに1874年日本を去り、95年パリ外国宣教会付属神学校の校長を拝命したが、翌年18961月、53歳の生涯を閉じた。みずからが発議したトラピストの完成が間近に迫っているという事実をアンブリュステル師が聞き及んでいたかどうかは記録がない。

プティトアール艦長はすでに1890年にこの世を去っている。

ブリュネ大尉はトラピスト修道院発足時まだ存命であった。1898年、軍事顧問団におけるかつての上司シャノワンヌが陸軍大臣に就いた際、官房長官に抜擢され、その後少将まで昇進、191173歳という当時としては長寿を全うした。

 榎本武揚は五稜郭陥落後、新政府によって捕らえられ、東京で他の幕僚らとともに収監。3年後に大赦をえて出所後、黒田清隆(開拓史長官)の推薦による北海道開拓史出仕を皮切りに新政府の役人として、現役に復帰し、後、外務大臣、駐露大使などを歴任することになる。復権後の榎本は記録にある範囲で少なくとも2回、すでに「箱」を「函」と変えた函館を訪れている。一度目は出牢後わずか4か月目の1872年5月、北海道開拓史四等出仕をうけて最初の任地赴任の途上であった。二度目は対ロシア国境確定交渉の全権代表として渡露,滞在3年に及び、帰途シベリア横断旅行を経て、ウラジオストックから小樽を経て東京へ戻る帰途のことである。時に187810月のことである。1896年当時は農商務大臣として活躍中。翌年3月足尾鉱毒事件で辞任、以後官界に復帰することなく、1908年没。

この4人のなかで箱館戦争当時の経験をまとまったかたちで後世に残したのは、知りうる範囲ではもっとも早世したプティトアール艦長だけである。

11.<あとがきにかえて>

1998年の初夏。筆者はトラピスト修道院を訪れた。修道院関係者からトラピスト修道院の設立の経緯を直接にうかがうことが目的であった。結果的には、トラピスト修道院招致にアンブリュステル師もしくはブリュネ大尉が何らかの関わりをもったのではないかとの筆者の推測を補強する新たな発見はえられなかった。しかし、トラピスト修道院自体の歩みについてはその設立当初の労苦や酪農を始めた当時の思い出などを中心に多くのことを教えていただくことができた。

実はは、この訪問に先立って、修道院に榎本の揮毫が遺されているということを聞き及んでいた。もしも、この揮毫が榎本自身の意志として修道院にもたらされたものであったなら、筆者の推測の裏付けになるのだがと多いに期待していたのである。しかし、説明によれば、箱館戦争当時、トラピスト修道院近在の有力者が何かの縁で(多分に感謝状とでもいった意味合いで)榎本から受領していたものを、トラピスト修道院設立後に「これはトラピスト修道院においておく方がよかろう」と寄付したものだそうである。残念ながら筆者の想像は外れたが、寄付した有力者がなぜトラピストと榎本を結び付けたのか、謎はまだ残されたともいえよう。     (了)