まず、「ビューティフル・ドリーマー」とはどんな映画なのか?
…私が「感動研究室」における「冒険型の人にオススメなもの」に書いた通りである。
それ以上「どんなストーリーか」に言及すると、手品の種明かしと同じことでつまらないので、ここでは語ら
ないことにしたい。(というより、詳しく知りたい人はレンタルビデオ店に行って借りて見よう!!。)
とにかく、この作品は、細かい伏線と示唆に富んでいる。(「何だろこれ?」とか、「モトネタわからないよ〜」とか思った 人も多いのではなかろうか。)非常に深い作品である。
このページは、完全に「ビューティフル・ドリーマーを見たことのある人」にしかわからないページ
になってしまうけれど、どうかお許しいただきたい。
細かいところまで解析するためフィルムブックまで買って(笑)、精一杯の解析をした結実としてのページである。
「見たけどどうもよくわからない」という人々の手助けになれば、幸いだ。
では、始めます。
学園紛争真っ最中の1969年ころはやった、「風」(歌っているのは“はしだのりひことシューベルツ”) という歌の歌詞をほとんどそのまま用いたもの。
吉川英治の「宮本武蔵」に出てくる有名な言葉。
源義経は、実は平泉で自害せず、満州まで舟で渡りその後ジンギスカンになった、という 伝説がある。それのパロディか。
ギョエテ、はゲーテのこと。「ゲーテ」の発音に慣れている日本人には少々聞き取りづらい。
…おそらく、夢邪鬼による夢世界の運営行為の一環が表されたもの。このシーンと同じかたちの人形は、のちのシーン でも見られる。―――いわば、夢世界を形作るためのハリボテみたいなものか。
これは、よくある著作権表示に他ならない。のちにこのマークは、夢世界を飲み込むべくブタが覚醒する際に 消えてなくなる。言わば、夢邪鬼の著作権を表したものか。
とてもとても聞き取りにくいが、重要なセリフなのである。このセリフにより、夢邪鬼は わざわざ戦車をプールの中にぶち込んだというわけ。一回みただけではどうしてもわかりにくいよね。
映画というメディアを通して自分が「客として」シーンを見渡している、ということの 強調だそうである。いやはや、こんなの、言われなけりゃわからないってば〜。
エンゲルスの名言「歴史の事件や人物は、いわば二度現われる。 一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」のパロディのようだ。
よく見ないとわからないことだが、この映画のエンディングでうつる校舎は二階建て。要するに、 現実の上では本来三階であり、この夢世界では四階建てで、夢から戻ったはずの世界で 三階でも四階でもなく二階になっている、ということ。押井は、最後の夢邪鬼のぼやきとともに、 本当に夢世界から戻ったのかどうかということを暈したかった(謎を残したかった)のかもしれない。
勿論モチーフは浦島太郎なのだが、もう一つ―――古代インド人の世界観を表している。ヨーロッパの人々が 「大地はずっと平坦で、途切れた先には滝がある」と考えたように、古代インド人は、「大地は巨大な亀の甲羅に乗った巨人が支えている」と 考えていたそうだ。因みに、彼らは地震の説明もこれでつけていた。さすが頭脳明晰なインド人。(笑)
フランスの詩人ヴェルレエヌ(1844〜1896)の詩より抜粋。昔読んだことがあったのですが、詳しいモトネタ は忘れました(哀)。誰か教えてください。m(_ _)m
これもちょっと気づきにくいのだが、彼はこのときまさにピンと来たのだ。(こんなに深刻な面持ち になるのも当然である。) どういうことなのかというと、彼がいくらひねってもちょろちょろとしか出なかった水道が、ラムが ひねった途端ジャージャーと水を放出しはじめたという事実に彼は気づいたのである。自分があれだけ ひねってもダメだったのに、なぜ…? この懐疑によって、面堂が事態の核心に大きく迫ることができたことは いうまでもない。なお、このセリフの直後面堂の足元から広がっていく、空を映した輝く円は、 水の広がりである。(これもちょっとわかりにくい?)
ギャグ。思うことあり、で止めればいいのに、古文で頻出するイディオムをくっつけたもの。
「大笑い」と「大洗(おおあらい)」(茨城県に実際にある地名。海水浴場で有名)をかけたもの。実を言うとこの後の押井さんの作品 で「御先祖様万々歳」という作品があるのだが、そこでも大洗海水浴場が登場する。押井さん、大洗に特別な思い入れでもあるのかな?(笑)
この「ロハ」、大変申し訳無いのだが藤岡琢也さんの声質がくぐもっているせいか何と発音しているのか聴き取りにくい。 「ロハ」、すなわち「只」、無償という意味であることは言うまでもない。
般若心経に登場する有名なことば。「色」は有形の万物、「空」は無形の万物を指す。すなわち 「色即是空」は「有形の万物はすべて因縁の所生でありその本性は実有のものではなく、従って無形、“空”である」ということ。 「空即是色」は「実体なく空と見られる万物は、そのまま有形の存在でもある、“色”である」ということ。この二つのことばにより 循環論法がなされ、“実体のあるものもないものもすべて、本当は実体のないものであり、ゆめまぼろしである”、ということが表さ れている。錯乱坊も直後にちゃんとそう付け加えている。
もう、このページをみていただくしかないでしょう。(笑)
……また、気づいた時に内容を追加すると思います。
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