連載コラム

連載?コラム(since 2004)

このページでは、私が普段思っている何気ないことに関して、 極めて不定期に気が向いたときに書いていこうと思います。
…とはいうものの、不定期にやっているとどんどんだらけてしまわないかなぁ と少し心配。(笑) こういう ものは、面倒でも完璧にペースを守って、ある意味自分に箍をはめておくのが一 番なのかもしれませんね。


2006年1月31日 「人間の持つ二つの側面」

 人間の営為に深く根ざす概念。それは、「考えること」「感じること」の大きく 二つに分けられるのかなと、最近私は思っています。両者を更に噛み砕いて言えば、「状況を客 観的に捉えて論理的に考え、理屈に根ざした普遍的な答えを導き出すこと」と、「理屈は抜きにし て、素直に主観的な感情――― "想い" と向き合うこと」かもしれません。

 例えば前者は、私がやっている研究開発の仕事において不可欠となります。仕事においてこれから 進むべき方向性を見出す場合は、ただ何となくこうすればよさそうだという風に気分だけで決めて しまっては総スカンをくいます。(^-^;) 現在の自社の状況・他社の状況などを深く洞察した上 で、こういうベクトルで進めばこういう理由によりうまくいく確率が高い、というように、きちん とした理屈をもって、誰が見ても納得するような答えを論理的に導き出すことが必要です。

 後者は、音楽・美術・文芸など、様々な作品に深く感銘を受けて胸がいっぱいになること、そし て更には、自分でそうした作品を創り上げることでほかならぬ自分の感情を世の中に伝えること、と 言い換えられます。このとき、前者で大切だった理屈は介在する余地がないといえるでしょう。人 間は理屈によって感動するわけではないためです。感動するという現象自体は、生理学的には脳内 の何らかの物質が分泌されたりして起こる事象でありそれ自体は理屈があるといえますが、我々 は、「○○という物質が脳内で閾値Xを超えた、よって感動した〜!!」というように感動しているわ けではないですよね。(笑) 理屈とかは抜きにしてすばらしいものはすばらしい!!ということなの です。

 そして、私が更に考えていることがもうひとつあります。それは、前者と後者は常に交錯する、溶け あっているということ。
 文章で書くとややパラドキシカルな感じはしますが、論理的に考え、厳密な理屈に根ざした答えを導 き出せたとき、人間は、理屈抜きに感動するものです。難しい問題が解けたときや、今まで理解でき なかった高度なことがやっと論理の糸が繋がって理解できたとき、誰もが、嬉しい!!と思うのではな いかなと思います。(科学の発展は、様々な人たちの知的好奇心から生まれてきたわけだし。)
 一方、理屈抜きにすばらしいと思えるような作品たちも、ただ何となくそのように創られているは ずがなく、深い理論が底流に流れているものだと思います。演奏家たちは、この音をどのように鳴 らしこのフレーズどのように歌えば美しく聴こえるかを、日々研究していますし(不肖私もそう です)、小説を書くときだって、緻密なプロットなしには読者の心はとらえられません。創作者 側は、人を惹きつける豊かな感性はもちろん、それを具現化するためにはどうするべきかに関する 深い理屈をも持った上で、我々鑑賞者が理屈抜きに感動できるような作品群を創りだしているのだ と思います。

 このように、理屈をもって論理的に答えを出す世界と、理屈をぬきにした感情の世界とは、何ら相 容れない世界ではなく、常に交錯しつづける存在、表裏一体の存在と思います。だからこそ、どちらも大切にし、何 をするにも前者と後者両方の視点をもってやるのがいいのかな―――私は最近そう思っています。

 あと、今までの人生を振り返るに、私は、どうやら後者のほうが長けている、まぁ要するに 前者が苦手なようです。(^-^;) バランス感覚の面からも、自他を客観的に捉えて論理的に落ち 着いて考えるところをもっと身につけなければいけないかな、とも思っています。

2005年5月24日 「映像と音楽の融合」

今回は、前回書いた「情景を想起させる曲」の続編みたいなものです。(笑)
情景を思い起こさせる曲は多くあると思いますが、最初から映像と一体となって 作られた曲、曲と一体となって作られた映像というものも、世の中には多くありま す。それらは、二つの アートが渾然一体となってひとつのものを創り上げるという分だけ、音楽だけで はor映像だけでは表しにくい ようなことを表現できる―――そんな気も、私はしています。

気ままに、私がこれまで涙を流した作品を少しだけ挙げてみて、今回は終わり。(^-^;) 実際 にどんな作品なのかは、あえてここでは多く語りませんので、実際に観賞してみて くださいな!

2005年4月30日 「情景を想起させる曲」

人は、さまざまな音楽からさまざまなことを感じ取るものだと思います。それ は、ときには生きる勇気であったり、ときには切ない感傷であったり、またとき には懐かしい思い出であったりすることでしょう。そして、このような感情より ももう少し具体的な、情景の想起とあいまって、そういったことをより一層強く 訴えかけてくるような曲もある。私はそう思っています。

私の中では、その例が、ホアキン・ロドリーゴ作「アランフェス協奏 曲」の2楽章。物悲しいギターの爪弾きで語りかけるこの 曲は、私の中では、夕暮れのスペインの街並みの切なさを思わせ ます。とすると、曲の最後のほう、ギターの鋭い響きのあとにすかさず オケがtutti(だと思う)で壮大に奏でる嬰ヘ短調の主題あたりは、や がて陽が落ちて大地にふっ…と漆黒の闇が訪れた、てとこかな。とすると、1楽 章はスペインの昼下がりのパティオを思わせるようなのどかさ、3楽章 は、やがて大地に朝が来て、生きとし生けるものはまた元気に生命を 謳歌する、てとこかな。…こんなふうに、想像を膨らませてストーリーを作ってみると面白いです ね。(笑)
(ストーリーを作るという例として面白いと思ったのが、私が2004年のコンサートで 弾いた、ベートーヴェンの ピアノソナタ「田園」。1楽章は、夏の静かな田園。2楽章は、刈り入れ時が 終わった、切ない秋の田園。3楽章は、冬の田園、雪の下で春を待ち焦がれる 生命たちの軽やかな歌。そして4楽章は、咲き乱れる花、風薫る小道、頬を撫で ていくそよ風…田園にやってきた春。と、あたかも季節を感じさせるかのよ うな移り変わりを、私は想起しました。)

他にも例を挙げますと、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番の2楽章。どこ までも美しく神秘的で、私は、冬の朝の美を感じさせる何かがあると思いました。枕 草子でも「冬はつとめて」と言っていますし、清少納言の気持ちもわかる気がして きます。(笑) …ですがその一方、冬の夜を思わせるような神秘を感じさせる曲も私は見つけ ました。それは、グリーグのピアノ協奏曲の2楽章です。吹雪がやんで、雪原の静謐に やさしい月のひかりが差し込んでくる。見上げれば満天の星空。ほのかな風に舞うダ イヤモンドダストの輝き。…なんてことを考えながら聴くと、じーんと来るものがあります。

どんな曲からどんなことを思い浮かべ、どんなことを感じるかというのは、やはり自分 で知らず知らずのうちに発見していくものなのでしょうね。これからも、た くさんの曲と知り合い、いろいろなことを深く感じ取っていきたいものです。

2005年3月17日 「自殺を否定する考え」

つい最近、手塚治虫の「ブラック・ジャック」を全巻読みました。(笑) で、読 んでいて特に印象に残ったことがひとつあります。それが、人の自殺をどう捉 えるか、についてです。とっても重い話ですね。
自殺に対し、「それもその人の自由だ、死ぬのも勝手だ」と捉える 人と、いかなる事情があろうと自殺を否定する人と、どうやら 世の中には大体二通りの考えがあるようです。そして、ブラック・ジャックは、いや、手塚 治虫は、真っ向から否定しています。

自殺を安易に否定することに対して異議を唱える人はよくいるようです。「自殺する くらい思い詰めている、それくらいその人は深刻な気持ちなんだ」「自 殺を安易に否定するのは、そういう人の気持ちをその人の身になって考えてやれ ない証拠だ」というわけです。そういう意味で、命を断つのも本人の自由だ、と。
しかしまた一方で、世の中には、生きたいのに生きられず死んでいくたくさんの人 もいます。周知のように手塚治虫は、もともと医者 であり、生きたいけど死んでいかねばならない、そんなたくさんの命を見てきた人で す。だからこそ、健康なのに、生きられるのに、ちょっとうまくいかないからと いって簡単に命を断とうとする考えが許せなかったのでしょう。(彼自身、生きた い生きたいと言いながら死んでいったのです。彼の絶筆(ルードヴィヒ・B)を読む たびに、涙が出てきます…。)

生きられることは生きられるけど、うまくいかなくて命を断つ人がいる。生きたくてしかたが ないのに、生きられない人がいる。…やはり私にはどうしても、生 きたくてしかたがないのに生きられない辛さのほうが、生きられることは 生きられるけど生きたいように生きられないから命を断つ辛さより も、ずっとずっと辛いだろうと思ってしまうのです。というわけで、やっぱり私も、手塚治虫 と同じく、自殺には反対です。生きているだけでも幸せだ、と…。

因みに、手塚治虫は、かなり強烈です。(^-^;) 「自殺なんかするような患者 は、たとえ治ったって気が弱くて生きがいなんか持てないようなやつさ」とまで 言っています。すごい…。

2005年3月2日 「極端なものには裏があるかも」

以前、私がある街にて、立ち食い蕎麦屋で慌しく昼食をとっていたときのこ とです。私のあとから、金髪で青い目をした、身長180センチ近いと思わ れるスーツ姿の若いお姉さんが入ってきて、食券を買い求め、何気ないふう でそばを食べ始め た、ということがありました。言葉でその場の雰囲気を伝えるのはちょっ と難しいのですが、いわば、外国人の女性が一人で立ち食い蕎麦屋で食べている という光景が、ちょっと浮いていた、というわけであります。(^-^;)
このとき私はまず、「あ〜なるほど、日本に来たばかりでまだあまり知らない のかな」と思いました。しかし、ふと、「いやまてよ、逆に、日本での 生活がすごく長くて、こういう立ち食い蕎麦屋も女性一人でどんどん入れる くらいに慣れているのかも」と、逆の発想も思い浮かんだのであります。

ここまで思考をめぐらせて、改めてそのときに思い出したことが一つありま した。大学の学部のころ、いつも朝早くの講義室に一番に来ている人がいました(私も わりと早く来るほうだったのでその人のことを認知していたというわけです)。そ のとき私は、「よっぽど近くに住んでいるかよっぽど遠くに住んでいるか、どちらかなの かもしれないな」と思ったのです。よほど近くなら、家にいるのも大学にいるのも同じような ものだし、早めに大学に来てぼんやりと時間を潰す心理もわかる気がする。よほど遠くな ら、電車の本数が少ないために大学にぎりぎりに到着する電車の便がなく、早く 来ざるをえない、のかもしれない。

身の回りの何気ないことでも、考えてみればいろいろな発想が浮かん できて面白いものだ、と思うと同時に、一方的な発想ばかりでなく 逆の発想も忘れてはいけないな、と感じたのでありました。極端なこと に隠されているかもしれない裏の面、もっといえば常識の嘘みたいなもの に囚われないようにするためにも…。

2005年1月15日 「人類愛を信奉しても、隣人を愛せない」

ドストエフスキーの言葉に、「人類愛を信奉していても、隣りに住んでいる人を愛 せない」という有名なものがあります。要するに、抽象的な、自分に身近でない 世界ではいろいろと理想論は言える けど、いざ自分の身近なところで起きる具体的な事象に対してはその理想論は とても適用できない、それが人間ってものさ、というわけです。手塚治虫 の「ブラック・ジャック」にも、平然と怪我人の手や足を切断できるという 神経の太い女医が、いざ自分の恋人が大怪我をしてその足を自分が切断 しなければならなくなってしまい、「わたしにはできない!」と叫んで泣き崩れ てしまう、という話があります。

ひどい犯罪者が捕まったときによく耳にするものに、死刑を存続させるか 廃止するかの議論があります。とてもむずかしい話だとは思いますし、いろいろな 意見があるでしょうけど、ドストエフスキーの指摘するこの人間の性質 に立脚して考えるに、私は今のところ、死刑はやはりあったほうがよいのではないかな と思っています。
死刑が執行されてしまってから冤罪が発覚するケースがありうると か、ひどい犯罪に国が死をもっていわば「報復」することには疑問が残ると か、廃止論者のかたの意見も確かにわかる気がいたします。しかし、万が 一、そういった廃止論者のかた自身、またはそ のご家族、恋人、親友、恩人が、いざひどい犯罪に巻き込まれてどうし ようもない仕打ちにあったら、廃止論者のかたはどう思われることでし ょう? それでも廃止論に変わりはないでしょうか?  …人間として、もしそういう仕打ちにあえば、とりかえしのつかないことをしたその 犯罪者に対して、「この悲しみがあなたにはわかるのか」と憤激する(註)、そ れが自然な行動なのではないかなと思います。大切な人のために 本気で怒れるのも、人間の優しさゆえだし、それもまた人間らしさではないでしょうか?  もし、自分の家族や恋人や親友や恩 人がどんなにひどい仕打ちをされようとも怒らず冷静でいるというのな ら、それは逆に冷血漢だと思います。(芥川龍之介の「杜子春」みたいな話 ですね。)
(註:憤激したから といって、短絡的にその怒りを行動にしてぶつけるのは最も危険な行為だと思 います。(イスラエルとパレスティナにおける報復の応酬などがその一番の例。))

人間は、抽象的なことや理想論を無理に考えすぎず、自分の身近なところで具体的 に&臨機応変に考え、楽しい ときには素直に笑い、悲しいときには素直に泣き、腹がたつときには素直に怒る、そ れでいいのではないかな、と私は考えています。そして、残念ながら、死刑は、 具体的にいざそういうことが起きてしまったときの当事者の気持ちを考えるなら、刑罰の選択肢 のひとつとして、やはり存続させたほうがよいのではないかなと感じています。犯罪の ない世の中になってくれれば一番なのですが、それを実現する近道もまた、一 人一人が自分とその身近な周囲で具体的にきちんと考えて行動することの積み重ねな のかもしれません。…が、これが一番難しいのかも。

2004年12月24日 「風の画家 中島潔」

中島潔。こう書くと、「ああ、みんなのうたの人か」と 思う人もいるかもしれませんね。私も、初めて中島潔さんの絵を見たのは、幼い 頃見たみんなのうたにおいてでし た。(みんなのうたに詳しい人の中には、これだけで大体 どの歌なのか見当がつく人がいるかも?(^-^) )

あれほど独特なせつなさを秘めた絵を描ける人は、なかなか いないのではなかろうかと私は思っています。語りかけるような眼 差し。真っ白な肌。今にも折れそうな細い手。ほんのりと赤い頬。美しい黒髪に映え る首筋。シックで、透きとおるよう で、それでいて鮮烈だから不思議です。いい年になった大人の私たちを、思わずハ ッとさせてやまないものがある。
ふるさとへの憧憬や、母のぬくもりの想い出は、特に昨今の忙しい世の中では、忘れ られがちなものなのかもしれません。中島潔さんの絵は、そんなあわただしいい現代 人に、ふっ…と、そういった大切なものを思い出させてくれるような絵ではないかなと 思います。

2004年11月15日 「高史明 生きることの意味」

人の痛みのわかる優しさと、逆境に負けまいとする強さを持った人。…こ の「生きることの意味」の作者である高史明(コ・サミョン)さんは、まさにそんな崇高な 人です。太平洋戦争という暗い影の中で子供時代を過ごし、極貧や、家族との 衝突、在日朝鮮人に対する偏見など、想像を絶するような辛さの中で、それ でも懸命に生きていこうとする主人公(高さん自身)の姿に、私は涙しました。

時にはひねくれて、暴力の奴隷となってしまったり、人の気持ちがわからず 周囲と衝突を繰り返してしまった少年時代の自分。高さんはその姿を明確に描 き、自分が何を教訓として得たかを、非常にはっきりと示しています。そう いう意味でこの本は、深く感銘を受けるとともに、いわばとてもわかりやすい本であるとも いえるでしょう。彼のメッセージは、要約すれば以下のようなことで す。暴力や憎しみは、自分で自分の値打ちを下げる愚かな行為であるということ。 辛くても悲し くても、それでも頑張って生きていくのが人間であるということ。そして何 よりも、人間は誰しも、自分が辛いめや悲しいめに合うことによって、人の痛みがわか るようになる、ひいては優しさがわかるようになるということです。
海援隊の「贈る言葉」にも、同じ一節がありますが、私はまさにその通りだと 思っています。

2004年10月18日 「シラノ・ド・ベルジュラック」

フランスで、最も愛される、最も「なってみたい」と憧れられる、文学的英雄は誰か? いつ のことかはよくわかりませんが、フランスでかつてそんなアンケートが行われたことがあったそ うです。
そしてその結果。ジャン・ヴァルジャン(ユゴー著「レ・ミゼラブル」)や、ダルタニヤン(デュマ 著「三銃士」)などの並み居る強豪を押さえて堂々一位に輝いたのは…その名も 「シラノ・ド・ベルジュラック」という男だったのでした。ちょっと意外に思われた かたもいるのではないでしょうか? かくいう私もそうでした。

先日、とある縁で劇を観る機会がありまして、そこで上演されたのがこの シラノ・ド・ベルジュラックだったのです。とにかく痛快で、テンポがよく、舞台上 をところ狭しとかけまわるシラノの姿に私はすっかり感銘を受けてしまいまし た。そして、岩波文庫から出ている同名の脚本も、あっという間に読破。まぁ、要 するに、「オススメです!」というわけです。(笑)
因みにこのシラノ・ド・ベルジュラック、17世紀のフランスに実在した人物だそ うですね。死後暫くは別段脚光を浴びるような人物でもなかったようなのですが、 時は流れて1897年、エドモン・ロスタンという劇作家が、歴史に埋もれていたこの シラノを取り上げ、一躍フランス一の人気者に仕立て上げたのでした。

シラノは、学者であり詩人であり音楽家でもあり、そして何よりも、剣の腕では右に 出るもののない、まさに無敵の豪傑。だけど彼にはひとつだけ大きなコンプレックスがあ る―――醜い大きな鼻。彼は密かに、従妹のロクサアヌに恋しているのです が、「俺はどうせこんな鼻の、不細工な男だから…」とついつい弱気になってしま い、思い切って告白することができません。そんな中、あろうことか、同僚のハンサムな男 から、「実は俺、ロクサアヌが好きなんだ。仲を取り持ってくれないか? 俺は口下手で 手紙も思うように書けない。シラノ、きみの文才を借りたいんだ」と頼まれてしま う!! 
さてさて、こうして始まった奇 妙な三角関係は一体どうなっていくのやら?? …この先は、お楽しみということに させていただきます。(^-^)

2004年9月22日 「ショパンの舟歌」

マイ・ベスト・ピアノ曲をひとつ選ぶとしたら何だろう? そう 言われると、欲張りな私はちょっと迷ってしまいま す。(笑) どんな曲にもその曲にしかない素晴らしさがあると思 うし、そんな中で「ベスト」として何か一つを限定してしまう のは、どうにも抵抗があるもの。Bachのパルティータ第1番も いいし、Chopinのソナタ3番も素晴らしい、F.Lisztの超絶第10番 もF.Poulencの即興曲第15番もFallaのアンダルシア幻想曲 もRachmaninoffの前奏曲Op.32-10もJ.Cageの4分33秒も(^-^;) …と、 きりがなくなってしまう。

それでも「何か一つ選びなさいっ」と言われたとしたら、私は、そ うだなぁ、Chopinの舟歌を選ぶかもしれません。あの、とろけるように甘い中 にも切なさが顔を出す、ぐいっぐいっと進む歌心溢 れる旋律!! さながら、たゆたう漣(さざなみ)と流れゆ く雲のようです。そしてそこにゆっくりと映し出されたるは、 若き日の想い出なのでしょうか…?

2002年の夏に私はVeneziaを初めて訪れました。いつかこの 壮大なる世界観を、舟歌に乗せて歌いたい…そう決心したので す。2003年の夏ごろから、この舟歌と向き合い、何度も何度も演奏する ようになりました。が、これがなかなか弾けないんですよねぇ(汗)。そ う、とっても深い。自分の思い描く音がそう簡単に出てはくれません。こ れを書いている2004年9月現在もそうです。
だけど、いつかは。…そんな気持ちで、たとえ今はまだまだでも、少 しずつ、一生かけて、やっていければいいな。

舟歌、万歳。

2004年8月24日 「冬が好き」

私が一番好きな季節は、冬であります。なぜか、をひとくちで 説明するのは難しい、というか主観的嗜好を免れえないわけですが、い ってみれば、行き交う人々の白い吐息、冷え冷えと澄み渡って遠くまで 見通せる朝の空、コート・マフラー・手袋に身を包んで歩く木枯らし吹 きすさぶ小道、そんなところにいわば切なさを感じるからでしょうか?

そして更に、冷たい風の中や雪の下で静かに春を待つ、小さな命た ち。こたつに入ってみかんを食べながら、桜の咲く新学期・新年度を待つ 人たち。そんな、切ない中にも待 ち焦がれるものがあるところ、私はここにますます惹かれます。

あの一休(いわゆる「一休さん」)の狂歌に、「門松は冥土の旅の一里 塚めでたくもありめでたくもなし」という、人生の本質を鋭く剔抉した 皮肉なものがあります。奇しくも、私の好きな冬という季節はその 一里塚たる門松が たつ季節。今年も私の好きな冬がきた、と悠長に構えてばかりもい られないのかもしれないけど(汗)、焦りすぎもせず、自分の好きな 季節も味わいつつ、じっくりと有意義な人生を送りたいなぁと考えて おります。

2004年7月26日 「いつもポケットにショパン」

私は一応音楽好きの端くれでありまして、音楽に関する著作は これまでにわりと読んできました。今回は、その中でも、最も異彩を 放つ、最も感動的だと(私が)信じてやまない作品を、紹介しましょう。

それは、くらもちふさこ著、「いつもポケットにショパン」。集英社の 漫画文庫で3冊という、そう長くもない作品です。ですが、読んでみると、 分量なんてものは全く感じさせず、いつしかどんどんひきこまれていく 自分がいました。そう、とにかくドラマチックで濃密なのです。キャラクター それぞれの人間模様と運命のいたずら、ドキドキするような伏線の妙、そ して音楽の素晴らしさ、愛情の尊さ、人間の素晴らしさ。気がつくと、涙 を流している自分がそこにはいました。

人を憎み、人を打ち負かすためにコンクールに出ようと するキャラ(恋人)に、主人公が叫ぶ「まるでピアノを憎んでいるみた い」というセリフ。すべての憎しみが解け、おおらかな愛情へ変 わっていくラストシーン。 音楽は人の気持ちを素直に表しだす、という強いメッセ ージが、これほどまでに大きく聴こえてくる作品を、私は寡聞にして知 りません。具体的な筋はあえてここでは述べませんが、興味をもった人は 是非是非読んでみてくださいな!! (2004年7月現在、集英社文庫、およびクイーンズコミックスプレミアムシリーズと 称した復刻版で購入可能です。)

2004年7月11日 「人生を微分して捉える」

幸せを掴むことが幸せなのではなく、幸せを追いかけつづけることが幸せ。…よく語ら れるこの捉え方に、私も共感を覚えます。これについて、更に拡張はできないかな、と、ふ と考えてみました。

要するにこの捉え方は、人生をグラフで表してみたときに(横軸が時間で縦軸がその時の 幸せ度とします)、「その時間での幸せ度をそのまんま幸せというよりも、その時間でのグラフの傾き、 すなわち単位時間あたりの幸せ度の上昇率を幸せとみなす」という捉え方、いわば幸せを一回微分した 捉え方といえるのではないかなと思っています。例えば、今現在の幸せ度は高くなくたって、 次第に次第に幸せ度が高くなっているのならば、一回微分すると高い値を示すので、 幸せであるといえるのではないかな、と。一方、今現在の幸せ度が高くても、 そのまま幸せ度が横ばいなのなら、幸せ度を微分するとその値は小さいわけであって、 あまり幸せとはいえないのではないかな、と。

そういうわけで、ときには、「一歩下がって」ならぬ「一次下がって」幸せを 捉えてみるのもいいのかもしれないな、と思っています。
…おっ、「一次下がって」というと、行列の計算でケーリー・ハミルトンの定理から行ったり するいわゆる「次数下げ」という既存の語彙がぴたりとあてはまって面白いですね。(笑)

2004年7月5日 「勝ち組と負け組」

最近、雑誌やテレビや電車の吊り広告などでやたら見られるのが、「勝ち組」および 「負け組」という言葉。私は、どうにもこの言葉が苦手であります。(汗) 何と言うか、 物の本質を単純化しすぎている、というか、単純化したがりすぎている感じがするの です。
何らかのタイプを勝ち組もしくは負け組と設定し、すべてそこに当てはめる形で 物事を考えれば、確かに、考える手続きは短縮されるし、一見わかりやすくなります。 何と言ったって二元化されるわけですから(例えば善と悪、陰と陽のように)。しかし、果た してそれだけでいいのだろうか、見過ごすもののほうが大きくはないだろうか、と 私はつい疑ってしまうのです。人間の生き方が他人にとってどう見えるのかというのは、 そこまで普遍的なものとは私は思っておりません。「○○さんは、給料は低いらしいけど自分の好きな 研究をやっていて技術者たちから幅広く認められている、よって勝ち組だ」と言われたっ て、研究をそこまで重要と思っていず、なおかつ「給料が高いのが一番さ!」と思っている 人にとっては、そう「勝ち組」だとは思えないと思います。

結局、一人一人が自分の生きたいように生きることを模索しつづけているわけで、 「人の生き方について楽して考えよう」という目論見のもとに強引に二元化しよ うとしても無理だろうなぁと、私は考えています。


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