| 詩集『水の球』収録 |
恋ヶ窪に 大下さなえ恋ヶ窪というところに住んで、もう何年にもなります。窪というからには窪地なのでしょう。たしかに坂はあります。しかし実のところ、どこからどこまでがくぼんでいるのか、わたしにはわかりません。ただそれでも、窪地に住んでいると落ちつくのです。 むかし家族で水族館に行ったことがありました。見たこともない不思議な世界でした。魚の目などは、瞼がないうえに、水のように透明で、底の方までのぞきこんでみても、水しかはいっていないように見えました。見ているようで、何も見ていないようでもあり、目だけが水のなかを泳ぎまわっているようにも見えました。魚には、何も隠すものがないようなのです。中も外もありません。身体が水の一部のようなのです。魚を見ていると、生きていることが膜に包まれた幻であるような気がしました。 息がつまって、深い水槽を下から見あげると、何もかも青く見えました。水が厚く重なると、だんだんほかの色の光は吸収されて、青だけがはじきかえされるからだ、と父親が言いました。生き物も青っぽく見えますが、引きあげて空気にさらすと、意外に赤い色をしていることもあるのだそうです。外に出してみると赤いもの、というのはほかにもいろいろあります。たとえば内臓などです。暗い身体のなかに、意外なほど赤く脈打ちながら、浮かんでいるらしいのです。 水族館でとりわけ気に入ったのはいそぎんちゃくでした。単純な身体をしています。胴体のなかは空洞になっていて、その内壁に消化器官も生殖器官も、すべてついているのだそうです。胴体のうえにひらひらした半透明の触手をつけて動かしています。楽しそうです。けれども本当に楽しいのかはわかりません。どこに意志があるのかさえはっきりしないのです。そもそもいそぎんちゃくの本体がどこなのかと考えると、触手や外側の肉ではないような気がしました。といって消化器官も生殖器官も、それひとつひとつは部分でしかないような気がするのです。しばらく立ち止まって考えていました。すうっと、水槽から漏れた光の筋が、わたしの腹のあたりをなでていきました。そのときふっと、得体の知れない不安がわきあがってきました。もしかしたら空っぽだと思っていた空洞の部分こそ、いそぎんちゃくの本体なのではないか。一度浮かぶと、その不安は頭のなかでどんどんふくれあがっていきました。もう一度いそぎんちゃくを見ると、胴の部分にしわが寄って、笑っているように見えました。 わたしの中で、何かがぱちんとはじける音がしました。身体の中の何かが、ぎゅっとつかまれて、もぎとられてしまうような気がしました。はっとしておなかをおさえると、知らない感触がありました。丸くて硬い、果実のような感触でした。おなかがかっと熱くなり、果実のような塊が、熱を帯びて膨張しはじめました。水族館の外に出ると、空も地面もまぶしく光っていました。写真を撮りましょう、と母親が言いました。おなかが気になっていたわたしは、笑うことができませんでした。光が強かったせいでしょうか。できあがった写真を見ると、わたしの顔には前髪で濃い影ができていました。真っ黒になっていて、まるで、そこだけ、絵がはがれ落ちてしまっているみたいでした。 それからというもの、わたしは昼間から浴槽に水を張って、そこに浸かってばかりいるようになりました。水の中に頭のてっぺんまですっかり浸かってしまうと、音は厚みを増して遠のいていきます。決して静寂ではありません。ただすべての音が重なりあって、重たくなるのです。水の外にいるときは、身体の内側と外側の間にある、薄い膜のようなものは常に張りつめていて、わたしは自分の形を保っています。ところが水にはいると、それが破れてしまうのでしょうか、それとも、その膜のようなものは、空気は通さないのに、水だと通してしまうのでしょうか。境界が薄れてしまうのです。水がしみこんできてしまうのです。 身体がなくなってしまうのか、水全体がわたしの身体になってしまうのか、それはどちらでもよいことです。すべてがぬれてしまうのです。そして、決してぬれることがないわたしが、ぴんとはった球形の闇の中にくっきりと浮かびあがります。わたしはいつのまにか、暗い球のなかにいるのです。そのなかで、わたしはわたしの身体の感触を遠いもののように感じて、眠るように目を閉じていくのです。 甘酸っぱい匂いが、頭の芯を刺していきます。はっとしました。わたしがはいっているこの球の正体は、おなかにあった、あの果実のようなかたまりなのかもしれない、と思いました。突然いそぎんちゃくのことが頭によみがえってきました。いそぎんちゃくの身体のなかの空洞のことを思い出しました。わたしのなかにある果実のようなものも、きっと空洞にちがいない。急にそんな予感がしました。わたしはいつのまにか、空洞のなかに閉じこめられてしまっていたのです。いいえ、もしかしたらずっとそこにいたのかもしれません。それどころか、その空洞こそ、わたし自身なのかもしれません。がらんと、空き地のように空っぽで、なかには何もないのです。子どものころ住んでいた家や、水族館に行ったときに撮った写真のことなどを思い出すと、一瞬、空洞のなかに、水のようなものが満ちてきます。 でも、ただそれだけです。 水のように泡だつものたちは、くるくるまわりながら空洞いっぱいに広がると、やがて外に飛び出していってしまうのです。光のように速く、突き抜けていくだけです。気がつくと、わたしは、また、ぽつんとひとりきりで、闇のなかにいます。変わらずにあるものは、空洞だけなのです。 恋ヶ窪に住んで、もう何年にもなります。それまでどこにいても落ちつかなかったのに、ここにいると安心します。窪というのは地形の穴なのでしょう。穴をうめるように存在することで、わたしはようやく、自分を確かめることができるのです。よく散歩します。地形のうえをはうように歩いていきます。実のところ、どこからどこまでが窪地なのか、わたしにはわかりません。ときおり木や建物のない、空まですっぽり抜けたような空き地に来ると、土のうえに座ってみます。身体をまるめて、ひざを抱きます。目を閉じると、底の抜けた空洞に、音がすいこまれていくのがわかります。 返事はありません。 落ちるような気がして、わたしはいつのまにか、自分のむきだしの膝をなめていました。一瞬、空洞の中に明るい音が響きました。目を開くと、舌のうえに、塩辛い味だけが、残っているのでした。 |