| 『ユリイカ』 2002年1月号収録 |
夜があけるその一瞬 大下さなえ暗い道を歩いている。頭のあちこちがツノ立って、闇のなかにもじゃもじゃのびてゆく。吸い殻やブロックのかけら、のびかけの草の蔓なんかにからまって、混ざってゆく。低い空にまんまるい月が開いている。水たまりの底の血みたいな光。川の向こうにふらふらと、明るいものが揺れている。 宿河原三丁目。看板が浮き上がる。文字がもじゃもじゃとからまって、蜘蛛の子のように散らばる。捕まえられない。たったいま、のどちんこのまわりを回転したばかりだというのに。血管にも産毛にも文字が溶けて混ざっている。人間というものが、文字の塊でできている気がしてくる。文字というのだって嘘くさい。その下にあるのは変な記号なのだと学校で習ったことがある。 まるい、彎曲した鏡のなかの、わたしみたいなもの。目や耳や鼻や口。そういうんでない半端な部分。鏡からはみだしてゆく。ぽろぽろとほぐれて。わたしが街になる、道路になる、川になる。散らばっていく、目や耳や鼻や口。宙で目がくるっと回った。どこに行くんだよ。空にいくつもわたしが浮かび、ふらふら漂っている。散らばっている、張りついている、ぶら下がっている。 ふさふさゆれる木とか。みどりいろのこわい草。葉っぱはいつも同じ形。いつもあれになることを考える。苔のように増え広がっている。頭のない、顔のない、脳のない、心臓のない。わたしがあれになって揺れていたり、増えていたり。 ちりんちりんと音がする。下からいくつも知らない顔が浮かんできて、風船のように漂いはじめる。いつのまにか道は顔だらけになっている。ぎゅうぎゅうと空気のなかに詰まって、冷たい顔が透けている。透き通った顔ばかりが浮かんで、わたしはいない。ひんやりしている。何もかも。聞き取れない声のよう、幻のよう、影のよう。わけのわからない液体みたいに、わたしたちはこずんでいる。 どこかに行きたいよ。また宙で目がくるっと回った。だけど、空気も、風も、音も、何もかもさらっとしてる。人々の身体のように浮いたり、泣いたり、窒息したりしている。暢気なもんだ。さらさらって流れていってしまったんだよ、何もかも、小さい粒みたいに。ああ、これじゃない。嘴、歯ブラシ、千枚通し。あなたたち、ほんとうに人間のつもりなの。別に人間じゃなくていい。これじゃない。ちがうものばかり浮かんでくる。わたしはわたしを肯定しない。夢には保険がかけられない。昼間の交差点のように死ね。これじゃないんだ。わたしたちはぐるぐる回る。世界の遠くで浮き沈みしているものに触れようとして。でもいつもちがうものが振り返る。そうじゃない、もっとあっちに散らかっているあれ。ばらばらに千切れて、漂って。 意味を探しても無駄だ。わたしたちは岩と刺の隙間にはさまっているのだから。かなえられることがおそろしい欲望ばかり、じくじくと孵化してしまうのだ。わたしたちは恋い焦がれている。目の裏に植えつけられた、世界という像に。世界がこれほどうつくしくなければ、わたしたちはみな眠ったまま、いつまでも宙を漂っていたのかもしれない。何度も叫ぶ。出してくれ、と。瞼は開かない。地平線の向こうに漂っている瞼は。 たくさんの目が飛んでいる。どいつもこいつもみんな、ただ見つめている。薄闇のなかで。ただじっと見つめている。白い、澄んだ、井戸のように。 月は世界に潜ってゆく。深く。わたしたちのなかに。波だろうか、風だろうか、向こうからやってくるあの細い鳴き声は。時間たちが呼吸している。真っ白いしぶきをあげて。薄い貝殻のなかで、わたしたちは凪いでいる。ひとつひとつの表札を眺め、どこからやってきたのか思い返す。橋の上を、向こうへ渡っていく車両。音がのびてゆく。アスファルトの上で、わたしたちは蒸気の形。あなたのやわらかい肉に触れ、指先の皮一枚だけ安心している。なつかしい、生きている、あたたかい。身体がどこか遠いところで、ばっさりと崖のように切り立っている。いつだって居場所なんてない、月のことを思い出そう。白いビルがいくつもいくつも、ぼんやりと立ちあがる。ひとつひとつの窓が瞳のように開き、ここという場所が銀色に裂けてゆく。ざわざわと。そう、何もかも。光りはじめる。皮膚が薄くのび、青くなってゆく。 地面にいつまでもへら形の窪みがあいているものだから、楕円形の水溜りは、にわか雨のたびごとにきまって同じ形をとるのだ。われわれが慣れ親しんだ空間の肌理のなかに残す刻印についても、おそらく似たようなことが起こると言えるのだろう。* わたしたちはほんとうに、何を待ってここにいるんだろう。細い隙間にたまった、薄暗い液体から見つめ返される。あの向こうに透明な輝きが見えたことがある。木漏れ日のような、散り散りの祈り。世界の、たくさんの声の、まばゆい涙。何もかも光っているのに。何もかも歌っているのに。わたしたちは見えないままここにいる。うすい膜になって。広がって、ぶるぶる震えて。夜があけるその一瞬。あっちからもこっちからも、青い翼が舞いあがる。 「どこか行こうよ、どこかへ」 *『ベンドシニスター』ウラジーミル・ナボコフ(加藤光也訳 みすず書房) |