魚のいない街 大下さなえ
すうっと白い壁に閉じ込められる。扉と扉の隙間に目が吸い込まれる。身体がはさまって、線のように細くなってしまいそうになる。息苦しくなって見上げると、銀色に光る天井にわたしの顔が映る。1と書かれたボタンを押す。扉の上についている数字が右から順に点灯し、わたしの身体は移動してゆく。
うしろにいた人に押される。くにゃっと背中がへこんで、自分の身体から外に出てしまったような気がしたが、わたしが身体の外に出たのではなく、わたしの身体が箱の外に出ただけだった。
いつのまにか、人々は先に歩いていて、こつんこつんという音がいくつも響いている。床に映った自分の像に乗っかるようにして、自分の足の裏と像の足の裏をぴったり合わすと、こつん、という音がした。
音がわたしから響いているのか、像から響いているのかはっきりしないまま、こつんこつんとわたしの身体は進んでゆく。音がするたびに像はわたしから剥がされてゆく。音がするからわたしと像は分裂してしまうのかもしれない。
文房具店は縦に細長いビルの一階にあり、ビルはあまりに細長いので両側のビルから支えられてようやく立っているように見えたが、両側のビルも、そのとなりのビルもやはり細長く、街はどこまでもきりがなくマッチ棒が立っているみたいだった。
店にはいってみるとどこからか、ぷん、と魚の匂いがした。文房具しか置いていないはずなのに、どうしてどこから魚の匂いがするのだろう。だが、わたしは文房具の匂いをすべて知っているわけではないし、包丁の匂いのする洋服や、電化製品の匂いのする額縁などと同じように、魚の匂いのする文房具がないとはいえない。
匂いのもとを探して店内を回ったが、しばらく店の中にいるうちに慣れてしまったのか、さっぱり匂いはしなくなり、あきらめて課長に頼まれた消しゴムを探しはじめた。
消しゴムの棚の下に小さな箱があった。手のひらに乗るくらいの大きさで、半透明の緑色のプラスチックでできていた。何に使うのかわからなかったが、消しゴムといっしょにレジに差し出した。
ビルに戻ると、そこにも魚のような匂いがした。どうしてだろう、さっきまでそんな匂いはしなかったのに。見回しても、つるつるの床と白い壁しか見当たらない。魚なんてどこにもいないのに、どうして魚の匂いだけがするのだろう。魚の匂いがするのがおかしいのか、魚がいないのがおかしいのか。
課長は消しゴムをじろじろ見つめていたが、それは消しゴムに魚の匂いがしたからだろうか。だが、魚くさいのはわたしのせいじゃないし、そんなことを言ったらこのビルの中だって魚くさいのだから、魚がいるかどうかはまた別の問題として、責任はビルの所有者か管理会社の方にあるのではないかと思われた。
課長は結局何も言わずに、消しゴムを手のひらに包むようにして持ち去り、わたしは課長の手のひらに自分まで包まれて持っていかれてしまったようで寒気がし、自分の手のひらで反対側の腕を軽く叩いて、身体がここにあることを確認してみた。
席に戻ると、机の上に積み上げられた仕事は出ていく前よりもずっと増えていて、泣きそうになった。まわりの机を見ると、みんな何でもないことのように次々と仕事をこなしているが、わたしにはいつもうまくできない。
仕事というのは、机の上に置かれた細かい部品をつなげることだった。部品はおおかたは白いプラスチックだが、ときどき金属のネジのようなものもある。最初に机の上に置かれている部分も何だかわからないが、できあがってみても何だかわからない。どうやって使う物なのかも、そもそも使う物なのか、ただ置いておくだけの物なのか、音を発するのか匂いを出す物なのか。うまく組み立てられないのは、わたしがそれを理解していないせいかもしれない。
机の上に積み上げられた部品の山を見ていると、ふと高校生のころのことを思い出した。面接室に呼ばれて、担任の教師から、君には適応力がないね、それから協調性にも欠けるようだ、と言われた。どういうことですか、と訊くと、君はいつもクラスの中で喋らないじゃないかと言われ、それは喋ることがないから喋らないだけだったのだが、お天気のこととか、してもいないアルバイトのこととか、いもしないボーイフレンドのことを無理矢理喋っていないと、協調性がないとみなされるのかもしれなかった。
しばらくして教師はやっぱり父親がいないからかねえ、と言い、たしかにわたしには父親がいなかったけれども、それとこれとがどういうふうに関係があるのかよくわからず、それがないとどういうふうに困るのかもよくわからなかった。だが父親がいないせいで適応力や協調性を持てないんだとしたら、父親があたらしくできないかぎり、一生そういうものを持てないのだ、と不安になった。
教師が、僕のことをお父さんだと思っていいんだよ、と言いながら身をのり出してきた。適応力や協調性というものを手にいれることができるのかもしれない、と目の前が開けてぼんやり明るくなった気がしたが、いつのまにか隣に座っていた教師の顔がすぐ目の前に迫ってきて、また暗くかげってしまった。剃り残した髭が頬にあたって、痛いような痒いようなくすぐったいような妙な感じがして、思わず笑いがこぼれ、いっしょにさっき感じた不安もどこかに消えてしまった。
机の上にあった部品はつなげようとしても全然つながっていこうとせず、縦にしたり横にしたりしながら無理矢理つなげようとしたが、うまくいかない。まわりにいるほかの女たちはどんどん組み立てていっているというのに。だが覗き見するたびに、やっぱりそれが何だかわからないと思うのだった。
やはり今日も残業になってしまった。会社に残っているのは、わたしと課長ふたりだけだった。まだまだ机の上には部品が山積みになっている。どういうわけかネジばかりがたくさん残っていた。組み合わせ方を間違えてしまったのだろう。
課長が、今日はそこまででいい、と言うので帰ろうとすると、いっしょに夕食に行こうと言い出した。課長に連れていかれたのは、ビルの地下にある居酒屋だった。
真ん中に円形の水槽があって、中にはいろいろな形の魚が泳いでいた。不思議なことにこの店には魚がたくさんいるのに、ちっとも魚の匂いがしないのだった。するのは学校のプールのような匂いばかりで、それが塩素の匂いだということを、子どものころに聞いたことがあった。夏じゅう学校のプールにいた体育教師の水虫が、プールの水に含まれた塩素のおかげでひと夏で直ってしまったという話も知っていた。
塩素の匂いは嫌いではない。むしろ好きだった。それを吸い込むと、身体の中の何かべとべとしたものが、水虫のようにすっかりと洗い落とされて、清らかになったような気になる。むかしから、透明でつるつるで乾燥したガラスのようになりたいと思っていた。
店の人が水槽の中に網をつっこみ、魚をすくい上げた。魚はばたばたと跳ねながら、えんじ色の網にとらえられ、店の奥に消えていった。
あれ、全部食べられちゃうんですよね、と訊くと、課長は一瞬いやそうな顔になった。あの中にいる魚が全部食べられてしまうっていうことは、あの中にいる魚はみんな食べられるためにあの中にいるっていうことですよね。だんだん自分でも何が言いたいのかよくわからなくなってしまった。課長の顔を見ると、じっとわたしの方を見ているようではあったが、目は埴輪のように穴が開いているだけで、瞳なんてないように見えた。
課長は急に笑って、君は少女趣味なことを言うんだね、やさしいんだね、かわいいね、と、顔をすり寄せるようにして言った。でも仕方ないさ、君だって結局何か食べないと生きていけないだろう、生きているかぎり、ほかの命を食べないと生きていけない、やっぱり生きているっていうことは罪深いことなんだよ。課長はそう言うと、満足したように自分でうなずいた。
店を出ると、課長がもう一軒行こう、と言い出し、わたしは帰ると言った。いいじゃないか、おたがいに大人なんだし、それに君だって、と課長は言った。明日も仕事があるし、また今日のようにできないようじゃ困りますから。いいじゃないか、そんなこと。それに何だか頭も痛いような気がするし、目まいもするんです。わたしは早口にそう言って、きびすを返し、駅に向かって歩き出した。
電車に乗ってしばらくたってから、わたしの前にだれかが立った。ねえ、とそのだれかが言った。思わず顔を上げると、そこにいたのは知らない女で、だがその目はしっかりとわたしの方を見ていた。
ねえ、もういい加減にわたしのこといろいろ言うのはやめてくれない? 女はわたしの目をじっと見つめてそう言った。知らない女だ。丈の長いTシャツと、じゃらじゃらした縁飾りのついた長いスカートを着ていた。
一か月間、よくもいろいろと言ってくれたわねえ、わたしも勉強になったわよ、つくづく人なんて信用するもんじゃないってわかったわ、これだけ言われて気がつかない人がいるとでも思っているの、そんな馬鹿な人、世の中にいるわけないでしょう、あなただってね、こんなことばかりしているときっといつか同じことをされるのよ、ほんと、楽しかったわよこの一か月間、あんまり辛くって。
はじめて見る顔だったので謝るわけにもいかず、かといって人ちがいだと言うこともできず、ぽかんとその女の顔を見ていたが、最後のあんまり辛くって、というのがどう辛いのかもわからないのに、耳に残って離れなかった。女はそのままの姿勢で笑いながらじっとわたしを見続け、次の駅で黙って降りていった。
みんな黙々とその白いプラスチックの部品を組み立てている。手だけが自動的に動いていて、目は埴輪みたいに空っぽだった。作業さえ進んでいれば、作業のことなんか考えなくていいのだ。知らない人百人と同時に性交するとか、妹を絞め殺すとか、象のように巨大でけむくじゃらな犬に抱かれて眠るとか、どんなことを考えていてもいい。
はっと気づくと、うしろに課長が立っていた。君、ちょっと来なさい、とわたしは課長に呼ばれて、廊下の突き当たりまで連れていかれた。そこには扉がひとつあって、開けると物置に使っていた小さな部屋がある。課長はわたしをそこにわたしを押し込み、自分もそこにはいってドアを閉めた。
君はまったく仕方ないね、と課長は言った。どうしていつまでたってもきちんとできないのだろう、簡単なことじゃないか、どうして決められた通りにあれを組み立てられないんだ。
組み立てようとはしているんです、でも勝手に手が動いてしまうんです、いえ、わたしのなかで、だれかが勝手に、と言いかけてわたしは黙ってしまった。手が勝手に動いているというのと、身体の中でだれかが勝手に手を動かしている、というのでは、意味が少しちがう。だれかが勝手に手を動かしている、というのでは、責任のがれみたいだ。
頭を見せてみろ、と課長が言った。何をどうやって見るつもりなのかわからず、何をしたらいいのだろうと戸惑ったが、一瞬後には課長の腕に頭を預けていた。課長はていねいにわたしの髪の毛をわけ、わけ目を何度も指でたどって、そこからのぞいているわたしの頭の皮膚を観察しているようだった。
何がわかるのか疑問だったが、それよりも頭の皮膚をじろじろ見られることがひどく恥ずかしいことのように思えて、身をよじった。自分の頭の皮膚なんて自分でも見たことがないせいかもしれなかった。つるつると課長の指は頭の上から首筋の方まで降りてきて、首の根元にある骨の出っ張ったところをぐりぐり押した。
そんなところを押して何がわかるんですか、と言うと、課長は声を押し殺して、何ってそんなことわかっているだろう、と答え、わたしの耳たぶをつまんだ。ふさがりかかったピアスの穴にさわっている。その穴から指が中にはいってくるような気がして、こんなことなら穴なんて開けるんじゃなかった、開けたら開けたでそこに必ず何か突っ込んで、こんなふうにさらけ出してはいけなかったんだ、と後悔した。
今夜いいだろう、と課長は言った。いいって、何がですか。課長はくすくす笑って、わかるだろう、と言うが、わたしにはわからない。適応力、協調性という言葉がぼんやりと浮かび上がってきた。わからないけれどもわかったふりをしておいた方がいいのかもしれない、わたしはもう高校生ではなくてここで働いているんだから、と思って、いいですよ、と答えた。
課長は急に上機嫌になって、仕事のことは気にすることはないよ、だれだってはじめはそうなんだ、すぐにできるようになる、君の隣の席の女の子だって一年くらい前まではそりゃひどかったもんさ、慣れればきちんとできるようになる、それまでにどれくらいかかるかには個人差があるけどね、と言った。
すぐにできるようになりたいんです、何だか心細くって、と言おうとして、心細いという言葉が場違いな気がし、できるようになる自信がないんです、と言い変えた。自信という言葉も、声になってみると、そこだけ調子が浮ついているようで実感がともなわず、課長にそのことを気づかれるのではないか、と思わずはっとした。
自信がないのか、と課長は言った。そういうのは自信というよりやる気の問題だよ、つまりこうしようという意志の問題だ、と課長は言った。自信、やる気、意志。言葉の数が増えていくだけで、ちっとも意味がわからなかった。
自分の席に戻ると、ほかの女たちがいっせいにわたしを見た。わたしはとにかく何か言わなければならないような気がして、机の前に立ったまま、あの、わたしたちが作っているこれって、いったい何なんでしょう、と言った。女たちは無表情に、さあ、と言った。そんなこと知ってどうするの、ととなりの女が言った。だって、何を作っているか分からないとうまく作れないじゃないですか、と言うと、みんなくすくす笑い出した。
退社時間を過ぎても、仕事はやっぱり終わらなかった。今日はネジが足りなくなってしまった。つまり部品はつなげようとしてももうどうやってもつながらないのだった。ほかの女たちは、次々に帰っていった。
気がつくとだれもいなくなっていて、うしろに課長が立っていた。仕事をしているふりをしようとしたが、ネジがないから、もう何も何にもつながっていかないのだった。どうしようもなくなって、ただかちかちと部品同士をぶつけていた。
もしかしたら、わたしのところにだけわざとつながらない部品ばかり置いてあるのではないだろうか。気になって部品を見ても、ほかの人の机にあるものと何もかわらない。もっとよく見ようとして、部品に顔を近づけると、ぷんと魚の匂いがする。
何をしているんだ、それまでうしろから見ていた課長が突然言った。何でもありません、ただ……。ただ、何だね。この部品、魚くさいような気がしませんか、と言おうとしてわたしは黙ってしまった。そんなことを言ったところで仕事ができない理由にはならない。
さあ行こう、と課長は言った。行くってどこへですか、それにまだ仕事が、と言うと、仕事って言ったってどうやってするつもりなんだ、ネジもないのに、と意地の悪い口調で言った。仕事なんて、まあいいじゃないか、どうせ明日も明後日もあるんだし、今はそれよりもっと大切なことがあるだろう、と課長は言った。
課長に連れられて、昼間の小さな白い部屋に行った。課長はわたしの背中を壁に押しつけて、さあ、と言った。何のことなのか見当もつかず、ぽかんとしていると、課長の顔が近づいてきてわたしの下唇に噛みついた。
あ、とわたしはびっくりして、変に高い声を出してしまい、自分の声にまた驚いてしまった。課長の舌がぐいぐいとわたしの口の中にはいってきた。
声を出してはいけないよ、と教師は言って、わたしの下着を脱がせようとした。やがて教師の息が荒くなってきて、どこかがくすぐったいとか痛いとかいう感覚よりも、教師の目つきや、なにかに没頭している様子がおかしくてたまらなくなった。教師のさっきまでの顔はなくなってしまった。わたしを哀れむような、いたわるような、優越感に浸っているような表情が消えて、死体みたいな顔になり、そのうち顔ではなくて単なる皮膚の皺のように見えてきた。
待っていたんだろう、と課長は言って、うれしそうに笑った。自信がないなんていうのはいつだってたいてい嘘で、ただそういうことのせいにしているにすぎないんだ。自信とかやる気とか、理解とか、みんなそんなことばかり言っているけど、わたしに言わせれば全部インチキだよ、だれだってできるんだ、ただやろうとしないだけだろう。
そんなことはありません、ほんとです、ほんとにできないんです、課長の顔の方を見ると、だんだん象の足の裏か鯨の胃袋みたいにしわくちゃになっていって、わたしは泣きそうになった。課長はわたしを床に這わせて、背骨のでこぼこを指でたどった。課長の肌が密着してくると、マヨネーズをかき回すような濁った嫌な音がして、どこかから魚の匂いがした。どうして魚なんてどこにもいないのに、魚の匂いばかりするんだろう。部屋の白い壁が迫ってきて、壁に吸収されてしまうような気がした。
課長が笑いながら扉を開けた。いつもと同じ廊下があるだけで、何の変わりもなかった。床が肌に冷たく、課長の顔にはいつもの埴輪のような目があった。埴輪のような目を細めながら課長は、愛しているんだろう、とわたしに訊いた。
はい、と答えないと、適応力がないとか協調性がないとか判断されてしまうのかもしれない。わたしはそればかりが恐くて、自分の気持ちがどうかなんてどうでもいいことのような気がして、うなずいた。
課長は埴輪のような目を見開いて、でもわたしは君を愛せないよ、なぜなら妻子がいるからね、と言った。わたしはそれでもちっとも困らなかったし、だいたいこの人はなぜこんなことを言うのだろう。
わかったかね、と課長は言った。何をわかればいいのかわからなかったけれども、うなずかないと帰れないような気がした。わかる必要なんてない、うなずくことだけが大切なんだ。首がしぜんに縦に揺れ、自分のものではない気がした。
地下道の中は消毒液の匂いがした。そうしないと魚くさくなってしまうからかもしれない。道の両脇には無数の段ボール箱が並んでいる。電車に乗ると、昨日の女が現われた。わたしではなく、別の女の前に立ち、同じ話をしている。
会社では、いつものように、みんな黙々と何か組み立てている。いつもの、硬いプラスチックでできた部品ではなく、何か臓器のように赤黒くぬめぬめとしたものだ。ネジのようなものもなくて、ただぴちぴち跳ねる紐のようなものがあって、それでぬめぬめした部品を縛りつけている。
わたしの机の上にもそれが置かれていた。どうやって組み立てたらいいのかさっぱりわからない。みんなは昨日までと同じ手つきで、むずかしいことなど何もないといった様子でそれを組み立てていたが、手際が悪いのか、わたしの部品はつるつるすべるばかりだった。
縛りつけようとしても、時間がかかるばかりだった。なんとか形がつながったころには、ぴちぴちしたものはぐったりと死んだようになってしまい、ぬめぬめしたものも急速にひからびていってしまう。
何とかいくつか形らしい形にしてみたが、それでいいのかわたしにはちょっと見当もつかず、となりの女に向かって話しかけた。あの、と言うと女は顔を上げた。電車の中で言いがかりをつけてきたあの女だった。
何、と女は答えた。わたしはすっかりおどおどして、どうしてこんなところにあの女がいるのだろうと思ったが、では昨日までここに座っていたのはだれだったのだろう、と考えてみても、顔を思い出すことができない。
あの、どんなふうにできあがればいいんですか、とおそるおそる訊くと、女は自分の作ったものをわたしの目の前に差し出した。
それは、わたしにそっくりの生きた人間で、あまりにも似ていたので、それが両方の手のひらに乗るくらい小さい、ということをのぞけば、わたしさえここにいなかったらだれでも、たとえわたしでも、それがわたしそのものだと思ってしまうのではないかと思わせた。
まわりの女たちが作っているものも、みな同じだった。だれかがそれに向かって、君には適応力がないようだね、と話しかけると、あれ、全部食べられちゃうんですよね、と小さいわたしが言った。あの中にいる魚が全部食べられてしまうっていうことは、あの中にいる魚はみんな食べられるためにあの中にいるっていうことですよね。わたしは真っ赤になってうつむいた。
やめて、わたしはそんなんじゃない、わたしは泣きそうになって叫んだ。じゃあ、いったいどんなだって言うの、どんなだったらいいのよ、とみんなが口をそろえて言った。
あなたの作ったものを出してごらんなさいよ、ととなりの女が言った。わたしは仕方なくなって、さっき作りかけて自信がなくなって、引き出しの中にしまってしまったものを取り出した。引き出しを開けて、ずるずると引きずり出すと、それは不格好な魚の形をしていて、しかもぐったりして、いまにも死にそうだった。
これじゃあ、作り直しね、どうしてこんなふうになってしまうのかしら、気の毒だけどきょうも残業ね。
何でも言うことを聞くからお願いです。だれかの持っている小さいわたしがそう言った。嘘、わたしはそんなこと言ってないわ、と叫んだが、みんな作業に戻っていて、だれも振り向かなかった。
ちょっとジュースを買ってきます、と言って廊下に出て、エレベーターのボタンを押した。ちかちかと上の電気が点滅して、ドアが開いた。すうっと扉が閉まる。ぐらりと揺らぐ。1。行き先のボタンを押そうとして指が止まる。
どこかほかのところ。会社でも、街でも電車の中でもない、どこかほかのところに行ってしまいたい。ふと上着のポケットに手を入れると、指先に何かがこつんと触れる。
取り出してみると、それはこの前消しゴムといっしょに買った緑色の小箱だった。小箱からは魚の匂いが立ちのぼってきていて、わたしは、そうか、魚くささの原因はこんなところにあったのか、と今までそれに気づかなかったことを不思議に思った。
巻いてあったビニールを引きちぎってその小箱を取り出す。蓋はするりと簡単に抜けた。
あたり一面に魚の匂いが立ちこめ、小箱の中からいきなりぬっと魚の頭が出てきた。魚は箱からぽんと抜けるようにして飛び出し、エレベーターの隅に飛んで行って、そこでぴちぴちと跳ねていた。青みがかった銀色の魚で、鰯のような形だったが、鰭ばかりが妙に大きかった。
魚は、それほど大きくないといっても到底その小箱にはいるような大きさではなかったので、いったいどうやってその中にはいっていたのか見当もつかず、片目で小箱の中を覗こうとした。
目を近づけると、ぬっと魚がもう一匹飛び出してきて、目に突き刺さりそうになった。驚いて顔を離すと、あとからあとからあふれるように魚が出てきて、エレベーターの床は魚で一杯になり、どんどん積もってゆく。わたしの身体はだんだん埋め尽くされ、身動きが取れなくなる。ひんやりした鱗がいくつもいくつも肌に張りついてくる。
だれかが途中で乗り込んできたら魚のことを何と説明すればいいのか。いや、もうだれも乗ってこないかもしれない。どこにもとまりはしないのだ。そうして一階に着くまでに、わたしは魚に埋もれて窒息してしまうにちがいない。それどころか、魚の重みでロープが切れてしまうのかもしれない。この小部屋は、もうどこにも着かないのかもしれない。息苦しくなって上を見ると、魚の鱗からはねかえった光が波のようにゆれ、銀色の天井に表情のないわたしの顔がいくつも映っていた。
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