明空6号収録 

長いリリアン     大下さなえ




そこに青い布があった。網棚の上にだれかが置き忘れていったらしい、薄い布。だれもいない電車の中で、わたしは手を伸ばしています。それは一枚の絹の布だ。ほつれた、断ちっぱなしの古い布。やわらかく、擦れた部分は変色し、ところどころ、切れそうに薄い。ずっとだれかの身体をくるんでいたのかもしれないな。わたしはあたりを見回して、それを丸めて握りしめる。指に巻きつけ、ほどく。

降りなかったところにばかり行きたくなるのよね。旅行のたびに、乗り物の窓から外を見る。目をあげ、窓を見るたびに、あたらしい風景がひらかれている。降り立っていない、さわっていない、ガラス越しの、ぱらぱらマンガみたいな細切れの風景画。ひとつながりの風景なんてほんとうはどこにもないかもしれません。窓の外は暗い。建物のようなものたちの影ばかりよぎっていくでしょう? 見えても見えなくても、窓は景色を置き去りにするのです。タマネギのように、一枚一枚窓の皮が剥ける。窓を見ていると、わたしも細切れになってしまう。細切れのわたしはどこに折り重なっているのか。窓をあけてみればどうだ? 首元にすうっと風が通った。

指と布のあいだには、どんなに近づけても暗い隙間ができます。溶け合わない。混ざり合わない。こすりつければこすりつけるほど、隙間が大きな地割れみたいに開いてゆく。布の向こうにわたしの指が透けて見える。ふうっと、わたしが向こうにいってしまいました。隙間に吸い込まれて、布の向こう。

どこに住んでどこで働き、何を食べて何を着て、どうやって暮らしているのか。趣味は何で、最近どんなものを見たか。何を訊かれても、喉のところでいつも言葉がつまずいてしまう。どこって何だ。お前はほんとに暮らしているのか。何を答えても、ほんとのことじゃないみたい。落ちている石をでたらめに拾っているみたい。石を拾う指がなんだかいやしいな。やましいことがあるんじゃないか? 何を話していても、だれが話しているのかわからなくなってしまうのでした。砂時計の底に穴があいて、砂がどんどん流れ落ちてゆくように。切れ目の、ほつれたところがわたしみたいで悲しくなる。ざらざらのふぞろいの糸の先を撫で続ける。

仕事場でキーボードを叩いている。事務机の上に重ねられた伝票をめくり、日付け、科目、品名、値段。ボールペンで書かれた文字が目からはいって指に抜ける。あれはわたしかもしれません。キーを打っているとき、わたしは身体のどこにもいなくなって、文字だけが空っぽの筒の中を通り抜けていっている。あなたがどこにもいないなら、それはもうあなたの身体ではなく、伝票、というものの一部になっていると考えた方がよいのである。重ねた伝票を黒い紐でたばねて、わたしが運んでいった。大きな引き出しをあけ、かさかさした白い襞を覗き込み、身体、どこに行ったんだろう、と呟いている。

休み時間になると女の子たちは決まってリリアン編みをしている。五本のツノがはえたリリアン編み機はきれいな色のプラスチックでできていて、どこにも気味の悪いところはありませんよ、と主張しているみたいだったけれど、形だけ見ると短く切った腸のようで、お尻から流れ出してくるリリアンも、糸でできた腸みたい。うつむいて、つむじがいくつも丸く並んで、回転する。何に使うのか、何も使い道なんてない腸。使い道がないことに気がつくのがこわくて、わたしはいつまでも一本のリリアンを編み続けていた。何日も何ヶ月も。カバンのなかに編みかけの長い長いリリアンがいつまでもとぐろを巻いていて、どうしようもなくなってカバンごと川に捨てた。

布に触れていると涙が出そうになる。着ている服を今すぐ全部脱いで、布を身にまといたい。そういう欲望がイボのように皮膚の上に突き出してくる。それはわたしにはめずらしい現象でした。いままで気がつかなかったが、服なんて嫌いなのだ。身体の形をうつくしく見せる。そういう服に入り込んでゆくのは気持ち悪い。そう思っているんです。うつくしいのが何なのか、服なのか身体なのか。そのへんのところをはっきりしてもらいたい。

服も下着も全部脱いで、汗も垢も流して、産毛も剃って布をぐるぐる肌に巻きつけたい。肌が赤くなるほどきつく巻きつけて、肌のことなんか忘れてしまえ。いいえ、身体のことなんか。どこからやってくるのかわからない欲望が、わたしの身体を乗っ取って、わたしになってしまいます。憑き物というのも着物の一種である。着るもの、ではなくて、着くもの。憑き物に包まれることで、はじめて、見えなかった身体が見えるようになる。身体でも服でもなく、そのときだけやってくる。

穴ばかりが見えてくる。布というのは、つるつるの隙間のない面だとずっと思い込んでいた。でも、面なんかどこにもなくて、あるのは小さな隙間ばかりでした。隙間なら隙間で何が悪いんだ。どんなものでもびっしり詰まったものだと思ったら大間違い。あなただって、ほんとはびっしり詰まってなんかいないんです。あなた? あなたってだれ? そう言おうとして喉までこみあげてきた声が、舌のうえで網のように広がっている。あなた、と聞こえるけれど、ほんとうは、あんこう、なべ、たべたい、と言っているのかもしれない。あみだくじは、なみだもろい、たんぺんしょうせつ、と言っているのかもしれない。そんな言葉にはわたしはまったく責任が持てない。

あれは何? あれ、って? 闇の中から母親の声がかえってくる。あの音、さあ、っていう小さい音。ああ、あれは蚕の音だよ。ふくらはぎが畳に擦れる。草のような、土のような匂いがする。障子のすぐ向こうに蚕がいる。桑の葉が敷き詰められた棚の上に、たくさんひしめいている。畳に蚕が敷き詰められているような気がしてくる。寝返りを打つ気配がする。蚕の音って? 蚕の音って、何の? 蚕が葉っぱを食べる音だよ。ほんとうに母親だろうか。おかしいんじゃないか。そっくりだけど、どこかぺったりしている気がする。もっと奥行きがあったんじゃないか。昼間聞こえなかったその音が、夜ほかの音がなくなると聞こえてくる。ささささささ。母親に手を伸ばす。やわらかい感触に指先が触れたとたん、肉だと思った塊に穴があいて、指先が穴の中にもぐってしまう。細い糸。編み目。はっと指を見ると糸が引っかけられ、うしろから長いリリアンが垂れている。

むかし、父親と母親とうつくしい娘が住んでいた。家には馬が一頭飼われていて、娘はこの馬をとてもかわいがっていた。あるとき、とうとう娘は馬と夫婦になってしまった。父親は怒って、馬を桑の木に吊るして、殺してしまった。娘はそばで泣いていたが、どうしようもなかった。父親が馬の皮を剥ぐと、その生皮が娘の身体にぐるぐる巻きついて、娘を包んだまま空に飛んでいってしまった。父親と母親が嘆き悲しんでいると、夢に娘があらわれて、わたしのことはあきらめてください、と言った。そのかわり、朝、土間の臼のなかを見ると、馬の形をした虫がいますから、それをあの桑の木の葉を敷き詰めた上で飼ってください。虫は桑の葉を食べて大きくなると、絹糸というものを作ります。それを売って暮らしてください。娘はそう言って消えていった。

蚕は孵化して一ヶ月くらいたつと白い糸を吐きはじめ、身体を覆いはじめる。はじめはうっすらと透けている膜が、一週間ほどで白いしっかりした繭になる。白い繭。いくつもいくつも、動きもせずに。あれを茹でて糸にするんだよ。繭の中で、虫の身体はいったんどろどろに溶けて、成虫の身体に作り直されます。糸は織られて布になるが、虫の身体は残らない。さささささ、という音を聞いていたあの夜が、あったんだかなかったんだかわからなくなる。さあさあというかすかな音が皮膚の表面に広がってゆく。

「昔ある処に貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、ついに馬と夫婦になれり。ある夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父はこれを悪みて斧をもって馬の首を切り落とせしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというはこの時よりなりたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像は三つありき。」(1)

明るい教室に声が響いている。突然、光が膜のように覆いかぶさってくる。ちがう、首じゃなくて、皮のはずだ。わたしは身体の外側から締めつけられているみたいで苦しく、質問どころではありませんでした。だれかが、先生、馬と夫婦になるってどういうことですか、と訊くと、教師は黙ってしまい、生徒たちはみんなくすくす笑った。

「口寄せは手に裁縫道具の針指のごとき物を持って祈ると言われた。すなわち一尺余の棒の端を布類をもって円く包んだ物である」。腕に青い布が巻きつき、垂れさがった先が揺れている。川みたい。川、皮。「オシラ神、オシラサマまたはシラアなどと称する物で、イタコあるいはモリコという口寄せ巫が持ち歩く」。川には遊びに行ったことがある。「谷を隔てて生立る桑の樹の枝を採り、東の枝を雄神西方を雌神とし、八寸余の束の末に人の頭を作り」、流れの中に腰まで浸かって歩いてゆく。「絹綿をもって包み秘め隠し」、水の中でひらひら漂っていた服が、立ち上がったとたんぺったりと肌に張りついてくる。「左右に持って呪詛すれば、その神巫女に掛って吉凶を言う」。手の中の布が、さあさあと音を立てた。(2)

それは濡れたゴムホースでしかなく、あなたとは無関係にいつも何かを通しているのです。放っておくと、リリアンみたいにどこまでものびていってしまうかもしれない。からまってもつれてしまうかもしれない。勝手に増えてしまうかもしれない。まな板の上に横たわって、だれかに切られてしまっても文句はいえない。そういうよそよそしさがある。それが不安で、みんな服なんか着ている。でもそういうことって、どうせすべて欺瞞ですよ。

布は少しずつほつれて細い糸になった。電車がぐらりと揺れ、光が近づいてくる。ほんとうは電車が近づいていっているのだけれど。無駄なんだ、無理なんだ、進むことも、織ることも、形にすることも。糸はだれのものでもない。つっかえつっかえ、蛍光灯が光っている。天井から吊られた広告が何枚も何枚もぱたぱたとはためき、手すりの銀色の光が指から染み込んで行き場がない。わたしの身体は織られています。だれも糸を持つことはできないのだ。細切れになった光が電車に轢かれてゆく。この世に電車ほど大きな車輪はないんだよ。網棚を見上げ、皮膚は網目になって、どんどん透けてくる。つるつるの皮なんてどこにもないんだ。はじめからそこには穴しかない。身体、どこに行ったんだろう。裂けてるよ。端から。少しずつ。漂っていた。灰色の床の上に。糸が。




(1)柳田國男著『遠野物語』
(2)「」内の引用はすべて柳田國男著『巫女考』





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