| 明空2号収録 |
水爪 大下さなえ文字を書いていると、肌をかきむしられているような気がするの、と蔦子は言った。蔦子は毎日毎日真っ白な紙に文字を書きつけていた。夜になるとわたしは蔦子の部屋を訪れる、ほかに用がない限り毎日。昼間蔦子が何をしているのか知らなかった。働いている様子はない。でも、洋服にも食べ物にもあまり関心がないようで、いつも同じ服を着て、乾いたペットフードのようなものを食べているだけだったから、お金もかからないのだろう。娯楽の方も、わたしがときどき与える本だけで満足しているようだった。 ところがその妙な病気がはじまってから、蔦子はわたしが与えた本を読まなくなってしまった。訪ねていっても、ぼんやりしているだけだった。蔦子はもともとぼんやり見えるたちだったが、顔や身体の輪郭までぼんやりにじんでしまって、何を考えているのかはっきりしないどころか、いるのかいないのかはっきりしないような状態になってしまっていた。あるとき、蔦子はすっかり上の空になり、ひとりで机に向かい、話しかけても何も答えなくなってしまった。手だけがするすると動いていたが、ほかの部分は硬直したままで、植物になってしまったみたいに見えた。しばらくすると、頬に赤みがもどり、瞳にも光が戻ってきた。何をしていたのか、と訊くと、文字を書いていたのだ、と答えた。書いていると、同時に喉が裏側から引っかかれているような気がする、傷がついて、血がにじむ。蔦子は書かれたものを読むようにそう言った。わたしは、そんな思いをしてまで文字を書くことはないでしょう、と訊いた。痛いけれども、引っかかれる感触が身体じゅうに広がって、書かずにいられなくなるの、と蔦子は言った。 はじめは断片でした。喉の奥に大きな塊が引っかかっていて、どうしても吐き出すことができず、指を口の中に入れたとたん、何かが指に噛みついてきました。あわてて指を引っこ抜くと、何も見えないのに、何かがからみついている感触がこびりついて、指の先の方がむずむずしてきました。しめつけられて指が十倍にも二十倍にも膨らんできたような気がして、じっと見つめると、爪と皮膚の隙間から、水がにじんでいました。近くにあった紙になすりつけようとすると、爪は思ってもいないなめらかな動き方をして、紙の上に透明な図形を描きました。何度も何度も同じ形をなぞって指が動き、動くたびに、喉の裏側が引っかかれているようで、かゆくてたまらなくなり、わたしは自分の指が一生止まらないのではないかと不安になりました。それにしてもいったい何の形を描いているのだろう、と気になって鉛筆を持つと、導かれるように自然に腕が動いて、さっきの形を描きました。それは文字のようなものでした。何という字なのかはわかりません。見たことのないものでした。でも、それが文字だということはわかりました。行ったことのない土地の地図でも、それが地図だとわかるように。不思議なことに、いったん文字が紙の上に描かれると、指の動きは止まりました。それから毎日、急に、それがやってくるようになりました。時間は決まっていません。おかまいなしにやってきて、紙にそれを書き写すまで、去っていってくれないのです。近くに紙のないときは大変です。内側からかきむしられ、身体に文字の形の破れ目ができてしまいそうになるのでした。 文字といっても、自分でも読むことはできない、夢のようなものなのだ、と蔦子は言った。燃えるような、かきむしられるような感覚は書いているときだけ、あとで眺めても、もう自分にはまったく関係のない、鏡の中の燃えかすのように見えるのだ、と言う。文字というのは学校で習ったとおり、形を真似てまちがえないように書くものでしょう、読めなければ文字ではない、だから、まちがえないように、忘れないように、みんな努力しているんじゃないの。わたしは諭すように言った。読めないのなら、蔦子はなぜその図形を文字だと言うのだろう。そんな勝手な癖は直さなければならない。でも、わたしがどんなに頼んでも、蔦子は自分が書いた文字を決して見せてくれなかった。 本を読むのはきらいでした。でも、あの人が持ってくる本を読まないわけにはいかないのでした。本を開くと息苦しい。うしろからぬるっとしたものがたくさんのびてきて、身体じゅうにからまってくるような気がする。身体じゅうに湿ったものが張りついて、湿った感触が波のように身体のなかに染み込んで、身体のなかに冷たい水がいっぱいになる。液体になった眼球がはいってきて、身体の内側からのぞかれているみたい。わたし自身が大きな眼球になってしまったようでした。それも、わたしのものではない眼球です。どこかで似た光を見たことがある。突然、それが毎日部屋にくるあの女のもののように思えてきました。彼女がわたしに本をくれていたのは、そうやって、わたしの身体のなかにはいろうとしていたからかもしれません。そう思うと本のページがどれも水に浸かったように重く、溶け合ってしまい、一枚ずつ剥がすことができなくなってしまったのです。わたしは本を読めなくなりました。水を吸った文字は重くて重くて、目をぐいぐい引っ張るのです。水はあの女の形のない眼球です。それがわたしの目をひきちぎって吸い込もうとするのです。わたしはなんとか女の目から逃れたいと思いました。 あれがはじめてやってきたのは、そのころでした。まず感触がやってきて、身体を動かしてはじめて形になる、あの文字。ぶつぶつの、ざらざらの、手触りがそのまま形になる。何をさしているのかさっぱりわからないのに、わたしにとっては何よりもなまなましい。読むことはできない。読むことなんかできなくていい。そもそも読むって何だかわからない。毎日それがやってくるのを待つようになると、あの女が訪ねてくるのが鬱陶しくなってきました。けれども断ることはできません。そもそも、来てくださいと、わたしが頼んだわけではないのです。だれが頼んだのでしょうか。よくよく考えてみると、彼女がどうしてここに来るのか、いつから来るようになったのか、何ひとつ覚えていないのでした。わたしは彼女から文字を隠さなければならない、と思いました。なぜか、知られることがこわかったのです。ところがあろうことか、とうとう彼女が部屋にいるときに、それがやってきてしまったのです。彼女は、あのぽたぽた水が滴ってくるような目をわたしにくっつけてくるように見開いて、文字を見せろ、と言いました。 蔦子はだんだん衰弱し、わたしの目には、日に日に薄べったくなっていっているように見えた。蔦子を守らなければならない、と思った。わたしは、蔦子のそばにずっとついていることにした。夜、蔦子が眠ってしまったあと、わたしは、机の引き出しから、蔦子の書いているものを引っ張り出した。蔦子は文字と言っていたけど、こんな文字は見たことがない。何本もの曲線でできた、変な形。毎日こんなものを書いていたら、具合が悪くなるに決まっている。でも見ていると、紙に引き込まれてしまった。紙の上に降りてゆくと、しだいに黒い線がひとつひとつ大きくなって、ハネやハライに似た線の端の部分が皮膚を刺してきた。 降り立って目をあげると、蔦子が前に立っていた。まわりは暗く、蔦子だけがぼんやり明るく見えた。蔦子は、井戸に行く、と言った。自分が水を与えなければ井戸が空っぽになってしまう、と言った。そんなことはない、井戸は土のなかに植物の根のようにのびて、水を吸ってくるのよ、と忠告しても、蔦子はきかなかった。でも身体が弱って水を運ぶこともできない、代わりに行ってくれないか、と言うのだった。蔦子があまり熱心に頼むので、言われた通りに歩きだした。井戸にはなかなかつかなかった。歩いているうちに、小さいころ読んだ童話を思い出した。病気になった子どもの命を救うために井戸に行く母親の話。ようやくたどりつくと、神様が母親に前に現れて、井戸をのぞきなさいと言う。井戸のなかには子どものふたつの未来が映っているのだった。病気が癒えて生き返った子どもの将来は、貧しく苦しいものだった。病気で死んでしまった子どもは天国で幸せそうに笑っていた。母親がどちらの未来を選んだのか忘れてしまったが、わたしはその話がこわくてたまらなかった。わたしが生きることができるかどうか決めるのは、わたしではなく母親なのだ。母親を見るたびに、わたしを殺さないでください、と心のなかで祈った。生きることも殺すことも、同じ「愛」という言葉によって理由づけされる。そう思ったときから、「愛」という文字がだぶって見えるようになった。文字がだんだん大きくなって重なりあい、木のようになる。わたしはその木に迷い込み、どこかの枝にからまったまま動けなくなってしまう。それまでレース編みのように見えていた「愛」という文字は、気がつくとハライやテンなど、とがった先端の多い文字で、さわろうとすると何カ所も皮膚を引っかいてきた。それでも野バラのようにうつくしく、痛くても抱きしめたくなるのだった。 井戸になんか行きたくない。わたしはようやく自分の気もちに気づいて呟いた。そのとたん、わたしは目の前に井戸があることに気づいた。井戸は、何かが出てくるものというよりは、何かを引き込むもののようだった。井戸の底が目に映ると、目の皮膚が暗く澄んで、ゆらゆら揺れて止まらなくなった。わたしの目はわたしの顔についているのではなくて、井戸の底の水面がわたしの目のような気がした。井戸というのが得体の知れないものに思えてきた。井戸には水脈がたくさん集まっているらしいけれども、水脈を見た人なんていない。地表の毛穴のようなところから水を吸い込んで、見えないところでからまりあって、寄り集まって井戸にやってくる。井戸に水を入れたら、水は細い筋を逆流して、最後は空に散り散りにばらまかれるのだろうか。おそるおそる井戸をのぞき込むと、急に水面があがってきた。あっと思いながら目を離せなくなってしまった。水はみるみるうちに縁までのぼってきた。透明なはずの水が深い色に見える。暗い。ぬるぬる揺れて光る。水というより内臓のよう。思わず水に指を浸した。冷たい感触が皮膚を通して身体の中にしみこんできて、そこから裏返るように、わたしは井戸のなかに引き込まれてしまった。 そのとき、それがやってきました。わたしは眠りのなかにいました。眠っているときにそれがやってきたのははじめてでした。どこかが痙攣するようにふるえています。でも、どこなのかわかりません。眠りの中では、わたしはばらばらになった自分の身体でできた水の中に潜っているようなものです。世界のすみずみまでわたしです。どこに何があるかわかりません。そんなとき、それがやってきたのです。いつものようにそれが動きはじめます。ところがわたしの身体はすっかり水になってしまっていて、軌跡を記憶することができないのでした。水のなかをすうっと通りすぎて、跡形もなく消えてしまうのです。痛みはありません。かきむしられることもありません。激しい動きにかき乱されながら、あとには何も残らない。わたしは、いつもにも増して、それがかけがえのないもののように思えてきました。どうにかしてわたしの目を覚まそうとしました。でも、眠っている最中は、瞼は世界の外にあって、さわることができないのでした。 井戸をどんどん落ちてゆく。また「愛」という文字のことを思い出した。大人になるにつれて、わたしのなかの「愛」はどんどん複雑で立体的な形になり、ほとんど無限といえるような画数になって、とても書くことはできなくなっていた。あい、と口に出してみると、その発音はおだやかで、広い平原のようなところを思わせた。「愛」という字とは似ても似つかない。複雑になってしまった「愛」という文字を思い浮かべながら、唇をひらくと、「つたこ」という発音が飛び出した。蔦子の目、蔦子の皮膚、蔦子の書いた文字。頭のなかにいろいろな蔦子の像が浮かび上がった。蔦子の体温、蔦子の息の匂い、蔦子の低い声。浮かび上がる蔦子は、「蔦子」からも「つたこ」からも「愛」からも「あい」からもはみだして、どんどん大きくなって広がってゆく。何重にもからまりあった「愛」が、薄く一枚ずつ剥がれて、ひらひら飛びはじめた。厚みがあると思っていたのに、奥行きに見えていたのは影にすぎず、「愛」は薄っぺらなものだった。眺めているうちに、わたしは自分の身体が少しずつ薄くなっていっていることに気づいた。蔦子の髪、蔦子の産毛、蔦子の薄い爪。どれが蔦子の本体なのかわからなかった。蔦子は種がはじけるようにどんどんばらばらになり、ふわふわ飛んでいってしまう。わたしは、井戸の底に向かって落ちてゆくしかないのだった。どんどん薄くなって、こんなに軽くなっているのに、どうしてまだ落ち続けなければならないのだろう。蔦子の肉、蔦子の細胞、蔦子の血。たくさんの蔦子。蔦子の涙、蔦子の汗、蔦子の唾液。蔦子が食べたもの、蔦子の飲んだもの、蔦子が流したもの。蔦子の身体を形作っているものは、もともと蔦子じゃないものばかりだ。蔦子は蔦子と言い切れない。「闇」といっても、そこに闇というものがあるわけではないのと同じように、「蔦子」と言ってもそこには蔦子なんていない。蔦子というものなんてない。「愛」という字が無数に舞っていた。「愛」は葉っぱのようなものだった。「愛」の中にしまわれている愛たち。「愛」からのび、広がってゆく愛たち。限りなく似ていても、葉脈がまったく同じ図形を描く葉っぱがないように、「愛」という字もどこがが少しずつちがうのだった。やがて水面が見えた。おかしい、わたしは水の中を落ちているのに、どうしてまた水面が見えるのだろう。水のある場所を突き抜けて、反対側に出てしまったのだろうか。水面といっても、水の中から外を見ているのだった。「愛」たちが水面にぶつかって行く。砕けて、一画一画がばらばらにほどけてゆく。その断片を浴びながら、わたしもぐんぐん水面に近づいていった。 蔦子が眠っている。閉じられた瞼の中で、瞳にぎっしりと文字のような形が浮かび上がり、やがてにじんで、消えていった。目を開けると、蔦子は何かを忘れてしまったような気がした。わたしは、もうどこにもいなかった。 |