明空1号収録 

お姫様の耳     大下さなえ




わたくしは森のはずれに住む老いた豚でございます。いまでこそ滅多に人の訪れることのない侘び住まいでございますが、いつも頭からはなれないもの、それは小さいころからお育てしたお姫様のことでございます。麦秋のような黄金色の髪、瞳の大きな潤んだ目のそれはお美しいお姫様でございました。幼少のころは、わたくしを訪ねて、毎日のようにこの森にいらしたお姫様も、最近ではせいぜい週に一回、ひと月に一度もおいでにならないときもあり、わたくしとしてはさびしく感じられますが、それもお姫様が成長されたしるし、うれしくもあったのでございます。

ある日、久しぶりにわたくしを訪れたお姫様は、こころなしか、以前よりほっそりとなされたようで、その美しさにお変わりはなかったものの、少し疲れているご様子でした。頬の膨らみがなくなったせいで、瞳がさらに大きく見え、首が細くおなりになったせいでしょうか、その麦秋のような黄金色の髪も、以前よりふさふさと見えることが、お疲れを強調しているようで、胸が痛みました。お姫様はその可愛らしく小さい口をふるわせながら、世の人々は、わたくしのことを、あの者は獣らとも交わる色情狂なのだと言うのです、とおっしゃいました。色情狂というのがどういうものか、無学な豚のわたくしの理解は及びませんでしたが、その濡れた瞳、痛々しげなご様子から察するに、それがお姫様の心をいたく傷つけていることが読み取れ、わたくしは胸が苦しくなり、お姫様を苦しめている者たちへの怒りで、気が狂いそうになりました。さしだされたお姫様の頭を、お姫様がまだ小さかったころのように抱きしめると、その麦秋のような黄金色の髪がぱさりと音を立てて分かれ、ひどく傷つきやすそうな薄い皮膚で覆われた、白く小さい耳が、わたくしの目に飛び込んでまいりました。

お姫様の耳は、傷ついて、やぶれそうになっていました。わたくしはいとおしくてたまらなくなり、お姫様がまだ小さかったころのように、耳介を丹念に舐めてさしあげ、耳の穴にも舌をさしいれ、さらさらした金の粉を丁寧に舐め取ってさしあげようとしました。ところが、お姫様の耳の穴は以前よりもずっと複雑な形になっていて、細かく枝分かれし、わたくしの知らない道筋が何本もできていたのでございます。わたくしは、ねたましいような、それでいて引き込まれていくような、奇妙な気もちになり、いつか夢中になってむさぼるように、どんなに細い穴も残らず舐めてさしあげようとしておりました。舌で探ると、お姫様の金の粉は甘く、とくに、複雑な襞の奥に隠された粉は、いまだかつて味わったことがないほど甘く、舌にとろけるようで、わたくしの舌は飽くことなくそれを求めて、お姫様の複雑な耳の穴の中をさまよったのでございます。

わたくしの膝はしだいにあたたかく濡れてきて、お姫様が涙を流されているのだと気づきました。お姫様に、お姫様を傷つけるような噂を流しているのはいったいどこのだれなのですか、とうかがうと、お姫様はぐっとその可愛らしく小さなお口を閉ざし、いやいやをするように首をお振りになりました。そのご様子は、小さなころのお姫様とはちがっていて、わたくしの知らない人間の女性の表情のようで、わたくしは、お姫様の内側にわたくしの知らない魔物が宿っているような気がしていてもたってもいられなくなり、お姫様を押し開いて、中をすべて確かめたくなって、しつこくお姫様を苦しめているのがだれか、問いつめたのでございます。お姫様は、それでもしばらくかたくなにお話になることを拒んでいらっしゃいましたが、やがて、小さく、狐、とひとことだけおっしゃって、また口をぎゅっと結ばれました。その、狐、という響きは、なんとも形容しがたいもので、単純に憎んでいるのではない、奇妙に甘えるような響きがあることにわたくしは胸騒ぎを覚えたのです。

その胸騒ぎは的中いたしました。ああ、何ということでしょう。ある日わたくしが、茂みのなかのひんやりとしたくぼみに身を這わせて昼寝をいたしておりますと、どこかからはなやかな声が聞こえてまいりました。その鈴のような細い声が、お姫様のものであることにわたくしはすぐに気がついて、声をおかけしようかと、まどろみから身を起こそうといたしました。ところがそのとき、お姫様の声といっしょに、低い声が聞こえてきて、わたくしは、なんといやらしいことでしょう、身をひそめ、その声の主がだれなのか、こっそり見極めようとしたのです。それがあの憎らしい狐であるのを見届けても、わたくしにはまだ何が起こっているのかわかりませんでした。いいえ、わかっていたのに、認めたくなかったのかもしれません。

お姫様と狐めは、わたくしのすぐそばに寄り添って座って、しばらくすると、あろうことか、お姫様は、憎たらしい狐めに頭をすっかり預け、わたくしのものだったはずの、白くやわらかい耳に、狐めの長い爪をさしこまさせているではありませんか。そうして、狐めは、お姫様に向かって、無礼な口調で、この色情狂めとか、淫売め、とか、無学な豚のわたくしには、怒りに打ち震える無学な豚のわたくしめには、はっきりと意味はつかめませんでしたが、おそらく声の調子から、お姫様を辱めるような言葉を、あの意地の悪そうな薄い色の瞳を、ぎらぎらとかがやかせながら、お姫様に浴びせているのです。わたくしは怒りで身体中が沸騰しそうな思いでしたが、それよりも身悶えするほどくやしかったのは、お姫様がその言葉を聞き、狐めの長い爪で、あの可愛らしい白くやわらかい耳をえぐられながら、なおも目を閉じて狐めに頭を預け、その表情がうっとりとしているようにさえ見えたことでした。

わたくしはお姫様を辱められた悔しさと怒りで、しばらく身体を打ち震わせておりましたが、なぜか出ていって狐めを追い払おうという気にはなれず、ただいつまでもなりゆきを見守っていたのです。いつのまにか、身体を震わせていた怒りという感情が、うずうずするような快感にすりかわっていることに、わたくしは気づきながら気づかないふりをしておりました。狐めの長い爪が、お姫様の耳をえぐるたびに、お姫様の耳の中にあの複雑なひだひだが増えていくのだと思うと、次にお姫様の耳を舐めてさしあげるときのことを想像して、下腹が熱くとけそうになってしまうのです。あの複雑な味わいをつくっていたのが狐めの爪だったことに気づくと、狐めが長い爪を動かして、お姫様が、細い眉をきゅっと細めるたびに、わたくしの舌もお姫様の耳の襞の奥に隠された、金の粉の味を思い出してあまくなり、お姫様と狐めとわたくしの三人の吐く息で、あたりじゅうの空気が腐ったような匂いをはなっているのでした。





明空1号
きゅぴ島home薄明の果実home