明空4号収録 

グジグジ     大下さなえ




空気の中にびっしりと産毛が生えてしまったような湿った日。じめじめと長い長い産毛の束が、身体じゅうにまとわりついてくる。ガラスにももやもやとした産毛が密生し、外は見えない。こんな日は、きっとあれが来ているにちがいない。あれ。マユコは、うんざりするような、待ちこがれるような気もちで、階段を降りて行く。郵便受け。並んだ、同じ形の銀色の箱たち。四角い紙に書かれた名前。宮崎、飯田、小林。マユコは自分の郵便受けの口に、にゅっと手を差し入れる。ぬめぬめとした感触。指にからまってくる。やっぱり、きょうも来ている。マユコは郵便受けからそれを引っ張り出す。暗い色の、細い、糸ミミズみたいなもの。もじゃもじゃ複雑にからまりあって、いくつも結び目を作っている。何だろう、これ。いつもわからない。マユコはそれを手に持って、急いで部屋に引き返す。

何だろう。マユコは机の上でそれを広げる。いつもからまりあっている。でも毎回からまり方がちがって、別の形に見える。マユコは、ちぎってしまいたくなる気もちを押さえつけ、丁寧にそれをいじる。そいつが、くいっと身体をねじる。痛いの? マユコはどきどきする。きゅっ、とひねってみる。ぶにゅっ、と押してみる。水族館で見た、クラゲのからまった足を思い出す。あれ、もうほどけないんだろう、死ぬまで。死んだらクラゲの身体は溶けてなくなってしまうんだ、って聞いた。身体って、変。マユコはピンセットを取り出して、そいつのあちこちを引っ張りあげる。きゅうっ。鳴き声だろうか。これって、生きてるんだろうか。箸とピンセットで引き伸ばしてみる。嫌がっているみたいにぶるぶる震える。マユコは息が荒くなって、自分がポンプになった気がする。ぎゅうっと引っ張る。手を離すと、ぶるっとしてすぐもとの形に戻ってしまう。きゅうっ、とまた鳴ったような気がしたが、耳を澄ましてももう何も聞こえない。マユコはしばらく机の上にそれを出していじっていたが、少したつと飽きてしまった。

戸棚をあけて空き瓶を探す。それが来るたびに、いつも瓶にしまう。なぜしまわなければならないのか、自分でもわからない。でも来るたびにしまい続けて、四畳半の和室の畳の上は半分くらい埋まってしまった。ひとつずつ別々にしておかないとまざってからまりあって大きな塊になってしまいそうで不安。これ、腐るんだろうか。透き通ったガラスの中のあれが畳の細い目の上にぼんやりした影を作っている。いつからあるの、こんなに増えてしまって。でもなぜか捨てられない。好きでも嫌いでもない。ほんとうはマユコはそれの細さがこわい。あれくらい細ければ、耳の穴のような場所からわたしの中にはいってきてしまうかもしれない、とマユコは思う。だから瓶に閉じこめている。それでもいつガラスを割って飛び出してくるか不安で、マユコはあれが家に来るようになってから、いつも身体じゅうの穴を引き締めている。傷ができればすぐに絆創膏を張る。ピアスも開けない。でも、ふさごうとすればするほど、自分の身体が穴だらけ、隙間だらけに思えてくる。

めずらしく、家に空き瓶がなかった。いつもは、いつそれが来てもいいように、瓶を用意しているのに。瓶を買いにいかなければ。マユコはそれをビニール袋に入れて口を結んで、しぶしぶ立ち上がった。空気の中のじっとり濡れた産毛。あちこちから触ってきて、肌の上を這う。マユコはそれが嫌いだ。空気のような形も大きさも年齢もわからないものが生きものだと知らされるのはやりきれない。だからこんな日は外に出たくない。雨は傘で防げるが、産毛は剃っても剃っても、抜いても抜いても生えてくる。ひんやりしたプラスチックの匂いがするスーパーに滑り込むと、マユコはほっとする。団地で育ったマユコは、自分が工場で生産されたもののような気がするときがある。同じものがたくさんあるところは安心。そこに紛れ込んで、いくらでも取り替えのきく身体でいたい。マユコは自分がクラゲのように溶けてなくなってしまった気もちになる。身体の幽霊。町の中で、心でも魂でもなく、身体の幽霊が浮いている場所があるとしたら、スーパーのような場所だろう。客はほとんどマユコと同じような年格好の女の人で、だれもかれも無言で、品物から品物へ、次々と、品物たちに取り憑かれるように移動させられている。あの人たち、何を探しているんだろう。隣の人の横顔をのぞき込むと、目の中に香辛料の粒が浮き上がっては消えてゆく。

あれを入れる瓶。ジュースの瓶、ケチャップの瓶、マヨネーズの瓶。目移りする。マユコも次々と棚を移動してゆく。中にはいっているものではなく、透明な器を見ている。見えているのか見えていないのか、透明なものを見るときはいつも迷う。マユコはジャムをカゴに入れてレジに並ぶ。列ができている。みんな、中身ではなく器を買っているのかもしれない。お金を払うと、マユコは急いで家に帰ってくる。中身は捨てて、きれいに洗う。例のものを入れ、四畳半の部屋に並べる。畳の上の瓶たち。差し込んでくるぼんやりした光に照らされて、つるっと光っている。瓶でなければならない、とマユコはいつからか決めている。あれが郵便というビンで運ばれてくるからかもしれない。瓶にいれておけば安心だ。だって、あれはわたしのじゃないもの。宛名もついてないし、わたしには何だかわからない。郵便というビンでやってきたものを別のビンに入れただけだから、それはわたしのところに着いたことにならない、とマユコは思う。瓶の中に入れることによって、部屋の外に追い出しているのかもしれない。そう言われてみれば、昔、瓶に手紙を入れて海に流す遊びがはやったことがあったけ。海を渡って、どこか知らない遠い国の人が手紙を拾って読んでくれるかもしれない。男の子も女の子も競って瓶を流していた。

瓶のことを考えているうちに、マユコの頭の中に、うつぼ舟の話が浮かびあがってきた。小学校のころ塾の講師に聞いた昔話だった。昔、ひとりの姫がいた。姫の母親は継母で、姫を憎み、父親が留守の間に、姫を鷹の山に捨ててしまった。姫は鷹に襲われそうになるが、鷹は姫を見て、おまえのようなきれない姫ごをどうしようもあるもんじゃない、と言って、御殿に返してくれた。継母はくやしがって、七日後にまた姫を猪の山に捨てたが、猪も姫を殺さずに御殿に返してくれた。継母はますますくやしがって、姫を桶にいれて庭の隅に穴を掘って生き埋めにしてしまった。父親が帰ってきて、庭の隅の土が光っているのを見て、掘ってみると、桶が出てきた。桶には姫がはいっていた。姫はまだ生きていて、喉の奥の方で何かがグジグジ言っている。しばらく介抱していると元気になり、父親が何があったのか訊ねたが、姫は継母の悪事のことは口にせず、いつのまにかあのようなところにはいっていて、そのあいだ一心に経を唱えていた、と言った。また父親が出かけると、継母は腹をたて、七日後に今度は丸太でうつぼ舟を作り、姫をそこに入れてかたく蓋をし、海に投げ込んでしまった。頑丈な舟は壊れないまま、何年も海の上を漂い、中で姫はごろごろ転がっていた。あるとき、漁師の爺が打ち上げられた丸太を見つけ、蓋を開けると中に姫がはいっていた。まだ死んだわけではなくまた喉の奥で何かグジグジ言う声がする。爺は姫を家に連れて帰り、婆とふたりで介抱する。何があったのか訊ねられても、姫はまた、いつのまにかあのようなところにはいっていて、そのあいだ一心に経を唱えていた、と答えた。子どものいなかった爺と婆は喜んで姫を育てたが、ある日姫はぽっくり死んでしまった。姫は息を吹き返さず、爺と婆は姫を棺桶に入れたが、惜しくて埋めることができない。棺桶を座敷において、毎日蓋を取って眺めていた。ところがある日蓋を取ると、姫の姿は消え、かわりに小さな真っ黒い虫が桶いっぱいにうようよ動いていた。爺と婆はびっくりしたが、姫のかわりだと思ってこの虫を大事に飼うことにした。姫が乗っていた舟が桑の木でできていたので、桑の葉を与えてみると、虫は喜んで食べ大きくなっていった。だが七日たつと虫たちは動かなくなり、食べなくなった。その夜姫が夢枕に立ち、自分は一度鷹の山に捨てられたことがあり、そのとき何も食べなかったので、きょうは虫も何も食べない、一日たてばまた食べるようになる、と言った。姫の言った通り、次の日になると虫はまたどんどん食べるようになり、青白く透き通った身体になった。また七日たつと虫は何も食べなくなり、また姫が夢枕に立ち、鷹の山に捨てられてから七日後に猪の山に捨てられ、何も食べなかったので、虫も今は食べない、一日たてばまた食べるようになる、と言った。次の日になると、虫はまた食べるようになった。それから七日後、虫はまたじっとして何も食べなくなった。姫がまた夢枕に立ち、自分は猪の山に捨てられてから七日後に舟に入れられて流されました、虫たちは今度は一匹ずつ繭というものをつくります、蛾にして卵をとるための虫を少しだけ残して繭を煮れば、絹という美しい糸がとれます、と言い、爺と婆は姫に教えられた通りにして、たくさんの絹糸をとった、という筋だった。

肌のつるっとした男の塾講師が、小学生だったマユコにこの昔話を語って聞かせたのは、マユコがマユコという名前だったからかもしれないが、マユコはそんなことには気づかず、何だかわけのわからない変な話だとしか思わなかった。教訓もないし、何を言いたいのかわからない。だからよけい気になって、はっきり覚えていた。継母がお姫さまをいじめる話は「白雪姫」と似ているような気もしたが、継母は退治されないし、それどころか後半は継母の悪事の話はすっかり忘れられてしまって、姫は王子にも会わずしあわせになりもせず、急にぽっくり死んで蚕になってしまうだけ。前半、継母のことを父親に言いつけたりしないので、姫はやさしいいい子なのかと思っていたが、ただ経を唱えているだけでやさしいのかどうかも怪しく、行いが褒められるわけでもない。姫や継母のことより、蚕の育て方ばかり大事なのだ。この姫はどんな人だったのだろうと想像しようとしても、顔も思い浮かばず、爺や婆は思い浮かぶのに、姫は表情もなく人形みたいに動きもせず、塗りつぶされたみたいに真っ黒の影だけがあった。姫は、もしかしたらはじめから人間じゃなかったのかもしれない、マユコはそう思ってぞっとした。

人間じゃない。爺と婆は子どもがほしいあまりに、木の中にはいっていた何か変なものを子どもとして育ててしまったのかもしれない。じゃあ、その何かって何だろう。黒い虫たちの束? 頭の中に、真っ黒くて大きな、繭のようなものが浮かび、中の方からグジグジ言う音が聞こえた。もしかしてそれは、お話だったんじゃないか。マユコの頭にそんな言葉が閃いた。最初から姫なんていなくて、お話だけが木に閉じこめられて漂着したんじゃないか。そうだとすれば、物語の前半と後半がちくはぐなのもわかる。前半は、お話の世界だったのだ。継母とか父親とか姫とか鷹とか猪とか、そういうものたちが束ねられてひとつのお話という身体になって、舟に閉じこめられて流れ着き、爺と婆の家で育てられ、しばらくして真っ黒な虫に分解してしまった。大切なのはお姫さまではなくて、お姫さまの喉の奥でグジグジいっていた音の方。あれはきっとお話の身体の中に詰まっていた虫たちの声だったのだ。そう思ったとたん、マユコははっとした。四畳半の部屋から何かがグジグジ言う音が聞こえたような気がした。そうっと襖を開いて中を覗いてみた。

ずるずると何かを引きずる音がして、わたしは目を覚ましました。見覚えのない天井の木目がずるっとのびて、身体を撫でられそうになり、わたしは身体を起こしました。そうだ、ここは家じゃない。お父さんとお母さんと赤ん坊の妹と、海水浴に来ていたのです。ずるずるという音は、波の音なのでした。聞いていると、身体の中から何かが吸い出されていきそうで、わたしは気もちが悪くなってきました。海というのは薄気味悪いところです。波の揺れが身体の中にはいりこんできて、身体の中と外の区別がつかなくなってしまいます。昼間も観光船に乗って、酔ってしまったのです。立ち上がると、まだ足元がぐらぐら揺れています。わたしは揺れながら廊下に出ていきました。遠くから女の子の声がしました。ざぶーん、ざぶーん、と波の音の真似をしています。だれの声でしょう。聞いたところ、わたしと同じくらいの子どもの声です。子どもがこんな時間に外で遊ぶなんて許されるはずがありません。わたしは何をしているのか知りたくて、玄関の方に歩いていきました。外に出ると、すぐに海でした。足元に水が打ち寄せてきています。わたしは喉に手を突っ込まれたみたいな感じになって、吐きそうになりました。苦しくてかがみこむと、海の匂いがしました。そして、小さな声が聞こえてきました。驚いて耳をすますと、波が打ち寄せるたびに、ざぶーん、ざぶーん、という声が海の中から聞こえてくるのでした。そこにはだれもいません。ただ、声だけが繰り返し繰り返し漂ってくるのでした。知らないうちに、わたしもざぶーん、ざぶーんと繰り返していました。声を出すたびに、自分が波になったような気がして、身体の中がぐらぐら揺れはじめ、わたしは平衡感覚を失ってしまいました。あわてて、目をあげて、わたしは息を飲みました。真っ黒で毛むくじゃらな生きものが目の前いっぱいに広がっていたのです。わたしを押しつぶして、身体の中を占領しようとしているのでした。わたしはこわくて、思わず目をつぶりました。瞼の裏側まで、黒い生きものははいりこんできます。液体が流れ込むように身体の中まで真っ黒になって、わたしは自分がどこかに流されていくような気がしました。身体が散り散りになって、波に流されていってしまう。耳元で、ざぶーん、ざぶーん、という音が響きます。それが人の声のように聞こえてきて、もう一度目を開けると、お母さんの腕がすぐ近くで揺れていて、妹が抱っこされて眠っていたのでした。

暗い部屋の中で、瓶がどろっとした液体みたいに光っている。何の音もしない。マユコはほっとして、ぱたんと襖を閉めた。台所のテーブルに向かっていると、染みだした水滴のように、時間がゆっくり天井から垂れ下がってきた。ぶらーん、と膨らんでくる。マユコはその長さが耐えられない。身体のどこもかしこもむずむずしてきて、洗い流してしまいたくなる。浴室に行って、湯槽にぬるい湯をいれはじめた。熱い湯はだめ。浴室が湯気で毛むくじゃらになってしまうから。湯槽、ゆぶね。湯を張りながらこれも舟だとマユコは気づいた。舟だけど、内側に水がある。でもそうじゃないのかもしれない。舟にとって、常に水がある方が外側だとしたら、湯槽にはいることは、舟の外に出ることなのかもしれない。タイルの床に座って、溜まってゆく湯を眺めながら、マユコは、じゃあ、今いるここが舟の中なんだろうか、と思う。わたしはずっと舟に乗っていたのかもしれない。蚕になったお姫さまのように。わたしもいつか、湯槽の中の湯から湯へ、漂い、移動してどこかに漂着してしまうのかもしれない。だらだらと太い糸のように湯が垂れてたまってゆく。渦が透き通った炎のような模様を作る。波の筋、糸の束。黒い虫たちの塊。むき出しのまま海に流すと、ほどけて、身体はクラゲのように消えてしまう。水とくっついてはいけない。舟の中に浮かんでいなければ。どこかに着いてしまったら、お姫さまのように分解されて、小さい虫たちになって、糸を吐き、人に織られてお姫さまとは関係ない着物になってしまう。着くというのはそういうことなんだろうか。

湯槽の湯がせりあがってくる。蛇口をひねってお湯を止めると、急に何の音もしなくなった。夜の中に自分だけぽっかり浮かんでいるような気がしてくる。ぽちゃん。ぬるい水面がゆらゆら揺れる。ゆらーん、ゆらーん。はいってしまおうか。この水の束の中に。マユコは迷って、服を着たままでいる。脱ぎなさい。どこかから声がする。知らない人の声だ。マユコはびっくりして、引っ張られるように服を脱いでしまった。脱ぎなさい。全部脱いでもまだ声が続いた。何を脱ぐのだろう、とマユコは思った。わたしはまだ何か着ているんだろうか。マユコは自分の身体を眺め、これもひとつの舟なのかもしれない、と思った。身体という舟。わたしはこれに乗せられて、どこかから流されてきたのかもしれない。

外から、ぱりん、ぱりん、という音がした。何? マユコは急に目が覚めたようになって、浴室から飛び出した。裸のままだった。まだ湯槽に浸かっていないのに、身体のあちこちからしずくが垂れていた。マユコは四畳半の部屋に行った。ガラスの瓶たちがすべて倒れ、蓋がはずれていた。瓶にいれておいたもとたちはみんな消えていた。玄関の方から、からんからん、という音がした。マユコは急いで玄関の方に行った。扉は開いていた。あの糸ミミズのようなものは分解されたお姫さまだったのかもしれない。全部が逆だったのだ。まずばらばらの糸ミミズのようなものがやってきてしまった。どこから来たのだろう。なぜわたしのところに来たのだろう。マユコにはひとつもわからなかった。足元に、たぷんたぷんとお湯が揺れていた。湯槽からお湯があふれて玄関までやってきたのだ。蛇口はひねったはずなのに、とマユコは思った。ざぶーん、ざぶーんという声がした。空のガラス瓶たちが部屋の外にどんどん流れ出していった。水が満ちてゆく。舟は壊れてしまった。お姫さまは溺れてしまった。ざぶーん、ざぶーん、という声がした。自分の喉から出ていった声のようでもあり、どこかからやってきた声のようでもあった。声が遠くからやってきては、マユコの喉の中で水のように響いた。ざぶーん、ざぶーん。口ずさんでいると、もっともっと、声を出したくなった。マユコは波になった気がした。糸ミミズのようなものたちは行ってしまった。わたしが流したわけじゃない、とマユコは思った。勝手に流れて行ったのだ。どこへ行くのだろう。波の合間を漂って、また、だれかの郵便受けに着くのだろうか。空気の中の産毛が、罅だらけのマユコの身体にいくつもまとわりついていた。





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