直径1・5Mの眼球 大下さなえ
鳶子が毎日スーパーマーケットに通ってしまうのは、犬が自分の縄張りを散歩して、マーキングするのと同じようなものだった。夕方四時頃に起き出すと、まず近所のスーパーマーケットに行くのだった。
たとえ午後の四時といっても毎日決まってその時間に起きるというのならとりあえず規則的であるとはいえるけれども、これもいい加減で、たまに朝の八時くらいにぼんやり近所の歩道を歩いていたり、正午に公園のベンチに座っていることもあった。時間が不規則であるということは定職についていないということ、そうなると、一体どうやって暮らしているのかを人は詮索したがるもので、こういう小さな古い街では余計そうであった。
だれかの妾というのには、鳶子は顔立ちが幼すぎたし、服装も安っぽく、住んでいるアパートもぼろぼろだったから、近所の人々もいったい何をしているのか想像もつかないようだったが、とりあえずどうやって生活しているのにしても、とりたててうらやましがるような生活ではないのだろうと、関心は芸能人に対するそれよりも低かったけれども、たとえば効率の悪い売春とか、金は儲からないまでも、自分の家の子どもが近づくとうつってしまうような、たちの悪い素行をもっていたらどうしようと、何かと警戒心を持って見ていた。
しかし、鳶子がスーパーマーケットにいるのを見ると、そう変わった子ではないのかもしれない、自炊もしているようだし、結構しっかりしているのではないか、と安心するようだった。といっても、それほど金をもっていない鳶子は、スーパーマーケットに行っても買い物をしているわけではなく、ただぶらぶらと中をめぐり歩いているだけだった。最後に入場料を払うような気持ちで、たいていはニラかモヤシを買って家に帰り、ゆでて食べた。
ある日鳶子がスーパーマーケットに行くと、入り口にほど近い場所に臨時の篭が出て、大きな貼り紙がされていて、まわりに人が集っていた。のぞき込んでみると、イカメシというものの山があった。茶色くなったイカの胴体が丸く膨らんで、それがふたつ並んでパックされている。鳶子はイカメシを見るのが初めてで、いったい何だろうと思って観察していると、隣にスーパー仲間のおばさんがいつのまにか立っていて、あら、イカメシじゃないの、おいしそうね、とつぶやいた。
これ、何ですか、と鳶子が訊くと、イカメシよ、イカメシ知らないの、と不思議そうな顔をした。ええ、知りません。食べたことないの、と、知らなくても食べたことはあるかもしれないと思ったのか、おばさんが無意味な質問をするので、鳶子はもう一度、ええ、食べたことありません、と答えなければならなかった。最近の子は、イカメシも食べたことがないの、いつも、洋食ばっかりなんでしょう、こんなにおいしいのに、イカの中にね、ごはんが詰めてあるのよ、それで、醤油味に煮てあるの。イカにご飯が詰めているということは、イカにお米を詰めて炊くんですか、それとも、炊きあがったご飯をイカに詰めるんですか。さあ、それはどっちだったかしら、別にどっちだっていいじゃないの、ここにできあがったイカメシがあるんだから。あとはこれを電子レンジであっためればいいのよ。
おばさんは、鳶子に説明しながら、イカメシを選びはじめていた。安いわよねえ、ふたつでこの値段だもの、ねえ、でもちょっと、これおいしそうに見える、とほかのイカメシを見たことも食べたこともない鳶子に訊いたが、ええ、とってもおいしそうですよ、という鳶子の答は聞いていないようだった。
鳶子は鳶子で、パックにきれいに入れられたイカメシを見ながら、どうしてここまで形がそろっているのだろう、と不思議に思っていて、イカメシの味のことなんてどうでもよかった。どのパックにも同じ大きさのイカが並んでいて、おばさんはそれでもより大きいものを探そうとしているようだったが、冷静に見ればどれもほとんど変わらない。これはある時、同じ場所でとれた、ひとつのイカの群れなのだろうか、と鳶子は思った。
だが、ひとつの群れにいるからといって、みんな同じ大きさになるとは限らないだろう。海のなかでは、動物だって植物のように、無制限に大きくなれるのだという話を聞いたことがある。すると、もしかしたら、これはすべて同じ時に同じ親の卵から生まれた兄弟なのかもしれない。それだとしたら、ここまで似ていることにもうなずける。同じ時に生まれて群れを作って海を泳ぎ回り、その果てにこの東京の私鉄沿線の住宅地のスーパーマーケットにイカメシとして並んでいるイカの兄弟。そう思うと、イカメシの山のうえに、「運命」という字を貼ってやりたくなる。
イカメシを選んでしまったおばさんは、視線をくねくねさせながら、どんどん店の奥の方に進んで行ってしまっている。鳶子はイカという生き物のことが気になって、鮮魚コーナーに行き、まだそのままの形のイカを探した。
白く半透明の、長さは足まで入れて三十センチといったところであろうか、プラスチックトレイに横たわったヤリイカというイカの死体を見たとき、鳶子が驚いたのは、その眼球の巨大さであった。その大きさの身体に十円玉と同じくらいの大きさの目がついている。その目を見たとき、かつてどこかの居酒屋の生け簀のなかを泳ぎ回っていたイカを見たときもイカの目の大きさに驚いたことを思い出した。
だいたい、イカの目というのは不穏である。陸に住んでいる動物なら、単眼だろうと複眼だろうと、身体の進行方向に対して前側かつ、身体の上方に目がついているのが常である。ところがイカの目というのは、ふだん進む方向から考えると、ほとんど最後方に目がついているといってもいい。おそらく胴体なのであろうが、内容はわからない、膨大ななんだかわからない三角の部分、その一番下に目がついており、さらに下といえば長さを計ることさえやっかいな吸盤のついた足しかない。人間でいえば、腰骨のわきに眼球がついているようなものだ。
しかも大きい。そう、生け簀で見たときも、大きいと思ったものだが、今こうして死体のイカを見ていると、大きいと思っていた平べったく見えていた目の奥に、球かどうかは定かではないが、当然のごとくさらに眼球が続いているのがわかった。イカの死体は、死体というのには多少鮮度が悪かったのか、眼球は情けなくふやけていて、中の黒目が、溶けたのかぶつかって破損したのか、とにかく、円ではなく崩れた形になっていたが、できるだけ近づいて、パックに貼られたラップフィルムをつぶしながら観察すると、中の眼球は直径三センチくらいはあった。
ということは、体長のほとんど十分の一くらいの割合の眼球ということになる。つまり、人間でいえば、眼球の直径が十五センチくらいというところか。直径十五センチの眼球が腰骨のわきにふたつついた人間を想像した鳶子は、イカの身体のことをもっと知りたくなって、金も持っていないのに、イカを買いたくなった。だが、つるっとした感触の濡れたような肌を指でたどり、自分がイカの眼球をえぐり出しているところを想像すると、どういうわけか、性的な夢を見ているような気持ちになって気はずかしくなり、イカのパックを棚に戻した。
さっきのおばさんが追いついてきて、鳶子のとなりに立ち、あら、生のイカ、それもおいそうね、どうしようかしら、イカメシも食べたいし、イカメシがあって、おかずにイカの刺身があっても別におかしくないわよね、と言った。そうよね、イカづくしっていうことにしちゃえばいいんだし、ねえ、でもやっぱりやめようかしら、そうよね、うちの主人て外でいろいろ食べて舌が肥えてるから、スーパーで買った刺身なんてねえ。
鳶子は、舌が肥えている、という言葉を聞いて、舌の分厚い男とつきあっていたときのことを思い出した。人間の舌というのは、目に見える部分の中では一番内臓めいた色をしている。内臓というより、肉そのものかもしれない。どうしてこんなに赤いのにむき出しでよいのだろうかと思うほどだ。人によっていろいろな形があることを、鳶子は接吻のたびに知った。短い人もいれば、長く薄い人もいる。先の尖ったような、全体にかたい人もいた。それがその人の食欲とか性欲とか、生きるための欲求にある程度似た形になる。人は舌の形によって生命を操られているのではないかとさえ思う。舌の分厚い男は実際の厚みだけではなくて、唾液の量とかやわらかさ、温度なども相応のものがあって、その男との接吻を思い出すと、海の動物と交わっていたような気分になるのだった。
どう、奥さん、スケコ、どう、スケコっていったら、スケソウダラの子どもよ、煮て食べるとおいしいよ、最高、もうあと三つだよ、一パック千円でいいから、と言って、スーパーのおじさんが近づいてきて、おばさんにすすめるので、鳶子もとなりからのぞき込んでみると、内臓にも、舌にも似たような、ぼってりとした形のものがパックされていた。おばさんは悩みつつ結局スケコを買うことにしたようで、パックを受け取っていた。おじさんは片手でパックを渡しながら、やってきたほかのお客に向かって、さっきと同じことを話しはじめた。
スケコのパックを持ったおばさんを見ていると、鳶子は、おばさんが抱えるように撫でるようにスケコを調理しているところや、舌の分厚い男といっしょにスケコを食べているところを想像した。でも、刺身じゃなくて、焼くんだったら、これでもまあいいか、と言うおばさんの声で、鳶子の想像はぱちんと弾けてしまった。おばさんは、スケコのパックを無造作にカゴに入れて、棚からヤリイカのパックを取ろうとしている。イカはもうそれが最後のひとつだったので、自分のイカが取られたようで悲しくなり、だがどちらにしてもお金を持っていない自分がヤリイカを買えるわけがないのであきらめた。
おばさんのカゴにはいっているイカが、カゴの隙間から自分の方を見ている、もう死んでいるのだから見ているのではなく向いているだけだと思っても、鳶子は落ちつかず、はっと、イカの目は何も像を結んでいないという話を思い出した。居酒屋の生け簀でイカを見ていたとき、連れの男が、イカの目は身体の比率からすると巨大だけれど、脳が小さすぎて映っているものを解析できないと言っていたのだった。イカの眼球はただものを映しているだけで、そのなかにそっくりそのまま映っているものを閉じこめているだけで、それが何なのか認識することはない。つまり、脳と接続されていない眼球ということになる。たしかに何か映っているかもしれないが、それでは見ているとはいわない。
何も見ていない眼球。鳶子は子どものころ、図鑑でダイオオイカという巨大なイカの話を読んだのを思い出した。ダイオオイカは、最大のものでは十五メートルほどになると書いてあった。それは今まで見つかったものの中での話であるから、本当はもっと大きいものがいるのかもしれない。十五メートルのイカ、と考えただけで鳶子はこわくなったが、母親に話すと、そんなに大きかったら、大味でおいしくないでしょうね、と言われてなんとなく安心した。少なくとも自分の家の食卓にダイオオイカの肉の一部が並ぶことはなさそうだ。
しかし、今となっては、気になるのはダイオオイカの眼球のことである。もしヤリイカと同じ比率であるとしたら、体長十五メートルのダイオオイカの眼球は、一・五メートルということになる。一・五メートルといったら鳶子の身長とほぼ同じである。ヤリイカの身体があれだけぬめっと湿っているのだから、眼球というのはもっと水っぽいのだろう。くらげのような感じかもしれない。その眼球が、今このスーパーの中にあったらどうなるのだろう。まちがいなくどこの冷蔵ケースにも並ばないから、床にごろんと転がっているしかないのだろうか。そして、何も見ていないのである。何も見ていない、見ることができない一・五メートルの眼球なのだった。
鳶子の頭に、不意に小学校のプールが浮かんだ。なぜそんなことを思い出したのだろう。それまですっかり忘れてしまっていたというのに。風邪気味で見学したその日、晴れた空に水しぶきばかりが高く上がっていた。そうだ、その日は、飛び込んで二十五メートルを泳ぐ日だった。自分はそれがいやでずる休みをしたのかもしれない。いや、そんなことはない、母親の判子がなければ、見学はできなかったはずだ。
中休みの十分間に、水から上がった同級生の女の子たちが、鳶子に湿った身体をすりつけた。紺色の重く水で湿った水着が、動物の皮のように、ぬめぬめと肌にはりついていた。細い産毛の一本一本に水滴がついて、肌との間にきらきら光る膜を作っていた。風邪じゃなくて、生理だったのかもしれない。暑い日だった。プールの水が眼球のように、青い空を映していた。青に跳ね返る光を飲み込むと、身体の中で温められ、熱い液体になって流れ出た。休み時間が終わると、コンクリートのタイルの上に、同級生たちの尻の水の跡がくっきりとついていた。血というと、赤ではなく、青を思い浮かべるようになったのは、あの日のせいなのだろうか。それとも、イカやタコの血は青いという理科の教師の言葉のせいなのだろうか。鳶子は卒業してから、一度も小学校を訪ねたことがなかった。校舎は建て替えられたと聞いた。
レジの近くまできて、おばさんが急に思いついたように、やっぱりイカはやめて、スケコとイカメシだけでいいわ、と言い出した。くるりとおばさんがうしろを向くと、死んだイカの目も半回転し、スーパーの中をぐるりと見回したことになった。とはいっても、所詮死んだイカのことだし、たとえ生きていてもどうせ何も見えちゃいないのだと思うと、鳶子は捨て鉢な気もちになった。おばさんは早足で今来た道を引き返していった。
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