青林工藝舎刊 定価1500円
『地獄』は、『アックス』などで活躍中のマンガ家、西岡兄妹さんの短編作品集です。
『ガロ』、『アックス』などで発表した、初期の作品が収録されています。
眠るたびに夢を見る。夢はもうひとつのわたしだというのに、わたしたちは夢のすべてを覚えていることができない。夢は、毎晩排泄される膨大なわたしたちの死体である。
西岡兄妹という名前をはじめて見たとき、「兄妹」という字面に奇妙ななまなましを感じた。きょうだいというのは不思議な存在だ。同じ腹から出てきたという、ある意味では、親よりももっと、生まれる前の世界を想起させる存在。そのうえ、兄弟でも姉妹でもなく、兄妹だ。兄と妹が作品を生み出す。
西岡兄妹では、兄が文と構成を作り、妹が絵を描いているのだという。インタビューの中で、西岡妹は「骨格は(兄に)作ってもらってそれに肉付けしていく感じです」と答えている(「アックス」15号)。ふたりが生み出しているのはやはり身体なのだ。身体、といっても、いまここにある生きた身体ではなく、もうひとつの身体、夢の身体なのである。
目覚めてから思い出して、夢を記述するのではない。それでは、外から観察するだけになり、意識の抑制から逃げることができない。西岡兄妹の手法は、自分が夢の中にはいって、夢の中で起こっていることを現在形でとらえてゆく手法といっていいだろう。
そこで見たもの、起こっていることの意味を考えない。林檎があれば林檎を描き、空を飛んでいれば、飛べるはずはないなどとは思わず素直に飛ぶ。感情や心の比喩として、既成の道具(たとえば自由になりたいときに翼が生えるとか、孤独なときに背景が暗くなるとか)が描かれるのではなく、そこには未知のものが描かれている。それは意外で、はっとさせられるが、同時にどこか納得できるものなのだ。
作品「地獄」の中で、主人公はもうひとりの自分を見る。自分のほかに、家の中に自分が座っているのだ。そしてそこから逃げ出す。「私たちの群れ」という作品の中には、わたしと思われる主人公と、わたしたちという群れになったわたしが両方存在する。日常ありえないことだが、おそらくだれもが似たようなことを夢の中で体験したことがあるだろう。
それは夢の、夢なりのリアルということができるだろう。既成の解釈の方を向いた目を閉じ、ひたすら夢の中で描こうとする。それが西岡兄妹の創作の姿勢ではないだろうか。
日本のマンガでは、目が異常に表情豊かに描かれることが多いのに、西岡兄妹の作品において、目は、まったくといっていいほど表情がない、穴のように描かれている(虹彩や瞳が描かれない、それどころか、ときには白目と黒目の境界もない)。それは、目が単なる目というより、現実と夢を結ぶ穴のようなものとして機能しているからかもしれない。
ほんとうの夢の中には持っていけないものがある。身体と他人である。表現する行為も、読む行為も、夢と同じように身体を伴うことはできない。だが、ときどき身体を伴ってしまうときがある。痛い感じ、心地よい感じ、むず痒い感じ。
たとえば、「ぼくは虎のように走った」の中で、地面に落ちていたクッションのようなものを抱き締めるときや、垣根の上を踏み締めるときの感じ。「地獄」の最後に土を掘る指の痛さ。そんなことをやったことがないのに、たしかに感触が伝わってくる。
作品のなかで頻繁に身体から引きずり出される内臓(主人公みずから自分の身体から引きずり出してしまうのに、切羽詰まったところがまったく見受けられないのがおもしろい)。おぞましくもあるが、どれもどこかユーモラスで、なつかしい。子どものころの粘土遊びのとき、指で楽しんでいた粘土の感触を思い出す。兄と妹という近しい他人の合作であることで、夢から遊離しない、それでいて身体を伴った感触がにじみ出るのかもしれない。
文章や画面構成から要請される以上に細密に描かれる、文様のようなパターンは、陶芸や織物の文様に似て、世界を描写するのではなく、物質の中に人を引き込むためのまじないみたいだ。左右対称や同じパターンの繰り返しが多用された抽象的な空間でありながら、奇妙になまなましい。文章だけでできた小説などでは不可能な、独特の表現といえるだろう。
西岡兄妹の作品を読むのに、理解する、という方法はあてはまらないだろう。読者もまた、作品という夢のなかにはいって、体験するしかない。西岡兄妹の作品は、人それぞれまったく別の味わい方をするしかないのだ。それは、作品のあちこちにあいた穴に吸い込まれ、この世にあらわれなかったもうひとつの自分の身体を、つかのま体験することなのかもしれない。