クワインが言う「翻訳の不確定性」というのは、つまり翻訳の多すぎる可能性、ということだ。「翻訳が不可能」なのではない。いくつもある翻訳の、どれかひとつを正当化するということが不可能なのだ。翻訳がただ一通りしかできないなら、それが唯一の翻訳なら「不確定」なことはない。いくつもの翻訳が可能で、そのうちのどれかひとつを「いちばんよい」とか「標準的」とかいう基準で選ぶことができないなら、翻訳はひとつに定まらず、不確定となる。
では、「いったい概念枠(パラダイム)や言語が異なるとは、どういうことを言うんだろう」と考えた人がいた。これにはすぐ答えが返ってきて「翻訳不可能なら、概念枠(パラダイム)や言語が異なっている」。
ところで、今比較されているのは、概念枠(パラダイム)同士、言語同士だから、概念枠(パラダイム)や言語の相違は、「翻訳できないが、相手は言語である」ってことになる(そもそも「長さ」と「重さ」を比べたりはできない)。けれど、いったい翻訳を離れて、比べる相手が言語であることはいえるだろうか?相手が言語であることをいうためには、翻訳が前提となるのではないだろうか?すると概念枠が(あるいは言語)「異なっている」ということは言えないし、「同じだ」ということもできない。概念枠(あるいは言語)の自己同一性は主張できない。
分析命題/総合命題の区別がドグマだと看破したクワインも、命題とそれ以外、理論/経験の区別を残していた、それこそ経験主義の第三のドグマだ、とデイヴィドソンはいうわけだ。そうすると、経験や言語外の実在に対して、複数の「対応」、「複数の言語」があるというのは(まるでそれぞれひとつずつの言語があることを前提するみたいなので)うそであって、むしろひとつのまとまりをなすような言語、概念枠、パラダイムというのが怪しいし、理論/経験というのもどこまでが理論でどこからが経験か、というはっきりした区別はありえない。
----でも、そうすると(言語もあるなんて言えないし)いったい何が残るのでしょう?
《おもいやり》だね。
----へ?
思いやり。できるかぎり多く、相手が言っていることを(あくまで私にとってだけれど)「正しい」とみなすように「解釈」しようという傾向。相手の言ってることが「翻訳不能(わからない)」と思えるときは、相手の言っていることが「でたらめ」に聞こえるわけだろ。けれど、相手は決して「でたらめ」を言っているのではなく、相手なりに「正しいこと」「筋の通ったこと」を言っているのだ、だから「解釈」するのであれば、できるだけ「筋が通るように」やってみよう、という傾向が残る、とデイヴィドソンは言う。
----でも、論理実証主義から始まって、それをクワインがぶっつぶして、パラダイム相対主義者といっしょにそれもぶっつぶして、あげくの果てに残った「エルビム(希望)」が、「思いやり」ですか?
言語という統一体がない以上、あるのはoccational(その場限りの、一回きりの)「解釈」でしかない。まるで後期ウィトゲンシュタインのようだけど、社会学者がよく言う「言語ゲーム」よりも、よほどこの「思いやり」の方があてにならないよ。なぜなら、ルールだったら、互いにルールを認める同士なら話が通じ合う、って言えるけど、「思いやり」ってのは、仮にそんなものが万人に備わっていたとしても、私の経験からするとだいたい裏目に出るものだ。けれど「思いやり」に訴えない限り、どのような「翻訳=解釈」もできない。「自然(経験)の解釈」であった「科学」すら成立しない(「自然(経験)」へのおもいやりが必要)。
----けれどその「思いやり」が、「おれたちはお前達土人のこともわかってやる「思いやり」を持ってるぜ」的、言語帝国主義=アメリカ民主主義、につながる可能性があるんでしょ。