三輪さんのアジア〜チベット自転車放浪記
-Bicyle wondering around Asia & Tibet by Kazumoto MIWA-
VOL.2
この日記は、三輪さんから送られてくるhotmailをもとに不定期にUPしています10月15日 コラム
作戦コード001
「タバコを吹かしたアイツを追え!」
オレはアイツを探していた。
ある田舎で一緒にメシを食い、一緒にタバコを吹かしたアイツを、だ。
アイツはその時そこで道路工事の仕事に従事していた。
そしてオレがラサに着くのと同じ頃、アイツもラサに帰ると言っていた。
アイツの写真をオレは撮っていた。
郵便で送ってもよかったが、どうせなら直接渡して再会を喜びたい、
その思いでオレはアイツの家を探して直接渡すことに決めた。
手がかりはあった。名前と住所。
その住所にはオレが今身を寄せているホテルと同じ「北京中路」と
記されている。見つけるのは容易だろうと思われた。
しかし事情が明らかになるにつれ、それが大変困難を極めるであろうということが
次第に分かってきた。
なぜならその「北京中路」とはラサ市内を東西に15kmにわたって走る
メインロードであったからだ。
しかも中国の住所は大変アバウトで、続くのが「○○商店××号」とあるからだ。
これを東京にたとえるなら、
「環八沿いのどっかにある○○商店の近くに住む山田さん」を探すようなものだ。
とりあえずオレはホテルの人に○○商店を知っているか、と尋ねた。
やはり答えは「不知道(知らない)」。
当然だろう。
続いてオレはホテルに出入りする業者に聞いてみた。
こういう男の方が地元の地理に明るいはずだからだ。
オレの考えは正しかった。
その男は見事に○○商店を知っていた。
そこはホテルより10kmほどの所にあるらしい。
オレは愛車にキーを挿し込み(南京錠)そこへ車(自転車)を走らせた。
確かにそこに○○商店はあった。
ここまで来ればもうこっちのもんだ。
あとはその辺のぶらぶらしている人に写真を見せ、
この人の家を知っているか、と聞きまくればよいのだ。
そしてものの10分もしないうちにオレはアイツの家の扉の前に立った。
心臓の鼓動と同じペースでオレは扉をノックした。
中から女の声がした。
オレはその女に素早く自己紹介し写真を見せた。
その女はアイツの妻だった。
部屋の中では赤子が泣いていた。
「アイツは今どこにいる?」
しかしその答えはオレを落胆させた。
なんでも工事期間が延びたらしくまだ1ヶ月は帰らない、というのだ。
大変無念ではあったが、妻はその写真を懐かしそうにながめ、
赤子に「パパだよ!」と言ってきかせていた。
いつしか赤子は泣き止んでいた。
帰り道、白く輝くポタラ宮がオレに「ありがとう」と言っているような気がした。
今晩はうまい酒(チンコー酒)が飲めそうだ。001のその後
アイツには結局会うことはできなかったが、
その時オレは妻や子供の写真を沢山撮った。
それらをすぐさま現像し、再びアイツの家を訪ねて渡してきた。
この2回の訪問でもやはりツァンパとバター茶が出てきた。
出てきたツァンパは最大の歓迎の意味のこもった
バターと砂糖のたっぷり入った甘いツァンパ。
甘いのはここが初めてだ。
その味を例えるなら・・・
焼いていないケーキの生地を食べているような感じか?(食べたこと無いが)
まあとにかくこれで更にアイツも喜んでくれることだろう。
そして、もしまた長期の仕事に出るときはこの写真を持って行ってくれることを願
う。
10月18日 コラム
作戦コード002
「母の想い」
それはチベットに入って間もない頃、しばらくお世話になった家での事だ。
その家には老婆がいた。
写真を撮られるのを嫌がった。
しかし数日後、突然オレに、写真を撮ってくれ、と頼んできた。
一体どういう事だろう?
オレは理由を尋ねた。
老婆は淡々と話してくれた。
彼女には娘がおり、今ラサに嫁いでいるという。
自分の元気な写真をラサにいる娘に渡して欲しい、というのだ。
オレには一宿一飯(正確には3宿11飯)の義理がある。
もちろん喜んで引き受けた。
しかしこれも難を極めそうだった。
なぜなら老婆は字を読み書きできず、
手がかりは6桁の電話番号と名前だけだったからだ。
しかしオレはやる、いや、やらねばならない。
1ヶ月後オレはラサに着いた。
残念だがオレの中国語は電話のやり取りできるほど達者ではない。
ましてやチベット語などお話にもならない。
オレはホテルのチベタン小姐に事の次第を説明した。
彼女は快く電話をかけてくれた。
しかし電話に出たのはその娘ではなかった。
しばらくその謎の相手と小姐は話し込み、何やら紙に書き付け、
「これを持って○○寺へ行き、その辺の人に見せてまわれ」
と言う。
その紙にはチベット文字で文が書いてあったがオレには読むことが出来ない。
ひとまずオレはその通りに寺へ向かった。
そして寺の僧にその紙を見せた。
次々と僧達が集まってきて、ワイワイやり始めた。
一人がオレに「しばらく待て」と言う。
こういう時の時間の経過は遅く感じる。
しかたなくオレは僧と記念写真を撮ったり、以前撮った写真を見せたりした。
するとある草原を撮った写真を見た僧が、「あ、ここ俺んち」
遊牧民を撮った写真を見た僧が、「あ、これ俺の友達」
チベットは広いようで狭い。
1時間もたった頃、一人の僧が俺に近づいてきて、ついてこい、と言う。
オレは彼について歩いた。
そして一軒の民家に入っていった。
そこには一人のチベタン男がいた。
オレはとりあえず老婆の写真を見せた。
すると硬い表情をしていた男の顔が一気に崩れた。
その男は老婆の息子だったのだ。
彼はオレを部屋に招きいれ事の次第を聞きたがった。
オレは全てを話した。
そうこうするうち一人の女が帰ってきた。
そう、その女こそが老婆が話していた大切な可愛い娘だったのだ。
女は既に話を受けていたらしく、すぐさま事情を察し歓迎してくれた。
オレはその女に老婆や村の写真の束を渡した。
彼女は何度も何度もそれらを懐かしそうに繰り返し見ていた。
そして今晩はぜひ私の家に泊まって食事していって下さい、と言った。
断るはずもなくオレはその言葉に甘えることにした。
彼女の家には可愛い娘が3人(ガキ)。
うまい手料理(ツァンパ)とうまい酒(チンコー酒)でオレは気分が良かった。
言うまでもなくここで撮った写真は老婆の元へ送る。
老婆が嬉しそうにその写真を見る姿をオレは容易に想像できた。
002のその後
老婆の娘の家で話していて、謎だった部分が明らかになった。
電話番号は初めので正しく、
電話に出たのは娘の嫁ぎ先のダンナの親(つまり姑)であったこと。
ホテル小姐と話していたのは「今仕事で出かけており、
帰りに○○寺の近くに住む兄の××の所に寄るだろうからそちらへ行け。」ということ。
紙に書いてあった謎のチベタン文字は「××という人の家は何処ですか?」ということ。
その家を訪れて以来数日間、食事寝泊まりはほとんどその家か兄の××の家で
お世話になることになってしまい、宿に戻るのは宿代を払いに行くだけ、という
全くもって無駄な出費を続けていたのだが、彼らからの勧めもあり、
ついに先日宿をチェックアウト、荷物ごとその家に引っ越してしまった。
こうなってしまった以上あまり甘え続けることもできない。
そろそろラサも出どきということだろうか。
それにしても人の縁とは全く異なものである。2002年11月2日
作戦コード003
「巡礼の果てに」
10月28日はチベットのお祭りであった。
ラサ最大の聖地ジョカン寺にはいつもよりもはるかに多くの巡礼者が集まっていた。
この寺の御本尊はシャカムニ像なのだが、それを拝むためには
大行列に並んでひたすら待つ覚悟が必要である。
オレも毎日のようにジョカンに赴くものの、行くたびにその大行列を見て諦めて帰っ
ていた。
その日はしかも祝日である。
行列は本堂を飛び出し寺の周りをぐるり一周していた。
その混雑ぶりはGW中のディズニーランドすら閑古鳥の鳴く寂れた
遊園地に思えてしまうほど凄まじいものであった。
もはや並ぼうなんて気はサラサラなく、とりあえずこの雰囲気だけでも味わっておこ
うと
寺の周りを歩いていた時である。
その行列の一角からオレの方を指差し何やら騒いでいる一団がいた。
ヤバイ、やはりこの聖なる地に外国人が入り込むのはマズかったか?
オレは恐る恐るそちらを見た。
「アッ!?!?」
声を上げずにはいられなかった。
真っ黒に日焼けし、まだあどけなさの残るその顔、
そして額には黒いアザが。
彼らの顔を忘れるはずがなかった。
それはラサまであと300km、最後の峠を越えようとしている時だった。
自転車のオレに道端から声をかける者がいた。
工事でもない、遊牧民でもない、
彼らは五体投地で聖地ラサを目指す巡礼者、20歳前後の少年僧4人組だった。
1日約10kmというペースで、実に8ヶ月という気の遠くなるような期間をかけての巡礼だった。
そして残すところあと1ヶ月で聖地にたどり着く、というところでオレと出会ったのだ。
彼らの野営場でオレも一晩明かすことにした。
一般チベット人から托鉢で得たというありがたい食料を分けていただくという大変バチ当たりなことをしてしまったが、同じ道を同じ目的地に向かって進むもの同士
話題は尽きず夜がふけるまで語り合った、
というのはウソで、オレと同じくらいの中国語レベルの彼らとはあまり話できず
暗くなったらすぐ寝た。お互い疲れていたのだ。
翌朝写真を撮って健闘を誓い合い別れた。
この写真を渡すすべはなかった。
オレだけの思い出で終わるはずだった・・・・
ところがその彼らが今目の前にいるのだ!
何という巡り合わせだろう!!
オレ達は再会を喜び合った。
オレは「ちょっと待ってくれ」と言い残し家へ走った。
そしてあの時の写真を持って再びジョカンへと駆け戻った。
彼らはもう少しで本堂に入ってしまうところだった。
あの写真を渡すと、彼らは嬉しそうに回し見した。
そして周りの人にオレのことを紹介して、
一緒にシャカムニを拝もう、と列の間をあけてくれた。
オレは歓迎されながら横入りした。
そこから並ぶこと2時間、オレ達はチベットの最も聖なる寺ジョカンの
最も聖なる御本尊シャカムニ像を一緒に拝むことができた。
外に出てオレ達はまた一緒に写真を撮った。
以前撮った写真には、澄んだ青空と白い雪山と笑顔の4人が写っている。
そしてその日のラサにもあの時と同じ、澄んだ青空と白い雪山、
そしてあの時以上の笑顔を見せる4人がいた。
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001のその後のその後
あまりにもラサでのんびりしすぎたお陰(?)で
1ヶ月工事が延びていた「アイツ」がラサに帰ってきた。
俺はアイツの家を三度訪ね、今度こそ本当に再会を喜び合い、
同じ釜の飯を食って一緒にタバコを吹かした。
これでオレのラサにおける任務はすべて完了した。
明日、次なる任務を求め一路ネパールに向けて旅立つ。
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ラサ滞在28日、うちチベット人宅の居候生活も3週間が経ちました。
月も変わり11月、いつしか天気予報でもチベット全域最低気温が氷点下になり、
標高の低いラサでも(といっても富士山頂くらいですが)
朝方氷の張っているのを見かけます。
すっかり馴染んでしまったこの地ですがいよいよ私も重い腰を上げる決心がつきました。
ラサからネパールの首都カトマンズまでは約1000km、ダート率90%
峠は5本(うち5000m以上3本)、
こう書くと越えてきた東チベットの道のり以上に大変そうですが、
この道は中国−ネパールを結ぶ大幹線道路であり、
エベレストBCを含む見所いっぱいの一大観光道路でもあります。
実際、同じような条件の東チベットコースをランクルツアーでは1週間かかるのに
この道なら最短1泊2日。
そこから考えても道路状況は雲泥の差があるのでしょう。
私の気合の入れ様も雲泥の差で、今回はナメナメです。
ちょっと寒いのが心配かな、くらいです。
カトマンズ到着は最速で2週間後。
またのんびり行きそうな予感もするので1ヶ月くらいですかね。
おそらく途中でも連絡可能とは思いますが、
とりあえずしばらく失礼いたします。
皆様もお元気で!!
PS明日こそ出発です。
寝坊とか誰かに引き止められるとかしなければ・・・11/8(冒険塾・小野さんから転送)
現在チベット第2の都市、シガツェという町にいます。
なぜかホットメールに入り込めないのでここに書きます。
ラサでのんびりしているうちすっかり冬になってしまったようで、とても寒いです。
野宿の場合、朝になるとテント内のボトルの水まで凍っています。
ラサを出ていきなり4700、5100mのきつい峠を越えました。
東チベットで鍛え上げられた鋼の肉体は、
1ヶ月のラサ生活で重いだけの鉛の肥満体に変わってしまったようでヘロヘロです。
カトマンズまではあと600km、ついでにエヴェレストBCまで行ってこようと思って
います。
では。
三輪。11月29日
カトマンズ到着!!冒険塾の皆さん、ナマステ!
無事ネパールの首都カトマンズに到着しました!
今井君も無事ローマまでたどり着いたようですね!
難行達成おめでとうございます!
いやー、とにかく寒かった!
すっかり冬になってしまったせいで、元々人里離れた土地である上、
農閑期に入っていたり、放牧する草も枯れてなくなっていたりで、
あまり外に人がおらず地元の人々とのふれあいが少なかったのが残念ですね。
ただ黙々と山越えを繰り返してきました。
もちろん景色は抜群ですよ。
完全に乾季に入っているのでヒマラヤの山々がくっきり見えます。
ついでに行ってしまったエベレスト(チョモランマ)BCもサイコーでした。
今回のこのラサ−カトマンズ間も基本的には許可の必要な非開放地域なのですが
東チベットと同じくチェックポストは全て何の問題もなくクリアーできました。
くのりさんの著書に「マウンテンバイクは『フリーダムマシン』だ!」という
記述がありましたが、検問までもがフリーダムだとは・・
残すは国境だけですね。
ここカトマンズはついこの前までの寒さがうそのように暖かいです。
標高は1300mくらいですが緯度が低いので平均気温は5度くらい東京より暖かいそうです。
ネパールに来たのは5年ぶりですがあまり大きな変化は起こっていないようですね。
ただ町中に異様に「internet」「e-mail」の文字が氾濫しています。
時の流れですね。
ヒマラヤ越えしている間に食中毒にかかってしまい、ゲロ下痢クソもらしをしながら
も5000m峠を越えてきたので8kgの大減量に成功してしまいました。
今は力石みたいな身体になっちゃっています。
少し養生しないと今後のインドで更にやられそうなので1週間ほどだらだらさせても
らいます。
ヒマラヤ越えの様子もまたここにどんどん書き込んでゆくので読んでみてください。
ただしこの3週間はあまり良い事がなく、愚痴や文句が大半になりそうなので
ヒマラヤ越えをいつかしてみたい、と思っているような人は読まない方がいいかも。
という訳でまだまだがんばります!●国境を越えるとそこは・・・
中国→ネパールの国境を越えた日のこと。
その日は中国ニェラムという町の北20km(標高約4200m)から
ネパールのバラビセ(約800m)へ、90kmの移動で3400mダウンという
日本で富士山頂以外からやったら地中に潜ってしまうような豪快なダウンヒルでした。
以前チベット文化圏に入ったときの変化も劇的でしたが、
今回のこの移動もまたまったく別世界への移動でありました。
標高が下がるにつれ、それまで乾燥した不毛の地だった山肌に徐々に緑が生い茂るようになり、
気温が上がるのが明らかに分かります。
2000mくらいまで下るともう暑くてたまらずTシャツ・短パンの真夏の姿に。
しかし脱いだ服をしまうところがなくて困りました。
からからだった空気にモタッとした湿り気を感じたのもこの頃。
そしてあるものを久しぶりに見て感激してしまいました。
それは雲。
もちろんチベット高原でも雲は見ましたが、
ここで見たのはチベットにあるような真っ白でぽつんとしたのではなく、
おそらくチベット高原に住む人が一生空を見上げ続けても拝むことができないような
空一面を覆う、どんよりとした厚い雲。
そしてその雲が太陽の光を遮っても寒くないことに不思議を感じてしまいます。
人々の格好もすっかり変わりました。
男はチベット民族服からネパール帽にタラタラシャツ短パンへ。
女はサリーやパンジャビードレスへ。
履き物もチベタンブーツからビーサンか裸足に。
言葉はもちろんさっぱり不明なネパール語に。
ネパールに入った直後、突然車の運転が荒っぽくなったような気がして、
さすがインドのお隣り国!と思ったのですが、
そうではなくて車の通行方向が逆になったのでした。
(香港→中国で一度逆になったのが元に戻った。香港・ネパールは日本式)
トイレに入れば小さな手桶が備え付けられるようになりました。
つまり水洗い文化に変わったってことですね。
(ちなみに中国は紙ふき文化。チベットは洗ってもふいてもいないような気が・・
痕跡を見たことがない。)
食事も箸から手掴みに。左手は不浄なものとなりました。
そして一番は酸素がたっぷりあること!!
こんな濃い空気を吸ったのは4ヶ月ぶりだ!!
たばこが異常に早く燃えてなくなるのに驚きました。
しかしさすが長期にわたり高地トレーニングをつんだだけのことはあって
少々の上り坂など苦もなく上れてしまいます、
といったことは全然なく、つらいものはやっぱりつらい。
どうなっとんじゃい?!
やはり低地順応が足りなかったか?
なんか損した気分。
高橋尚子はやはり偉大であるなあ、と感じた瞬間でした。
●カトマンズの夜は更けて・・・今カトマンズの夜は大変早く、9時になると店はほとんど閉まってしまい
町はゴーストタウンみたいになっちゃうんです。
私の泊まっている宿も門限9時です。
別に戒厳令とか出ているわけではないんですけど
昨年の国王殺害事件とか最近のマオイスト事件とかがからんでいるのかもしれませ
ん。
カトマンズに来たのは5年ぶりなんですけど、
以前はもっと夜はニギニギしていたような気がします。
やはりここはもう中国じゃないんだなあ、と感じました。
●ザ・野宿今回の旅の野宿スタイルはこんな感じ。
テント・・・普通のツーリングテント(一人用)。基本的に夏向きなので風通し抜群。
寝袋・・・安物スリーシーズン。もちろんダウンではない。
シュラフカバー・・・10年前に買ったもの。ゴア製だが濡れると浸水する。
マット・・・中国製ペラペラマット。マットというよりピクニックシート。
始めはいいのを持っていたのだがチベットに来る前におっことして代わりを
買った。
で、寝るときの服装は、
@ラサ到着前、9月のチベット高原では・・・
上・・・肌着、Tシャツ
下・・・パンツ、スキータイツ、ユニクロ靴下
5000m付近ではフリースを着たが、3000m台では逆に暑くてシュラフカバーを脱いだ。
Aラサ出発後、11月のチベット高原では・・・
初日@のスタイルで寝てみたところハンパじゃない寒さで本気で凍死するかと思っ
た。
あわててシガツェでセーター・毛糸股引を購入し
上・・・肌着×2、Tシャツ、長袖シャツ、セーター、フリース、カッパ、マフラー、
毛糸帽子
下・・・パンツ、スキータイツ、毛糸股引、カッパ、厚手靴下
これでも寒くてとても熟睡なんて出来たもんじゃない。
そもそもヒマラヤ越えがこんな時期になるとは想定していなかったのです
(9月には越えるつもりだった)。
あまりにのんびりしすぎてこんな時期になってしまったのですが、
寒いくらい何とかなるだろ、と出発してみて実際何とかなってしまったので
大きな事がいえますが、やはり寒いところに行くときは
暖かい寝袋とマットはあった方が快適でしょうね(←当たり前だ)。
●物乞い街道日本を出る前、「地平線会議(冒険者の集い)」でグレートジャーニーの
関野さんに言われました。
「中尼公路は物乞いばかりでつまんないよ。」
走ってみてその言葉が残念ながら正しいことが分かりました。
明らかに外人ツーリスト狙いで大人も子供もことある毎に「あれくれこれくれ」。
道を走っているとワー、と子供らが集団で寄ってきて道を塞いで自転車を押さえつけ
「あれくれこれくれ」。
かばんでも開けようものなら、それこそ尻の毛までむしられそうで、
ひたすら相手があきらめるのを辛抱強く待つ。
だからそうなりそうな時はダッシュをかまして逃げる!
何よりも地元民とのふれあいを楽しみにしている身としてはそれはとてもつらいこと
でした。
東チベットにもタバコくれ、とか言ってくる人はいましたが、
そこにはGive and Takeの関係があって、あげればそれ以上のものが返ってくる。
だからこそこちらも受けた恩は何とか恩返しできぬものかと考えたものでしたが、
中尼公路ではただねだられるだけ。
この道はエベレストをはじめ美しい景色が目白押しの素晴らしい所でしたが、
所詮風景の思い出などすぐ消えてゆく。
やはり心に残るのは良いことも悪いことも含め人々との触れ合い。
東チベットではたくさんの人間対人間の思い出が出来ましたが、
ここではそれが観光客対観光業者(あるいは物乞い)でしかなかったことがとても残
念でした。
しかしこうなってしまった原因は間違いなく毎日何十人も通ってゆく
外人ツーリストのせいでしょう。
自分もその一人なだけにこういう意見を述べるのが心苦しい・・・
▲11月27日 今井君ゴール!
自転車で、シルクロード横断の旅をしていました。今井です。
昨日、念願のローマに到着しました。
ゴールはサンピエトロ広場。
雲の隙間から光が差し込む中、人々に拍手され、思わずガッツポーズ。
それに合わせてハトが飛び立つ・・・
・・・はずだったのですが、実際は・・・
サンピエトロ広場は足場が組んであるし、空はどんよりくもりぞら。
そして、肝心のハトがいない。
用意していたガッツポーズを決める前に、思わず泣き崩れてしまい、
予定よりはちょっと地味なゴールとなりました。
中国・パキスタン・イラン・トルコ・ギリシア・イタリア。
2回に分けた旅でしたが、合計するとちょうど1年かかりました。
サイクルメーターの走った距離は、14,973kmです。
ゴールする前に、旅の思い出を思い返してみたりしたのですが、
思い出が膨大すぎて、うまく思い出せませんでした。
いろいろありました。そして、いろいろと思うことがあります。
まだ、そういうことをうまく言葉で表現できませんが、やはり
一言。「最高に、楽しかったです。」
応援していただいた冒険熟の皆さん、本当にありがとうございました。
とりあえず、飛行機の手配をして、帰国します。
■12月1日 田嶋君ゴール予定
ご協力者、ご協力団体、ご協力会社のみなさまへ
お世話になります。中部北陸自然歩道を踏破しております田嶋です。
ただいま長野県軽井沢町におります。
このあと碓井峠を越えて、群馬県松井田町でゴールになります。
12月1日(日)の昼頃を予定しております。あと残り30Kmです。
寒さがいっそう厳しくなりますので、気を抜かずに歩いていきます。
今後ともご支援のほど、よろしくお願いいたします。
田嶋直樹 naokit@mpd.biglobe.ne.jp
>>お祝いが続きます(九里徳泰)●中国データ集
第一部、中国・チベット編にひと区切りついたということでデータをまとめてみまし
た。
今後同じ所を自転車で走ってみたいという奇特な方は参考にしてみてください。
総日数・・・166日(香港・マカオ5日、中国・チベット161日)
実働日数(自転車で走った日)・・・87日(51%)
総距離・・・6115km
撮った写真・・・800枚くらい
お世話になった地元の人に出した手紙・・・95通
床屋・・・3回(毛沢東・角刈り・3回目でまともに)
ネットに費やした時間・・・98時間
〈自転車関係〉
故障個所・・・スポーク折れ後輪1本
パンク12回(段差での即パンはなく、朝になったらぺっちゃんこのスローパンばかり)
前輪くしゃけてポテトチップ状態1回(倒れた自転車を何者かに踏みつけられた)
ブレーキシュ交換・・・前後2回ずつ(雨季の雲南省と工事で田んぼと化したチベットで)
〈出費関係〉
総合計・・・160447円
詳細【足し算の前は「香港・マカオ」、後ろは「中国・チベット」】
・食費(おかし・たばこ・酒含む)
4582+35705=40287(25.1%)
・交通費(市内バス・渡し舟・マカオ行きフェリー)
3111+923=4034(2.5%)
・写真(現像・焼き増し)
0+16271=16271(10.1%)
・通信(中国国内への手紙・日本への小包)
255+17780=18035(11.2%)
・書籍(本・地図・辞書)
406+1223=1629(0.1%)
・ネット
714+5798=6512(4.1%)
・観光(入場料・御布施)
34+8723=8757(5.5%)
・宿
5610+40500=46110(28.7%)
その他(文具・トイレ・ガソリン・服・映画・床屋・ビザなど)
0+18812=18812(11.7%)
以上見てみて、注目すべき点は
5日間のみの滞在だった香港マカオに対し、
161日間いた中国チベットの食費・宿代が7倍くらいしかないこと。
別に香港で豪遊したわけでも、中国で極貧していたわけでもないんですが。
やはり今思い出してみても中国の飯の安さとうまさは格別でしたね!!
●持ち物チェック
今回初めてのチベットということでかなり多めの荷物になってしまったのですが・・
・
●持ってきたが結局一度も使わなかったもの
・浄水ストロー、ポリタンク
人がいる所なら何処にでも沸騰させたお湯がおいてあるので必要なし。
人がいないような山道では奇麗な水が山から流れてくるので大丈夫。
よって水不足で困ることはなかった。
ただもっと寒い季節になると肝心の川が凍っちゃうので備えは必要かも。
(11月の時点で半分凍っていた)
・ヘルメット
元々被る習慣はなかったので多分使わないだろーなー、とは思っていたが
やはり使わなかった。
ただこれに果物を入れて荷物にぶら下げておくと走っていても傷まない。
フルーツバスケットとしては重宝した。
・くつ
暑い地方では靴なんて履いていられない。サンダルがベスト。
寒い雲南・チベットでも道を川が横切ったりしていてずぶ濡れになるので
水陸両用のサンダルがベスト。
泥沼の中を歩く時も汚れのすぐ落ちるサンダルがベスト。
もちろん足の裏との間に石が入ってくるが各種のツボが刺激されて
健康になれるという特典付き。
結局エベレストBC(5200m)もサンダルで行ってしまった。
●持ってくればよかったな、と思ったもの
・中国語会話帳
やはり言葉はコミュニケーションの基本。
チベット人との共通語も英語ではなく中国語が普通。
会話帳があればもっともっと会話上達していたのに・・・とちょっと後悔。
●持ってきてよかったもの
・スリックタイヤ
中国の舗装路の状況はかなり良い。
未舗装部分はかなり悪い。
よって路面状況によってスリックとブロックを使い分ける。
チベットだけならブロックのみで十分。
・糸ヨウジ
中国を旅した人はきっと思うはずだ。
「中国で虫歯になるわけにはいかない」と。
中国の歯医者は一見床屋さん。
きちんと歯は磨きましょう。
歯間掃除も忘れずに。
長期の旅なら糸ヨウジより糸だけのデンタルフロスがお勧め。
ただし練習しないと血だらけになっちゃうよ。
・家族の写真
人と話していて話題に困ったときに重宝する。
1時間は引っ張れる。
・エロ本
エロ本、それは男と男の最高のコミュニケーションアイテム。
そこに言葉の壁は存在しない。
それを見る目の輝きは家族の写真を見せたときとは比較にならない。
またエロ本は時として通貨の役割も果たす。
5年前の為替レートは1ページ=インドチャイ1杯(約5円)
●比べてみれば・・・
ネパール料理といえば「ダルバート」。
ごはんに豆汁とカレー味の具をかけた物です。
以前ネパールに来たときはインドから入国したので、
インドの激辛カレーばかり食べてきた身には、ネパールのダルバートは
「なんと中途半端なしまりのないカレーだ!」
と思ったものですが、今回中国から入国すると
そのダルバートが十分辛く感じます。
この先のインドが思いやられます。
また前回インドからネパール入りしたときに人々の顔を見てまず思ったのが
「なんとネパール人は日本人に似ているのだろう!!」
インドの濃〜い顔立ちの人ばかり見た後だったのでそう思ったのでしょう。
しかし今回中国からネパール入りして思ったのは
「なんとネパール人はインド人に似ているのだろう!!」
全く勝手なもんだと思います。
●世界極悪国事情2
中国人と話していてやはり出てきてしまう話題は、南京大虐殺や731部隊のこと。
その度に私はつらい想いになり
「ごめんなさい、日本は過去中国に対しとても悪いことをしました。
今日本人は反省しています。これからは仲良くやっていきたいと思っています。」
と謝る。
すると相手も笑って、「いいよいいよ、中日友好!」
と返してくれホッと胸をなで下ろします。
以前イギリス人ツーリストと話していて、
日本以上に世界中で極悪非道の歴史を作ってきたあなたたちが
中国やチベットを旅することに抵抗はないのか?ときいてみました。
すると彼はさらりと言ってのけました。
「それは昔の人がやったことで私には関係ない。」
確かにその通りなんだけど・・・
●寒いところを自転車で走ると・・
平均標高が4500mくらいの中尼公路の11月の一日の気温は最高0℃、最低−15℃位。
こう書くと一日中極寒の世界のように聞こえるかもしれませんが、
問題は気温ではなく直射日光が当たるかどうかということ。
日の照っている昼間なら自転車こいで暑くなっているせいもあり、半袖でも大丈夫です。
地元民には変な目で見られますが。
ただしそれは日が当たっていれば、の話であり、
陰に入った瞬間に零下の極寒の世界となります。
野営するときは夕方5時には寝場所を決めて、さっさと飯を食って
6時にはテントに潜り込み寝袋に入ってブルブル震えながら朝太陽が昇るのを待ちます。
朝9時ごろようやく太陽が昇り外に出られるようになり10時にやっと活動再開。
寝場所を決めるとき朝日の出そうな位置を考えておかないと、
そこに山があったりするといつまで経ってもテントから出られなくなっちゃいます。
人間はテントの中で夜を明かすけど、外にある自転車はどうなっているのでしょう?
当然ボトルの水はカチンコチン。
チェーンの油が水飴みたいになってます。
まだチェーンは外に出てるので何とかなるけど
問題はフリー(後輪軸の空回りするところ)。
埃で汚れているのもあるのでしょう、内装されているフリーの歯が
倒れたままになってペダルを踏んでも空回りするだけ。
自転車はただの手押し車に・・
初めてそうなったときはフリーが壊れたかと思って、
この山奥じゃとても直せそうになく、ああ、私の旅も終わったか・・
と嘆き悲しんだものですが、原因が分かって朝まずすることは自転車の日光浴。
十分温まったところでGO!
中尼公路は基本的に西に向かって走ります。
つまり午前中は太陽を背にして走ることに。
私の自転車にはワイヤレスメーターが付いていて
フォーク(前輪を支える腕)に発信機が付いているのですが、
太陽を背にすると自分の陰が発信機にかかりそこだけ極寒の世界となり
電池が冷え電圧が上がらずメーターが反応しなくなっちゃいます。
日が南に移動し直射日光が当たると復活するのですが。
いやはや、寒いってのは大変です。
くのりさんがチベットを走った時は大丈夫でしたか??
(くのり>私は積雪のある、厳冬期2月に走破。寒くてチンチンが凍傷になりそうだった・・・
なぜなら、サドルのせいで血流が良くなかったから・・・マイナス25までにはなりましたね
そのかわり、私は日の出(朝7,8時発)でしたよ!)
●飛べないブタはただのブタ
ラサのインターネットカフェでの出来事。
そこは外人ツーリストがたくさん泊まっているホテルの正面にあり
客も地元民より外人の方が多いような所。
そこで私と隣に座っていた中国人がたばこに火をつけた。
するとにわかに周りの白豚がざわつきだした。
わざとらしく咳き込んでみたり、手でバタバタ扇いでみたり。
やがて一匹の白豚がこっちに向かって鳴いた。
白豚:ブヒブヒ!(そのたばこを消せ!)
私:もう少しで吸いおわるから待って。
白豚:ブヒブヒブヒ!(ここは公共の場だ、すぐ消せ!)
私:でもここは「中国」の公共の場だ。
しかし多勢に無勢。
我々二人は止む無くたばこを揉み消した。
確かにたばこを吸ったことはこっちにも非があったことは認めよう。
もしかしたらこの豚たちは煙をちょっとでも吸ったら発作がおき死んでしまう、
という体の持ち主だったかもしれないから。
そうならそう言ってくれ。
しかしここで私が言いたいのは
「自分たちの考え方、価値観を他の国で他の国の人に押し付けるな!」
ということ。
中国のネットカフェでたばこを吸う事はごく当たり前のことであり、
席につけばお茶と灰皿を持ってくるのが普通。
その店でも各台に灰皿が置いてあった。
また、中国においてたばこは酒以上に大切なコミュニケーションアイテム。
現にその時も二言三言挨拶を交わしただけの隣の中国人からいただいた
ありがたいたばこを吸っていたのだ。
白豚どもの「白豚優位主義」は実に根強い。
肌が白いものが絶対であり、それ以外の色の肌の文化、
フォークとナイフで食事しない文化、トイレは腰掛けない文化、
これらは下等で不潔で未発達な文化であると信じている。
英語以外は話そうとせず、どこでも「ハローサンキューハウマッチ」で済むと思って
いる。
相手が英語を話せないと知ると「コイツ英語も分からないか?」みたいな顔をする。
白豚は中国語を話さない。
覚えられないのではなく、覚えようとしないのだ、下等な文化の言葉だから。
ほんの少しでも現地語を話すだけでどれほど喜んでもらえるか知らないのだ。
愚かな豚だから。
熱心に祈りをささげるチベット人・僧をまるで動物園にでも来ているように珍しそう
に
写真を撮る。自分たちこそ醜い動物のくせに。
中東を旅していた時もそうだった。
神聖なモスクの中をタンクトップや短パンで汚い肌をあらわにして入ってゆき写真を
撮る。
自分たちがこの世でもっとも不浄な動物であることに気付いてないらしい。
個人的に話していると、あ、この人はいい人かな、と思っていると
やはり会話の中に中国を馬鹿にしたような言葉が飛び出してきて
やはりコイツもただの白豚だったか、と落胆させられる。
アジア人の私と話している時ですらそうなのだから、
白豚同士で鳴きあっている時はひどいもんだろう。
今ここで私は宣言しよう。
今後私は「白豚差別主義者」として生きてゆく。
おそらくネパール・インドでも多くの白豚と出会うことになろう。
そうなっても豚は豚として相手する。
所詮その程度の存在でしかないのだから。
ラサの町でこんな光景に出くわした。
街をつがいの白豚が歩いていた。
そこに下校途中の小学生が通りかかった。
好奇心旺盛なチベットの子供たちは白豚を見つけるとうれしそうに
「ハローハロー!」と声を掛けた。
すると白豚たちはついにハローすら忘れてしまったのか、
完全にそれを無視したばかりか、挙げ句の果てにはまるで汚いハエでも追っ払うかの
ように
「シッ!シッ!」とやった。
こういう奴等に旅をする資格はない。
さっさと自分の小屋に帰ってウンコでも食ってろ。
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決して白人ツーリストがすべてこうではないでしょう。
しかしことアジアにおいてはこの手の白人が大半であることは間違いないと思いま
す。
反論覚悟で書きました。
(くのり>人類仲良くいきましょう)
●2002年12月3日 21:03
今後のルートについて
無事ヒマラヤを越えたということで、第一部の中国・チベット編「越えるぜヒマラ
ヤ!」はおしまいです。
これからは第二部ネパール・インド編「インドの先っぽには何がある?」
をお送りいたします。
昨日インドビザが下りましたので、明日カトマンズを出ます。
まだ体重は全然戻ってないですが、あんまりのんびりしすぎると
低地順応してしまってせっかく増えたヘモグロビン量も元に戻ってしまうので
ここらで再開します。
まずはカトマンズから西に200kmのポカラを目指します。
アンナプルナ連峰が見渡せる湖畔の静かな町です。
そこからは南下。
ブッダ生誕の地ルンビニを経て国境を越えインド入国。
バラナシ(日本ではベナレス)へ。
ガンジス川で沐浴することで有名な聖地です。
そこからさらに南下。
デカン高原の中央を駆け抜け、2000km南、アラビア海に面したゴアへ。
続いて半島を東に、ベンガル湾に面するマドラス(チェンナイ)へ。
そしてラストはインド最南端、アラビア海・ベンガル湾・インド洋の3つの海が合わ
さる
コモリン岬へと進んでいきます。
チベットは山道と寒さとの戦いでしたが、
インドでは気狂いドライバーと悪徳インド人との戦いになりそうな予感がします。
またいい出会いがあるといいなあ。
それでは、行ってきます!
(つづく)
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