●出生からデビューまで

白土三平、本名・岡本登は1932年(昭和7年)2月15日、東京都杉並区に生まれる。血液型はA型。幼少時は父の活動により各地を転々とする。父・岡本唐貴は昭和初期の有名な画家であり、少年時代(戦前・戦後)は父に油絵を教えてもらう。

1944年3月、東京都練馬区立桜台開進第二小学校を卒業し、練馬区私立練真中学校(現在すでに廃校)に入学。しかし戦争が激しくなってきた為、長野県小県郡中塩田村に一家で疎開、長野県上田市立上田中学校に一旦転入する。1945年、この地で終戦をむかえ、翌年東京に戻る。

1946年(14歳)、練真中学校を中退。以降英語学校に通うも、映画館に入り浸る。父の絵描き仲間・金野新一のアトリエで、街頭紙芝居(山川惣治作)量産のための彩色・模写の仕事手伝いを始める。この頃入歯工場仕事なども行う。(1947年8月、板橋区の一部分離で練馬区発足)

1951年(19歳)、金野の指導で描き上げたギャグ紙芝居「ミスタートモチャン」(ノボルというPN)を金野の紹介で紙芝居製作所「ともだち会」に売り込み、成功する。以降数年間、ほぼ毎日この作品のシリーズを描き続けることになる。ちなみに弟の鉄二は「なかよし会」で彩色のみを行い、現在都立多摩図書館所蔵の紙芝居「ガンマ王子」などがそれである。

1955年(23歳)、紙芝居仲間の紹介で東京都葛飾区金町の平屋にて瀬川拓男・星野芳夫・曽根喜一との男4人で自炊生活を始める(のちに松谷みよ子と小林まゆみが加わる、これが「太郎座」創立メンバー)。ここではお互いをあだ名で呼び合い、自身はモヤシの三ちゃん、通称「三平」と呼ばれるようになる。これに長野での出征した青年将校の「白土」姓を借り、白土三平とPNを変える。1955年末、瀬川の立ち上げた指人形劇団(太郎座)で舞台背景なども描き始める。

1956年(24歳)、瀬川の家を離れ、紙芝居の手伝いをさせていた小林まゆみ(太郎座)とともに近くの水元へ共同生活を移す。この頃から一般テレビの普及(テレビ放送開始は1953年)により紙芝居は衰退していき、加太こうじの紹介で機関誌に「まもるチャン」(掲載:1956.1-1957.1)という4コマ漫画も連載。秋、小林まゆみと牧数馬(紙芝居仲間)との3人で東金町の農家の離れに住んでいた白土は、瀬川拓男とけんかをし、半月後、板橋区に引っ越す。小林まゆみ(李春子、現白土夫人)も連れ、この年結婚する。

1957年4-6月頃、日暮里の団子坂で偶然出会い声をかけた元同居人・牧数馬に漫画を描く事を勧められ、消滅しかかっている紙芝居仕事の合間、牧のアシスタントで少女マンガを描き始める。

1957年8月(25歳)、デビュー作「こがらし剣士」を巴出版株式会社から発行。しかし直後、巴出版株式会社は倒産してしまう。
 

 
●長井勝一との出会い

1956年、35歳の長井勝一(1921年4月14日生まれ)は神田神保町で日本漫画社という貸本出版社を始める。

1957年夏、長井のもとに牧数馬の紹介で白土三平が原稿を売込みに行く。すでに「こがらし剣士」を読み白土に興味をもっていた長井は喜び、白土はこの日本漫画社から19冊の貸本漫画本を出版(1957年11月〜1959年8月)することになる。生活の貧しかった白土は、原稿を持っていったその日に原稿料を受け取れる貸本漫画に多く描いた。当時、雑誌に描くと貸本の2倍以上の原稿料を貰うことができたのだが、雑誌は原稿料が後払いだったのである。

1958年9月、台風による出水で床上浸水。白土は1958年夏頃まで牧の手伝いも続けていた可能性が高い。

1959年夏1)、長井は浅草でバーを始めるため日本漫画社をやめてしまう。しかたなく白土は東邦漫画出版社2)にて貸本「忍者旋風」「忍者人別帳」などの短編集を出版していくことになる。バーを(違法建築により)半年でやめた長井は三洋社を設立、白土は12月にそこから「忍者武芸帳」の第一巻を出版する。これは長井だからこそ発行出来た頁枚数・内容であり、自由で革新的な作品であった。当時はその残酷描写などから批判も浴びるが、逆に白土のファンを大きく増やす作品となった。以降白土は三洋社・東邦漫画出版社を中心に作品を執筆。1960年、初めて週刊誌の長期連載(「風の石丸」)を始める。

1961年、長井が結核で入院、三洋社は解散するが、翌年入院しながら青林堂を設立する。そこから白土は貸本「サスケ」(1962.7〜)、「掟」(1962.10)、「2年ね太郎」(1963.4)、「忍法秘話」(1963.9〜)を発行する。1963年、「シートン動物記」(のちの作品「灰色熊の伝記」は除く)と「サスケ」第4回講談社児童まんが賞を受賞。受賞賞金は「シートン動物記」原作訳者である内山賢次へのお礼(腕時計)と、残りは全て百科辞典購入に使う。続いて貸本「灰色熊の伝記」(1964.1)、「いしみつ」(1964.5)を発行。

白土は自身の青林堂発行貸本の印税を資金とし、1964年9月、長井の協力で青林堂から雑誌「ガロ」創刊。レイアウトのほとんどを白土と弟の鉄二が構成する。表紙レイアウトは報道・解説・評論の週刊誌「朝日ジャーナル」からとったのだろう。この「ガロ」創刊号には白土夫人(李春子)が文を書き、妹の岡本颯子がその挿絵を画いた童話「も吉」も掲載。

1965年、貸本屋の衰退により貸本「サスケ」・貸本「忍法秘話」を両方とも掲載作品未完のまま続刊の発行中止とする。雑誌「ガロ」は「カムイ伝」連載のために発刊されたものだが、創始者ということで初めの3年間は原稿料が出なかった。よって白土は自身立ち上げた赤目プロダクション(赤目プロ)に給料が払えなかった。そのため白土は複数の雑誌社に連載をもつことでなんとか採算をとることになる(集英社:「真田剣流」(1964.9〜)、講談社:「ワタリ」(1965.4〜)、小学館:「カムイ外伝」(1965.5〜)など)。そして「カムイ伝」の単行本も青林堂ではなく小学館から発行(GC版「カムイ伝」:1967.5〜)することになる。1967年1月、手塚治虫は雑誌「COM(こむ)」を創刊し、そこに「カムイ伝」に対抗した歴史長編作品「火の鳥」を連載する。

1971年7月、「カムイ伝」の連載終了。それとともに雑誌「ガロ」は売れなくなったが、二年後の「カムイ伝」再開予定のため長井は雑誌「ガロ」を続けていく。しかし白土は「書くタイミングをのがした。」と言い、「カムイ伝」の再開を延ばす。結局再開は第一部終了から17年後、小学館の雑誌「ビッグコミック」からとなっている。1996年(平成8年)1月5日、長井勝一は74歳でその生涯を閉じた。
 

 
1:「1958年夏」ではなく「1959年夏」と書いたのは以下理由による。長井勝一の回想によると、日本漫画社を設立したのが1956年、やめたのが1958年夏ということだ。その後バーを半年間続け、三洋社を興したのが1959年9月となっている。しかし、私はこれは間違いではないかと思っている。日本漫画社の設立が1956年というのは疑う余地は無いが、やめたのが1959年夏、半年間バーを続け、三洋社を立ち上げたと考えている。つまり約一年間ずれる形となる。なぜならそう考えれば全てのつじつまが合うからだ。白土が東邦漫画出版社から作品を発表し出すのは1959年夏からであるし、同年12月に三洋社から「忍者武芸帳」第一巻を発表しているからだ。日本漫画社における白土作品の発行(B6貸本単行本「少年少女漫画」シリーズ)が「甲賀武芸帳」前編(1957年11月20日発行)から最終である「消え行く少女後編」(1959年8月発行)までの全19冊という各氏研究結果(a)にも当てはまる。執筆枚数が1958年は約1570枚(これ以外にも白土は1958年までは牧数馬の手伝いを続けていたようだ)、1959年は3340枚ほどとなったが、1959年完成作品の草稿枚数を1958年に少し譲るとしても1959年の枚数はとてつもなく多い。1959年は弟の岡本鉄二(三洋社で原稿取りをしていた清野という女性は現在の岡本鉄二夫人)が手伝い始めた時期であり、この時期の作品の一頁の密度で考えるとありえないことでは無いと考える。長井夫人である香田明子も「息子さんが生まれるころで、そのころの三平氏の仕事量はすごかったようですね。」と語っている。(資料:「貸本マンガ史研究」3号(2000年12月15日発行/貸本マンガ史研究会)内「香田明子氏インタビュー」より)
a:内記マンガ図書館「白土三平資料」(高木宏)/雑誌「ガロ」1996年3月号掲載資料(大一大万大吉)/「白土三平初期異色作選」付属冊子内リスト 

2:東邦漫画出版社は書籍卸会社「東江堂」が片手間にやっていた小さな漫画部門であると、当時そこに勤めのちに三洋社に移った松坂邦義が語っている。貸本「こがらし剣士」を発行した巴出版株式会社の取次(各貸本屋へ商品を廻してもらう為に先ず商品を委託する会社)も東江堂であった。(資料:「貸本マンガ史研究」5号(2001年6月23日発行/貸本マンガ史研究会)内「松坂邦義インタビュー」より ※インタビュー内の「南江堂」とは「東江堂」の誤植ではないか)
 

 
●千葉県海辺での生活、現在

1961年、長井は結核で入院(三洋社解散)、翌年、千葉県勝浦市の中村病院に転院(青林堂設立)。白土がそこに見舞いに行くことから白土と千葉県との関わりが始まる。1963年、白土は東京都練馬区の豊島園近くに住んでいた。すぐ近くには赤目プロの事務所も借りていた。「カムイ伝」(第一部)連載が始まった頃、また勝浦に行き、旅館に夫人と泊まることに。この時、勝浦市興津から夷隅川上流まで延々歩き、偶然、大多喜の旅館「寿恵比楼(すえひろ)」を発見する。多誌に複数連載をもつ多忙からの睡眠不足や精神的圧迫感から、白土は体調を崩していく。その療養も兼ね、度々家族で、または赤目プロのメンバー達でこの旅館に泊まるようになる。1965年10月、その旅館につげ義春を連れて行き、10日ほど泊まる(それを機につげの作風が大きく変わる)。ここでは作品制作の合間、釣り・木登り・きのこ狩り、などをするが、これが白土がこの旅館に泊まる最後であった。1966年末、その延長で内房の富津市湊、湊川下流のとある漁師の家の二階を借りて通い住むようになる。その後、そこから少し南下した場所に空家を見つけ移り住む。そのようにして現在まで4度、千葉での居を移している。千葉に移り、海を知り、磯遊び・陸釣り・沖釣り、と近所の漁師に付いて勉強し、それに関するエッセイを書いたりもしている。

2000年4月、「カムイ伝第二部」の連載が中断された。再開が待たれていたが、2005年7月、小学館配布の冊子「カムイ伝全集」パイロット版(書店に配布/非売品)に突然「そして……未来を照らす最終章「カムイ伝第三部」近日連載再開決定!!」と告知が入った。どうやら2005年4月頃に「カムイ伝第二部」を連載分で終了とした模様で、2006年11月に「カムイ伝第二部」最終巻(「カムイ伝全集」内)はラスト5枚の原稿が追加され発行された。現在白土は「カムイ伝第三部」の取材・執筆に取り掛かっている。
 

 
:白土三平が1年半以上新しい作品を発表していない時期は1957年のデビュー以来以下の4回のみとなる。
・第一次休載期間: 「カムイ伝」(第一部)終了から「NAATA」発表までの4年弱(1971年8月〜1975年4月)
・第二次休載期間: 「カムイ伝第二部」連載中の休載2年半(1991年1月〜1993年7月)
・第三次休載期間: 「カムイ伝第二部」連載中の休載1年半(1997年10月〜1999年5月)
・第四次休載期間: 「カムイ伝第二部」連載終了後(2000年4月〜)
 ※第一次休載期間中のイラストとして講談社コミックス「ワタリ」中扉(1972年)、再掲載「はごろも」扉(1973年)、学習書籍の表紙画(1974年)がある。
 ※第三次休載期間中はエッセイ「白土三平の好奇心」の連載(1994年11月〜1999年3月)が続いていた。

:「カムイ伝第二部」連載終了後の白土三平近況史
 01-小島剛夕遺稿集「華別れ」(00.05.20発行):小島剛夕氏の死去によせて(寄稿)
 02-「ビッグコミック」9/10号(00.08.25発売):「カムイ伝の素晴らしき世界」(「カムイ伝」連載35年記念企画・近況写真3点)
 03-「ビッグコミック」10/10号(03.09.25発売):創刊1000号によせて(寄稿)
 04-「airBE-PAL」(03.10.03配信):【第151号】涸沼で楽しむ「風流江戸前釣り」(メール配信)
 05-「airBE-PAL」(03.10.20配信):【第168号】奥利根湖、絶景の「2倍紅葉」(メール配信)
 06-「COMIC-BOX別冊VOL.7」(04.06.17発売):白土三平氏への電話インタビュー(04.03.16)全4頁掲載(近況写真1点)
 07-「airBE-PAL」(04.11.26配信):【第571号】今年はイイダコ、まだまだイケます!(メール配信)
 08-「BE-PAL5月号」(05.04.10発売):「知られざる房総の漁師料理ゴンズイの味噌汁」(「野食を極める-私の野食」内・近況写真1点)
 09-「BE-PAL6月号」(05.05.10発売):「房総の仙人・白土三平さんに海釣り入門」(「月刊雑魚釣りニュース」内・近況写真1点)
 10-「本の窓」9・10合併号(05.08.01発売):「あの時、あの時代」(対談:藤原新也VS白土三平・近況写真2点ネット上では3点)
 11-「ビッグコミック」9/10号(05.08.25発売):「ふたたび白土三平の時代がやってきた」(カムイ伝全集発刊記念企画・近況写真2点)
   (7/10号から9/25号まで全6回連載/前号などにも近況写真が1点載っているが、インタビューが載っているのはこの号のみ)
 12-「ダ・ヴィンチ」10月号(05.09.06発売):「『カムイ伝全集』ついに刊行始まる」(「COMIC DA VINCI」内・近況写真1点)
 13-「ホラーM」11月号(05.10.06発売):作者近況頁(掲載作品:「赤目」前編98P)
 14-「ホラーM」12月号(05.11.05発売):作者近況頁(掲載作品:「赤目」後編90P)
 15-「ビッグコミック」5/25号(06.05.10発売):「夢枕獏、白土三平と「カムイ伝」を語る・前編」(対談/近況写真2点)
 16-「ビッグコミック」6/10号(06.05.25発売):「夢枕獏、白土三平と「カムイ伝」を語る・中編」(対談/近況写真2点)
 17-「ビッグコミック」6/25号(06.06.10発売):「夢枕獏、白土三平と「カムイ伝」を語る・後編」(対談/近況写真1点)
 18-「B級田園生活日記」かくまつとむ(07.10.24投稿):腰痛快癒祝賀ハゼ釣り大会in涸沼(ブログ記事)
 

 
※左:1955年秋頃、太郎座創立メンバー(右下に白土):単行本「戦後人形劇史の証言」(1982年4月19日発行/一声社)より
※中:1967年当時の白土三平近影:雑誌「アサヒグラフ」1967年11月24日号(朝日新聞社)より
※中:1967年当時の長井勝一近影:雑誌「コミック・ボックス」1996年5月号(ふゅーじょんぷろだくと)より
※右:1994年当時の白土三平近影:雑誌「ガロ」1994年9月号(青林堂)より
 
■主な資料(文中記載のものを除く)
「漫画家人名事典」まんがseek著・編集部著(2003年2月25日発行/日外アソシエーツ):血液型
「カムイ伝全集」第7巻(「白土伝4」(毛利甚八)/2006年2月1日発行/小学館):1946年-1955年頃の記述
「完全復元版忍者武芸張」」第1巻(「白土三平研究」内、加太こうじ寄稿/1970年4月25日発行/小学館 ):1951年-1956年頃の記述
「週刊朝日」2007年2月2日号(自伝「じょうちゃん」第22回(松谷みよ子)/朝日新聞社):1955年頃の記述
「白土三平論」四方田犬彦(2004年2月27日発行/作品社):「三平」の由来
「カムイ伝全集」第3巻(「白土伝2」(毛利甚八)/2005年12月1日発行/小学館):「白土」の由来
「ガロ」1994年9月号(対談:白土三平×長井勝一/1994年9月1日発行/青林堂):牧との出会い、長井との出会い
「「ガロ」編集長」 長井勝一(1982年4月25日発行/筑摩書房):長井期全般
「ラピタ」1995年冬号-1999年3月号(「白土三平の好奇心」/1994年12月20日-1999年3月1日発行/小学館):千葉期全般
「つげ義春を旅する」高野慎三(1998年「つげ義春幻想紀行」ほるぷ出版の再録/2001年4月10日発行/筑摩書房):大多喜の旅館について