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20 国鉄総裁物語1
実録疾風10年(中島幸三郎 著)より
著者紹介
昭和の初期、黒岩涙香の「万朝飯」記者をふりだしに、東京都下の新聞社、雑誌社を転々として、
のち、鉄道之日本社を創立。
日華事変により特派員として中国に渡る、大東亜戦争には、陸軍報道班員。
終戦後売文に専念。著書に、日本鉄道変遷史、実録旋風十年、風雲児十河信二伝、鉄道唱歌物語(汽笛一声新橋を)など。
明治三十六年、福岡県に生れる、もと九州文学同人。 |
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1 下山定則
2 加賀山之雄 3
長崎惣之助 4
十河信二1 5 十河信二2
5代−10代
| 1 下山定則 初代国鉄総裁
○悲劇の主人公 下山総裁の誕生!
昭和二十三年の七月に、公務員が労働運動に走りすぎるということで、マッカーサー元師から吉田茂あてに「公務員法を制定し、公務員の団体交渉権を規制し、争議権を消滅させるように」との指令が発せられた。
この指示によれば、国鉄を公共企業体として設立すべきであると明示してあった。いろいろと議論百出したが、最高司令部が、そういうものをつくれと命令しているのだから、もはや議論の余地はない。泣く子と地頭には勝てぬという封建時代のことわざが、敗戦日本では、大手をふって通用したのだ。
寝耳に水の指令で、実にあわただしかったが、ついに昭和二十四年の六月に「国有鉄道公社」は発足した。発足はしたものの「日本の実情に添わない無理難題」があとをたたない。国鉄管理委員会の線もきまったが、こんどは総裁には総理大臣級の大物をすえろ――ということになった。 |
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しかも総裁の給与は、月給五十万円にしろとのことであった。大国鉄ともなれば、総裁に五十万円の月給をだすことは、経済的には可能だが社会的にバランスがとれない。だから「そんな高給料は払えません。」
と拒否したが、GHQの司令部運輸局では
「日銀の総裁は月給五十万円、交際費が百万円となっている。国鉄は日銀より大きいのではないか」
という論法だ。これには国鉄もすっかり弱ってしまった。すったもんだの末に、とうとう、総理大臣の給料以下で……ということにおちついた。さて給料はきまったが、こんどは総裁の人選だ。 ゛
国鉄は第一労組がうるさい。あんな尖鋭分子の多い労組をひきうけて、しかも名誉職のような薄給だ。交際費といっても雀の涙ほどだ。やりたくても政治資金も出ない公社の仕組みである。
だから、いざとなれば誰も総裁になりてがない。
政財界の「大物」に相談をもちかけたが、みんな断わられてしまった。当時の運輸大臣だった大屋は、いよいよ処置に窮して、運輸次官の下山定則を初代総裁に据えることにした。運輸局では、もっと大物はいないかと異論をみせたが、この人物以外に適任者はない――といって押しつけた。もともと下山定則は、東鉄局長という地方の鉄道局長から二段飛びで次官におさまった男である。そして今度は、その次官がものをいって初代国鉄総裁となった。彼は運転技師あがりの手がたい男で、従来の常識からいえば法学士畑に迷いこんできた「狂い咲きの花」にも似た存在であった。
アメリカの「技術家偏重の人事」が産んだ皮肉な運命の人事といえるかもしれない。
さて――
これで総裁もきまり国鉄の公共企業体は発足したが、こんどは運輸省内部の機構をどうするかが当然論議された。海運側については、だいたい常識的な線で話はまとまった。これは、海運関係の主任をしていたサイラント、オスハンという二人が、非常にものわかりのいい紳士で、国鉄側に理解をもって協力したからである。
これが陸運の方になると、そうかんたんには行かない。難物がひかえていたからだ。いうまでもなくシャグノソ中佐だ。彼はまたしても横車を押しはじめた。
「運輸省が私鉄を監督するには、職員が三人いればたくさんだ。だから運輸省に陸運関係の局はいらない」
と強硬に主張してゆずらなかった。
しかし司令部の運輸局なら三人の職員でいいかもしれないが、すくなくとも日本の政府機関として、海運の方に五課も六課も設けて、鉄道の方は三人でよろしいというのは何としても暴論だ。非常識だ――と、いくら説明してもシヤグノン中佐は納得しなかった。
そこで、運輸省では、シャグノンを除外して、ひそかに総司令部、法務局、民政局などとわたりをつけた。むろんシャグノンの強硬説についてもぬかりなく説明した。
「どうも、シャグノソという奴は、すこし極端すぎるようだ……。ということになり、運輸省側の味方が大勢できたので、陸運関係も現在のような形で司令部の承認を得ることができた。
○二十万人の首切役人
昭和二十四年の六月一日、新しくパブリッシュコーポレージションとして国鉄が運輸省をはなれて独立した。
下山総裁、加賀山副総裁以下の陣容も決まった。そこで、米軍の運輸局ではいろいろと資料を検討しているうちに、あるひとつの結論に到達した。それによると
「国鉄は人が多すぎる。いわゆる大家族主義という美名のもとに不要な人間がたくさん遊んでいるじゃないか。これではまるっきり企業体ぢやなくて友好団体だ。」
という見解だった。
そして司令部運輸局がだした計算の基礎は、「ペンシルバニア鉄道は一万一千マイルを十三万人でやっている。従って国鉄の九割に当り、人間の数はペンシルバニアの何倍かである。またグレート・ノーザン鉄道は、わずか三万の人間で九千マイルの鉄道をうごかしている。この実例からいっても、国鉄は人が多すぎるから即刻整理をしろ。」
という註文である。
当時の国鉄従業員は六十万であった。
下山定則が総裁に就任したとき、運輸局では、いきなりこういうことをいった。
「まずあなたは、総裁の第一着手として十万人の人間を整理しなさい。しかしこの十万という数字は内輪にみた数字だから、本当は二十万の首キリを断行すべきだ。」
当時の国鉄の実情は、戦時中の応召者数の二十万のうち、十五万人が復員していたので、大づかみにいって十万人の余裕はあった。だから国鉄としても十万人の首切りは当然だと思っていた。
しかし運輸局では、どうしても二十万人の首切りを断行しろといっている。下山総裁も、これは大変な大仕事だと思った。
この整理について、総裁と副総裁は、ひんぱんに運輸局に呼びつけられた。一方また政府側でも定員法の制定を期して、国鉄の首切りには特にちからを入れていた時だから、いつまでも十万、二十万と数字のことで騒いでもいられない状況であった。だからともかくも定員法を定めてそこから生まれる剰員は辞めさせる以外に手はなかった。それにしてもただ辞めさせるだけでは退職者も困るので、その行く先などもなるべく心配してやらなければと考へていたのだ。
ところが運輸局では
「首を切られた人間の行く先まで心配しているから整理ができないのだ。そんなことは厚生省や労働省の仕事だ。国鉄としては、なるべく人をすくなくする定員法を考へればいいのだ。」と――いうわけだが、
「あ―左様ですか。」
と簡単に引きさがれないのが総裁の立ち場である。せまい四つの島には、外地から引きあげてくるおびただしい人間が、押しあいへしあい、敗戦の焦土に立って、どうして明日のメシにありつこうかと腕をこまぬいている苦悶の姿があった。
この日本の現状に直面しては、十万はおろか一人の人間も整理したくはなかった。しかし、きびしい占領軍の指令のまえには、そんな私情は許るされなかった。
国鉄と司令部のあいだに押し問答やスッタモンダが繰り返えされたが、ついに五十万三千人と定員が定まり、余剰人員十一万余人を整理することが本決まりとなって、さすがに難航をきわめた首切り問題もおちつくところへおちついた。しかしこれは整理人員の数が決まったということにすぎない。これをどういう方法で実行するかということとはおのずから別問題なのである。
当時――組合側の闘争心は次第に高められ、雲行きは刻一刻と険悪の度をつよめていくばかりであった。またしても二・一ストの二の舞いがくりかえされるのではないかと、あやぶまれた。
街頭には赤旗を先頭とするデモ隊が行進し、定員法をブッつぶせのアジ演説が各地でおこなわれた。「首切りゼッタイ反対」のビラが電柱やガード下にもはられ、革命前夜の混乱をおもわせるものがあった。
○突発、白昼の怪事件
昭和二十四年七月五日が、八万余人の首切り通告予定日であった。下山総裁が自宅から丸の内国鉄本庁にむかって疾走する自動車のなかで腕を組み、瞑想にふけっていた。
「大西君。大西君。」
ながい思索のなかから現実の世界にたちかえった下山は、突如運転手に声をかけた。
「キミ……ちょっと、丸の内の千代田銀行に立ち寄りたいのだが……。」
ちらりと総裁をふりかえった運転手は
「はい、承知しました……。」
と答えて、急角度に車の位置をかえた――どんな要件があって千代田銀行に立ち寄ったのか、むろん大西運転手の関知するところではない。
が――まもなく千代田銀行から姿を現した下山は、いつもとかわらぬ落ち着いた態度で
「これから本庁に行く前に、日本橋の三越本店に行ってくれないか。」と、行く先を指示した。
「はい。」
自動車は国鉄本庁の裏手を迂回しながらガード下をくぐって三越本店の横にとまった。
「要件は五分で済む。ちよっと待っていてくれ。」
彼は気軽に、多分買物でもするのだろう。大西運転手は深く気にもとめず、車の位置を、本庁へ帰るのに都合のいい場所に移行させてから、ゆっくりと煙草に火を点じた。
二十分、三十分……
と待ってみたが総裁の姿はみえなかった。
大西運転手は腕時計を睨みながら、三越の入口にむかって走ってみたり引きかえしてみたり、焦々しながら下山の出現を待った。たった五分の約束が一時間半を超えるにおよんで、大西運転手の不安はしだいに深刻となった。
「なにかの都合で、総裁は別の車を拾って本庁に帰ったのではあるまいか?」
と考へてみたが、そんなことがあろう筈もなかった。日頃から几帳面な総裁としては珍らしいことであった。
警視庁から特派された私服たちは、今朝すでに連絡ずみで、本庁総裁室で待期するように、とのことで同行してはいなかった。
「それにしても、おかしいな―。」
大西運転手は、ひとりごとをいいながら、それでも、もうすこし待ってみようと腹をきめた。
「やア、暑い、あつい、バカに暑いぢやないか、ねえキミ……。」
と、ニコヤカに笑いながら、両手いっぱいに買物をブラさげて、三越から出てくる総裁の元気な姿が、大西運転手の瞼の裏を去来した。しかしそれは、白昼の夢にすぎなかった。それにしても、もうすぐに、下山総裁が自分の眼の前にあらわれてくるような錯覚にとらわれ、根気よく待ってみようと思い直した……。
一方の国鉄本庁では、今日の午後、下山総裁と一緒に、司令部に出頭するととになっていた加賀山副総裁は、刻々に迫ってくる時間を気にしながら下山の帰りを待った。
「ほんとに、どうしたんだろう。私邸の方は今朝七時に出かけましたとの返事だし……弱ったねえ、天坊君。」
総支配人の天坊裕彦は、汗ぐっしょりになって、心当りのところへ電話の連絡をつけていたが、いっこうに反応はなかった。なんの手がかりも掴めなかった。
「困るねえ、出先から連絡ぐらいつけてもらはなくちゃ……ホントに困ったオヤジだ。」
加賀山は、しだいに憂鬱になった。眉根に皺を刻みながら、ひろい部屋のなかを焦々しながら歩き廻った。
総支配人の天坊が、もはや処置なしと断定して声をかけた。
「ともかくも僕等だけで、出かけましよう。」 と皮肉な微笑を低べながら
「さもないと、またシャグノンに叱られますからね。ははは。」
「そうだな、そうしようか。」
と加賀山は同意したが……
そのとき電話のベルが、けたたましくなりひびいた。美しい女秘書があわてて受話器を耳にあてた。
「ハイ、ハイ、左様で……はい、はい、ちよっとお待ちください。いま副総裁と替りますから……。」
「どうした?」
副総裁の質問に答えて、女秘書は
「ただいま、総裁の運転手からの連絡でございますけれど、総裁を日本橋の三越本店までお送りして、そのままずっと待ちつづけているのに、まだ総裁はお帰りにならないそうで……。」
「何ツ?」
加賀山は愕然として受話器をとった。
「うむ、うむ、そ、それはおかしいね。うむ、よろしい君はすぐ本庁に帰りたまえ。それにしても!」
受話器を置いた加賀山の顔に、べっとりと油ッこい汗が滲んでいた。
「天坊君、えらいことになったぜ!」
「なにごとです!」
「総裁がけさ三越本店に入ったまま、行方不明になったんだ。」
「え?信じられませんね。」
「だって君、五分ですむから待っていろといってから、もうかれこれ五時間ちかくも連絡が断たれているというのだよ。運転手もバカだが……それにしても、タダ事じゃない。この際のことだ、あるいは極左分子に拉致されたのかも……。」
総裁の身辺に不詳の事件が続発するであろうことは、すでに共産党の転向者、鍋山貞親が数回にわたって警告をあたえているところであった……。
ついにきた……当然来るものがついにきた……という感じであった……しかも不吉この上もない兇変が、人間の常識では予測されない時と処と、残忍な方法とによって!
「天坊君、すぐ警視庁へ連絡を……」
ワイシャツー枚で汗ぐっしよりの天坊総支配人が、部屋つづきの文書課長のところへ、いきなりとびこんで行った。
うだるような酷暑、七月五日午後三時半ごろのできごとであった。カンカンと照りつける灼熱の太陽が、窓をあけ放った文書課長室いっぱいに照り映えている。
一陣の風もない。蒸し暑いひとときであっだ。
一瞬――国鉄本庁内に時ならぬ大混乱がまきおこった!無気味な暗雲がたちこめた! 唐突とくりひろげられた不可解な下山総裁の失踪事件は、先づ本庁内の全職員たちの胸に、あたえた。この白昼の怪事件は時を移さず鉄道電話によって全国の鉄道局長に伝達された。
「責任の地位にある鉄道の幹部たちは、この上ともなお一層厳重な身辺の警戒が必要である。」
との通告がつけくわえられて……一瞬のまに全国鉄の隅々まで伝達されていった――。
翌日朝刊第一面に、特大号活字の大ミダシが、まるで生物のように躍動していた。
国鉄総裁下山の無残な屍体
常磐線の綾瀬駅近附で……
車両にも肉片、惨憺たる現場!
推定によれば、六日の午前零時二十五分の列車に軋かれ、バラバラの死体となって発見された――場所は、常磐線と東武線との交差点ガード下、死体の部分や着衣が散乱して目を覆うばかりの惨状である。警視庁では時を移さず特捜本部を設け、事件の真相を追及中であるが――専門家の見解を総合すれば、他殺説が圧倒的である。ことに最高検の見解によれば「殺して、しかるのちに軋断したもの」と推定した。
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1 下山定則
2 加賀山之雄 3
長崎惣之助 4
十河信二1 5 十河信二2
5代−10代
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2 加賀山之雄 第2代国鉄総裁
下山事件後、副総裁の加賀山之雄が総裁代行を経て総裁に昇格した。加賀山は東京駅八重洲口を民間資本を導入した民衆駅を国鉄で始めて導入するなど積極経営に取り組んだ。しかし国鉄の商売にはどうしても利権がつきまとい、国会での追求を受けたりした。
さらに過激な労働組合問題が絡む列車転覆事故の松川事件、列車暴走事故の三鷹事件など不可解な事故が起こっていた。
○ 死の谷死の山惨事の現場
いまにも、ざアっと、ひと雨来そうなあやしい雲行きの午後三時であった。正確にいえば、昭和二十六年四月二十四日――。
やれ首切りだ。
下山総裁の兇変だ。
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それ松川事件だ――と、吹きすさぶ嵐のなかにもまれて、もはやたいがいのことには驚かなくなっていた国鉄本庁が、どうしたものか、ごったがえしていた。上を下への大混乱であった。
「――桜木町駅で国電が火を吐いた! 乗客九十九名が焼死、重傷六十四――。」
と、刻々に現場から鉄道電話で報告してくる生々しい惨事の内容は、聞けば聞くほど戦慄を覚えるものばかりであった。
文字どおり櫛の歯を挽くように伝えてくる報告の模様を総合すれば――四月二十四日午後一時四十分、京浜東北線桜木町行電車(五両編成)、運転手は蒲田電車区中村某、車掌大矢某で、電車が駅ホームに進入の直前、突如として前列車の屋根から異様な音響とともに火花をちらして!
「ガァー!」
といういとまもなく、あたりいちめんは真紅の火の海と化した……電車はあわてて急停車したが、紅蓮の炎は第二両目に燃え移ったとみるまに、たちまちのうちに半焼けになってしまった。
二両目に乗りあわせていた多数の乗客たちは、バリ、バリと音をたてて燃え狂う火炎のなかから脱出しようと、必死にもがいたが、押せども叩けども扉は開かず、ついに九十九名(男四五、女四〇、子供七、乳児三、進駐軍三、外人婦人一、当時午後三時までに判明の分)が、逃げ場を失ない、車内で焼死するという国鉄空前の大惨事をひきおこしたのだ。
窓をやぶり、辛うじて脱出した乗客たちも、ガラスの破片で負傷して血だるまとなるもの、火傷を負うものなど、目も当てられぬ惨状である。
丁度事故の現場が十メールの高架線上だったために、大混乱に拍車をかける始末となった。
高架線上から十メートルの谷底へ転落する者、滑りおちて悶絶する者など、重傷者は二十名(内一名は入院後に死亡)、軽傷者四十四名にのぼる二重の大惨事となった。いづれも横浜市内の十全病院、国際病院ぞの他、警友病院などに収容中! と、現場からの鉄道電話は刻々と情況を伝えてくる……。
「この惨事は、わずかに十分位の出来事だったと目撃者は云っております。尚、後部三両の乗客三百余名は幸にして無事であります。ただいま東鉄局長が、現場に到着しました……そして目下、東横浜の貨物駅に対策本部を設けて、焼死者の救出、負傷者の救援に当っております。あっもし、もし。」
唐突として桜木町に巻きおこった大惨事は、下山定則の兇変につづく、二代目総裁加賀山の脳天めがけて打ちおろされた「人間試練」の大鉄槌でもあった。
「事故の原因は何だ。」
現場との連絡電話にしがみついている国鉄幹部がどなっている。
「――高架線が、たるんでいるところに電車がはいってきて……つまり、その、通風器などにアースして架線がきれ、同時に火を出したものと推定されます。」
「それにしても、火の廻りがバカに早いじゃないか」
うしろむきで誰であるかはよくわからなかったが、適切な質問であった。
「――はい、火の廻りが早かったのは、六三型の電車の屋根の鉄骨のハリに、松板などの板を張った上に、塗料をぬりこめた布を張りめぐらしてあったものですから……はい、つまり、天井は可燃性のぺンキ塗りであったために、架線が触れた瞬間に燃えはじめた――と想像されます。その結果、屋根に穴があき、火が車内のシートや床の上に燃えあがる……それで、丁度煙突をつけたような状態となって火勢を煽り、風を吸いこむことになりますので、非常に短時間のうちに全焼した――と、これは現場に立ちあったものの見解を総合した結果でありますが……」
連絡電話は以上のように伝えている。
当日の朝日新聞の夕刊には
「――この六三型という電車は、電気絶縁の試験だけはやってあるが、屋根の廻りの耐火については考慮がはらわれていない。更に電車の連絡口のドアは、内側へ開かねばならないのだが、にげ惑う乗客たちは、それこそ夢我夢中だから、内側からつめかけて外側へ押しひらこうとした……そこで折りかさなって焼け死んだことがわかる。つまりこの事件は全く国鉄側の責任で、打つべき手を打っておけば、こんな惨事に立ち至らなかったことは明白で、まさしく大いなる失態である。」
と非難の失をむけている。
○2代目総裁の失脚
悲惨な桜木町事故を契機として、国民の国鉄にたいする不信の声は一時に爆発した。新聞雑誌はいうにおよばず、日本国中は上を下への大騒ぎとなり、国鉄は徹底的に国民のつるしあげを喰った。
「――国鉄は、わけのわからぬうちに、企業体となった。そのために商売気ばかりが旺盛で、東海道線のように儲る路線のみをサービスして、地方の支線のサービスなど、全く考えていない。」
とか――または
「占領軍用の列車や、無賃乗車階級専用の高級車にのみサービスをよくし、真の大衆サービスを忘れている。サービスの重点はいったいどっちなのだ。」
とゴウゴウたる非難の嵐だ。
もっとも皮肉な罵声は
「――人間は荷物以下だ。荷物は容量以上は載せられないが、人間は押しこめばいくらでも乗る。人間があふれ落ちる電車を走らせているまでは、まーまーよかったが、こんどは人間を大量に焼き殺すサービスまでしてくれた。
「これじゃア、火葬の手数もはぶけるぜ」 と、また、口のわるい大衆は、 「片手落ちの国鉄復興」 とも云った。
なにしろ、戦時中は輸送統制で、切符を買うことさえなかなか困難で、大衆から可なりうらまれていたし、戦後はアメリカの 「政策」 でサービスが一方的に皺寄せられていた関係もあって満員すしづめの 「地獄行電車」 などと悪口をいわれていた矢先の大事件であった。しかも東海道線には、敗戦国にふさわしくない豪華な国際列車が走り、展望車の闇成金がプカリプカリと、高価な葉巻をくゆらしている風景など、三等車階級は 「畜生め!」 と切歯扼腕(せっぱやくわん)の態であった。
「おそらくこれほど世論が一致して、国鉄を非難攻撃したことは国鉄史上空前のできごとであった」 と、当時の国鉄幹部は述懐しているが、空前ではあったが、絶後ではなかった。まだこれから、世紀の大事件が続々として登場するのだから……。
さて――
まえにも記録しておいたように、この事件では米兵三名も事故にかかっていたので、国鉄では当時の国鉄渉外部長(兼松)が、輸送司令官にあいさつに行き、ふかく陳謝した。
「まことにいかんのことだが、今後も電車は燃えるであろうか。」
と、いかにもアメリカ人らしい質問を発した。
「絶対にもえないとは断言できないが、国鉄としては安全にたいするあらゆる措置をとったのだから、人命に関する危険はすくなくなるでしょう。」
と答えた。
「それでは、安全にたいしてとった措置というのはどんなことか。」
と 、いうので――たとえば、ブレーキの標示とか、非常用ハンドルの位置の明示、連結器の改善、三段びらきの窓の改造、それからコツクのひらき方についても、日本語だけではなく英文もつけくわえること――。」などの諸点について説明した。
司令官も、わが意を得た――という風に大きくうなづいてみせた。
ところが 「燃えない筈」 の電車が、またしても久里浜で燃えるという椿事が起った。こんどは司令部の方から飛んで来た。
「――この間の話では、燃えないとのことだったが、また燃えたじゃないか。」
ごもっともな質問である。
「でも、こんどは人命の損傷はなかった。」
「それは結構なことだ――鉄道の経営をしている以上、事故が絶無だなんてことはあり得ないが今後とも十分注意してもらいたい。」 すると……
これというお叱りもなく帰って行った――占領軍当局としては、桜木町事件以来、「焼ける電車」のことについては非常にこまかく紳経をつかっていたようだ。
一方――政界方面では、攻撃の火の手があがっていた。この空前の大惨事は国鉄の怠慢によって発生したものであるとして、反対党からその責任を追及された。下手まごつけば内閣の命とりにならぬとも限らない。そのことを苦慮した吉田首相は、当面の責任者、加賀山総裁と一刻もはやく打合せをしたいと焦っていた。
野党の攻勢は刻一刻、緊迫の度を増して行くばかりであった。新聞も雑誌もこのチャンスを捉えて吉田内閣の政治的生命にトドメを判す意気ごみと見受けられた。
政治家はいうにおよばず、評論家、新聞記者、大学教授など、国をあげて論難攻撃の筆勢はするどく、これに関する文献を拾えば材料は山積のありさまで資料に不自由を感じないほどである。まさしく 「国鉄受難史上、空前の記録」 をつくった。
当然――当面の責任者加賀山総裁の進退が大きくとりあげられた。加賀山の岳父、十河信二(もと鉄道省経理局長、復興局長官その他鉄道弘済会々長などを歴任した国鉄の大御所現総裁。)は加賀山を電話ロによび出して、もちまえの鼻にかかる荘重な声で云った。
「いま、キミは、自分の進退のことについて考える必要はない。この大事件のあと始末を、いかに善処するかだ。」
と注意した。(十河信二談)もとより加賀山も同意見であった。
十河信二のことに触れたのを機会に、はなしの筋を過去にひぎ戻してみたい――国鉄の人事系列を理解するための手引きともなるであろうし、また―― 「人間の運命について考えさせられる材料」 ともなるであろうから……。
加貸山がまだ鉄道総局長官時代のことであっだ。時の運輸大臣は岡田勢一だったが、次官の伊能繁次郎が汚職事件の嫌疑をうけて休職となったあとの人選について、岡田は順序として加賀山を推薦した。
ところが司令部運輸局では
「ちよっと待ってくれ。」 と抗議が出た。
「ほかに、もっといいのがあるんじゃないか」 というのだ。
岡田は当惑した。だんだん様子を探ってみると、運輸局では
「加賀山は絶対反対だ。」 という空気が濃厚であることがわかった。
その時代には司令部出入りの情報屋というものがあって、あることないこと、いい加減の情報を流したものらしい。
「加賀山は、鉄道弘済会の会長である十河信二の義理のムスコだ。そして堀本謙三は十河の下で理事長をしている。彼等の一派は、弘済会長として、総裁として、鉄道を剪断しようとたくらんでいるのだ。だから加賀山の次官就任はこの上もなく危険だ」
司令部の見解はこういうものであったらしい。
そこで岡田も苦笑しながら東鉄局長だった下山定則を推薦した。司令部もその説に妥協した。こうして、当時としては異例の人事が行われ下山は二段飛びで次官に就任した。占領軍はこんな、くだらぬ情報の基礎の上にたって重要人事は左右されたが、司令部の人事干渉によって次官となり、さらに初代総裁となった下山は、ついに常磐線上のレールの錆と消え果てた。言葉をかえていえば、加賀山が殺されるところを、下山が代理となって無惨な最期をとげる結果とはなった。人間の幸不幸、運不運というものは、全くわからないものだ。
――話の筋がすこし脱線したようだから、元の軌道にひき戻さなければなるまい。
桜木町事件の責を負って、加賀山は総裁を辞任するとの声明を発表した。間髪を入れぬこの演技は、たけり立った国民感情に冷水をあびせかけるほどの舞台効果であった。
「加賀山は男だ、サムライだ。」
これでこそキミは日本人だ――と、反動的な人気が湧き立った。目先の利く男だと評したものもあった。
しかし、このことを知った運輸局のミラー大佐は
「あなたは辞任するそうだが、それは日本の封建的責任制ではないか。まるでサムライの腹きりと同じではないか。」
といった。それでも加賀山の決意はかたく、辞意をひるがえさなかった。
ミラー大佐は、さらに言葉をつよめて云った。
「あなたは、こんどの事故の原因を徹底的に究明した。防止対策も講じた。だから、いまあなたが一番総裁としては適任だ。いまこそあなたが監督の任に当ることが望ましい。それでも辞めるということは、世論におもねて昔通りの封建的腹切り精紳で行こうとする古い思想だ。民主国日本にとってのマイナスだ。」
しかし、加賀山は、自説をまげなかった。
「お言葉は実におりがたいと思います。しかし、日本の国民感情を無視することはできないし一概に封建性とばかりは云えないものがある。わたくしの進退については、わたくしの自由にまかせてもらいたい。」
と素直な心境を吐露した。
ミラー大佐はさらに、アメリカの実例をあげて 「責任の所在」 についての考え方の相違を説明し、強硬に留任を望んだが――ついに加賀山は桜木町事件の責任をとり、昭和二十六年八月に、二代目総裁の職を辞して野にくだった。
遭難者の慰霊祭で、弔辞をよみあげるとき、加賀山は声を張りあげて泣いた……あのときの演技も演出も、名優以上だったと、悪声を放つものもあったが、彼は感激性のつよい人柄で案外純情だよ――と弁護するものもある。いづれにしても、日本人の国民感情をよく心得て出所進退を誤やまらなかったことはたしかだ。後年、参議院議員に立候補したとき、五十数万票の支持を得て全国区第二位の点数をかち得たのも、やはり桜木町事件直後に、あざやかな 「責任辞職」 の手を打った 「演技」 のたまものかもしれない。
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1 下山定則
2 加賀山之雄 3
長崎惣之助 4
十河信二1 5 十河信二2
5代−10代
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3 長崎惣之助 第3代国鉄総裁
○長崎惣之助という男
いろんな迂余曲折はあったが、そこへ三代目の総裁として登場したのが長崎惣之助であっだ。
彼の出身地は「おばこ節とジョッツル鍋と、銘酒太平山」で知られた秋田在の、あまり裕福とはいえない農民の子としてうまれた。本来ならば秋田の一寒村の名もない農民の子として、雪とともに埋もれる生涯だったかもしれない。
が――少年のころから紳童といわれた彼は 「神童」 なるがゆえに周囲から大きな期待をかけられて勉強に身をいれた。
中学も高等学校も抜群の成績だったし、東大も第一位の栄冠をかちえて入学した。しかし先にもいったように貧農の小倅だった彼は学資も不自由がちだったので、家庭教師のアルバイトによって、辛うじて学資を稼いだ。
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卒業とともに、当時の鉄道省の試験に応じたが、このときの福富試験官は、口述試験のあとでこんなことをいった。
「キミは、ずいぶん背丈が高いねえ……。」
なるほど彼は、六尺にちかい長身白哲の大学生だったが、その問にたいして彼は
「いいえ、ボクが高いのではありません。みんななが低いのです。」
昂然といい放って、居並ぶ試験官たちを爆笑させた……そのことはいま猶、国鉄に語り伝えられる有名な伝説のひとつだ。
鉄道省では経理系統に属する仕事に年期をいれた。工藤義男の経理局長時代、長崎はその下で会計課長をつとめ、尨大な国有鉄道の台所を切り盛りしてその財政的手腕を認められた。
一方、ニィーチェを語り、ロマンロランを語り、トルストリィなどの作品を批判して文学青年的雰囲気をただよわせ、若い新聞記者たちを喜こばせた。以来とんとん拍子の出世街道をまっしぐら――戦時中は運輸次官をつとめた。吉田ワソマンの側近、佐藤栄作は彼の後輩である。こうして少し出世が早すぎたことが崇って、戦後には第一番目に追放にかかり官界から消えていった。
以来、六年余のながい歳月、かれは、同郷秋田出身の学生のめんどうをみる何とか学舎の舎監となり、六畳と四畳半の舎監室に起居して、まずしい明け暮のなかで読書三昧にふけっていた。わずかな退職手当も使いはたして、その日の糧にもコト欠くような清貧の歳月がながく続いた。
尻の摺りきれたズボンにボロの上衣をひっかけた六尺ゆたかな壮漢が、文字通り尾羽うち枯らしたかっこうで、丸の内あたりをあるいている姿をよくみかけた。
後輩の高瀬伝(もと鉄道官僚、現代議士、労働政務次官)が長崎の不運にナミダをながし
「キミい、あんな人材を追放しては、国家の損失だよオ。」
と、わたくし(筆者)に語ったことがある。その高瀬も、貧乏が売りものの清貧組で、殊にその当時は、第何回目かの選挙に落選して、全くの零落時代だったが、彼は実に驚くほど安い手当をもらって、ステーションホテルの常任顧問をやっていたころのことである。
ホテルの窓から俯瞰する丸の内の街路の上に尻きれトンボのズボンをはいて、のっそりとあるいている長崎のうしろ姿を見送りながら
「アレで、芋ガユを食っていながら、ほかの先輩たちのように、鉄道を食いものにしないところが長崎の身上だよ。」
と泪とともに語ったことがある。なにか感情が激してくるとすぐ涙を流すのが、熱血漢高瀬の特性であり、情熱の政治家としての特徴である。
さて――前にも書いたように、国鉄の乗車券の代売をしている交通公社が、アメリカのシャグノン中佐からツルシアゲを食い、切符代売の手数料を棚上げされた苦境時代、公社の従業員たちは豚を飼っても生活費だけは稼ぎ出そうと、悲壮な決心をしたことは、前にも述べたとおりだが――せっぱつまった公社では、切符売上金を滞納させて、娯楽雑誌「ロマンス」に投資した。窮余の一策だったことは云うまでもないが、昭和の天一坊猪股功その他への浮貸しなどを含めて、二億だか四億だかの尨大なコゲつきとなった――これが後日に禍根をのこしたわけだ。
やれ浮貸しだ!、やれ特別背任だ――と騒がれて、あわや刑事々件として司直の手がうごき始めようとした危機
一発のときに、浪人長崎の財政的手腕が高く買われて、いままで鼻もひっかけなかった先輩後輩たちが、長崎の智能と手腕にすがった……長崎はその期待にそむかず見事にこの難事件を解決した。
その火消し役がすむと、彼はふたたび六畳と四畳半の舎監室にひきこもって読書三昧の生活に返った。ちようどその前後、二代目総裁加賀山が桜木町事件によって失脚したのと時を同じくして、長崎の追放は解除された。
後任の総裁については内田信也の呼び声がたかく、その他自選他選の名がかつぎだされた。由来人間の住む世の中では、人事の問題がいちばん煩いのだ。後任総裁の問題では、いろいろのイキサツはあったが、追放六年の長崎の姿が大きく浮かび上がってぎたのだ。
清貧孤独の長崎が追放六年の暗室のなかから 「陽のあたる場所」 に出てきたとき、彼はまづ総裁室に洋服屋をよんでセビロを新調した。尻切れトンボの洋服では総裁のコケンにもかかわることで無理もない話だが、国鉄詰の新聞記者たちはこれをとりあげて抑楡(やゆ)したりケチをつけたりした。 「大声人語」 とか 「きのう今日」 「青鉛筆」 などの記者は、東北地方へ視察旅行にでかけた長崎をヤユして
「どうだった? 総裁用特別仕立て、お召列車ののり心地は?」
などと皮肉った。まるで巷の乞食がお大名にでもなったかのような印象を国民にあたえたが……要するに彼は正直なのである。彼が政治家として「失格」だといわれるのは、すべて東北人らしい正直さが禍するのだ。
由来秀才という種族は 「つめたい」 という印象をあたえる。いわば頭のいい能吏にすぎない彼を評して、政治家としては失格だネ………などとかげ口をきかれるのもこのためだ。殊に人情におぼれない彼の性格が、こういう 「人物評」となってあらわれるのだ。
○ああ、洞爺丸の大惨事
いままでるるとして記述した通り、アメリカの占領政策によって国有鉄道が公社として発足して以来、いろいろな悲劇がそのあとを絶たなかった。
初代国鉄総裁の下山が変死体となって線路の錆と消果ててから、自殺説と他殺説が交錯して、いまだにその真相も糾明されないのに、二代目の総裁加賀山は、桜木町駅で二百余人の乗客を焼死させた責任を負って引退した。三代目の長崎の身辺になにか不祥事が起こらなければよいがと気に病んでいた折も折、たとえそれが政治的な泥試合の具に供せられた 「放火事件」 であったとしても、鉄道会館事件なるものが突発して、衆院決算委員会で、説いメスを突きつけられて、痛くもない肚(はら)をさぐられる結果となった。
その痛手がまだしくしくと疼いているときに、又しても吉田首相の暴言に端を発して、陸海運疑獄が再燃の兆をみせた。指揮権の発動にたいする国民的抵抗と悲憤の火が、国民感情のなかで、ブスブスといぶっていることの証拠であった。
いまさら――古風な縁起をかついでいるわけではないが、国鉄総裁の椅子には、無念の泪をのんで死んで逝った初代下山総裁の恨みが、執念ぶかくつきまとっているのではないか――と気にかかる。
ところが、天意か偶然か、それとも必然か、またしても国鉄史上空前の大惨事が突発した。桜木町事件のときも、下山事件もすべて 「空前」 の大事故にちがいなかったが、今度こそ本当に国鉄にとって空前の大事件であった。
青函連絡船五隻が沈没して、洞爺丸の船客千百余人が絶望であるとの第一報が国鉄本庁に報告されたのだ。
この日、詳しくいえば昭和二十九年九月二十六日午後三時ごろ超スピードで北海道を襲った台風十五号は、しだいに速度を増し、午後六時すぎには風速五十メートルの驚異的強風となって吹き荒れた。
「同九時四十分、折からの強風中を乗客千百二十七名(うち外国人六十名)をのせ、予定より四時間遅れて出帆した青函連絡船上り第四便「洞爺丸」(四、三三七トン)、船長近藤平市(五四)は、函館港外で座礁転覆した。翌、二十七日現在、救助されたのは、わずかに百二十七名にすぎず、残りの乗客の生命はほとんど絶望視されている。また同夜から今暁にかけて、青函連絡貨物船北見丸、同第十一青函丸、同十勝丸、日高丸が激浪のために沈没、その死者をあわせると約一千人にのぼるものとみられる。」
と戦慄的なニュースを伝えてきた。
刻々として国鉄本庁にはいってくる直通緊急電話によれば――「沈没船五隻、巡航不可能の船舶九隻となったが、各船とも共通とみられる事故の原因は、台風十五号による突風五〇〜五五メートルの強風によって船体が四五度まで傾斜し、まず船尾から大波が侵水、貨車甲板、機関室、開口部などからも浸水、このため発電機が故障、浸水によってエンジンも停止した。船が傾斜したさいに、船内にあった貨車が転覆したために、その反動で船体が横転したものと推察せらる。」
とあり、いちばん被害のはげしかった洞爺丸は船客千百二十七名のほか船員百二名が乗っており、午前十時現在の生存者は百二十七名で死体三百五十余体が収容されている――と報告された。
洞爺丸の転覆事件は全国民に異状なショックをあたえたことはいうまでもないが、大惨事を引き起こした原因がもっぱら台風十五号の気象予報にあったとみられ、各新聞は一斉に中央気象台に駆けつけた。
「気象予報が果たして的確にだされたか。」
との質問に対して、当時の気象台では、こう説明している。
「台風十五号の特長は、進行速度が猛烈に強く、暴風雨のエネルギーが日本上陸後も依然として衰えなかった。そして九州を縦断した台風は、中国地方から一旦日本海に抜け、二十六日夕刻ふたたび奥羽地方または北海道に抜ける恐れがでてきたので、二十一日午前十一時頃この旨予報した。札幌管区気象台は殆どこれと同時に、北海道南西部に暴風雨警報を発令した。」
と発表、予報としては一応手ぬかりはなかったことを明らかにした。
しかるに!
二十六日夜十一時以後は海洋気象台からの通信が途絶えていた、夜七時の入電では十七メートルの風が吹いていた。そして洞爺丸は午後五時半ごろ、一時風のイキが弱まったときに出帆したことになっている。暴風雨に敏感な船乗り、しかも一流の船長がどうして船を出したかは不可解とされているが、中央気象台に手ぬかりがなかったとはいえない。
午後六時半の発表では、中心附近最大風速三十五メートルのデーターをだしてはいたが、猛烈な台風のスピードには後追いに終ったこと、台風の上陸を同夜八時まで予測できなかったことなど、責むべき点が多い。
(産経二九・九・二八朝刊より取材)
○ 世論と国鉄の対応
台風はすでに、日本にとってさけられない恒例のものとなっている。またそれが、いつ日本のどの部分を襲うか測り知れないものである。そうだとするとこの天災に対して、人智のおよぶかぎりの対策をこらして、その災害を、最少限にくいとめる工夫が必要であることはいうまでもない。
青函連結船の場合も、船の構造において、また航行においても、常に万一の場合を考慮にいれた上の対策が必要ではないか。万一の場合における退避、救出についても、万全の措置が講じられなければならない。
今回の惨事をたんに台風の猛威のせいにしてすましていることは、絶対にゆるされない。国鉄当局としても、すみやかに査問調査委員会を設けて、徹底的な原因の調査にあたるべきだ。その上で、責任の所在をあきらかにするとともに、乗客の人命をあずかる運輸当局として、あらゆる障害にも、万全を期しうる安全措置を講ずることに、最大の努力を払うべき、重大な責任のあることを自覚すべきだ。(産業経済新聞社説)
なお、朝日、毎日、読売その他の各新聞も、これと大同小異の論説をかかげて、国鉄当局の反省をもとめた。が、いずれも、常識論で、新聞社の論説委員でなくても、国民のすべてが洞爺丸事件によってくだした批判の程度をでなかった。新聞が、世論の代表者である以上、そうなることが当然であったにちがいない。従って、新聞の論調は、「国民の声」として、国鉄は素直にうけとるべき性質のものであっだ。
こういう国民の世論にたいして、国鉄当局は、どういう態度をとったか。
「洞爺丸の、すさまじい記事で、ごったかえしている九月二十八日の新聞の、下のほうに、あまりみなれない広告がのっていた。こんどの事件をひきおこした当の国鉄が出した広告である。」
という書き出しで、週刊朝日の社会時評 「今日の焦点」 には、
「血の通っている人間か。洞爺丸事件をめぐるお役人の誠意」
と題する一文が掲載されて読者の共感をそそった。
「アレを読んで、あきれてしまった。当然、洞爺丸の大悲劇について、まことに申し駅ありませんでした、という丁重なアイサツだろうとおもっていたら、これが大ちがい。まず大きな活字で 「謹告」 とあって、台風十五号で、国鉄のこうむった損害は多大、迷惑をおかけしたことを、ふかくイカンに存じます、とある。
それからやっとあの夜のことに入って 「なかんずく」 とくる。なかんずく、九月二十六日夜青函連絡船は、かってない大被害を受け、連絡船五隻が沈没し、二隻が大破した、と述べ、洞爺丸のような不幸な事故をひきおこしたことは
「まことに痛惜にたえません。御不幸にあわれました方に深く哀悼の意をささげます。とともに、遭難者ご家族の方々及び国民各位に対し心からイカンの意を表する次第であります。」 とある。
しかもそのあと、長々と、このために北海道方面の輸送はむずかしくなることを述ベ、
「ここに謹んでお知らせ致す次第であります。」 と結んである。
この広告を読んで感じることは、文章のへたなことももちろんだが、いったいなんのために、こんな広告を出したのか、ということである。なるほどこの事故で、北海道方面の輸送がむずかしくなる。それを 「謹んでお知らせする」 のだから 「謹告」 なのかもしれないが、もしそれだけのことなら、なにも何千万円という高い広告料を払って広告を出さなくても、新聞にそういえばちゃんと記事にしてくれるし、もういわれなくたって、事実、新聞はもっとくわしく、親切に、連絡船は何日何時に出る。飛行機はどうなる――と書いている。
この場合どうしたって、洞爺丸事件で千数百人の人命を失ったことについて、まことに申訳ありませんでした。ということでなければ、話は通らない。
それを台風の被害で、国鉄が多大の損害をこうむったとか、連絡船が何隻沈んで、何隻大破したとか、くだらぬことをながながと述べて、カソジソのところは、木で鼻をくくったような 「痛惜に堪えぬ」 「イカソの意を表する」 で片づけているのは、一体なんということだ。
「痛惜に堪えぬ」 といったタグイの日本語は、一つの悲劇にたいして、関係のない他人が使う言葉だ。この広告は、長崎総裁の名で出ているが、かりに総裁の子供が死んだとき 「まことに痛惜に堪えません」 という言葉を使うかどうか。
(以下略)
(以上 「実録疾風十年」より抜粋 中島幸三郎 昭和30年刊)
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1 下山定則
2 加賀山之雄 3
長崎惣之助 4 十河信二1
5 十河信二2 5代−10代
4 十河信二 第4代国鉄総裁 その1
○ 運命の紫雲丸
突如! 運命の日は来た。
世界第二の海難洞爺丸事件がどう審判されるのかと、世間の眼はいっせいにその点にむかって集中されている時も時、折も析、またしても宇高連絡船 「紫雲丸の悲劇」 を綴らなければならぬとは! なんという皮肉な運命であったろうか。
昭和三十年五月十一日。
修学旅行がえりの子供たち数百人をのせた紫雲丸が、高松の桟橋を出て、いまようやく女木島のあたりに差しかかった際、急に船のスピードがおちたと思う瞬間、
「ドシーンー」
とにぶい衝撃を感じた。
途端、船室の入口にある花ビンの水がパーツと倣った! 鋭い汽笛。そしてもういちど船は大きく揺れた。
「きやアッ!」
という子供たちの悲鳴が甲板を走る。
みると――紫雲丸の右舷前方の甲板の上に、第三宇高丸の船首がくいこみ、みるみるうちに船ははやくも左に傾きかけた。
「女の子を、女の子を先に!」
狂おしく誰かがさけんだ。
「先生ツ、たすけてえ……」 |

満鉄から帰国し西条市長時代の十河信二
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そのころには、もうすっかり美しい緑の瀬戸の内海は、阿鼻叫喚の修羅場と化していたのだ。船が横だおしになるにつれて、お河童の少女たちは、まるで豆がこぼれるように海のなかに落ちて行った。イガグリ坊主やおカツパ頭が、波に浮かんだとみるまに、また消えて行く。
「先生ツー」
「お母あさアん――」
絶望のなかから断末魔の悲鳴があがる……。
わたくしは、もはや当時の悲惨目を覆うばかりの情景をここに再録するの愚かしさをやめよう。世界第一の海難タイクニック号が、一千数百人の尊い人命と、おびただしい財物を犠牲として人類に与えた教訓は、世界第二の海難、洞爺丸の大惨事によって、もはや色褪せた一個の伝説として葬り去られた。そしてまた、性こりもなく、まのあたりにみごとな姿をみせてその尊い教訓を裏切った。
洞爺丸の大惨事は、日本の海難史上かつて見ざる 「空前」 の大事件といわれたが決して 「絶後」 ではなかった。
世論はもう国鉄のたびかさなる失態をゆるすほど寛大ではなかった。国民の世論を代表した新聞は、
「紫雲丸か死運丸か?」
と非難の第一声をあげた。そしてさらに、
「――桜木町の国電丸焼け事件から洞爺丸、紫雲丸と、睦でも海でも国鉄の事故はあまりにも多い。しかも大量死を招くような大事故つづきである。去年も今年も、十大ニュースを占める大惨事がいつも国鉄によって提供されるようでは、国民は安んじて生命を国鉄の乗り物には託せられない。睦の国鉄よ。海の国鉄よ。どこかにクギがぬけ落ちていないか。クギが、あちこちゆるんでいやしないか。大切な人命を日夜大量にあずかる国鉄は、もっともっと心のクギをひきしめてもらいたいものである」
と警告した。
また、三木運輸相は開会の答弁で、
「犠牲者の遺族には、線香も花輪も果物ももたせてやった。救助や弔意には万全をつくす」 といった。
しかし死者はよみがえらない。万全をつくすのは花輪や香典のほうではなく、事故絶滅の方向にこそ 「万全」 を期してもらいたかった。
「今夜、新婚旅行に旅立つはずでしたのに……」
と泣き崩れる若い女性の声もラジオできいた。それもこれも、涙なしにはきかれぬ悲惨なものばかりであった。
新聞の論調は、国民の世論を背景として、日とともにシンラツの度が増して行くばかりであった。
「初夏の瀬戸内は、毎朝のように霧が深い。この朝も視界五十メートルとの警報が出ていた。しかし不案内な海ではあるまい。紫雲丸も宇高丸も宇野高松間の連絡船でともに国鉄の船だ。目と鼻の海上をレールの上を走るように朝晩往復している船ではないか。しかも両船とも、レーダーを持っている。原因は 「濃霧」 というが、天災とはいえない。いやいわさない。航行の不注意による人災というのほかはない。紫雲丸はこれで二度目の沈没だというが、これでは全く「死運丸」ではないか」
と論難攻撃の手をゆるめなかった。
さらにまた、
「――八百人ちかい乗客、乗組員のうち、死者、行方不明がおよそ百人、五、六十人が重軽傷か負っている。小学生たちも海へどんどん飛びこんだという。泳ぎのできる人が多かったこと、これが犠牲をいくらかすくなくしている。それでも沈没の渦巻きのなかにまきこまれた子供たちが多かった。朝だったから――また初夏の海だったから、まだまだ助かった。これが夜だったら――冬の海だったら、荒天だったら、洞爺丸に劣らぬ大惨事になるところだった」
と、非難の声はしだいに推理の領域にまで羽をのばして、 「もしもそうだったら」 との仮定説にまで飛躍発展して
「これでもか、これでもか」 と国鉄を責めた。
その前後――。
新聞の 「かたえくぼ欄」 には、警句ずきの読者から、頻々(ひんぴん)として寸鉄肺賦を刺すような投書が寄せられた。
「任期――丸焼けから沈没まで!――国鉄総裁」
「新流行語――ウチの連絡船、どこへ沈没したのかしら?――女房」
というようなものであっだ。そして、時日が経過しても、新聞は、国鉄にたいする攻撃の筆をおさめなかった。否、日とともに、攻撃の矢は熾烈となってゆくばかりであった。
「国鉄というと、何となく信頼していた。それほどに思われていた国鉄が、紫雲丸、洞爺丸など、とても民間では真似のできそうもない大事故を、ときおりやってのける。船は右側通行ときまっているものを、ひょいと左に切って衝突沈没する。霧のなかでは徐行が常識なのに、両船とも十一ノットの常速で突ッ走っていたという。ひとつも定石をふんでいない。そして一瞬のうちに百数十人を死なせた」
と執拗に食いさがった。
野党は十一日の国会で、この異状なできごとをとりあげて、政府の責任を追及した。鳩山一郎首相は衆議院予算委員会で、
「たいへん残念なことで、国民もお互に反省してこんなことをなくしたい」
と友愛精神まがいに責任の一端を国民が負わされるような云い廻しをした。左派社会党の委員は憤然として 「国民とは何事か」 とつめ寄った。首相は前言を取消し、政府の責任を明らかにした
が、何かクギが一本ぬけている世相である。
翌十二日、衆議院の本会議では、 「紫雲丸事件」 をとりあげた。このたびの大事故に、洞爺丸の場合のように、天災か人災かというのとは意味が異り、あきらかに人災であることがわかっているだけに、野党側は気負い立って政府に食ってかかった。
「政府は責任をとれ!」
「調査の上、政府は責任の所在をあきらかにする」
型どおりの押し問答がくりかえされた。しかし国民は責任の所在を追及して、一人や二人の国鉄幹部に腹を切らせても、どうなるものでもない、と考えていた。それよりも、再びこんなことがくりかえさないように――と祈っていたのだ。
この会議に先立って、左右両社会党は、長崎総裁および天坊副総裁らの罷免決議案を提出、ただちに本会議に上程せよと主張し、政府与党を手こずらした。民主党からは、
「三木運輸相が、本会議で野党の納得のゆく答弁をするから決議案だけは……」
と妥協を申しこんだが、野党はききいれなかった。せっぱっまった政府側は、長崎総裁から辞表をとって、
「これで、決議案をひっこめてくれ!」
と出たが、両社はなかなかウンといわなかった。長崎総裁も事件のあと始末が一段落すれば辞職のつもりだったらしいが、与野党入りみだれての駈引の皺寄せで、とうとう詰め腹を斬らねばならぬ破目に追いこまれた。
新聞は、それ見たことかと、デカデカとこの事件を報道し、
「洞爺丸のときにやめなかった長崎も、こんどは解任ときまった。洞爺丸の海難審判が終ってから、ゆっくりやめるつもりでグズグズしているうちに、また紫雲丸事件をひきおこした。国鉄一家が洞爺丸事件であれほど叩かれたのに、前者のくつがえるのをみながら、後者の戒めとしなかった証拠である。総裁の一人や二人やめたからといって、それで国鉄のユルんだネジが引きしまるかどうかわからない。大しくじりの最高責任者が辞職して、そのままノホホンと関連事業のよいポストに坐るのも、――国民としては割切れぬきもちである」
と、トドメを剌した。
ここで、後任総裁の問題が当然ヤカマシク論議されたが、当の責任者三木武夫運輸相は、
「いろいろと、下馬評は出ているが、いずれもざだ仲人口ばかりだ。一日、二日を争わず、政府主脳部とよく相談した上で」
と言葉を濁した。しかし、こんどの国鉄総裁は財界人を――という三木運輸相の意見はゆるがなかった。その最有力者は、浜口雄幸(東京駅で狙撃された元首相)の子息、雄彦の呼び声が高かった……その浜口雄彦は、この朝三木(武吉)総務会長を訪ねて、
「わたくしに何か、御相談があるそうですけれども、国鉄総裁の件ならばおことわりします」
と先手を打たれた。
俄然、後任総裁の問題は難航し、その行く手に暗礁が横たわっていることをさとらなければならなかった。
このとき、わたくしは、月刊 「交通世論」 に 「井戸端会議録音盤」 という一文を寄せて、次のとおりのべている。原稿紙三十枚ほどの長文で、ここに収録しきれないので、ホンのサワリのところだけを再録してみよう。
「――後任総裁の問題は、難航に難航をかさねて、数日間一進一退をつづけたが、わたくしはこの時、あるところで次のように言明した。
「後任総裁は、好むと好まざるとにかかわらず、老書生、十河信二だとボクは判断する。これは情報の要約ではない。飽くまでボクの判断だ。その理由は……」
と一席弁じたが、このときの傍聴者は、財界の中堅どころ、ジャーナリスト、官僚出身の実業家その他大勢で、僕の見解には十余人の証人がある。しかし、みんな 「そんなバカなことはない」 と僕の見解は手もなく一蹴された。
「それでは、鉄道一家の印象が、益々濃厚となるばかりだ。第一、国民の世論がゆるさない」
これが有力な反対意見となって、ボクの説は、白昼夢として、唐人(執筆者は大陸帰り)の寝言として一笑に附された。(後略)
そのころ――。
総裁後任について数回、内交渉をうけていた老書生十河信二は、最後の返辞をするため国府津を出発、いま湘南電車に揺られながらの東上中で在った。
「よう、十河君」
と、むこうの座席から声をかけたものがある。声の方角に特徴のある細い絲目を放った。それは 「老いらくの恋」 で有名となった老歌人、川田順であった。いつもの通りのあいさつだった。そのときのことを、川田順は、文芸春秋に 「国鉄総裁」 と題する一文を寄せてこう述べている。 。
「五月十九日の午前、東京行の湘南電車で、はからずも十河信二君をみかけたが、いつものふくよかな童顔で、いささか睡眠不足のような腫れぼったい瞼かしていた。私はすぐその隣の席にすわった。
十河君は談論風発だが、私も風発とまでゆかないけれども、誰れと対談してもひけを取らないほどのお喋りである。」
東京駅に着くまでの一時間を、一分も黙らず喋り続けた。
話題はまず、最近の紫雲丸遭難の事件に触れた。
「近来、人心いちじるしく萎縮し責任感のうすくなったことが主な原因ではないか」 と私がいうと、
「それもそうだけれども、もっと具体的な理由は、国鉄の設備の不完全にあると」 十河君は述べて、不完全な点をくわしく語った。ヴェテランなる 「鉄道人」 の十河君は、決して概念論で片づけない。
次の話題は新総裁の物色に移った。
「政党関係から意外な人物が飛び出すと、国民の迷惑になる。国鉄は経済の根幹だから、どうしてもその道のヴェテランが経営しないといけない。例えば、十河君だと安心でぎるんだけれども……」
「とんでもない。誰が経営しても容易じやないよ。何分にも数千億の資産と四十五万の人間を擁する超大事業なのだから……」
ここで十河君は、自分に全く無関係な問題を批判するかのような、冷静な顔になって、風発の談論の調子を低め、しずかになった。
私は釈迦に説法の如く向うみずになって、ヴェテラン説の主張を続けた。
むかし私の学生時代に、ある著名な銀行家が、いかかる風の吹き廻しか、鉄道院総裁に就任した。銀行屋が鉄道屋とは、キンとテツとは同種類としても、おかしなことだと書生のわたしはいぶかしく思った。
その銀行家総裁が部下を集めての就任のあいさつに
「吾輩は今日から諸君の驥尾(きび:後ろに就く)に附して、鉄道のことをイロハから勉強する決心である。何分にも素人なので……」
云々という意味のことを述べた由、当時のなにかの新聞でよんだが、私はおどろいた。もちろんそれは謙遜であり、お世辞であったにちがいない。けれども、脱線的のお世辞であり、謙遜である。つまり、自分の統率すべき大事業への自信がなく、従って腹が据わっていないからである。素人の悲哀の暴露である。ヴェテランなら決してこんな不見識な挨拶はしない。
「こんな愚論を臆面もなく喋ったが、十河君は黙々として傾聴? しながら、賛否をいわなかった……」(後略)とある。
十河信二はいま、国鉄総裁就任の要請に応じ、最後の返事をするための上京途上である。川田がいくらヴェテラン論に油を注ごうとも、それに対して賛否を明確にすることはできなかった……なぜなら、いずれとも意を決しかねていたからである。川田はまた川田で、十河がいま、そのような切羽つまった立場に置かれていようなどとは夢にも想像していなかった。
○ 時代の脚光を浴びて
東京駅に着くと、すぐその足で約束の場所福田屋に行った。そこには民主党国会対策委員長の砂田重政、三木武吉の二人が待っていた。ふしぎな縁といわなければならないが、かれらはおなじ四国の出身者たちである。
この最後の会談の裏ばなしとして 「時事通信」 は、
「――こんども始めは渋っていたが、三木武吉に、君の祖国国鉄は苦難つづきで、いま危機に瀕しているのではないか。君は赤紙を突きつけられても祖国の難に赴くことを躊躇する不忠者か、と泣きどころをつかれると、ころりと参って、俺は不忠者にはならん、とひきうけてしまった」 と伝えている。
その日の夕刻――。
東京ステーションホテル二○六号室の扉は三木運輸相、砂田重政、十河信二の三人をのんだまま、ピッタリと閉ざされていた。いよいよ最後の段階に突入したのだ。
二階ロビーから二〇六号室にいたる廊下は、はやくもこの情報をキャッチして押し寄せた報道陣でゴッタがえしており、ケンケンゴウゴウのあわだたしさだった……外出から帰って来た宿泊客の印度婦人にかきいだかれた幼児が、物珍らしげに黒い瞳をかがやかせているのも印象的だった。
五十分もすぎたころ扉がさっとひらき、砂田重政がポケットに両手を突ッこんで姿をあらわした。わあっと押し寄せる報道陣にモミクチャにされながら、
「ウン、きまったよ。十河君がとうとう受諾してくれた。明日の閣議で正式にきめる!」 そのあとの扉の中から、三木運輸相と十河信二が現れた。記者団のまつロビーに歩を移すと、テレビ・ニュースなどのカメラが強いライトをあびせかける。まさしく文字通りに時代の脚光を浴びた十河の顔は、強烈なライトのなかに紅潮をみせ、絲目をいっそう細くした。まぶしいのだ……生理的にも精神的にも!
記者団の鋭い質問が、三木運輸相に集中する。
「――あなたは、この前の会見のときも、いったではないか、後任総裁は財界からとると言明したではないか」
記者団の一斉攻撃に、いささかへきえきしながら、運輸相も必死だった。
「キミ、三十年も鉄道を離れていたのだから、世間一般でいう部内者ではないと思う」
前に大見得を切った手前もあって、くるしそうな答弁であった。このうるさ型とやりとりがすんだころ、十河信二は記者団にとりかこまれて、再び二〇六号室に戻った。
| テーブルの上に出された紅茶とケーキは、いずれも手がつけられていない。三者会談の真剣さが雄弁にそれをものがたっていた。
十河の眉間には、七十一歳の老躯を押して、国鉄再建のためにのりだした決意の色が濃くにじみ出ていた。
「わたしも、このごろまで入院していた体だ。どうも血圧があがったり下ったりして、健康状態が香ばしくないのだ。しかし引受けた以上、国鉄のため、国民のため、最後の御奉公と思い線路を枕に討死する覚悟で……」
と、偽らない現在の心境をのべた。
十河新国鉄総裁の談話と、訓示にたいして、ひびきのものに応ずるように、翌日の新聞にその反響がハネ返ってきた。朝日新聞の荒垣秀雄担当執筆 「天声人語」 ではこうのべている。
「……線路をマクラに討死する覚悟という国鉄総裁があらわれた。十河新総裁が職員をあつめての訓示第一号である。物騒なはなしになったものだ。 |

総裁就任発表で記者団に囲まれる十河信二新国鉄総裁
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下山元国鉄総裁は文字通り線路を枕に死んだ。自殺か他殺いまだにわからない。この不幸な国鉄の不祥事を知ってか、忘れてか、形容詞にしても縁起でもないことを口走るものである。乗物を扱う国鉄人としても神経の荒ッぽい言葉づかいである。国鉄総裁からして線路を枕にする気では、乗客は安閑とのっていられない。マクラを高くして安心して乗れる国鉄にしてもらいたいのが国民の要望である。就任早々から大脱線されてはあぶなくて仕様がない。
「赤紙をつきつけられて、ためらう不忠者かといわれたので、祖国の難に赴く勇士のつもりでひきうけた」
ともいった。一昔か二昔前に、十河満鉄理事が新京あたりで訓示した台詞のままが現代に迷い出た感じである。センスが十年ズレている。こんな大時代の感覚では、線路がずれたり汽車があともどりしないかと心配である」
と、皮肉ったあとで、荒垣秀雄は、さっと筆の調子をかえて、称賛論に逆戻り、
「国鉄一家といえば、天下の伏魔殿のごとくいわれている。誤れる鉄道一家の観念を打破せよと、頭から冷水を浴びせたのは、さすがに大先輩らしい貫録である。岡倉天心の 「茶の本」 に例をとって、国鉄の信用回復には、秩序と礼儀を重んずる以外にないと、説くのも、駅売りのジャブジャブのお茶より味いは深い。(中略)十河新総裁に期待するものは何よりもまず汽車電車、連絡船の安全である。安心して命をあずけられるための国鉄刷新である。どうか線路をマクラに討死だなどと気の弱い乗客をおどかさないで、高マクラの安心で線路の上を運んでくれる国鉄にしてもらいたい」
と結んでいる。
この 「マクラ談義」 に憤慨した反パク論も、各新聞社の編集局に舞いこんだ。そのなかの代表的意見をひろってみる。
「――十河さんが国鉄総裁になって、赤紙をもらった考えでそれを受けたのだ、自分は線路を枕に討死する決心で総裁になった、とあいさつしたというので、新聞では時代感覚にだいぶズレがあると評している。その新聞記事を鵜呑みにして、自分がいかにも新時代の感覚を持っているかのように、得々として批評している者が多い。全くニガニガしい限りである。
赤紙は戦時中の召集令状を意味し、一銭五厘のハガキー枚で何万人でも集めうるが、軍馬は何百円と金をつまなければ得られない、だから兵より軍馬が大切だとしたのである。今では旧軍閥時代を代表したイヤな表現となっていることと、線路を枕に討死などという言葉は、赤い夕陽の満州にという軍歌を想いださせる軍国調だということであろうと思う。
だが、十河さんにしてみれば、今頃国鉄総裁になりたい欲望もなかったし、まして自分のムスコが先にかけた総裁の椅子であっただけに、一層その気分かつよいにちがいない。国鉄の将来を憂うるあまり、こんどの国鉄総裁就任となったのであるから、まさに己を捨ててという悲壮な気持でうけたに相違ない。これを卒直に表現したまでである。
大体、男子が責任のある地位につく場合、その仕事に自分の生命を打ちこむ位の決心がなくして、その職につくのがまちがいである。しかし現代人はそんな考えではなく欲得打算で大臣だとか総裁とかの椅子にトビつく者が多い。自分の栄達、名誉欲を満足させればよいという人が多い」
とのべ、さらに、語気をつよめて、荒垣秀准にくってかかり、表現がふるいから時代おくれだと思ってるバカ者もあろうし、又、そういうことをいったり書いたりすることによって、飯を食ってる者もある、と逆襲している。が、これは非常にながい文章なので、このへんで割愛して、「週刊読売」の「やア、こんにちは」の近藤日出造、十河信二対談のなかからその一節を再録してみよう。
近藤 「前任の総裁三人とも、事故でやめた形ですな」
十河 「何か、たたっているんじやないだろうか」
近藤 「二度あることは三度あるといいますが、三度あることは四度あるとはいいませんから、長々と総裁をおやりください。しかし何ですね。ああいう事件のあと、よくお引受けになりましたね」
十河 「これはね、パカだからですよ。世の中には利口なものが多過ぎて、パカがすくなくなったということ、天下これより大なる憂いはないと思うんですよ。もっと、もっと馬鹿がいなくちやア」
近藤 「ここに一人います。馬鹿者に於て人後におちないのが……。(笑声)総裁就任のときにおっしやった言葉、たしかに利口者の言葉ではありませんでしたな」
十河 「あれで、馬鹿だということを公告しておいたんです」(笑)
近藤 「線路をマクラに討死の覚悟とは勇ましかったですね」
十河 「洞爺丸の船長も船と運命を共にした。紫雲丸の船長もそうだった。また昨年の九月か十月かに、山陽線の幡生で田中という機関士がまちかえで脱線転覆の事故をおこして、その機関士は責任を感じて、線路にとびこんで、レールをマクラに死んじやったンです。職員の頭には、そういうことが深くしみこんでいるんです。だからといって、死ぬというのは決していいことではないと思うんです。しかし、そういう心は非常に尊いものだと思いますね。自分が間違えば命を投げ出すという、それだけの気持がなければ、のべつに間違いをやる……」
以下略……ということで、世論の焦点だったこの 「マクラ木談話」 もこのへんで終りとしよう。
○ 女木島(めぎじま)は処女のごとし
現代人は、おそろしく健忘症であった……さすがに騒然とした 「マクラ木問答」 も、いつからともかく忘却の霧の彼方に消え去って行くもののようであった……そして、もっともっと大きな忘れものをしているかのようであっだ……世紀の大惨事などと大さわぎをした紫雲丸の沈没事件も、世論はぴたりと鳴りをしずめて、他愛もなくつぎの事件に興味をつないでゆくかのように見うけられた。
昭和三十年五月十一日、一瞬にして二百余人の生霊を失った紫雲丸沈没の日から、まだ三十五日しか経っていない。国鉄では六月十四日が丁度五七忌に当るので、惨事の現場高松で盛大な慰霊祭がおこなわれることになった。地元の四国鉄道管理局長が施主となり、西本願寺院門主、大谷光明師を導師として、多数の遺族を迎え、遭難者の冥福を祈ろうとの殊勝な主旨にほかならない。
この日の高松の市中は、慰雪祭に、参集する遺族たちで、雑踏した。しかしその雑踏の中にも、しっとりとおちついたしめやかさが秘められ、かっての遭難の日のように、狂気じみた混乱の様相はみうけられなかった。
国鉄新総裁、十河信二は、老躯を押してこの慰霊祭に馳せ参じた。
式壇の前では大谷光明師を導師に――多勢の僧侶が居ならび、香煙のかかから読経の声がながく尾をひいて行く――。ちいさな桐の小箱がならんでいた……白布につつまれ、いまはもう一片の白骨と化した少年少女たちの霊である。一千人を超える遺族席からは、期せずして嗚咽のこえが漏れた。みんないいあわせたように、あの日の死体安置所の情景を瞼の裏に思い浮かべていたからである。お棺のフタをあげて、いまはつめたいむくろとなったわが子の体をいたわるように、オカッパの髪を撫ぜては、
「節美、節美、ゆるしておくれ……」
と泣き伏した広島県木江南小学校六年生、沖原節美の母も、やはりこの遺族席のなかにいた……。おばさん、げんきを出して、と、沖原とみよをなぐさめながら、自分もまた悲しくなってその場に泣き伏した。山本サカエの姉ノブ子も、いまこの遺族席のどこかで、眼を泣きはらしているにちがいない。自分が働いて貯めた金のなかから紺の布地を買い、夜の眼も寝ないで、セーラー服を縫った姉、はるばる大阪から、妹をよろこばせるために携えてきたセーラ服、それもまにあわなかった……持ってきた洋服と赤い靴を、お棺のなかにおさめた姉。腿れぽったい妹の死顔に頬紅をつけたやった妹思いの姉……。
それぞれの思い出を秘めた遺族席に、ちらと眼を放った老総裁は、しずかに目礼して設けられた祭壇の前で、うやうやしく焼香した。そしてゆっくりと一段高い設けの座にのぼって行った。参集した人々の眼が、いっせいにその一点に注がれたとき、遠い女木島のあたりから、潮騒のようなざわめきがおこった。いや、あるいは遺族の鳴咽の声の合唱だったかもしれない。
「弔辞――」
老総裁の声が、かすかな顫(ふる)えを帯びて、一瞬の静寂の中を流れて行った……。
「去る五月十一日、宇高航路、女木島附近において、日本国有鉄道連絡船紫雲丸が沈没し……乗船された方々のうちから多数の遭難者を出しましたことは、まことに痛恨のきわみであり……私といたしましては、いかなる言葉をもってしてもおわび申し上げようもないところでごさいます」
弔辞をよみつづける老総裁の手が、ぶるぶるとちいさくふるえた……。
「……不幸にして、この厄難に遭い、一瞬にして不帰の客となられた皆様の……皆さまの御無念はいかばかりでございましたでしよう。想うだに恐しく唯々哀惜の情切なるものがございます。皆様は、あるいは一家の柱石として、あるいは、永い年月愛育された御子様として、その他最愛の方々として、まことに大切な、かけがえのない方であったのでございます。このような方々を、突如として奪いさられました御遺族の御心情をお察し致しますとき、真に断腸の想いがするのでございます。殊に、学びの途にいそしむいとしいお子様を亡くせられた御両親のお気持に想い至るとき、わたくしも……わたくしも、世の親として……」
弔辞ををよみあげる総裁の声は一瞬途絶えた。その一刹那! 水を打ったように厳粛な遺族席あたりから、
「わあ……」
とたまりかねた悲しみの声が湧き起った。(泣いてはならぬ、泣くまいと、がまんすればするほど、老総裁の胸はしめつけらわたように、くるしくなった。声が俄(にわか)にかすれた)
「わたくしも、わたくしも、世の常の親として身のおきどころもない感じがいたしまして、唯々御霊前に頭を垂れてひたすら皆様の御冥福を心からお祈りするのみでございます。御嘆きにひたって居られる御遺族の皆様に対して、いかにお慰め申上ぐべきかについて、日本国有鉄道といたしましては、職員一同心を砕き、何とかして、いささかでも皆さまの御心を慰め、お詫びのできますよう全力を尽す所存でございます」
老総裁は、ほっとしたように遺族席に眼を走らせたが、気をとり直してまた一段と声をはりあげた。
「尚また、将来このような悲惨事をひき起すことのない様に、あらゆる角度から根本的に究明し、作業や施設の欠陥はその改善を実施し、安全確保のために、全能力を尽し、みなさまの尊い御犠牲による教訓を無駄に致さないよう、職員相戒め固く誓いあって居る次第でございます……」
遺旅たちの悲しみはもうその極地に達していた。哀号のルツボのなかにあった。人目もはばからず大声をはりあげて泣いていた……老総裁の声は、その泣声さけび声にかき消されて、もう誰の耳にもききとることができなかった……。
「……みなさまのみたまをお迎えして……御冥福をお祈り申あげる次第でございます。何卒、私達の微意を享(う)けられますよう、伏してお願い申上げます。昭和三十年六月十四日、日本国有鉄道総裁、十河信二――」
彼はホッとしてはりつめた肩の重荷をおろした。……百年の悪夢をこの一瞬に圧縮したあとの静かな安堵にも似た気持だった。泣けるだけ泣いたあとの空虚な安らかさが遺族席のあたりにも流れていた。
その次の日――。
瀬戸の内海に臨んだ城下町高松は、ふたたびもとの静けさをとりもどした――遠望する海の彼方には、悲劇の目撃者女木島が、まるで処女のように、敬虔な姿をみせていた。いまを去る三十五日前、このしずかな波の上にどうして又、あんなにも大きな悲劇がくりひろげられたのであろうか、信じられないほど、静かな海面であった。
(以上「風雲児十河信二伝」より抜粋 中島幸三郎 昭和30年刊)
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1 下山定則
2 加賀山之雄 3
長崎惣之助 4
十河信二1 5 十河信二2
5代−10代 5
十河信二 第4代国鉄総裁 その2
「十河信二」より抜粋 有賀宗吉著 昭和63年刊より ○東海道新幹線のスタート青木座談会
昭和30年(1955年)の日本経済は、ようやく”復興段階”を終わった、といえる程度で、国際的に見たら3流国だった。後進国と先進国の中間――、いわば”中進国ニッポン”だった。30年度の国民総生産額は、240億ドルで、アメリカの1/15、西ドイツの1/3だった。産業構造でも就業者比率は、第1次産業(農業、水産など)が約40%、第2次産業(製造業、鉱業など)が約20%で、とても工業国への脱皮を遂げた、などとはいえなかった。翌31年度の『経済白書』に書かれた「もはや”戦後”ではない」「技術革新(イノベーション)」「近代化(トランスフォーメーション」という言葉はアピールしたが……。
このような日本経済の時に、十河が、
「東海道線の増強のため、広軌新幹線を建設する」(戦時中に建設を開始した”弾丸列車”の時にすでに”新幹線”という言葉を使っていた)と主張したのだが、多くの事業家たちの目には”非常識”と映ったようだ。十河もそう見られていることを感じていたようで、座談会で次のように語っている。
「第1次5ヵ年計画の際に、それを(広軌新幹線で東海道線を増強すること)やろうと思ったけれども、いま言ったように、ちっとも研究が進まない。またあまり思想統一ができないうちに出すと、外で潰されるだけでなく、国鉄内部の人に押し潰される危険がある。そういうことを感じたのですよ」
(以上は資料として残すために、昭和40年7月に開かれた座談会である。十河が総裁になって間もなく、十河に命じられて、ひそかに広軌新幹線の研究をはじめた人たち――当時の総裁室審議室の若手の技師だった3人が、十河を囲んで当時の思い出を語っている。司会は青木槐三。以下、”青木座談会”と呼ぶ)。 |
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この頃、世間一般では、欧米の例もあるので、鉄道は斜陽化するとみていた。国鉄のなかにも、そのように考えている人もいた。民間航空が再開された(昭和26年7月31日に日本航空が設立された)。自動車が大量に生産され、東京−神戸間の高速道路計画も発表された(名神は昭和37年に、東名は40年に入れば、開通するはずだった)。港湾が整備され、大型船も建造されるようになった。等々の理由で、「差しあたっては、部分的に鉄道の輸送力増強は必要だが、道路が整備されれば輸送難は解消する――鉄道は斜陽化する」という意見が多かった。
十河が語っている国鉄の第1次5ヵ年計画は昭和32年から36年までに、総額5,986億円をかけて、老朽資産の取替え、輸送力の増強、動力の近代化をするというものだった。この方針をまとめたのは昭和29年だったので、輸送力増強は東北、裏縦貫の輸送力増強に重点が置かれており、東海道の線路複々線化は平塚−国府津間、京都−草津間に120億円を投入する程度だった。東海道本線は31年秋に全線電化が完成することになっており、完成すれば輸送力が増すから大改良する必要はないと判断されたのである。
ところが電化が完成した31年の11月頃には神武景気になり、そのために東海道線へ流れ込む旅客、貨物の量は日毎に増加し、需要に応じられなくなりそうになった。運輸省や国鉄も東海道線の増強を本格的に検討せざるを得なくなった(鉄道の斜陽化がいわれだしたのに、東海道線の輸送が行き詰まり現象を起こした結果、新幹線建設の第一の理由になった)。
十河が国鉄内部で正式に東海道広軌新幹線の検討を要請したのは、31年1月中旬の理事会だというが、それより前に、副総裁の天坊裕彦や技師長の藤井松太郎(後に国鉄総裁)には相談していたようだ。
青木座談会で十河は、
「ぼくが就任した時の副総裁は天坊君だった。天坊君は仙石貢総裁の孫の婿だったかな、何か仙石総裁とつながりがある。ちょうどいい、天坊君に”ひとつ広軌の調査をしようじゃないか”と話した。調査を依頼したけれど調査をしないですよ。あとで話を聞くと”そういうものは老人の夢だ、忙がしいときにそんなことをするのはむだ骨だから、まあ老人には昔の夢を一人で楽しまして置いたほうがいい”というようなことで、反対はしないのだが、賛成もしてくれない」といっている。
○新幹線のための体制造り
これに対する技師たちの話から推測すると、副総裁の天坊は、広軌鉄道の調査を建設部に依頼したらしい。 一度簡単なレポートが十河に届けられたが、それは既往の実績(桂内閣の広軌改築案だとか弾丸列車幹線建設計画など)の羅列だったので、十河はレポートを叩きつけて怒った。
十河は、「さっき言った広軌の研究は、建設部でやっておった。ということは、技師長の藤井松太郎君がそっちのほうの監督をしておって、そこが動かないということがわかったものだから、僕は藤井君のところに端的に飛び込んでいったのです。
”技師長にはもっと広い視野の人を頼みたいから、君、替わってくれ”といったら、藤井君はこれまた実に淡白な人だから率直に、”おれもそう思う、替えてくれ”という。
それで住友金属の広田社長に島秀雄君の譲り受け話を持ち込んだ」と回想している。
財団法人・交通協力会発行の交通新聞の30年10月17日のトップ記事は、”国鉄技師長に島秀雄氏が内定”である。藤井松太郎は技師長から建設担当の常務理事に転じている。島に技師長の辞令が出たのは同年の12月1日付である。10月17日の国鉄の人事異動では、藤井の他に、大槻文夫と小林重国が常務理事に昇格した。後に鉄研所長になり”東海道に3時間の超特急”の講演会を主催する篠原武司は、西部支配人兼門司鉄道管理局長になった。総裁室関係では、磯崎叡が外務部長兼広報部長に、豊原廉次郎が秘書課長になった。「青木座談会」で十河が語っているような理由で、10月17日に技師長を更迭したのなら、5月に国鉄総裁になって、間もなく――おそらく秋口には広軌新幹線の検討を総裁室審議室に頼んでいたのだろう。
○まず鳩山首相に要請
十河総裁の初代秘書だった君ヶ袋真一(昭和22年東大政卒、後に国鉄常務理事、新幹線総局長、大宮ステーションビル社長)は、
「十河総裁は30年暮から31年春にかけて、自分で書いた薄いパンフレットを、自動車のトランクに入れておいて、要路の人に会うたびに手渡し、熱っぽく広軌新幹線建設を説いていた」と思い出を語っている。早朝、総理大臣の鳩山一郎を小石川の私邸に訪ねたのも、この頃で、君ヶ袋は薫子夫人に「書生さん、朝早くからご苦労さんですね」とねぎらわれたそうだ。
十河は鳩山とは友人の政治家森格との関係で知り合っていたから気軽に話ができた。
東海道に広軌新幹線を建設する決意をのべて、
「各大臣、党幹部を個別に口説き落す自信はあるが、何分多勢のことだから、説得出来ない者が出るかも知れない。閣議や総務会で異論が出た場合、総理総裁として建設の断を下すと約束してもらいたい」と頼んだそうである。
また「金はいくらかかるか、何年で出来るか」という質問に、
「どうしても5年以内の期間で完成しなければならない。日本経済のために急務です。資金がいくらかかるか、どういう新技術を駆使すべきか、私には全くわかりません。しかし、初年度は100億円以上は要求しません。2年目にその後の事業計画、予算を決めて提出するから頼みます」というと、
「宜しい」といって、ノートに何かメモしたという。初年度の100億円は調査費だ。
政治家訪問で、もっとも手こずったのは河野一郎であるが、これはもっと後、岸信介内閣になってからである。要路の人に手渡したというパンフレットはみつからない。「東海道線の行き詰まりを打開するために、広軌新幹線をつくる」ということを主張していたわけだが、当時、十河が描いていた新幹線は「パシナ」に牽引されて広野を驀進する満鉄の特急「あじあ」号だったと思う。「電車列車でやる」とか「交流電化でやれば安い」などと言うようになったのは、島の説明を聞いてからだろう。
国鉄総裁室審議室の若手技師だった五味信(土木、後に副技師長)、松本文彦(土木、後に常務理事)、松本方郎(機械、後に副技師長)、富井義郎(土木、後に常務理事)は、十河に頼まれて、 30年の秋頃から、広軌新幹線の検討をはじめた。青木座談会で技師たちは次のように語っている。
審議室は運賃値上げの作業が終わり、あとは政治的段階に入ったので、それじゃ爺さんがうるさく言う東海道線広軌をやってみるか……、ということになった。総裁の広軌論というのは、ちらちら出てきてうるさくてしようがない。最初のうちは、しつこい爺さんだ、というふうに思っていた。五味や松本文彦は、当時建設局長だった佐藤輝雄さん、電気局長だった湯川龍二さん、参議院議員の岡田信二さん、鉄建建設重役の稲葉通彦さんたちに相談した。特に昭和15−16年の弾丸列車の時に、土木を受け持ち、青春の情熱を傾けた稲葉さんは、食事を共にし、「面白い、是非やってみろ」と激励してくれた。
東海道新幹線建設という夢を見るグループが出来たわけだが、広軌反対の上司に見つかると文句をいわれるので、本来の仕事が終わってからとか、家へ持ち帰って研究した。最初はアメリカとかフランスの世界第一級の鉄道を東海道に置き替えたらどうなるか――などという、いたずらもやってみた。大変参考になったのは、鉄道技術研究所・車両構造研究室長の三木忠直(昭和8年東大船舶工学卒、海軍航空技術廠から国鉄へ、海軍の急降下爆撃機「銀河」の主任設計技師)が29年1月号の”交通技術”(施設協会発行)に書いていた”狭軌で東京を大阪間を4時間45分で運転できる”という研究論文だった。
この研究が、後に小田急のロマンスカー・SE車(スーパーエクスプレス)になったわけだが、審議室の東海道新幹線計画の下敷にもなった。広軌だったら平均速度200km/h、東京−大阪間2時間40分という計算になった。工費も1,522億円とはじき出した。弾丸列車の時に買収した用地も利用するので、市街地を買収する″はりつけ増線″よりずっと安い(狭軌別線だと1,180億)。
この案が30年の暮に出来た。十河総裁に見せ、常務理事会に出すことになったが、常務理事のほとんどが、「広軌などは爺さんの夢でつまらん」と思っているので、うっかり出せない。
また国鉄は昭和27年に、狭軌にょる復興、増強、近代化を決定していたので、総裁が主張したとしても、広軌案を常務理事会に出すことは、部下としては、大きな冒険だった。いきなり左遷させられるかも知れない。
○東海道広軌鉄道計画の決定
審議室でよくやる手を使った。経営合理化のように、皆が関心のある問題はいつ出してもよいが、少し面倒な計画や急がない問題は、閑な時に出す。そうしないと無視されてしまう。この広軌案も、正月になって、まだお屠蘇気分が抜けない一月に、「東海道広軌鉄道計画」と題して提出した。
常務理事会では、ほとんど問題にされなかったらしいが、新聞に出て話題になった。十河は「初めて新聞に出たのは31年1月です」といっているが見当たらない。2月14日の朝日新聞の社会面に「東京―大阪2時間半。広軌計画が再登場という記事が出た。十河はこの新聞記事を指しているのだと思う。刀祢館正久著”電卓と新幹線”(昭和58年、新潮社刊)によると、 当時、 運輸省監督局施設課長だった田中倫治(後に新幹線総局計画課長、盛岡工事局長)が情報提供者だったという。田中は上司から大分叱られたそうだ。田中は昭和15年に国鉄へ入って、間もなく弾丸列車建設を手伝わされている。広軌論者だ。
新聞記事は次のとおりで、数字は全く審議室案と同じである。審議室案には交通営団の設立はないが、これは田中の考えを付け加えたのだろう。
高速自動車道路の問題が国会で討議されているのに対して、運輸省では戦前に計画された東京−大阪間2時間半の”東海道広軌鉄道計画”を再検討、自動車道路より有利な点もあるとして”広軌高速度鉄道建設法”(仮称)によって、国鉄財産の一部をうけつぐ国鉄の姉妹企業体”東海道高速交通営団”を設立、その実現をはかろうという計画をたてている。(中略)
……たとえ昭和35年に縦貫自動車道路が完成するとしても、東海道線は約20%の列車増発が必要で、昭和35、6年ごろには列車運行の限度を越えることが予想される。(中略)
……狭軌で増設しても工費は約1,180億円かかるのに、広軌新線の建設でも約1,522億円で、平均時速200km/h、東京から大阪まで2時間40分でいけるし、新線だけに国上の利用価値も飛躍的にふえる、という。
戦時中に広軌線用として一部完成した新丹那、日本坂、新東山などのトンネルや、買収済の用地はもちろん利用するが……。(後略)
○三河島事故
常磐線の三河島駅構内での二重衝突事故は、死者160人、重軽傷325人を出すという大惨事になった。37年5月2日午後9時40分ごろ、常磐線の下り貨物列車が、停止信号を無視して三河島駅下り一番線を通過し、安全側線に突入、機関車と1両目の貨車が脱線して、下り本線をふさいだ。このとき三河島駅を発車した下り電車が脱線車両に追突t、前部2両が脱線、上り本線をふさいだ。乗客の多くが下車して歩きはじめたところへ、上り電車が脱線した下り電車に衝突して大破させ、上り電車も前4両が脱線大破し、そのうち2両は土手下に転落した。
この5月3日の憲法記念日の休みを、十河は南房館山の浜田屋という旅館で過していた。元教職にあった老夫妻が、旧家をそのまま旅館にしたもので、高い槙(まき)のまがきに囲まれた広い屋敷は、海に近く、数百年を経た老樹や密柑が植えられ、十河のお気に入りのところだった。休日に館山へ行っていても、別に悪いわけはないのだが、新聞記者にどのように書かれるかわからないので、広報部は「総裁は重大会議に入っています」といって、総裁会見の申し入れをごまかした。もう館山からは列車がなかったので、直ぐにハイヤーで浜田屋を出てもらい、迎えの車と途中で会うことにした。十河が国鉄本社へたどりついたのは、午前3時頃だった。本社の玄関は、事故のために、真夜中でも人の出入りが多いので、交通公社との間から裏庭へ車を入れた。
十河は、4日早朝現場へ行った。電車が動かないので、鉄橋を渡って行った。病院も見舞った。午前10時半、荒川3丁目の浄正寺を弔問した。うす暗い本堂に3列に並んだ白木の箱の前で、深々と頭を下げ、ハンカチで何度も涙をぬぐった。席を立った十河の背に、
「申し訳ないで、死者が帰ってくると思うのか。バカヤロー」という罵声がとんだ。
三河島、浅草、向島に80数人の遭難者の家があった。十河は「一軒一軒おれが謝って歩く」という。貧しい人の家が、ごちゃごちゃ建っているところだった。家を見つけるのが大変だった。東鉄の貨物課長になっていた前の秘書役の蔵田昭(この時の秘書役は三坂健康)が、日本通運がつくった荷物配達地図を持ってきてくれたので助かった。一間しかないような家もあった。「国鉄が殺したのだ」と、罵詈雑言を浴びせる家もあった。38年6月号の”文芸春秋”に木内信胤は「十河国鉄総裁は何をしたか」という文章を寄せているが、そのなかで次のように言っている。
老総裁は静養先の千葉県の某地から、即刻自動車で現場に駈けつけて善後処理に当ったが、あとでは罹災者の遺族を、 一軒一軒鄭重に慰問した。当時総裁からじかに聞いたことであるが、現場の惨事もさることながら、遺家族にその家庭で会うということには、実に苦痛に耐えられないものがあった由。だから当時われわれは、何よりも総裁がその苦痛に耐えて一人一人を見舞おうとする、その誠意に打たれたのであった。
政府、国会、国鉄の一部から「十河は責任をとって辞職すべきだ」という、かなり強い声が出てきた。3年前の任期切れの時とは違い、新聞も十河支持ではなかった。十河の相談相手は九州にいる満鉄時代の盟友の浅原健三だった。毎夜″定時電話″がかかってきた。浅原は、「潔く辞めるのは格好よいが、今度の事故は引責辞職で解決される問題ではない。残って今後の対策をたてるべきだ」という意見だった。
留任支持派は
「利権の山である国鉄だからこそ十河が必要なのだ。十河に辞任を迫るのは、国鉄利権の甘い汁を吸えるよう、意のままになる新総裁を出したいためだ」といえば、引責辞職派は
「責任はあくまで責任、第一十河が辞めたら清廉な後任者がいないなどというバカな話があるか」と反対した。
赤字になる政治線建設(松山市の近くの線)を十河に蹴られた政治家は
「新幹線建設にばかり力を入れていて、安全対策を全然やっていないのだ」などと悪口を言った。
経済評論家の小汀利得は、
「ああいう人はなかなかいない」と留任支持だった。ある週刊誌では
「十河さんは大磯の吉田老におぼえがめでたい。3年前、十河総裁の任期が切れた時、吉田老のお声がかりで、政界の十河更迭のプランは失敗した。ところが今回は、吉田老は外遊中だ」と、引責辞職の線が強いことを匂わせていた。
後の話になるが、吉田茂が帰国した時、十河は羽田空港へ出迎えに行き、タラップを降りた吉田の前で、直立不動の姿勢をとり、大きな声で、
「閣下、申しわけありません」と、叫んだ。
○留任か、引責辞任か
三河島事件の翌日、5月4日に運輸相の斎藤昇は、国鉄監査委員会(委員長石田礼助)に、国鉄の事故はなぜ起きたか、特別監査するように命じた。監査委は1カ月半後の6月14日に、
「事故の原因は、職員の精神のゆるみと訓練の不足からである。今後、現場と血の通った人事管理と保安設備の強化につとめること」という趣旨の報告書を提出した。総裁の責任問題には全く触れていなかった。
監査報告が出たので、十河は15日に首相官邸で運輸相に会い、「進退は政府に一任」といった。
しかし、十河は、翌16日午後1時に、首相官邸へ首相の池田勇人を訪ね、運輸相と官房長官の大平正芳も交えて懇談した後の記者会見では、
「私は三河島事件に対する責任を痛感している。この責任を果すためには、現職にとどまり、国鉄の管理体制を強化することに最善を尽すことがつとめだと考えている」と、続投することを表明した。
記者たちの「昨日は政府一任の態度だったのではないか」の質問に、「そのように言うのが謙虚な態度だと思った。しかし政府や前尾幹事長から、まず自分の考えをきめてから、申し出るのが本当だといわれたからだ」といった。
十河は録音テープ(43年5月収録)のなかで、
「毎日のように政党の幹部から飯に呼ばれて辞職を勧告された。黒金官房長官は”総裁自身の良心の間題だ”と暗に辞職をすすめたから、”やめるのは無責任だ。 良心の命ずるところは、断じてやめるべからずだ。官房長官は首を切る権限を持っているから、首を切られれば何も申しません、潔よくやめます”といってやった」
と、いっているが、黒金泰美が官房長官になったのは、37年7月18日の内閣改造からだ。38年5月の任期満了の時の官房長官は黒金だったから、その時と混同しての記憶のようだ。
三河島事故遺族連合会が「総裁はやめるべきではない」という要望書を政府に提出した。「辞任はか
えって責任を回避することで、少なくとも犠牲者の補償問題は十河総裁の手で解決せよ」といっていた。
自民党副総裁の大野伴睦が”十河留任”を強く支持した。首相の池田と大野が、十河の進退問題で会談、留任させることで意見が一致した。運輸相も了承した。十河は6月23日の午後、運輸相から留任を申し渡された。
記者会見では、すっかり元の頑固爺になり、
「留任申し渡しでは、何か条件をつけられましたか」という質問に、
「そんなことをされるくらいなら、こちらから、御免被る。政府がやめろといえば別だが、私としては死ぬまでやる」と、”長期総裁”の気構えをみせた。
三河島事故から3ヵ月たった。8月7日に南武線に踏切事故があった。国鉄の貰い事故だったが、小型ダンプの運転士が死亡した。十河は浅間の山荘(国鉄の寮)へ行っていた。山荘まで新聞記者が来た。十河は小さな事故だし、国鉄が悪いのではないからと、会うのを嫌がっていた。が、会わなければ帰りそうもないので、仕方なく会った。翌日の新聞に、十河が浴衣着で話している写真を出して、「事故だというのに、浴衣着で不謹慎だ」というのである。どうしたわけか、三河島事故以後の記者クラブは、何かあると十河批判に回った。
37年6月22日――鴨宮―綾瀬間(約32km)にモデル線の一部が完成、東海道新幹線の試運転を開始する。
37年10月21日――新幹線は時速200km/hを記録。各新聞は「コップの水もこぼれず」と報道。
37年11月15日――「夢の超特急」の一般公開試乗がモデル線で行われる。各新聞は「初乗り記」を掲載。十河は何回も試乗する。
38年2月20日――モデル線の速度向上試験で、時速256km/hに成功。 1 下山定則
2 加賀山之雄 3
長崎惣之助 4
十河信二1 5 十河信二2
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