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3 軌間可変電車
1 旅客コンテナ 2
台車交換 3 軌間可変電車 4
広軌狭軌論争 5
ミニ新幹線
どんな線路でも乗り入れOK!車輪の幅”自由自在”
JR総研 新型電車を開発中
平成9年(1997)12月13日(土) 読売夕刊
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「軌間可変電車」(フリーゲージトレイン)という聞き慣れない名称の電車の開発が東京都国分寺市の鉄道総合技術研究所(JR総研)で進められている。車輪の幅を自在に変え、新幹線の線路でも在来線の線路でも走ってしまう。電車では世界で初めての試み。実用化されれば、整備新幹線計画の論議にも一石を投じそうだ。
JR総研にある全長100mの試験線路。在来線の狭軌(1067mm)と新幹線の標準軌(1435mm)、それをつなぐ5mほどの変更区間からできている。ここで線路は狭軌から標準軌へと広がる。この区間にはガードレールが設置されており、車輪の幅はそれに合わせて変わっていく。もっとも加重がかかったまま車輪の幅を動かすのは無理なので、この区間には支持レールというものも敷かれ、車体を支える構造になっている。
JR総研が運輸技術審議会の提言を受けて開発にかかったのは1994年。昨年12月には政府・与党が開発水深で合意し、今年度から4年間かけて、実用できるかどうかのめどをつけることになった。開発予算も50億円がついた。
「電車のそれぞれの車輪にモーターを直結させたことでしょうか」。この電車の特徴を、開発グループのリーダーである小田和裕主幹はこう説明する。
現在の電車は床下のモーターで、車軸に固定した左右の車輪を回転させている。しかし、今回の電車は車輪の幅を伸縮させる装置もあり、床下にはスペースを確保できない。そこで、技術陣は永久磁石を使った強力モーターに着目し、これを各車輪に取り付けた。
ところが、これだと車輪の受ける衝撃がモーターに直接伝わる。また、それぞれの車輪が別々のモーターで動くので、回転のバランスをどう保つかという問題が生じた。
これまで、狭軌と標準軌の変換走行を繰り返し、モーターの衝撃実験も重ね、改良に取り組んできた。その結果、モーターについては耐久性能の向上にこぎつけ、回転バランスについても、車軸の工夫によってカーブでもスムーズに曲れるようにした。
小田主幹は「すべては未知の領域なので試行錯誤だったが、基本的な問題はクリアできた。あとは高速で走らせて大丈夫かどうかだ」という。標準軌では260km/h、狭軌でも130km/hの速度を確保したい。
現在、三両編成の新しい実験車両を製造中で、来年度はこれを米国のコロラド州プエブロにある一周21kmの実験線に持ち込んで、スピードや耐久性を試すという。
****************************** 島根県知事 澄田信義著 汽笛に想う(鉄道マン知事の交通への挑戦) 平成13年刊 より
○軌間可変電車(フリーゲージトレイン)
JR伯備線は岡山で山陽新幹線と連絡して、広域的な都市間輸送を拒う在来の幹線鉄道として本県の経済・文化の交流に重要な役割を果たしている。
広域的高速鉄道網から立ち遅れている本県にとって、大都市圈どの時間短縮は長年の悲願であるがー気に中国横断新幹線の整備を望んだところで早々に実現するものでないことは明らかである。
そこで、私としては現在、国土交通省の指導のもとで調査・研究が進められているフリーゲージトレインの伯備線への導入に大きな期待を寄せているところであり、ここでは、そのフリーゲージトレインについて紹介したい。
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左
アメリカのプエプロの試験場を走る軌間可変電車
10年前の平成11年の写真
現在もまだ開発中?
澄田信義氏経歴
昭和10(1935)年出雲市生まれ
32年東京大学法学部卒業後、日本国有鉄道入社
新幹線総局次長、和歌山県警察本部長、
日本国有鉄道常務理事を経て
昭和62(1987)年島根県知事就任、5期20年間島根県知事を務めた。
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日本の在来線の鉄道は線路の幅が1067mmとなっている。狭軌といわれるものである。日本最初の鉄道建設はイギリス人技師のもとに行われた。その際、イギリス人技師の進言が決め手となったようだ。つまり、日本は山地が多く、海岸線も入り組んでいるので線路を敷く土地が確保できない。さらに産業も発道していないので、人も荷物も大量に運ぶ必要がない。こんなことであったようだ。狭軌では車両を大型にすることもスピードを上げることにも限界があった。
これに対して新幹線は1435mmの標準軌を採用している。さらに、日本にはもう一種類ある。東京の京浜急行や大阪の阪神電鉄などは、新幹線と同じ標準軌をつかっているが、京王電鉄や都営地下鉄新宿縁は1372mmである。
国がつながっているヨーロッパはみな同じかと思えばこれも違う。フランス、ドイツなどは標準軌を採用しているが、ロシアは1524mmと広く、スペインはさらに広く1668mmとなっている。スペインの場合は、国土防衛上の観点からあえて他のヨーロッパ諸国と違わせたようだ。
ゲージの異なる鉄道間を結ぶには、大きく分けると二つの方法がある。乗客が列車を乗り換えるか、そのまま列車を乗り入れるかである。前者は論外として、後者の場合、客車の台車を交換するか、レールを三本にするか、あるいはどちらかに線路の幅を統一するかということになる。
箱根登山鉄道(1435mm)が小田急線(1067mm)の終点である箱根湯本から小田原まで乗り入れているのは、途中からレールを三本にして線路幅を箱根登山鉄道と合わせているからである。山形新幹線や秋田新幹線は、在来線の線路を拡げて直接乗り入れる形、いわゆる「ミニ新幹線方式」を採用している(改軌、三線軌)。ただ、新たに線路を敷設しなければならないという費用面でのデメリットがある。
これに対して、線路の幅を変えるのではなく車輪の幅を変えようというのがフリーゲージトレイン(軌間可変電車)である,これだと線路の付け替え工事が不要となり、財政状況多難な折からすると、これほど理想的といえるものはない。新幹線整備の有効な手法としてクローズアップされてきたのは当然といえる。
これに似た方式を採用しているのが、南フランスのモンペリエからスペインのバルセロナの間を走っている有名なスペインのタルゴ列車であるが、この列車は、国境の駅でそれぞれの国のゲージに応じた形式の機関車につけかえる。客車はそのまま地上の軌間変換設備の上を走ることで、ゲージに適応した車輪幅に変わるのである。だが、これでは客車は自力で走ることができないので、時間的にかなりのロスが出る。
そうした不都合をなくそうというのが、動力台車の軌間を変換する「軌間可変電車」である。
これは、平成6年6月、当時の運輸省の運輸技術審議会からこの方式が提言され、その年から早速、鉄道総研で研究が始まった。鉄道総研というのは、正式には鉄道総合技術研究所といい、昭和62年(1987)の国鉄の分割民営化に伴い、7つの民営鉄道会社など10数余の法人が生まれたが、そのうちの一つで唯一の財団法人である。
さらに、これは現在進められている整備新幹線計画の推進に寄与するということで、平成8年12月25日に決定された整備新幹線の基本スキームで、整備新幹線建設推進高度化等事業として翌年度に予算計上された。フリーゲージトレインの実用化に向けた技術開発の推進が予算的に裏づけられたのである。
新幹線として走ることになるためには、新幹線車両としての基本的な性能をもっていなければならない。このため、高速耐久試験用車両を製作することになった。そして、開発開始から3年目の平成11年4月、アメリカのコロラド州の試験場〈プエブロ試験線、延長21.6kmのループ線〉で、数年先の実用化を目指してフリーゲージトレインを新幹線並みのスピードで走らせるという耐久試験が始まった。
私が彼の地を訪れたのは、平成11年の8月上旬だった。
8月9日朝5時。窓を開けると、そこは見渡すかぎりの広大な地平線に、宿泊地コロラドスプリングスの街の灯が宝石をちりばめたようにかがやいていた。地平線の上に広がる茜色の朝焼けは、まるで宍道湖の夕映えを思い起こさせるほど感動的なものだった。やがて、陽が昇り荘厳な自然の大景観に、私は息をのんだ。
はじめて訪れたコロラドの大自然が織りなす素晴らしいパノラマに圧倒されながらも、まだ見ぬプエブロの試験場へと思いがかき立てられた。
プエブロは標高1800mの高地であり、いかにもアメリカといったスケールの大平原が広がっていた。実験線は先に記したとおり全長22km弱。これは東京の山手線や大阪の環状線がすっぽり入るほどの広大なものである。
宿泊地のホテルまで私を出迎えてくれたのが、鉄道統研専務理事の戸渾輝行氏であった,彼はかつて国鉄時代、門司鉄道管理局で苦楽を共にした友人である,
私のためにわざわざ渡米したのだという。私は彼の変わらぬ厚情に熱くなってしまったものだ。
フリーゲージトレインの研究事業は、日本鉄道建設公団からの受託事業である。そして、車両の耐久試験を鉄道総研がアメリカの輸送技術センター(TTCI)に委託している。スタートは平成6年。それから5年間、モーターの開発や車両の開発を鉄道総研で行ってきたが、平成11年1月にはJR西日本の米子〜安来間で時速100km/hの走行試験が行われ、さらに4月からアメリカで高速走行性能テストが始まった。私たちは、それを目指してはるばるアメリカまでやってきたのだ。広大な大平原の中にある試験場に近づくと玄関先にはリスが飛び跳ねており、試験車両の走行中に野生の鹿が飛び出してきたりするという。停止している車両をつぶさに見せてもらい、モデルで車輪の可変する原理の説明も聞いた。
さて、いよいよ待望の試乗が始まった。
私たち視察団一行を乗せた試作車は、甲高い汽笛を鳴らした後、静かに走行を開始した。2両編成の試作車の先頭車に乗り込み、楕円形の線路の上を2周したが、あっと思う問に終わったという感じであった。軌道変換機能以外は十分な技術的蓄積があるため、走行に関しては全く安定しており、外の景色を見ない限り国内での通常走行と何ら変わりなく、室内に搭載されている機器によって初めて、フリーゲージトレインの試験車であることを認識させられるほどスムーズな走行であった。
最高時速225km/h。あらためて日本の鉄道技術水準の高さを実感した次第である。
国土交通省ではそうした技術面の開発と並行して、日本国内で、実際に導人が可能な路線の検討も行っている。
調査は、フリーゲージを導入したときの需要予測、概算事業費、収支採算性といったところのようだ。もちろん、導人効果が高ければ、即事業化ということになる。
幸い、我が島根県に通じる伯備線(岡山〜米子〜出雲)がその対象となっていることは、嬉しい限りである。伯備線は曲線が非常に多く、電車自体の改良も必要である。その他にもいくつかの課題があるが、岡山・鳥取両県と協力して、なんとか今世紀の初頭には実現にこぎつけたいと願っている。
昨年の11月には、島根、鳥取、岡山三県の沿線自治体や経済団体など、四五の団体からなる「JR伯備線フリーゲージトレイン導人促進三県協議会」が設立され、いよいよ行政、議会、経済界が一致協力して導入実現に向けて動き出したのである。この協議会の設立は、平成11年に私が中国五県知事会で提案したこともあって、会長という重責を負うことになったが、フリーゲージトレインは日本海側と瀬戸内海側の産業、経済、文化の交流拡大に不可欠であるという信念のもとで、全力を挙げて実現に向け取り組みたいと考えている。
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1 旅客コンテナ 2
台車交換 3 軌間可変電車 4
広軌狭軌論争 5
ミニ新幹線
(国鉄繁昌記 青木槐三より 昭和27年刊)
4 戦前の広軌狭軌論争 大村鍋太郎、古川阪次郎両雄の広軌狭軌論
明治四十年代から大正八年まで約十年問、わが国の狭軌鉄道を広軌(1435mm)に改築すべし、いや現在の狭軌(1067mm)のままでも輸送力の行詰りはこない、との二大論争が巻き起って鉄道の陣営は真二つに分かれてしまった。
広軌論者は従って改良主義であり、狭軌論者は建設至上主義の傾向があって、広軌にする巨大な金は未開の土地にどんどん鉄道を敷設するのに使用するのがむしろ現実に即した国家の繁栄策だと主張した。
桂、西園寺、桂(第二次)、山本、大隈、寺内、原の七内閣にわたって、鉄道界の問題であったばかりでなく政界の大問題でもあった。鉄道人で広軌を主張し又これを計画した人々の内主なる人物は、白石直治、仙石貢、後藤新平、古川阪次郎、島安次郎、外部では田健次郎、仲小路廉等々、また狭軌を主張したのは床次竹二郎、原敬、石丸重美、大村鍋太郎、陸軍では大沢堺雄であった。このうちでも広軌を主張する後藤新平脈の古川阪次郎と、狭軌を主張する床次、石丸派の大村鍋太郎の二闘士は、互いに意見をパンフレットにして堂々と天下に発表し、大論戦をやった。
大正五年六月のことであった。
この二人の発行した手元にあるパンフレットをたよりに、論争の要点を伝えてみることにする。時の建設局長大村鍋太郎は 「軌間の変更は不必要である」 と題して真向から大反対を表明した。大村はなかなかの豪傑できかん気の技師であったから、いうこともはっきりしている。
「広軌にしたいのは西洋流に大きい速い汽車が欲しいのだろうが、日本は幅4.5m、高さ4.5mのトンネル延長190kmもあって、広軌にするとしてもこのトンネルの改築などは多大の経費を要し困難で不得策だ」
「トンネルをそのままとすれば、車両限界が制限されて、最大限がきまってしまう、その位の大きさの車両なら狭軌で使用したって安全だから、車両の大きさでは広軌狭軌同様である」
「この大きさの車両は米国よりも小さいが、欧州に比すれば遜色がない、貨車などは大きすぎれば利用効率が悪いし、客車でも定員一人当りの自重が重くなって不経済だ」
「狭軌でも枕木の幅を広くし、厚さを厚くし、道床も厚くし、同様の費用をかければ広狭何れでも軌道の力を同じ程度に出来る、だからただ軌条は1435mmか、1067mmかを隔てて敷設してあるといったことに止まる」
「車両動揺も車両に長軸を使い、強いバネを適当にすれば大差はない」
「狭広何れも機関車の製作は火室を広くし、重心をあげ、車輪の直径を大きくして牽引力を増大、速度を大きく出来る」
「閑散線では広軌の方が却って損である、支線は狭軌の方が利益である」
「広軌にするより電化するがよい、電化すれば現在の狭軌で牽引力も速度も容易に大きく出来る」
「軌間の変更工事は楽でなく、乗換、積換は大変であって、一時には工事が出来ないから軌間の統一を破ってしまう」
「廉い便利な鉄道をどしどし作って線路を延長し、地方開発をやる方がいい」
「明治五年に初めから狭軌を採用したのは賢いやり方で完璧だ、広軌だったらこんなに発展しなかったのだ」
「繁忙なところは複線、複々線、六線にするがよい、一日も早く電化し線路の延長を狭軌で計ればいい、広軌の必要は全くない」
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| JRと私鉄の狭軌:4人掛けの狭軌複線トンネル |
私鉄(京急、近鉄等)の広軌:4人掛けの広軌複線トンネル |
新幹線の広軌:5人掛けの広軌複線トンネル |
古川はこの発表を見てかんかんに怒ってしまった。この時古川はかっての雷副総裁時代の癇癪を爆発して、直ちに在野の鉄道人の立場から 「我国鉄道の軌制に関する説明」 を発表して、随処に大村を叱りつけるような口調で次のように述べている。
「広軌の改築は列車の進行中にやれるのだ。トンネルなど列車運転中改築出来ることを知らないのに起因する。東海道などは狭軌でも改築を要するところがある。広軌にするからとて全部のトンネルを改築する要はない。この諭などは経験に乏しいから出て来るので、わが国でも列車の進行中トンネルを改築したのは至るところにあるのだ。難かしくもなんともない。 狭軌にして車輪を大きくすればよいと云うが、安定は如何、事故はだんだんふえている。狭軌では広軌より転覆するのは遠心力からも当然である。
広軌の改築は工事中旅客の乗換、貨物の積換等があって困難だと云うが、そんなことはない。広軌改築には別に一線を敷設し、三線とする設計になっており、現在線の運転中でもわけはない。費用もさしてかからぬ。準備さえ出来れば、東京〜下関の如きは、ニヶ月か三ヵ月でやってお目にかける。日本は最初狭軌を採用したから鉄道が多く敷設されたと云うが、そうは思わぬ。明治の初年には鉄道の技術者が鉄道の知識が乏しかったから狭軌にしたのである。
狭軌で複々線にし、輸送量が増えたら六線にすればいいというが、こんな書生論は反論を試みるのが大人気ない。六線八線にした時の駅構内の操車などは一体どうするつもりか。
客車の方では車を大きくすると、一人当りの自重が重くなって不経済だと云うが、鉄道では三等車を続々改良して、一人当りの自重を重くしている。自分のしていることを他人がしたからとて非難したって始まらぬ。それに時代の要求で客車は改造すべきで、経済のみで論ずるなどは論外である。
輸送の行詰りは電化すれば解決すると云うが、電気機関車にも軌幅の大きいのは便利だ。
普通の機関車でも広軌は狭軌の場合よりも設計し得べき機関車の最大可能限度は約五割を増すことが出来る。山の手線電車などは狭軌であったから止むをえず微力な物を採用するより仕方がなかったのだ。電気機関車でも広軌の場合は設計が便利で大型が出来る。電化さえすれば輸送量が増すと云うが、広軌にすればさらに増すのだ。電化することと広軌にすることとは別問題である」と。
今両雄の議論を要約して見たが、興味津々たるものがあって広軌問題の核心な知ることが出来る。結局軍部の指令で狭軌の方が軍事上よいとの希望と党勢拡張上の政治的理由で広軌は葬られてしまったが、その後、政友会は線路を盛んに作るし、電化に熱心になったし、憲政会、民政党は線路、車両の改良に力をいれたので、この広軌問題は結局わが国の鉄道の発展には非常な効果があった。ただ当面責任ある監理者であり又大御所的存在のような人が、その抱懐する識見を堂々開陳して争うなどど云うととはそののち鉄道にはなかった。役人も利口になったが、こんな学問上の議論は進歩に役立つこと大きいものがあるものだ。
二人の鉄道人の論争は結局政党色を帯び、狭軌論者は政友系、広軌論者は憲政会系と云うか後藤系と云うか、鉄道一辺倒の人々に多かった。この二派は、はっきりと別れてその後の人事異動などにもいろいろ影響をしたが、しかし今から考えると広軌にしなかったことが惜しまれる。確かに狭軌ときめて、どしどしと石丸重美等の鉄道人が政友会の政策を内部から支持して、鉄道建設網の実行をすすめたから、現在のように日本全国至る処に鉄道が出来たとも云えるが、一方、時代の進歩と共に高速度列車の運転を必要として来ると、確かに狭軌のために速度が制限されていることは否めない。狭軌は動揺が脱線の原因となるが、ローリングが一番恐い。このローリングに堪える力は広軌の方が勝っているのだ。
わが国では風力によって列車がよく転覆する。台風の国であり、山峡を走るので一時的の地帯を吹く強風がある。広軌では狭軌よりフンバリが効くから、転覆の危険は少くなると見てよい。広軌にすれば機関車のボイラーの火室を動輪の間に置く構造では、五十パーセント強い力のものを製作することが出来る。狭軌では機関車の高さは大きく出来ないから動輪数を増して長くなるし、結局、広軌の方が機関車は製作が簡単だ、楽に強力なものが出来る。広軌は狭軌より線路保守が容易である。狭軌では現在の如く列車の速度は九十五キロで押えられているから、如何に優秀な機関車を造ってもこれ以上は最高速度が出せない。
広軌にすればアメリカ同様、東京−下開聞を九時間で走る如きは易々たるもので、且つ輸送力も又比較になるまい。
むずかしい学問上のことは別としても、大して金のかからぬ島安次郎の広軌改築案を採用するチャンスを逃がしたのは、かえすがえすも残念であった。広軌論は結局大正八年二月、床次総裁によって打切りの止めを刺され、島は石丸重美次官と意見を異にして広軌に殉じたが、その愛弟子工学博士朝合希一はさらに広軌を研究して既に四十年だ。朝倉は国鉄生え抜きの工作技師であって、今も元気でいるのは貴い。
島の広軌研究を実際に横浜線原町田で試験したことがある。大正六年のことで、後藤新平は貴衆両院議員を招いてその実験に立ちあわせた。これはこの時代での記録すべき出来事であった。この実験は大成功を収め、広軌実施上それ迄の種々の疑問は吹きとんでしまった。
使用されたのは2120型の機関車で、これを広軌用に改造、火格子の幅を広くして客車も広軌に改造し、輪軸の入換一つで広軌、狭軌どっちでも使えるようにした上、原町田〜橋本間を三線と四線を敷設して、広軌狭軌を併用区間として実験した。五台の貨車の輪軸を五分又は六分で入替えることの出来るブライトスプレッヘル式の輪軸入替装置を使用して、軌幅変更期間中に広軌狭軌の境となる駅で、貨物積換などが不必要となるこの装置の実験も成功した。
この実験では広軌、狭軌両方の列車を運転したばかりでなく、一つの列車中に広軌の車両と狭軌の車両を連結して、広軌と狭軌の機関車で牽引したが、これも見事に成功した。
特別の分岐器を設けて三線式と四線式の移り変りが自動的に作用するのは珍しかった。
この時の広軌の機関車の改造はその後日本の狭軌の機関車の大発達を促したのだ。広軌、狭軌の問題は政治論や感情論が盛んであって、大切な学理の研究の方は世間の目に触れなかった傾きがある。
では狭軌から広軌への政策は日本人の手では実行されなかったかと云うとそうでばない。
国鉄の建設に活躍した田沢新兵衛は内地の鉄道が五千マイルに達した頃、明治三十九年満鉄創立と共に同社の理事として乗り込んだが、手始めの仕事に戦争中日本の車両を持参して運転するため狭軌であった大連〜長春間と周水千〜旅順間約470マイルの長区間を広軌改築に着手し明治四十一年五月に成功した。
国沢は日本の鉄道を広軌に改築するためにアメリカに渡って明治三十二年にロッキー越えのデンバーとリオ間の鉄道を研究した。これがはしなくも役に立った。
この鉄道の山越えは山地の区間を縫うので狭軌になっており、平地は広軌になっている。その連絡運転設備を見て来ていたのだ。この施設同様、大連−長春間の狭軌の外側に一線を敷き三線とし、広軌で運転しながら狭軌の車を大連に集結して内地へ送り返した。
後藤はその時満鉄の総裁であったし、古川は野戦提理部技長で満州にわたり広軌を狭軌にした経験も持っていた。彼等が広軌を主張するのもこうした由縁があったからであった。
原口要、遠藤剛太郎の広狭狭軌応酬
古川阪次郎、大村鍋太郎の言論戦に先だつこと三年、大正二年に同様広軌狭軌の問題で国鉄技術の大御所原口要は、広軌問題の解決に当時の技師連の奮闘ぶりが足りないとて、往年の雷親爺ぶりを発揮して檄文を書いたところ、たまたま筆が走って台頭して来た法学士勢力を猪口(ちょこ)才なりと非難したので、法学士鉄道院理事遠藤剛太郎は大先輩反撃の論文を発表した。
これを見ても広軌問題が、いかに長い間鉄道の問題となっていたかが判るし、同時に明治四十年ごろから台頭した法学士の伸長が技師の金城湯池であった鉄道に迫りつつあったかが判るのである。
この論争もそう云う意味で当時の推移を知るものとして紹介して見たい。
原口要は東海道線の建設に活躍して明治二十六年に技監になり、三十年に退官して張芝洞に招聘されて中華民国に渡っている。この時代はもはや退役鉄道人であったが、広軌問題が喧ましくなると昔の血が躍ったものらしい。
原口要曰く、
「鉄道はどんな方法で運転するものであるか、一トンの石炭で如何程の蒸気を生ずるか、何故汽車は軌条の上を走らせなければたらないか、軌条は何故鉄でなくてはならぬか、軌条の広狭によって輸送上如何なる差異を生ずるか、危険が目前に迫った時如何に運転すべきか、橋梁は如何に設計せば耐重力を維持出来るか、これ等は皆技術家の仕事であり鉄道は技術家によって作られ、発達して来た。
ところが事実はこれに反し、多年鉄道技術家によって調査され研究された狭軌広軌論議が、技術家以外の者によって採否がきめられるのは、全く当今の技術家の無気力によるものだ。
法学士も工学士も学問に差別はないが、法学士は工学士に比して誤魔化し的の処世術にたけている、法学士だからだといってえらいわけではない。
堂々たる法学士で手紙さえろくに書けぬものをチョロチョロ見受ける。
うまい手蔓があれば何々局長とか、知事とか長官になるのである。
憫(あわれ)むべし、工学士は如何なる特殊の技能があっても、終生そんな結構な地位につけず、社会の一隅で仕事だけしている。」
談話はかくの如く烈しいが、談そのままを伝えたわけである。
原口要はよほど法学士の台頭が癪に触っていたらしい口ぶりだ。続いてこんなことを書いている。随分思い切ったことをその頃はいったものだ。
「今の技術家が皆、曲学阿世であるというのではないが、実際の有様を見ると(広軌問題に対する鉄道技術陣を指す)中には世に阿(おもね)るという風が間々見受けられる。
それも自らの生活問題から来る話で、昨日は東、今日は西、何れも上に立つ人の意を迎えんがための出鱈目な言葉で、実に嘆かわしいことである。
いやしくも世の技術家たるものは、須(すべか)らくその抱負を彼瀝して、たとえ上役の忌諱(いき:タブー)に触るとも、堂々所見を発表すべきだ」
というのだが、こうした面が 「法学士の跋扈(ばっこ:はびこる)」 「技術家の阿世(あぜい:ごますり)」 の見出しのもとに書かれたのだから、猛烈ぶりが察せられる。
これに対して、法学士遠藤剛太郎は原口要の 「法学士の跋扈」 が癪にさわったと見え、こんなことを云っている。
「広軌の問題は技術家の専売ではない、線路の工事や列車の運転は無論技術上の問題だろうが、これを実施すれば国家の財政、国民経済にどんな関連があるか、これこそ真正の解決なのだ。広軌問題は技術家のみに判断をまかすべきでなく、国民共同の問題だ、技術家のみできめられては堪ったものではない。
技術家が自分の縄張区域に他人をいれず、広軌問題は技術家以外一句も容赦させない、内閣は技術家が決めた以上盲判(めくらばん)を押せ、両院は盲賛せよ、国民は盲従せよ、と云ったとて、空論にすぎない、お話にならない。又法学士が跋扈すると云うが、鉄道の法学士は確かに過去には傑物がいなかった。これは承認する。しかしこれは過去のことだ。だからこそ専門以外の仕事まで優れた工学士にまかして来た。
しかし、その専門の部門はますます複雑になって来て、技師は専門以外に手を出していたのでは、本業が完全に務まらなくなった。余裕がないのだ。
法学士が跋扈するので、工学士は局長にもなれずにいると云うが、いま鉄道院の局長を見れば工学士が沢山いる。
大正五年二月現在で、局長九人の内、法学士は二人だ。非法学士が一人、工学士は五人。非工学上の技学士一人、局長心得工学士一人だ。これが論より証拠で、この位工学士がいたらよかろう。」
遠藤剛太郎はきかぬ気の男だから、ずけずけ云っているが、数字などあげて原口要が現役を去って当時の鉄道の事情にうとい点を衝いているところ、さすがに法学士だわいと感心する。
原口要の方は、昔気質の土方の一本気を丸出しなところも面白い。
いま年報で見ると、大正五年二月直前の鉄道院は添田寿一総裁時代で、局長は監督局長大園栄三郎(法)、運輸局長木下淑夫(工)、工務局長杉浦宗三郎(工)、工作局長島安次郎(工)、経理局長森本邦治郎(非法)、東部局長心得岡田竹五郎(工)、中部局長長谷川謹介(非工技)、西部局長野村弥三郎(法)、九州局長長尾年平(工)、北海道鉄道局長鈴木壮三郎(工)、などのところを云っているのかと思うが、多少は違っているかも知れぬ。
とにかくこの論争はいろいろふくみがあって、今これを読んで見ても面白い。長谷川謹介工学博士は大学を出ぬたたきあげの技術家、森本邦治郎はこれ又法学士でない出身の経理の俊才で、大正二年に国鉄の会計課長をやり、又同年に経理局長をやり、大活躍をしている。
互いに鎬(しのぎ)を削って譲らず
この広軌問題は後藤、仙石、原、床次とチャンボンに首脳者の変る毎に、全く反対の結論を出さなければならなかったので、当時の技師連中は内閣の変る度に首をかけねばならなかった。原口はそれを衝いているのであった。
広軌改築問題は明治二十八年ごろ仙石貢が初めて新聞紙上に意見を発表して以来の問題で、明治二十九年三月七日には立石岐、福田久松の両代議士が提出した広軌案が議会で可決され政府に送付されたこともあり、その後、明治三十一年には軌制調査会が設けられ調査をしたことかあり、後藤新平が明治四十三年にこれを提唱し、議会で東海道幹線の広軌改築準備委員会が設けられ、一木喜徳郎、白石直治、野田卯太郎、田健治郎、仙石貢、渡辺嘉一、古市公威、大沢堺雄等等が委員となった。広軌の結論を出したがしかし実現せず、大正二年のころは政友会の政策として、床次竹二郎が六月五日の閣議で広軌の準備計画の撤廃を定め、東京、神戸、両鉄道管理局及び東京改良事務所に通達を発して広軌準備を撤廃させたのであった。
これが又大正四年に仙石貢が総裁となって、広軌の必要を力説して軌制の調査会を設け、大正五年には総裁になった後藤は広軌改築を主張し、大正七年中村是公が総裁となってこれを受けついだが、この時は工作局長島安次郎の広軌実行案が完成さえした。
大正七年九月に原内閣が出来て床次が鉄道院総裁となるや、大正八年二月遂に議会で広軌打切の声明を発した。この打切りの理論は大村の議論につきていて、結局狭軌でも改良すれば輸送力には心配がない。広軌に使用する金でどしどし鉄道を地方に作って開発した方が利益だというのであった。
広軌問題はその後急激に鉄道か発達して財政上やれなくなって沙汰止みになったが、結局これは、軍部が少将大沢堺雄を代表として狭軌論に賛成したからであった。広軌論の起ったのもやはり軍部に広軌論者がいたからでもあった。日本の鉄道の大政策は、軍事上の必要が大きな決定打となって推移して来ていることを見逃すことは出来ないのである。また狭軌決定は鉄道の政党化を生み″我田引鉄”の党勢拡張に鉄道は主軸の役割を占めるまでに至ったのだ。
広軌改築打切りになってからよほどたって、十河信二(戦後の4代国鉄総裁)は車両用の長軸購入の書類を持参して次官室に石丸の決裁を貰いに行ったところ、なんのために長軸を購入するのか、これは広軌のための準備ではないか、君は憲政会の回し者だろうときめつけられた。
十河は御存知の通りの剛腹な男だから次官は何をいわれようが、
「自分は一事務官で、規定に従って仕事をやっているにすぎない。鉄道の購入規則には車両の寸法は長軸となっている。規程によって事務官は仕事をする。規程をお変えになったらよいではないか。」
とやりこめて印をとってさっさと凱歌をあげて引きあげた。
車両の長軸は広軌の時に島安次郎が実施したのである。その後狭軌でもこの方が利点が多いのでそのままに現在もなっている。これで見ても判る通り、役所の中で次官の口から反対党撲滅論がとび出すほどの時代だった。一方広軌に熱心な後藤新平は、広軌に反対の役人は全部首だと、すさまじい言論制圧の拳に出ている。
まったく相反するこの二政策が交互に政権をとったのであるから、この時代は内閣が変る度に鉄道の首脳部は総替えの憂目にあった。昨日は東、今日は西と、原口は非難しているが、その原口はもう役人ではなかったのでいいが、現職鉄道官吏はどっちかへ旗色を鮮明にしなくては出世が出来なかった。こうした激しい政争の結果が、後に徐々に減俸騒動などを起す原因をつくりつつあったのである。
狭軌の立役者であった石丸は大分独断専行を極めた人事をやったので、彼を敬愛する鉄道人にあまり出会わぬのだが、彼の仕事に対する熱は異常なもので、一度やると決めたらどんな障害があっても乗り切った。
反対する者はとしどし首にするんだからやれるわけだが、当時石丸を恐れた鉄道の役人の様相は見ていても滑稽なぽどで 「次官が御用です」 などと電話がかかると、首の心配をしてからドアをノックした。ノックしたってすぐ入いらない。まず御機嫌はどうかと偵察してからは入るといった風で、新聞記者などは関係無いことながら、筆者もそれを見ていて、宮仕へなど一生するもんではないと思ったものだ。
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石丸がやった仕事の一番大きいのは、鉄道施設法の改正に際し鉄道網を作ったことだ。それに鉄道建設線を延長した。いずれも思い切ったもので全国津々浦々、鉄道を敷設する計画か樹立され、地方開発に貢献した。
鉄道建設網はその当時から政友会の我田引鉄政策であろと非難攻撃を浴びたし、実際党勢を張るために交通の本旨を没却するようなこともあった。調査費すら計上しない路線も多くあって、地図だけでやるんだから川のまん中にレールを敷くことになったり、実際に断崖などで工事の出来ないルートさえあって、いまだに敷設されない箇所もあるが、しかし又、日本の鉄道の普及には大いに役立った。
日本の鉄道は広軌改良より普及の方が先であるとの考えに立った原敬、元田、床次等の考え方に対して、出来上った鉄道を複線にし操車場をつくり、線路を堅牢にして良い車両を走らせようとした後藤、仙石、中村是公等の主張もまた理があって、この二つの大きな鉄道政策が今日の日本の鉄道を発達させたのであったが、この鉄道人等が輩出した時代は、この二つの政策が衝突して、激論岩を噛むの景を呈していたのである。
その建設第一主義の闘将が石丸重美であった。
石丸は多くの犠牲を払ってこの政策を押しすすめたが、ただ鉄道政党化の道案内を自ら務めたことは否めない。その次官の晩年には胃潰瘍になり、臥床しながら省務を見た。役所などには半年も出て来ず、寝床の中で執務していた。珍らしいことであった。役所に出ないのだから新聞記事や側近の者の報告を基にして、仕事はやる、人は動かす、なんとなく鬼気せまるものがあって、人呼んで浄海入道と綽名した。
建設畑では山陽鉄道出身の八田嘉明がその器量を認められて建設局長に抜擢された。奥羽線をやる頃はトンネルにコンクリートを使用するのは危険だと石丸がなかなか許さなかった。トンネルにコンクーリートを使用したのは八田が初めてである。
総理大臣とじか取引の出来た次官は、その後鉄道には出なかったことを思うと、この石丸次官の存在は、やはり特筆の価値あるものだろう。石丸の次の次官は井出繁三郎だろうといわれていたが、中川正左が次官になり、井出は大正十二年の九月に退官した。越えて十月さしも妖気を漂わした石丸重美もあまり働きすぎて黄泉の人となってしまった。
石丸と共に仙石に京浜間省線電車事故でやめさせられた元電気課長玉木弁太郎も、その年の十二月卒した。二人とも関東大震災を経験し、病床でその復旧などを心に描いたろう。さらに石丸に左遷されついに退職させられた木下淑夫も、この年の九月大震災の揺り返しの最中に一生の幕を閉じた。
失言も得意も、うらみつらみも、同じく苔むす墓石の下に眠ってしまったが、それが僅か四ヵ月の間であった。
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