底本:末弘嚴太郎『農村法律問題』(改造社,1924

 

 

 

 

農村法律問題

 

 

 

 

 

『農は国の大本である』。その理は今も昔も同じである。

吾々人間の食物は多少の海産物を除く他,一つとして農村から来ないものはない。

現在の科学進歩の程度においては,農業以外の何ものも吾々のために食物を作ることができない。

それは言うまでもない明らかな事実なるにかかわらず,人はとかくそれを忘れやすい。

健康な胃の持ち主が動きもすれば胃の存在を忘れやすいことと同じように。

 仮に工業が衰えたとする。それは人類の物質文化のため極めて悲しむべきことに違いない。しかし,それでも尚人はその生命を保つことができる。

 しかし,農業の盛衰はまさに吾々の生命の問題である。今仮に農民のすべてがその土地を見捨てたとせよ。もしくは彼らがいたずらに自らの自腹を満たすに足る以外の何物をも生産しなかったと仮定せよ。

 都会に住み都会になれ都会を誇る人々,そのところに花々しき物質文化の甘酒に酔って太平楽を唱えつつある人々,そのところに産を抱き権勢を擁して気驕れる人々,彼らは果たして能く一週間の生命を保ち得るであろうか。

 吾々都会人の生命はまさに彼ら農村の人々ことにそのところに直接働きつつある農夫によって保障せられつつあるのである。

 ところが今の政治家も学者もせっかく自己生活の環境たる都会を基礎として政策をたて,学理を考えがちである。その結果農村に特殊な経済的ないし社会的事情,農村の特有な物質的ないし精神的需要は無視〜または少なくとも軽視〜せられやすい。

 しかもその誤った政策を実施したために起る各種の現象を見て,あるいは農村浮華に流れたりと非難し,あるいは農村の無智廷愚を笑う。

そして自己の政策自己の学説の誤りたるを悟らない。

 けれども農村のことはまず農民自らに聴かねばならぬのである。

 

 

 

 農業の興廃は国民の生命に関する大問題である。限りある土地をいかに利用せばその能率最も大なるべきか。その問題は土地瘠せ土地に乏しくしかも人口の増殖世界に比類なき吾国にとっては,朝野上下力をあわせて研究せねばならぬ大問題である。

 これを自由主義個人主義の経済学者に問えば,彼らは答える。各人をして自由にその土地を有せしめ,自由にその土地を利用せしめよ。各人は必ずや自己の全力をつくして自己の最善のために努力するであろう。かくして獲たる各人努力の結果を総合すれば,それが国の富であり,それが国民全般の幸福を形作る基礎になる。

 彼らの答えは極めて楽観的である。そうして我が国明治維新以来の農業政策は実にこの楽観的な思想によって導かれてきたのである。

 ところが,吾々は今や,各人が利己心によってその最善を追うこととはその結果必ずしも一般社会の公益と合致するものにあらざることを知った。ことに各人をして自由にその最善を追わしむることは,かえって『分配』の不公平を惹起する原因になることを知った。しかして『分配』の不公平はかえってまた直接農業に従事する人々の不平を呼び起こし,引いては農村の平和を害し田園荒廃の原因となることをも知った。現において吾々は一には農村夫れ自身の幸福のために,二にはまた吾々一般国民の生活物資の源泉を養はむがために,わが国政府が明治維新以来執り来た農業政策の適否を考え直さねばならぬ。それは国家全体の福祉に関する大問題である。

 

 

 

 この問題は,土地瘠せ土地に乏しき我国においては,古来為政家の最も頭を悩ました所である。

 かの孝徳天皇の朝大化の改新の一大眼目として断行された班田制は,実に土地固有とその公平なる分配とによって,国民の富の平均を計り一部豪族による土地の独占を防ごうとするものであった。ところがそれをよくよく実施してみると,分配すべき土地が足りない。政府は色々とそれに対する施策を考えまた実行したが,その中最も主なるものは,「墾田」すなわち荒廃地開墾の奨励であった。それは元正天皇の朝以来歴代の政策として行われた所であるが,開墾を奨励するためにはどうしても開墾者の開墾地に対する権利を充分に保障せねばならぬ。その土地をして開墾者の永久的私有地たらしめねばならない。その結果墾田政策それ自身としては大いに成功したけれども,今度はまた土地合併の弊が盛になった。即ち豪族ないし権勢者は盛に人民を使役して開墾をなし競って土地の合併を計ったのである。そのところで孝徳天皇以来は従来と反対に墾田を禁止ないし制限する政策をとるに至り,またよくよく『山川藪澤の利公私共之』との勅を下されて

農民共同の天産物収穫地たる林野藪澤がみだりに少数豪族の手中に独占されないようにと努力

された。けれども,それすら充分に成功せずして貧富の懸隔はますます甚だしくなったのである。された。けれども,それすら充分に成功せずして貧富の懸隔はますます甚だしくなったのである。

 これらの事実は実に今を去ること千数百年前の事柄である。併し限りある土地をいかに利用せば,生産および分配の政策上最も適当なるべきかの問題が古今その軌を一にして我国の為政者を苦しめたことはこの一事をもっても容易にこれを推察することができる。

 

 

 

 かくのごとく,限りある国土をいかに利用すべきかの問題は,古来我国為政家の最も苦心したところである。しかして歴史上彼らの執り来た各種の政策中には極めて思い切った大変革を実行したものさえある。しかして明治維新はその大変革最後のものであった。

 明治維新の土地制度改革は,まず明治元年12月18日の布告第1916号に始まり,次いで明治15年2月15日の太政官布告第50号「地所永代売買の儀従来禁制のところ自今四民共売買致所持候儀被差許候事」出で,次いでまた同年同月24日大蔵省達第20号「地所売買譲渡につき地券渡乃規則」以下の諸令および翌年6年7月28日太政官布告第272号「地租改正条例」以下の諸法令によって実行されたものである。その目的は主として地租付加のため納税者たる土地所有者を確定するためにあったのであるが,その結果は事実上〜欧州において第十八世紀以降に実現された土地解放 Affraneliissent du solと同様〜幕府時代に確立した封建的土地制度の崩壊ローマ法流の個人主義的排他的土地制度の樹立とを呼び起こした。

 その結果,従来「村持」ないし「一村総持」なりし林野のごときも「町村」なる法人の独占的排他的所有物となってしまい,今までは部落有の土地林野等は即ち部落民全体の財産なるが故に部落民共同してこれを利用し得べきものとされていたのに明治以来の法制によれば「町村」はこれを組織する町村民とは別個の存在を有する法人だと考えられ,従って町村民といえども町村財産に対して直接なんらの権利をも有すべきものでないと考えられるようになった。また葡幕時代の法律によると,一村内の田地を村民各自の個人有となさず,彼らをして輪番に耕地を替せしめたゆえん「割地制度」が各地方に認められていたが,明治政府は明治五年八月晦日に大蔵省第百十八号をもって「不定地年季を定め割替致し来候は向後持主相定可申立事」と定めてこの制度を廃止した。また従来は各地方において田地が〜今日のごとく地主之を所有し小作人之を借用するのではなく〜地主と作主との分割所有 Geteiltes Eigentumに属する制度を認めていたのに,明治政府は断然これを廃止して例えば「土地を小作人に買受候永小作権の権利を地主に買受候や双方熟議の上私有の分界可相立」旨を指令し,力めて土地の私有化,個人主義化を計ったのである。

 当時新政府樹立の際,当局者が財政の基礎を固めるために地租改正に従って土地制度の改革に力を尽くしたことは当時として正に執るべかりし緊要の政策であったに違いない。けれどもこれがため突如旧来の土地制度を廃止してこれを極端なローマ法・個人主義的・排他的の土地制度に変えてしまったことは,実に今日の険悪なる借地問題小作問題を惹起した原因だといわねばならない。無論当時を境として我国一般を風評するに至った個人主義的・資本主義的・利己的な思想が一般人の所有権を排他的のものたらしめ悪化せしめたることは素よりこれを認めねばならないけれども,制度として土地の権利関係を今日のごときものたらしむる抑もの端を啓いたものは実に明治初年の地租改正だといわねばならぬ。

 欧州における土地解放が農業の発展上多大の効果を斉したと同じように,吾国明治以来の土地制もまた生産政策上確かに成功のものであった。けれども,現在の極端な個人主義的私有財産制度が当然に分配の不公平を伴いひいては社会の不安を惹起す原因になると同様,農村における耕地その他林野の個人主義化は既にもうその欠陥を暴露しつつある。農村は今や全国にわたって小作争議の渦となり,甚だしきにいたっては争議数年にわたって解けず,良田化してついに荒廃の地となり果てたものさえあると伝えられている。しかも現在の極端な個人主義的法制のよれば,かかる土地の耕作利用を国家公衆のために強制することも出来ないのである。こうしてかくのごときは実に濁り農村の地主及び小作人にとって不幸なるのみならず,国家全体の食料政策に関する重大問題である。ことに現在の吾国におけるがごとく,全国の米穀収穫を以ってするもことごとく国民全体を養い得ざるがごとき状況の下においては,農村の荒廃は即ち国民全体の福祉と,極めて密接な関係のある事柄であって,一日もこれを等閑に附することを得ないのである。

 

 

 

 農村のことはこれを農村の人に聴かねばならぬ。都会的な工業的な考えをもって農村問題に望むことは極めて危険である。その意味において,都会人たる私にはこの論文を書く資格がないように思われる。しかれどもあえてこの稿を起こすにいたった理由は別に存在する。それを簡単に記しておきたい。

 明治以来当局者の施してきた政策は多く輸入的真似的であった。換言すれば現実的にあらずして理論的であった。それは維新大改革後の指導的政策としては是認せらるべきものであったかも知れない。しかし一国には各々の独自性がある,ローカルカラーがある。濫りに輸入的な空論的な理論や政策によって改変せらるべきものではない。それでも都市並みに工業の方面は比較的容易に之を普遍化ないし理論化し得るけれども,経済的にもまた思想的にも四季の自然と離れることの出来難い農村の生活は,一国の内部ですら濫りにこれを普遍化しえない。

いわんや輸入的な普遍的理論をもって統一的規律しうるものではない。然るに明治以来の吾国政府の執り来た理論的かつ指導的な態度は農村並みに農業まで及んで,各地農村の特殊性,否農業そのものの特殊性を無視しつつある。

 学者及び為政者の中によって国民および国民生活を如何様にも変革し得るように考え,それが出来ないのは国民の覚悟が足りないのである,為政者はよろしくこれを教育し伝達せねばならぬ,と説く人が少なくない。なるほどそれは或る程度まで真理である。文化的にも経済的にも遥かに遅れていた吾国をして欧米の先進国と伍することを得しむるがために,一大躍進を遂げねばならなかった明治時代には,かかる指導的な政策が必要でもありまた実際に成功した。けれども,内容を充実せずして濫りに躍進することは事之よりも危なきことはない。明治初年以来躍進を続けて今日に進んだ吾々は,今や吾々自らの内省によって自己の独自性を考え,以って自発的に内容を充実すべき時期に到着したのである。

この現象は,旧思想の持ち主たる為政者学者の眼には,国民志気の発達として映るかもしれない。さればこそ彼らは只管所謂「民力の滋養」に熱中するのであろう。けれども,吾々を以って見れば今こそ真に国民生活の上に強固な根底を有する充実した日本文明の樹立せらるべき「曙光」が認められるのだと思う。然らばその「曙光」とは何か。理論・学問・理智に対する「人間性」の反抗が即ちそれである。この反抗が起って真の文化が初まる。徒に外来の文化を吸収して之に同化し終えるがごときは未だ以って文化と称するに足りない。各人は各々独自性を発揮して人類文化の発展に貢献せねばならないのである。

 この私の言葉を聴いて「反動的」「退歩的」な思想だと解してはならぬ。事は全く反対である。

吾々の文化は外来の文化を吸収するによって外形上花々しい躍進を遂げることもある。なるほどそれもある意味において文化の進化といい得よう。けれども世界人類の文化的見地より見れば,かくのごとき躍進は「無」に均しい。エッチ・ジー・ウエルスがその名著「歴史大系」において「従来日本は文化史上僅少な役を勤めているに過ぎぬ。その鎖国的文明は人類運命の一般的形成に多く貢献するところがなかった。彼は多くを受け取ったけれども,与えた所は少ない」と評している通り,人類文化の発展に貢献した点から見れば,さ遺憾吾国は遠く支邦に及ばないのである。

吾が同胞は動もすれば明治以来の文化発展を誇る。けれども,その大部分はウエルスの所謂「受け取った」ものに過ぎぬ。何所に自ら誇り得る独自の文化があるか。明治以来吾々は多くを受け取った独自性によって内発的に真の文明を創造することでなければならぬ。しかして私は実にその「曙光」を近時の我が国に認め始めたことを喜ぶとともに,今後益々この傾向を助長したいと思うのである。

 今や吾々のために深く内省すべき時期が来た。「創造」すべき時期が来た。これを法制に就いて言えば,真に国民生活と合致した 〜真正の意義において〜 「社会化」された法と法学とを「創造」すべき時期が来た。明治以来輸入された西洋法制と吾国の民族的経済的社会的独自性との調和融合点を発見して新たに文化史的意義ある日本の法制を樹立すべき時が来た。しかしてその運動はまず最も独自性に富んだ農村の法制から初まらなければならぬというのが,私が本文を起稿した学問的動機である。

 明治以来吾国の農村は無理解な輸入的政策と理論とのために抑圧された。しかも,その独自性は 〜都会や工業の場合と異なって〜 今日もなお厳として存している。その存する所を基礎として,農村の法制を考え直したい。それが私の希望である。しかしてそれは農村のためのみならず,我が国全体のために必要だと私は確信している。

 この問題は農村の人々の自ら深く考えるべき事柄である。しかも抑圧久しきに慣れたる彼らは自らその独自性を忘れている。また現在彼らを抑圧している「理論」「法制」の何者たるかを理解していない。彼らは 〜現在工業労働者の多数が先覚者の熱心な教育指導にもよらず今日なお何故に自らが貧乏であるかの根本的理由を理解していないように〜 なぜに彼らの生活が真に晴々した愉快なものにならないか,その原因を知らず,またこれを救うべき道をも知っていない。私が今この文を草する実際的動機の一つは実に彼ら農村の人々に,彼らを上から抑え着けている「理論」や「法制」の何者たるかを,告げたいにある。そうして彼らの自発を促し,同時に彼らから貴重なる現実的の教えを受けたいと思うのである。

 また政府当局者も今や明治以来の農村政策に多大の欠陥があることを認めるに至った,と私は思う。しかもそれを救おうと考えている人々 〜殊にその中の旧い思想の持ち主〜の中には従来自らの執り来った「政策」やまたその抱いている「思想」や「理論」などの根本的の欠陥あることを悟らずして,片片たる眼目の小救治策を弄することにのみ熱中しているものが少なくない。それらの人々はこの際しばらく謙虚なる態度をもって農村の独自性を観察し真に農民の要求する所を聴くべきである。私が本稿を草する実際的動機の二つは,それらの人々が深く内省される多少の手引きにもなれかしとのささやかな希望からである。

 通俗を主としたこの論文が,学術的に多くの価値を有せざることは自ら充分にこれを承知している。しかして自らもこれ都会人の悲しさに深く農村の事情に通ぜざることを恥じている。けれども,もしもこれがきっかけになって多少なりとも農村の法律問題に興味を持ってくれる人ができるならば,私にとってこの上もない喜びである。

 

 

 

 

 

第一章           部落有林野と農村生活

 

 

 

 

 

 

 都会生活の経済的特色は財貨経済にある。都会人はすべてまず金銭を得たうえ,それと各種の生活資料とを交換して生活を営む。これに反し,農村の生活には今日なお実物経済的の色彩が濃厚である。無論農民といえどもその収穫物を売ったり各種の農業材料や生活資料を買ったりする。

けれども,彼らはその食物のかなり大部分を自らの耕作によって作り出すのみならず,炊事用の薪炭,屋根を葺き,田を培い,家畜を飼うべき秣草枯れ草の類を直接近隣の林野から採取して,一家の生計を立てる。彼らの多数が極めて狭少な田畑を耕作するに過ぎず,従ってその収穫を金にしてみると,都会の賃金生活者の年収総額に比して極めて少額なるにかかわらず,兎にも角も,落付いて一家を支えてゆくことができるのは実にそれがためである。それが農村生活の特色でもありまた強味でもある。

 ところで,農村生活者の中でも自己の収穫物または小作米を売って充分に余裕のある生活を営み得る者ならば,もしも必要があればその生活を全然貨幣経済化してしまうこともできよう。

けれども,切りつめた最小限度の生活を営んでいる農村の貧民にとっては,彼らが林野から採取する薪炭芝草の類はその生活の必需品である。もし突如としてこれを得るの途を失えば彼らがささやかな耕作によって得るところの収穫物を金にしただけでは到底その生計を支えることが出来ない。

 極めて手近から例を引いてみても,海岸地方の農民漁夫の家庭にあっては,その子女が朝夕かき集めてくる落ち松葉や松の実をもって主たる燃料としている。然るに従来それらの子女が松葉かきに行っていた松原が都人の別荘地になって厳重な垣根の中に囲いこまれると,彼らはたちまち燃料の採取に困難を感ずるに至る。彼らが従来松葉を掻きに来た松原は初めから他人のものであった。彼らは今日の法律によると,権利として松葉を採取し得たのではなかった。従って,その松原が突然都会人のために囲い込まれて松葉掻きが禁止されても,無論彼らにおいてなんらの苦情を言い得べき限りでないことは現行法上明らかである。けれども,法律上の正否は別として,彼らが燃料の採集に苦しみ生活上少なからざる困難を感ずるに至ることは明らかである。その結果 〜一つは法律思想の不充分なためでもあろうが〜 生活の必要上彼らは都会人の目を盗みつつ別荘に入り込んで密かに松葉を掻いていく。それを発見した都会人は彼らを罵って,「盗人」と言い,「田舎者はずるい」という。制定現行法をやかましく解すれば彼らの行為は窃盗に違いない。しかし彼らのなすところは古来の慣行であり,また生活上の必需に基ずく行為である。公平に見て,吾々は何とかして彼らの行為を適法にしてやる途はないものかと考えざるを得ない。

 次に,もう一つ例を引こう。ある村の住民は古来裏山の豊富な天然林から木材を採取して,あるいは燃料となしあるいは木細工物の原料にしていた。ところが明治維新の際政府は地租賦課の目的を以て土地調査を為すに際し,「口碑と雖も何村持ちと唱え樹木草茅等その村にて自由にし来りたるが如き山野の類は葡慣によりその村持と定め民有地に編入」し,また「従来村山村林と唱え樹木植付あるいは焼き払い等その村所有地の如く進退し他の普通その地を利用して天生の草木等伐採し来りたるものと異なる類は従前租税のと簿棚の記否とによらず前年の成績を視認し民有地と定め」たけれども,「従前秣永山永下草銭冥加永等を納むるも培養の労費なく全く自然生の草木を伐採し来りたるのみなるものは官有地と定む」ることとした(明治九年一月地租改正事務局議山林原野等官民所有区分方法参照)。

しかも明治以来の法律思想によると「官有地」は即ち国家ないし皇室の私有地であった。一般人民は絶対にこれを犯しえない。その結果かかる処分によって「官有地」と認定されたが最後 〜古来の慣習いかんに関係なく〜 以後絶対に木材の採集をなしえないことになった。しかしこの場合山林から採取する木材が既に村民生活の必須的要素になっていたとすれば,彼ら古来の慣行は到底一片の法令をもって容易に改廃し得る訳がない。その所で彼らは法律の禁止を犯してまでも材木の採取を続ける。その結果は無論山林盗伐罪として次々刑法の問うところとなるに拘らず,古来の慣習と生活の必要とは彼らをかつてその犯行を繰り返さしめる。そうして都会人は彼らを罵って悪習ありと云うけれど,静かに公平に考えるとき,私はそう易々と彼らを非難することが出来ないように思う。なるほど彼らのなすところは犯罪に違いない。けれども彼らをして己むなく犯罪を犯さしめている国家自らも反省せねばならぬ。私は彼らのために何とか法律を変えてやりたいと希望する。

 かくの如く,農村の生活殊にその貧民の生活にとっては,林野その他から採取される天然資源は極めて重要の価値を有する。否,時には絶対的に必要である。此故に彼らをして農村の生活を断念せしめるか,または少なくとも彼らをして純然たる賃金労働者として貨幣経済を営むに至らしむるだけの覚悟があらば格別,然らざる限り学者や政治家が空に考えた理論を当てはめて彼らから実物採取の権利を奪い去ることは農村維持のため極めて危険である。

 

 

 農村の富豪は耕すべき田畑を有すると同時に,薪炭を採し秩草を刈るべき山林原野をも私有している。自家の諸用はこれらの田畑山林原野の収穫物をもって充分にこれを充たすことができる。のみならず,必要あらば夫等のものを購うべき金銭の余裕をももっている。

ところが,僅かに一家を支えるに足るべき耕地を有するに過ぎない小作人・他人の土地を借りて耕作に従事している小作人等農民の大多数は,耕作に使用する以外何ら余分の土地を有せざるを通例とする。彼らは炊事用の薪炭,屋根を葺き,田を培い,家畜を飼うべき秣草類その他農民日常生活の必要品を自己の所有地から採取することが出来ない。しかも貧困な彼らが金銭を以てこれを買うことの出来ないのは明らかである。しからば彼らはどこにそれを得べきであろうか。彼らが権利なしにみだりに富豪の山林原野を犯し得ざるは素よりである。

 幸いにも,現在田舎には至る所に,入会地とか入会山とかその他立合山・入付場・入稼場・稼山・請山・野山・差円山等色々の名前を持った原野がある。そうして,村民は,あるいは時を定めあるいは随時に,その土地に来て木を伐るとか葛根山蕨を掘るとか色々と天産物の共同収穫をやる。彼らの一人一人がそれによって穫る所の収穫額は,絶対的に見れば極めて僅少なものであろう。けれども,それは彼らの生活必需品である。貧困な彼らは,それなしには生活することが出来ないのである。従って,この種ぼ収益をなし得る権利存否および態様は彼らにとって実に生計上の大問題である。みだりにこれを無視するがごときは実に彼らの「生命」を無視するものに外ならない。

 

 

 

 

 

 村民は誰彼の区別なく共同して入会山を利用する。無論彼らが共同収益を行うについては葡慣または特別の規約によって,収益権者を部落民中ある資格を備える者のみに限るとか,人々によって権利に差等を設けるとか,一時に入会地に入り得る人員を限るとか,他村よりの雇人をして収益せしむることを禁ずるとか,採取し得る樹木の種類を限るとか,採取器具運搬具を制限するとか,その他色々の制限を設けている。そうして濫伐濫獲による入会地の荒廃防止を計っている。けれども,今日のごとく世知辛い世の中になれば,かくして共同的に利用される山林は兎角荒れやすい。明日の生活に追われた人々に向かって天然資源の繁用による永久の計を求むることは極めて困難である。その結果多数共同的に利用する入会林野の荒廃するには当然である。しかして現在入会地の多数が樹木のない荒れた土地になっているのは事実である。

 山野を荒れたるままに放置するのは,生産政策上極めて不利なるのみならず,惹いては洪水の原因ともなる。従って専ら土地の使用能率発揮・生産の増殖のみを念とする個人主義自由主義の経済思想よりいえば,「入会権」くらい厄介なものはない。一日も早く「入会権」を廃止して林野を個人所有ないし町村有に移し,そうしてこれに秩序ある造林を施せば,一方には林産物の増加を来し,他方には洪水を防止し得て一挙両得である。ドイツにおいて第十八世紀の中葉以来漸次に村落共有の林野を分割し,イギリスにおいても第十七世紀以降同様の事を実行したのは実にこの思想に外ならぬ。

 我が国においても,明治維新以来政府は一方においては森林政策・治水政策の見地から入会の整理に苦心すると同時に町村自治団体の基本財産として森林を所有することを奨励したため,各地方において入会地が廃止または整理されたことは決してその例に乏しくない。しかしてその政策は今日もなおそのまま続行せられつつある。その目的のため従来政府は,町村に向かって,公有林野造林補助金を交付するとか,大字その他の部落有林野を町村に寄付その他譲渡させるよう仲介勧誘の労を執るとか色々な策を講じていたが,大正九年からさらに公有林野官行造林法を制定して一層公有林野の造林を奨励過ぎなかったにに反し,この法律では国家自らが町村その他公共団体の林野を借りて造林をなしたる上その利益を両者の間に分収する制度を設けたのである。

 かくのごとく,林野の利用を合理的ならしめてその能率を増進せしむることは,林産物の増収を計り,河川の荒廃を防止する等の点から見て極めて喜ぶべきことである。殊に従来単なる草地ないし収益少なき雑木林に過ぎさざりし公有林野に造林を施せば,その林産物の収益によって町村の収入が増える。その結果,うまくゆけば町村税を全廃することすらできる。けれども,この種の造林政策が真に村治上喜ぶべきことであるかどうか,また〜現在多数の人々が無雑作に考えているように〜 将来も益々これを奨励すべきものなりや否やは,そう易々と論定し得る事柄ではない。

 

 

 町村有林野の収入増加による町村税の減少ないし全廃,一見その名は極めて麗しい。けれども吾々はその麗しき名を賛美する前に,なお大いに楯の裏面をも看なければならぬ。

 先にも述べた通り,林野から採取する薪芝秣草の類は農村の細民にとっては生活の必需品である。彼らは古来の慣行によって部落有林野の上に入会権を有する。そのお蔭で彼らは従令その耕作による収穫物は僅かでも,兎も角落ち着いて生活が出来るのである。然るに,もしもこれら細民の生活需要を全く度外視して,突然入会権を廃止したならば,果たしていかなる結果が生ずるであろうか。耕作による収穫物の外には,僅かに入会林野の収益を得て暫く生活を営

んでいる 〜いわば自足経済実物経済を営んでいる〜 彼らには,到底金を出して薪炭その他を買うだけの余裕がない。しからば,彼らはいかにしてこれ,補い附けるであろうか。

 場合によって,彼らは大地主に属する私有林の山掃除を請け負って多少の収益を許してもらうようなことを初める。けれども,かくのごときは,さなきだに苦しい農村細民の生活をして更に,一層苦しくさせるものである。のみならず,これを広く行き亘らせることは事実上到底不可能である。果たしてそうすれば,入会の廃止は当然に,農村人口の減少を誘発ないし助長するに違いない。また少なくとも,従来の小農制度小作制度等は漸次に衰えて農業の企業化ひいては農村生活の貨幣経済化を惹起すに違いない。なぜなれば,入会の廃止は当然に農村細民の生活を困難ならしむるから,彼らは自らその業を棄てて都会に走るに違いない。なぜなれば,入会の廃止は当然に農民細民の生活を困難ならしむるから,彼らは自らその業を棄てないまでも従来のごとく小作自作農のごとく小作自作農もしくは小作人として独立の経営者たることが困難になる当然の結果として,自然大農業の賃金労働者になって普通の工業労働者と同じく貨幣経済を営むものにならねばまらないからである。

 農業の企業化,小作制度の廃滅,農村の貨幣経済化,それは吾国においてもあるいは将来当然に到達すべき運命であるかも知れない。またあるいは必ずしも悲しむべき結果ではないかも知れない。

けれども,それが農業政策上の大問題たることはいうまでもないのみならず,かくのごときは少なくとも従来為政者の最も恐れ来りたる結果であるに違いない。従来当局者は一方のおいて農村人口の維持に苦心すると同時に,自作農の維持創定に努力している。少なくとも農業が企業的工業的に経営されて現在の小作人が賃金労働者に変わることを欲していないのは明らかである。然るにその同じ当局者が,林野の合理的利用,町村自治団体の収入増加というがごときことだけに専念して,無闇に公有林野の統一,入会の廃止を奨励し,それが為,かなりの国費 〜例えば大正9年農商務省は公有林野造林奨金として四十五万七千余円を支出している〜 を支出あいているがごときは,明らかに大きな矛盾だと言わねばならぬ。殊に林野統一,入会廃止のために損害をこおむるものは主として農村の細民なるに反し,公有林野の開発による町村税の廃止ないし減少によって主たる利益を受ける者は 〜従来最も重い税を負担した〜 富豪その他有産者であることを考え合わせると,みだりに入会を廃止することは,近時当局者が実行しまたは少しも実行せむと提言しつつある社会政策・貧富緩和の策と全く相容れない矛盾の政策だといわねばならむ。なぜなれば,主として細民の生活必需品を供給する入会制度を廃止して,貧富の別なく平等に免税の恩恵を興えるのは,言うまでもなく貧者の財を奪って富者の懐を肥やすものでなければならないから,公有林野の統一に熱中する当局者は果たしてかかる結果を欲するのであろうか。

 

 

 

 無論,私といえども,入会による濫伐濫獲の結果として,林野の荒廃はなはだしきに至りたる幾多の事例を知る。故にこれを整理して入会地の面積縮小を計りかつその収益の方法を整理改良するの必要は大いにこれを認める。けれども,これがため農村細身民の生活がいかなる影響を受けるか,またひいては農業組織の上にいかなる影響を及ぼすであろうか等の諸点を充分考慮せずに,ただ単純なる個人主義経済理論のみに盲従し,または町村の収入増加と言うがごとき眼目の小策のみに捉われて,みだりに入会の廃止を策するがごときは,極めて危険な政策だといわねばならぬ。

 殊に入会の廃止は農村の貧民に不利にして富者によらず,その廃止はあるいは法律上 〜農村有産者の代表者たる〜 町村会の決議によってなされ,またあるいは農村細民の無智を利用しまたは有産者のこれに対する経済的圧力によって,事実上決行される。例えば,県当局がある大字に属する入会林野を町村に寄付せしめて造林をなさしめむとするに当たっては,まず町村の有力者と計って当該大字の有力者を説く。すると元来経済に余裕がありかつ従来の主たる納税者である彼らは容易にこれを承諾する。そうしてあるいは細民の無智に乗じあるいは彼らに対する経済的威力を利用して,彼らの同意連判を強要する。かくして大字の住民にとっては祖父博来の共同的実庫であり,かつ生活の必要品である入会林野が易々と町村の所有に帰属してしまうのである。しかもその結果細民の生活が脅かされるるにいたるには見易き事実であって,入会廃止の問題に関連して時々百姓一揆の争乱がおこるのは,実にそれがためである。

 将来我国の農業が大組織的にかつ企業的に経営されるようになるとすれば格別,今日のごとき小作農小作制を維持する限り入会の存続 〜従ってこれによる林野の荒廃〜 は農業政策の大局から見ればある程度においては必要やむを得ざる事柄だといわねばならぬ。

徒に生産増加の一点にのみ捉われてみだりに入会を廃止せむとするがごときは,資本主義の工業組織によって只管生産の増加をのみ追った結果かえって大仕掛けな工業不安を惹起したと同様,極めて近眼的考え方だといわねばならぬ。

 それゆえに入会地整理の必要なることは,私も大いにこれを認めるけれども,現在の農村組織を維持しつつ入会を全廃せむがごとき政策をもって極めて無謀なりとする。また現在のごとく法律上ないし事実上町村有産者の手によって入会を廃止しうる制度をもって絶対的に不可なりとする。整理は必要である。しかしそれは計算の問題である。その実行は組織的でなければならぬ。

それは実に「いかほどの油を差せば機械の運専上最も経済的なるべきか」と同じ問題である。

油を差すのは不経済だからと云うて,全く油を差さずに機械を円滑に運専せしめむるとするも,事は全く不可能である。

 然らば入会地の整理はいかにしてこれを実行すべきであろうか,それは結局技術的計算の問題であって本稿の直接目的とする所ではない。けれども,その整理を実施せしむとする者はまず必ず現行法上入会権の法律的性質如何を知らねばならぬ。これを知らずしてその改廃を論ずるは,現行法を知らずしてその改革を説くものに外ならぬ。事これよりも無謀なるはない。今や筆は自然の順序として入会権の法律的性質の叙述に移り行かねばならぬ。

 

 

 

 

 部落有林野に対する部落民の法律関係,即ち「入会権」の法律関係を充分に理解するがためには,まず第一に普通多数の人々が共同して一つの物を利用する場合には如何なる法律的形式を利用するものであるかまた利用し得るものであるかを考えてみねばならぬ。そうして当面の問題たる入会関係ははたしてそのいずれに属するものなるかを考えてみねばならぬ。

 多数の人々が共同して一つの物を利用する場合の法律的形式を考えてみると実に色々ある。博物館,美術館,図書館のごときまた道路,公園等のごときものにあっては「物」の所有権は国家その他の公共団体または一私人に属しつつ一般公衆にむかってその利用が有償または無償に許されている。これらの場合でもその「物」がこれを利用する公衆の属している国家その他の公共団体の所有に属している場合には,実質上これを公衆の所有物なりと考えても差し支えない。けれども法律の形式上よりいえば,その所有権は国家その他の公共団体にあって,公衆は唯一一定の条件の下にその利用を許されているに過ぎない。それが今日の法律の考え方である。

 ところが一歩進んで会社その他の社団法人の財産に対する社員の権利関係如何を考えて見ると,その形式は以上に述べた博物館や道路公園の場合と大差ないように見える。即ち同じく「物」の所有権は会社その他の社団法人に属していてよって社員は単にこれを利用する権利を有するに過ぎないように見える。けれどもこの場合における社員の「物」に対する関係はもっと遥かに密接的とする事業の用に供せむがため,各社員の純然たる私財と引き離しておきたい。そうして各社員をして勝手気ままに事業の目的と相容れないような権利主張をなさしめないようにさせたい。各社員の死亡その他変更によってただちに事業そのものが消滅したり変更せぬようにさせたい。また各社員の個人的の債権者によって事業の財産的基礎をおびやかされないようにしたい。それらの目的を達するがため,法律はかかる財産は各社員の権利ではあるがその純然たる私財とは区別せらるべきものだという考えを元として特殊の複雑な法規を設けても差し支えないはずである。

しかし通常吾々は到底かかる複雑な混みいった法律関係を理解することができず,実際上の不便もまた少なくない。そのところで便宜上考え出されたものが「法人」である。すなわち普通の人間が権利義務を有する。その形式を模倣して一つの「人格者」ありと想定し,これをして権利の持ち主たらしめ,もってその権利と社員の私財との分明を明らかならしめたのである。ゆえに実質的に観察すれば,この場合といえども「物」は各個社員の所有に属するので,ただその資材との区別を明らかにするため,法律の形式上「法人」なる第三者の持ち物として別個に取り扱われているのである。

 次にまた,一私人が自己の有する美術品や書籍類を公衆の用に供する場合にも,それらの「物」の所有権はなお依然としてその一私人に属するが,事実上これを利用して利益を受けるものは公衆である。しかしこの場合における公衆の利益はその一私人の「好意」のみを基礎とするものであって,なんら法律上の基礎を有っていない。その私人の個人的私財との区別も明らかならず,従ってその私人の死亡または変心その他個人的境遇の変化は容易にかかる公衆の利益を奪うことになる。

その恐れを除くためにはかかる財産を純然たる私財と分別し得べき方法を考えねばならぬ。それがために案出された制度は「財団法人」と「公益信託」とである。

 前者は,前の「社団法人」を案出した場合と同様,普通の人間が権利義務を有する場合の形式によって,一つの人格者を想定しこれをして公衆の利用に供せらるべき「物」の形式的所有者たらしめ,これによって不特定多数の公衆がその「物」の上に有すべき複雑なる事実上の利用関係を単純化しかつ強固ならしめたものであって,欧州大陸の法律思想の産物である。反してこれ英米人は同様の目的を達するがために別な方式を考えた。すなわちかくして公衆の利用に供せらるべき「物」の所有権を 〜独立の新たなる権利主体を想定する代わりに 〜既存の第三者〜 受信者 trustee〜 に付託し,これをしてその形式上の権利主体たらしめ,もってこうしゅうをしてその「物」を利用せしむる方法を案出した。それが即ち所謂「公益信託」cyaritable trust であって,大正11年3月の「信託法」はすなわちその形式を我が国に輸入することを計ったものである(同法第66条以下参照)。したがって不特定多数の公衆をして一定の「物」の共同使用をなさしめる方式は現在我が国に二種類存在する訳である。

 以上に述べた各種の法律形式は,いずれも多数の人々をして一つの「物」を共同的に使用収益せしめる方式である。しかもそのすべてに共通する特色は「物」の形式的所有権はそれらの使用収益者に存せずして,ある第三者に属せしめられていることである。

 これと異なって,「物」の形式的所有権までをも使用収益者たる多数の人々に帰属せしめておいて別に第三者たる権利主体を求めない場合がある。しかしてその中にもまた全く根本精神を異にした二の場合が存在する。その一は多数人各独立して,物の上に権利を有する。あはよくばその「物」を独占したい。しかし同時に他の多数者もそれと同様の権利を有するがために,彼らの権利は互いに競合せねばならぬ。互いに節制されねばならぬ。遺憾なあら一人の独占を許さぬ。

かかる事情の下における多数者相互の法律関係は即ち「共有」Miteigentum であって,ローマ法系統の思想から出た制度である。この種の「共有」にあっては各共有者相互間には,不幸にして目的物が共同だということのために起こる諸問題を解決調停するための法律関係がある以上,何らの共同的関係もない。各人は各々別々に権利を持っている。したがって各人はおのれの欲するままにその権利 〜持分〜 を他人に譲渡して自らは共有関係から脱退することもできれば,何時といえども共有関係の廃止を請求し得る(民法第249条以下参照)。

 ところが,これとは全く別に,それら多数人が共同して一個の「物」を所有してはいるものの,その多数人は互いに競合せず,排斥せず,むしろ互いに共力し協働して「物」の利用を完全ならしめ,もって多数者全部の福利を増進せむとする思想を根底として,多数人全部が一体として権利の持ち主たる場合がある。学者のいうところ「総有」ないし「合有」Gesamteigeigentum はすなわちそれであって,欧州においては日耳曼氏族の間に生まれた法律思想である。多数の人が「物」の所有者たる点においては「共有」と「総有」との間になんら区別せらるべきものがない。けれども前者は個人主義的排他的のものなるに反し後者は団体主義的協働的であって,二者は全く根本精神を異にするものである。

 個人主義的な排他的な独占的な所有権思想が骨身までも浸み込んだ現代の我国人には「共有」を理解し得る。また「社団法人」または「財団法人」の如く 〜少なくとも形式上だけでも〜 権利を域る「一個」の「人格者」 〜実はそれは事態を簡明にするための方便に過ぎないのだが〜 に属せしめる制度ならば,またこれを理解することが出来る。

ところが「物」が多数人の全体に属してはいるものの多数者各自はなんら独立の権利をその「物」の上に有せぬ,各人は共同の目的のためにそれを利用して全部の福利を増進しようというような団体主義的な協働主義的な制度は現代人の容易に理解し得ざるところである。しかし例えば,夫婦共有の財産がローマ法流の共有に過ぎぬとすれば,どうしてかくのごとくその物を結婚生活の共同目的に利用し得よう。また独立の「人格者」と認められない普通の「組合」の財産が組合員各個の単純なる共有に属するに過ぎぬとすれば,どうしてか能くその財産を組合の共同目的に供し得よう。これらの場合にいえどもその共同目的の完成到達に重きを置く以上,その用に供せらるべき「物」をして単純なる「共有」たらしめておくことは出来ないのである。

 明治以来の法律思想は全くこの「総有」思想を排斥して受け付けないように見える。現にかく信じがたく主張する人が多い。けれども,事実ははたしてそうであろうか。私はそれを大いに疑うのである。

 

 

 

 

 しからば,部落民が共同して入会地を利用する法律関係は以上の形式中いずれに属するものと見るべきであろうか。

 この点について現行の民法はわずかに『共有の性質を有する入会権に付いては各地方の慣習に従う他本節 〜即ち「共有」に関する民法第249条以下〜 の規定を適用す』

(第二六三条)および『共有の性質を有せざる入会権に付いては各地方の各地方の慣習に従う外本章〜 即ち「地役権」に関する民法第280条以下 〜の規定を準用す』(第294条)なる二カ条を設けているにすぎぬため,問題のすべては殆んど皆「各地方の慣習」を調査研究するによってのみ決定せられ得ることになっている。しかるに,従来学者は法律の文字を過重し法律を以ってすれば如何なる法律関係をも一挙に変更し改定し得るものなりと考えて,所謂「共有の性質を有する入会権」はなお一種の「共有」だと説明し,入会地の法律関係は民法施行前までは如何様であろうとも民法施行以後は普通の「共有」になったものだと説明している。

 ところで,民法に所謂「共有の性質を有する入会権」とは何を意味するかというに,今日学者及び裁判所の一致した意見によると,「共有の性質を有する入会権とは地盤毛上 〜地盤に生立している樹木柴草の類をいう〜 ともに入会権利者に属する場合を指し」,かかる場合には「本来共有の規定に依りて其効力をさだむべきものなれども入会権に付ては各地方其慣習を異にするものあるを以って先ず「各地方の慣習」に従うべきだけれども,権利の実体はなお一種の 〜ローマ法流の〜 「共有」に過ぎぬと考えているのである。

 けれども,実際もしもかかる場合における林野の所謂「共有」が民法249条以下の「共有」に相当するものだとすれば,現在我国にたくさんある入会地の法律関係は到底これを説明する事ができない。

 まず第一に,普通に吾々が他人と共同して一の土地を「共有」している場合に,もしも共有者等の一人が死亡するばその相続人たる子は親の共有持分を相続し以後代わって共有者となるべきである。従ってその子も親と共に従来共有者の一人であったとすれば,親の死と共に子は従来親の持分たりしもの及び事故の従来有したる持分,即ち二人分の持分を有することになるべきである。ところが一部落の人々のすべてが一定の林野において共同収益をなすべき入会権を有する場合に,親も子も共にその入会権者であったとしても,親の死によって子は以後二人分の入会権を有するに至るものではない。その場合は子は従来有したる自己の入会権をそのまま保有し得るけれども,親の〜共有持分なりと一般に説明されている〜 入会権を相続するものではない。親の権利はその死と共に消滅してその子に移転しないのである。従って仮にある村の入会慣行においては一家の戸主に限り入会権者になり得ることになっており,その結果従来入会権者たりし戸主が死亡してその子が戸主になったとしてもそれによって取得する入会権は前戸主のそれを相続するのではなくして,自らが戸主になったため村の入会慣行所定の資格を取得したるによって新たに権利者になるのである。して見れば,部落民各個が入会地上に有する権利を解して各人各別の独立した個人主義的の持分的権利なりとする従来の通説は全く入会の実際と合致していないといわねばならぬ。入会権は部落民全部が合同的に総有するところであって,各個の部落民たるの故をもって他の部落民と共にその権利を総有しているものと説明せねばならぬのである。

 次に又,もしも入会権の法律関係が普通の共有であるとすれば,各個の入会権者は自己の持分を他人に譲渡しても差し支えないはずである。従って部落民中のある者は自己の持分を他の部落民に売却したり,抵当に入れたりすることができるはずであり,その結果終いには入会地上の持分権がすべて一人の手に集中されることすらあり得るはずである。ところが入会慣行の実際についてこれを観察すると,かかる事実は全く存在しない。各個の部落民が入会地上に有する権利は 〜場合によってあるいはその権利者たる資格が限定されていたりあるいは権利の内容が人によって差などつけられていることはあっても〜 決して一人より他人に移転すべからざるものである。況んや之を一人の手に集中するが如きことは絶対にあり得べからざることである。して見ればこの点から考えても入会権を共有の一種なりとみることは全く当たらないのである。

 殊に,入会権者の一人がその権利を部落以外の者に譲渡すがごときことは絶対にあり得ないことであり,また転住その他の理由によって部落民たる資格を失った者が引続きその権利を保有することも存在しないのであって,これらもまた普通の「共有」観念をもって説明し得べからざるところである。

 また普通の共有にあっては「各共有者ハ何時ニテモ共有物ノ分割ヲ請求スルコトヲ得」るのみならず,不分割特約のごときも五年以上の期間を以て之を為しえない(民法弟256条参照)。一物上に各個の共有者が相競合し相排斥しあって存在するが如き状態は「物」の利用上決してその能率を発揮せしむる所以でない。従って共有者中のある物が共有の存続を欲せざる以上何時といえどもこれが廃止を請求し得ることとしたのが法典の考である。ところが,全国の入会慣行について之を見るに,入会権者の一人が入会地の分割を請求するによって当然分割の効果を発生せしめているものが何所にあるか。なるほど,部落民の協議によって入会地の廃止ないし縮小を計ることはあり得よう。けれども一人の請求によって分割の結果を生ずること普通の共有におけるがごとき事実は全然存在し得ないのである。(各地における入会関係の実際については 川瀬博士著「公有林及共同林役」(大正元年発行)参照。)

 以上の諸事実はいずれも,入会地の法律関係がいかに普通の「共有」の性質と異なるものであるかを明らかに語るものである。もしも夫らの点が普通の「共有」の性質中たいして重きをなさざるものであるならばとにかく,それらはいずれも共有の性質中その中枢をなすものである。これを欠く以上共有たるの性質は既に失われたといわねばならぬ程のものである。して見れば,法文には如何に「共有の性質を有する入会権に付いては各地方の慣習に従う外本節の規定を適用す」と書いてあってもその権利の本質はこれを「共有」なりと見ることはできないのであって,共有に関する諸規定は入会の本質と相容れる限りにおいてのみ適用され得るにすぎないのである。

 して見れば,各個部落民の個人主義的「共有」にはあらずして,部落民の全部が不分割的に協同的に所有する総有的の権利だと説明せねばならない。

 

 

 かくの如く入会地の法律関係は普通の共有にあらずして一種の総有的関係であるとすればそれは一体いかなる沿革をもって今日に残されているものであろうか。私は次にこの点を考えたい。

 それがためには,まずどうしても徳川時代の「村」の法律的性質を知らねばならぬ。今日吾々日本人の常識において「村」といえば,それは村民から組織された一つの団体ではあるが,法律上各個の村民とは離れた一つの独立した人格者である。村の財産は全く村民の財産ではなく,村の債務は全く村民の債務と別物である。ところが徳川時代の「村」は,従来法制史家殊に中田博士の研究によれば,ドイツ中世の Genossengchaft に似たものである。村なる人格者は即ち村民の全体であって,村と村民とは相離隔し相対立する観念ではなかった。したがって,村はそれぞれ代表者を有し,村として訴訟をなし財産を有し法律行為をなすこと,今日の「村」と同一であったけれども,村の負担する公課租税の類は当然村民全員の共同負担であり,村の債務は同時に村民全体の共同債務であり,村持ちの土地は同時に各村民の共同利用地であった。即ち今日の「村」はこれを組織する村民からかけ離れた抽象的の人格者なるに反し,当時の「村」は村民をもって組織し村民と離るることなき実質的の組織体であった(中田博士 「徳川時代における村の人格」 国家学会雑誌第三四巻第八号1頁以下参照)。

 したがって当時は,村持ちの林野のごときも今日の法律にいわれる町村所有地とは全く異なって,村持たることは同時に当然村民の全体の共同利用地,即ちその総有地 〜「総持」なりしものである。当時の村は,この観念を基礎として,あるいは「村中総百姓入会」ないし「総村入会」の林野を有し,あるいは数個村入会にて共同の収益林野を有し,あるいは一村より他村持の原野へ入会して共同収益を許されていた。

 ところが,明治維新以来,政府は地租徴収の目的をもって官有地民有地の別を明らかにせむと企てた。しかしてこの区別は入会林野について殊に困難であったため,当時の当局者は余程この点について苦心をしたらしい。がとにかく,明治8年6月地租改正事務局乙第三号達においては「従来村入会地または一村持等積年の慣行存在する地所は仮令簿冊に明記なきもその慣行をもって民有の証と認めこれを民有地に編入すべし」と定め,また明治九年一月地租改正事務局議定山林原野官民所有区分処分方法のおいては「口碑といえども何村持と唱え樹木茅等その村にて自由にし来りたるがごとき山野の類は習慣によりその村持と定め民有地に編入すべ」く「従来村山林と唱え樹木植え付あるいは焼畑等その村所有地のごとく進退し他の普通その地を利用して天生の草木等伐採し来りたるものと異る類は従前租税の有無と簿冊の記否とによらず前項の成績を視認し民有地と定むべし」反してこれ「従前秣永山永下草銭冥加永等を納むるも全て培養の労費なく全く自然生の草木を伐採し来りたるのみなるものは官有地と定むべし」と定め,この種の標準によりてこの区別を実行した。その結果従来村民の共同収益地たりし林野のあるものは官有となり,あるものは民有 〜多数は村有ないし区有〜 となった。

 かくして,従来の村持林野のあるものは村有ないし区有となったけれども,同時に「村」の法律的性質が明治維新と共に全く異別のものとなったことは,村持林野に対する村民の権利関係をして全く一変せしむるにいたった。即ち従来の「村」はこれを構成する村民の全体より成れる一の総合的団体なりしに反し,明治維新以来の「村」は当時輸入されたローマ法寺院法流の個人主義法人思想の影響を受けて村民と全然離れた別個独立の人格者として考えらるるにいたった。その結果従来村民の村持林野上に有したる権利は 〜他の村民全体との合同的権利ではあったもののともかく 〜自己の物の上に有する自己の権利であったのに反し,「村」が「村民」と全然離れた抽象的実在として考えらるるにいたってよりこの方,村民の村有地上に有する権利は急に化して「村」なる他人の所有地を目的とする一種の他物権になってしまったのである。したがってはなはだしきにいたると,例えば川瀬林学博士のごときわが国における入会関係の実際に最も精通せらるる学者すら,この種の権利は入会権なる私法的の権利にはあらずして,町村制第90条に所謂「従来の慣行により町村住民中特に財産または営造物を使用する権利を有するものあるとき」の一場合に相当する一種の行政法上の権利にすぎぬと説くにいたり(川瀬博士「公有林共同林役」246頁)その当然の結論として〜町村有産者の代表者に過ぎない〜「町村会の議決を経」さえすればその〜町村貧民にとって必要欠くべからざる大切な〜「習慣を変更または廃止」することができると主張する者さえ出つるにいたったのである。けれども,元来村持の林野は即ち村民全体の共同収益地であった。それは村民の一部〜もちろん今日の排他的独占的なる個人所有権思想の下において所謂「財産」ではないけれど〜をなしその生活の必要的基礎を成していたのである。維新以来法人観念の変革によって「村」と「村民」とが分離した結果として「村山村林」の類は村の所有地〜私有地〜となり,従って入会地所有権と入会権とが分離せらるるに至ったけれども,村民がその林野上に有したる収益の権利〜「入会権」〜は依然として彼らの手中に在りし最もその性質を変ぜざるものと見ねばならぬのである。

 殊に,維新の際官有地と民有地とがはっきり分別されてよりこの方,その民有地に編入された林野が現在において「村」なる独立の法人または大字等のごとき「町村の一部にして〜独立して〜財産を有し」得べきもの(町村制第124条参照)に属しているか,または現行制度上それほどの独立性を認められていない一地区の住民全体の「共有」に属せしめているかのごときは,全く維新以来町村の分合がしきりに行われた偶然の結果に過ぎぬ。従来一個の「村」として村持の林野を持っていた部落が新制度の下において,偶々独立の法人格を与えられた場合にはその林野もまた「村有地」となった。反してこれその部落が極めて小さいとか二箇町村に分属せしめられたとかいうような訳で独立の法人格が付与されなかった場合には,たむなくこれを部落民全体の「共有地」なりやのごとき事実を標準としてその権利の性質を区別せむとするがごときは全く合理的根拠なき所説だといわねばならぬ。

 その種の説をなす人は,もし村民が村有地上に有する共同収益権を入会権なりと解するときは,結局村民の集合体をもってその主体なりと解せざるべからず,従って「町村法人中に町村それ自身の法人格と町村に住居する住民団体の法人格と二様の法人存在すること」となるべしと説いている(川瀬博士前掲二44頁)。けれども,かくのごときは実にローマ法流の法人思想と排他的独占的個人所有権思想とのほかにGenossenschaftGesamteigeigentumの制度あることを理解し得ない現代我国人の思想を遺憾なく暴露したものたるに過ぎぬ。なぜなれば徳川時代の「村」が今日のごとき「村」に変わった以上,入会地の「所有権」は村に属し,村民が全体としてその上に入会権を総有するという関係を認めることは少しも変ではない。村民全体が入会権を総有する。

なぜにその際の村民全体を〜ローマ法流の〜法人でなければこれを所有し得ずというがごとき考えは,民法施行後10年の間あやまられたるロマニステン法学が一時吾国にはびこった時代の夢に過ぎないのである。

 これを要するに,現行の入会権は徳川時代における「村持」の林野がローマ法寺院流の法人思想を輸入したために生じた「村」と村民との分離,および維新以来しきりに行われた町村の分合改廃の影響を受けて生じた,集産主義的所有権制度と個人主義的所有権制度との間に介在する一種の変態的制度である。現行民法の極めて濃厚なる個人主義的色彩とは全く相容れない制度である。したがって現在の世の中にはむしろ適合しないものかもしれぬ。したがってやがては当然に滅びさるべき制度であるのかもしれない。しかし現在の実際はとにかくかくのごときものである。

もしかしてこの制度あるがゆえに農村がともかくも現在の形態を維持することができてるのだとも考え得ること先に陳述した通りである。

 これゆえに私は世の公有林整理問題を考える人々これが実施にあたる人々に言いたい。諸君は自己流の個人主義的法律思想をもって事を裁いてはならぬ。諸君は自己の脳中に「法律」を探してはならぬ。諸君自らの眼っをもって現実を直視して自ら事実を考えねばならぬ。しからずしてみだりに他人の「生活」の根底を破壊せむとするがごときははなはだしき罪悪である。

 

 

 

 

 

 次に入会権の種類についていささかかんがえてみたい。

 従来学者は一般に入会権を大別して「共有の性質を有する入会権」および「地役の性質を有する入会権」の二種類とし,その区別の標準を入合地の所有権が入会権者自らにありや他人にありやにもとめている。現に大審院のごときもこの考えを認めて「二者を区別する標準は入会権者の権利が共有の地盤を目的とするやごとくは他人の所有に属する地盤を目的とするやにあらず」ると説明していること上述の通りである。けれども,この区別ははたしてこれを入会の実際に適合した合理的のものと謂い得るであろうか。その区別が不当なために実際上の取扱が不便となりまたは不当となるような事があってはならない。

 徳川時代においても,数箇村が一定の林野に入会って共同収益を行った場合もあれば,ある村の「村山村林」へ他村から入会って共同収益を行った場合もあり,また一村の住民が自村持の林野に入合う場合もあった。しかしてそのいずれなるかによってそれぞれ特殊の法律問題が起こりえた。即ち第三の場合に起こる問題は主として部落民相互の収益方法,その程度等に関する一部部内の事柄なりしに反し,第一の場合にはそのほかさらに数箇村相互の対立関係を生じ,第二の場合には入会村より地元村へ支払うべき入会料〜山手米,山手前等地方によって種々の名称あり〜に関する問題などが起り得た。

 この種の問題は今日の入会地についてもまたほとんど同じように起こり得るのであって,この点から考えると入会地の所属を標準として入会権を区別することは今日もなお大いに意義あることと考えられる。けれども常に最も注意せねばならぬのは,前にも一言した通り,「村」の性質が昔と今とで全く変わってしまったため,今日ではさきの第三の場合,即ち部落民が自村の「村林村山」に入会う場合のほかに,さらに部落民が自らの共有地上に入会権を有する第四の場合が生じたことである。「村」がGenossenschaftの性質を有し従って「村持」の林野が総有の性質をもっていた昔ならば,小部落といえども独立して「村林村山」の類を有することがあり得,しかしてその「村林村山」は部落の財産でもあり同時に部落民の財産でもあると考えられたため,「村林村山」の〜今日の考えで謂う〜所有権が「村」なる法人にあるかまたは村民の共有に属するかというような問題は全く起り得なかった。ところが明治維新以来法人思想が一変してよりこの方,従来「村持」なりし林野はあるいは「村」なる法人の所有となりあるいは地元村々民の共有地とならざるを得なくなった。しかれどもその区別は実際上いかにして生じたかといえば,従来「村林村山」の類を有した部落が「村」なる独立の法人格を与えられた場合または他の部落と合して一村を成すに至ったけれどもなお依然として独立に「財産を有し」得ることを認められた場合(町村制第124条参照)には従来の「村持」林野化して〜今日の法律思想における〜「村有地」ないし「区有地」となり,反してこれ従来の部落が狭少なるがためまたはその他の理由によって独立に「財産を有し」得ないものと認めらるるに至った場合のごときはやむなく従来の「村林村山」等は部落民全体の「共有地」となったのである。従って事は極めて偶然である。

 ところが明治以来今日の法律思想をもってすれば,入会地の所有権が「村」にあるかまたは「村民」にあるかは極めて重要なる区別である。なぜなれば,もしも従来裁判所および学者によって認められているように,入会地の所有地が入会権者の共有に属するかまたは他人に属するかを唯一の標準として「共有の性質を有する入会権」および「共有の性質を有せざる入会権」を分別せむとする考えを形式的ないしは概念的に適用すれば,入会地の所有権が「村」,即ち今日の法律思想においては「村民」より見てむしろ「他人」と認められねばならぬ「村」に属している場合はこれを解して「共有の性質を有せざる入会権」と認められることになるからである。

 けれどもかかる形式的な考え方は絶対的に許すべからざるものである。入会地が「村」なり大字小字等の「区」に属してしまった場合といえども,実をいえばそれは,単に法人思想の変化によって「村」と「村民」とが分離するにいたった当然の結果として入会地の「所有権」と「入会権」とが分離せねばならなくなったまでのことである。それと入会地の「所有権」が偶々「入会権者」自らの共有に属している場合とを区別して取り扱うべきなんら実質的かつ合理的の理由は存在しないのである。これゆえに入会地の所有権が他村ないし他部落に属する場合または入会権が国有地ないし御料地上に存する場合を称して「共有の性質を有せざる入会権」と謂うことは相当に理由がある。なぜなれば,この場合には入会権者から土地所有者にむかって入会料を払う等その他両者の間に地主対借地人的の法律関係を生ずるから。けれども,入会地が入会権者の組織する部落自らに属する場合のごときは入会地か入会権者の共有に属する場合と全く区別せずに取り扱はれねばならぬ。二者を区別することは全く不合理である。

 この最後の点を明確にすることは,入会地の整理問題に関して極めて重要である。なぜなれば,現在全国にわたって存在する入会地の多数はその所有権が村その他部落に属する場合であり,しかして現在にあたっている府県その他山林関係の官吏は実際上入会地が「村有地」なりや村民の「共有地」なりやの区別を明らかにせむと力め,これによりてその処分方法を異別にせむと考えているからである。しかしてまた甚だしきにいたっては,先にも一言した通り,入会地が「村」の所有に属する場合には村民がその上に有する共同収益権は私法上の権利としての入会権にはあらずして「行政法上の権利」であり,従って町村制第90条によって「町村会の議決」を経さえうればこれを「変更又は廃止」し得るというような説をなす学者すらあるからである。幸いにも現在大審院は「町村制に掲ぐる町村又は区の営造物その他の財産に対する行政法上の共用又は使用包含せず」というて町村制第90条に所謂「元来の慣行により町村住民中特に財産または営造物を使用する権利」と自村の山林を目的とする「入会権」とは厳格に区別すべきものなることを認めた(明治39年2月5日判決大審院判決第12集民事165頁参照)。従って単なる「町村会の議決」をもって町村有の山林を目的とする村民の入会権を任意に「変更または廃止」し得るという考えは大審院の認めざるところであって,私は権利の性質上どうしてもかくあらねばならぬものと確信している。

 

 

 

 これを要するに一概に入会権と謂うてもその中には,数箇町村〜時には数十箇町村に及ぶ場合もある〜が共同して一の入会地を有する場合もあれば,一村の所有地へ他村より入会う場合もあり,また一村一部落の所有地上にその村その部落の住民が入会う場合もあれば,一地区の住民が自らの所謂「共有地」上に共同収益を行う場合もあり,その他色々の様態が存在するのである。しかしてそのいずれなるかによって,それぞれ特殊の法律問題が起こり得るのである。したがって大体入会地の「所有者」が何人なるかを標準として入会権を分別すること必ずしも不可なしとせぬ。然しまず第一に,一地区の住民がその地区専属の林野に入会う場合を,その林野所有者が「地区」自らに属するやまたはその「住民」の共有に属するやを標準として二に分別し,もって二者その取扱を異にすべしとする考えは絶対にこれを排斥せねばばらぬこと上述の通りである。

 次にまた従来の通説がなしつつあるがごとく,入会地の所有権が何人にあるかを標準として入会権の種類を分かつことは事実多少の実益はあるとしても,これによって二種の権利は全く種類性質の異なったものだと考えることは不相当である。私の考えでは,そのいずれの場合たるを問わず,入会権は一地区の住民が一定の林野その他において共同収益を行い得る慣行上の権利であって,入会権者相互の内部関係は,偶々入会地が彼らの共有に属するや又は他人に属するやに関係なくすべてこれを「総有関係」だと説明すべきである。ただ入会地が他人に属する場合にはその対外関係において色々の特殊な問題が起るだけのことだと考えている。したがって民法は所「謂共有の性質を有する入会権」には「各地方の慣習に従うほか」「共有」に関する規定を適用し,「共有の性質を有する入会権」には「各地方の慣習に従う外」「地役権」に関する規定を準用すると謂っているけれども,実を云うと,その所謂「共有に関する規定を適用する」という法規は入会権が「共有の性質を有する」と否とに関係なく,すべて入会権者相互の内部関係に適用せらるべきものなのである。反してこれ「地役権に関する規定を準用する」という規定は,入会地の所有者と入会権者とが別人なる場合に両者の間に存在する対外関係を地役権者と承役地所有者との関係に擬えて解決規律せむとするものたるに過ぎぬのである。

 これゆえに,入会権の本体はその種類いかんによらず部落民が一体として林野の共同収益権を総有する点に存するものだと考えるべきである。

 

 

 

 

十一

 

 

 

 

 入会権が以上のごとき法律的性質を有することは,公有林野の整理問題に直接利害関係を有する人々およびこの問題の実施に従事する人々の充分に理解していかねばならぬ根本問題である。

 殊に,入会権は決して単純なる個人主義的の共有ではなくして総有の性質を有することしたがってこれが処分もまた単純なる共有の場合と全然異別でなければならぬことは,最も注意されねばならぬ点である。

 次に,また実際上入会権の最も多数の形式であるところの,部落民が部落有地上に入会権を有する場合は,決して普通ある人が他人の所有地に他物権を有する場合と同一に取り扱われてはならぬことを,この権利の沿革に照らして充分考えて頂きたいと私は希望する。それは明治維新の際ローマ法流の法人思想の輸入応用によって「村」の法律的性質が一変したために法律上「村」と「村民」とが分離し,したがって従来土地の所有権も利用権も共に村民全部〜即ち当時の意義における「村」〜に属していたものがたちまち分離して,前者は「村」に後者は「村民」に帰属すべく余儀なくされたために起こった必然の結果にすぎない。したがって「村民」の入会権は決して単なる他物権にはあらずして,「村」と「村民」とが従来の権利を分割して,形式たる所有権は前者これを得,実質たる入会権は後者これを得たまでのことである。

 これゆえに,「村民」の入会権は普通の借地権,小作権などとは全く違った,もっと遥かに強固な基礎を持った権利である。「村民」は維新の際法制の変革によってやむなく「村」と「村民」とが分離したために「形式」を失った。けれども,彼らはこの上「実質」までをも合理的理由なしにむざむざと奪い去るるはずがないのである。いわんやその権利は農村生活の必需品であり農村細民の「生存」を確保するものである。これを奪はむとする者はまず静かに考えねばならぬ。「生命」という偉大な事実の前にひれ伏さねばならぬ。そうして彼らの権利を事実について直感し事実に基いて彼らの権利の尊重すべき所似を知らねばならぬ。

 

 

十二

 

 無論私は現在あの乱伐乱穫によって荒廃した入会地,愚昧なもしくはこれ日々々の生活に追われて遠きを慮るの念慮薄き部落民によって不合理にかつ能率乏しく利用せられつつある公有林野をあにままに放置せよというのではない。農村の人々は富みたるもまた貧しきもすべて心を合わせてこの農村生活の基礎たる実庫の能率良き利用方法を考えかつ実行せねばならぬ。かくしてこそ入会地の「総有」たる性質が充分に発揮されるのである。さらぬだに土地に乏しき吾国において自己の我欲と無智とのため土地を興廃もまま放置しておこうとするがごときは公衆に対する罪悪である。けれども,鹿追う猟師を見ざる例のごとく,森林政策・治水政策ないしは町村資源増殖の見地よりして無計算に入会地の廃止を企て,それがため農村細民の生活がどれだけの影響を受けるかまた農村の経済組織がいか程の変更を受けるかなどの諸点を精細にかつ親切に考慮研究せざる者少なからざるを見るとき,私は危うしというのほか言うべき言葉を知らないのである。殊にその策を実施せむとするに際して上記のごとき「入会権」の特質を精査することなく,現在自らの頭脳を支配しつつあるローマ法流の法人思想と個人所有権の思想とのみを唯一の武器として遮二無二に入会地整理を実行せしむとし,その結果あるいは無用かつ困難なる訴訟を誘発しつ純朴なる農民をして費用と労力とを浪費せしめ,あるいは竹槍席旗の騒擾をさえ惹起すがごときもの少なからざるを見るとき,かくして荒びかくして亡び行く農村の行く末を想うて誠に寒心の至りに堪えないのである。

 私は従来とても当局者が入会慣行の調査をしていらるると聞いている。けれども,その調査いまだ完からざるに軽々しく「入会地」の整理,公有林の統一,官庁造林の奨励等を急いでいられる諸君の遣方には私は遺憾ながら感服することができない。殊に吾々が今日時々耳にするところによると,公有林統一,入会権廃止を実行せむがため可成無理な所為〜相手の無智に乗じて甘計をもって誘ったり,無理強いに連判せしめたり,地主から小作人を圧迫するようなこと〜が各地において可なりに行われているようである。私はそれを必ずしも悪意だとは決したくないけれども「生産」と「理智」とを追う猟師がとにかく「分配」と「人間性」を顧みない。その現下の有様を私は深く遺憾とするのである。

 これゆえに,私がこの際是非とも提唱しておきたいのは,入会慣行の調査研究を完成することおよびこれに基いて公有林整理の合理的なる手続きを制定することである。あるいは農村有力者の機関たる「町村会の議決」により,あるいは不法なる各種の奸策偽計等によって,農村生活の基礎たる竹庫がみだりに破壊せられ,したがって農村細民の生活が根底的に脅かされるのを私は黙視していることができない。かくのごときは実に独り農村の平和を害する罪悪たるのみならず,国民生活の大本たる「農」の衰微を誘起する国家に対する犯罪である。

 人は他人の愚昧を笑う前に自らの思慮あるいは足らざるなきやを三思せねばならぬ。

 

 

 

 

 

第一章           永小作の法律関係

 

 

 

 

 

 

 

 現在農村問題の中心は小作問題にある。したがって前章において農村法律問題の根底として充分に考慮されねばならぬ公有林の問題について一応の説明を試みた私は,今や筆を転じて小作の法律問題に向かおうと思う。

 ところが同じく小作というても,その中には普通小作と永小作との区別がある。この二つは現行の法制上は素より,沿革からいうても,経済上の見地から見ても,全然区別して考えられねばならぬ異別の制度である。したがって同じく小作問題と概称されているものの中でも,普通小作に関係して起こるものと永小作について起こるものとは自ら問題の内容が違い,したがってまたこれを解決するについて考えるべき根本の論点が違はねばならない。無論現在小作争議と称されているものの大多数は普通小作について起こっている。けれども小作問題を考える第一段としては普通小作のほかに永小作の存在すること,これら相互の間には十分区別して考えねばならぬ重要なる差異あることを知らねばならぬ。なぜなればこの区別を明瞭にせずして小作問題を論ずることは,抑も議論の出発点を過っているように思われるからである。

 そのところで,私は小作の法律問題を論ずるに当たってまず稿を「永小作の法律問題」から起こそうと思う。

 

 

 

 

 

 

 永小作の話をするためには,まずその沿革について一応の説明を興える必要がある。それが現行法上いかなる性質を有するものであり,また今後いかに取り扱わるべきものであるかというような問題は,すべてこれを後に譲る。

 永小作制度を研究せむとする者のまず第一に注意すべき事実は,現在永小作の慣行があるといわれている田畑の多くが海岸または河口等に存在する事実である。たとえば,大阪神戸付近の其音難波江といわれた一帯の海岸,その他徳島県板野郡の海浜に沿った田地等には広く永小作の慣行がある。しからばそれははたしていかなる理由にもとずくにであろうか? 読者はまずこの点を十分に考えてみなければならぬ。

 現在永小作地になっている土地はその昔多くは湿地その他荒蕪地であった。それを開墾するにあたって,その所有者または払下人は自ら海岸に堤防を築くとか井路を作るとかいうような根本の大工事を引受ける代わりに,内部の田地を開くことはすべてこれを他所から招致した百姓にやらせた。地主ないし払下人には資本はあるが労力がない,百姓には労力はあるが資本がない。その双方の足らざるところをお互いに補い合うために,例えば地主は百姓を招致したうえこれにむかって「もしお前らがこの土地を開墾すれば子々孫々に到るまで永代小作させてやる」と約する。かくして地主の資本と百姓の労力との結合によっていよいよ田地ができると,一方百姓は永代その土地を耕作する権利を取得し,他方また地主はこれから定米を受ける権利を取得するのである。小作地とはいうものの元来荒蕪地であったものが今日のごとき美田となったのは元々百姓の労力のお蔭であるから,その美田の上の権利は必ずしも地主のみをしてこれを独占せしむべきではない。百姓はその労力に対する報酬として美田そのものの上に権利を取得して然るべきである。したがって多少一般よりは安い小作料で耕すことができてもいい。またその権利は普通一般の小作権よりは強固な,したがってみだりに地主によって奪われることのないようなものでなければならない。無論その開墾に従事した百姓が単なる労働者として地主に雇われて働いたのであれば,よって彼らの受くべき報酬は労力の代価即ち賃金でありさえすればいい。けれども,たんなる労働者としてではなく,多少なりとも地主の共力者たる地位に立って労力を提供し,したがってその労力そのものに対しては全然なんらの報酬をも受けないか,または僅少な報酬を受けたにすぎないときは,彼らの労力はどうしてもその結果として出来上がった土地そのものによって報いられねばならぬ。

 その際地主が百姓の労に報いるがため出来上がった田地の一部を分割して彼らに譲可したとすれば,事は極めて簡単である。なぜなれば,その場合には地主も百姓も別々な土地の単独所有者になるだけのことで,以後二人の間にはなんら特別の関係も存在しないことになるから。ところが維新前の法律思想によると,地主の小作地に対する権利は今日の土地所有権とは余ほど違ったものであった。小作人は封建君主にむかって年貢を納めねばならぬ。その年貢の付加税のような考えで小作料をとる権利を地主が持っていた。したがって一つの土地の上に小作人は耕作の権利〜換言すれば耕作によって得た米の一部分を自ら取得する権利〜を有し,地主は小作米をとる権利を有し,封建君主は年貢をとる権利を有し,さらにまたその上の何者かが年貢をとる権利をもっておりしたがって今日ならば一個の所有権の内容とも見るべきものが,かくのごとき上下の関係を持った数人の間に分割されて属することは少しも不思議ではなかった。即ち今日の法律においては土地所有権は地主一人に存し,他の者はすべて地主の許可を基礎としてその土地を借り用いることができるにすぎないのに反し,昔は一個の土地の上に上下数人の者が所有権を有するというような〜法律学上に所謂 Geteiltes Eigentum に相当すべき〜法律関係の成立することが認められていた。そのところで百姓を招致して荒蕪地を開墾させたような場合にも,その労に報いるがため土地の一部を分割してこれに与える代わりに,開墾地の上に成立する権利の一部を分割してこれに与えることが一般に行われていた。即ち百姓をして単なる借地人たらしむる代りにこれに永代その開墾地を耕作する権利を与え,地主自らは百姓から条米を受ける権利を自己に留保して満足したのである。今日の法律思想をもって考えると,この場合でも土地所有権は地主にあり,百姓は単にその土地の借主にすぎないように見えるけれども,当時の考えではかくして土地の上に耕作権を得,地主はまた同じ土地の上に条米収得権を有するにいたり,二人ともその土地の上に所有権に相当すべき権利を取得したものを見るべきである。これは独り吾国のみならず封建的土地制度の特色として欧州諸国にも存在した制度である。

 百姓を招致して荒蕪地を開墾させることは明治になってからも盛に行われた。殊に明治初年以来北海道において最も盛んに行われた。殊に明治初年以来北海道において最も行われた。しかして今日華族富豪役人などが北海道にもっている大農地の大多数はかかる開墾に由来したものである。彼らは,明治5年太政官布告第304号北海道土地買貸規則,明治19年閣令第16号北海道土地払下規則,明治30年法律第26号北海道国有未開地処分法,明治41年法律第57号北海道国有未開発地処分法改正法律等により,開墾を条件として官有地の貸下を受けた上,これに内地から百姓を招致して開墾をなさしめ,これによって法定の条件を充たしてその土地の所有権を取得したのである。したがって所有権の名義はそれらの華族や富豪に属してはいるものの彼らは唯権勢・縁故ないしは資力のお蔭で土地の払下を受けただけのことであって,その土地を今日のごとき農地たらしめた者は実にその開墾に従事した百姓である。それで百姓の中には開墾の労に報いるがため土地の分譲を受けた者もあるであろうけれども多くは引続きその土地の小作人として今日におよんでいる。明治以前ならばそれらの直接開墾に従事した者は,土地そのものかまたは権利の分譲をうけているはずである。ところが北海道の場合においては土地所有権は払下を受けた華族や富豪が完全にこれを取得してしまい〜無論多少土地そのものを分譲したということはあるけれども〜開墾に従事した百姓は単なる小作人となったにすぎなかった。無論華族や富豪達が土地を得た当初においては彼らも別にその土地に重きを置かず,したがって小作人も自己の利益を防衛するため特に法律の保護〜権利〜を必要としなかった。けれども,年とともに農産物の価格が騰責しまた内地の農地不足が甚だしくなるにつれて,地主も段々と土地所有者たるの意識が明瞭となり,その結果従来はあまり重きを置かなかったその土地を新たに重要なる収益の深源として考えるようになった。そのところで彼らは従来小作人の収益が所有者たる自己の収益に比して過大なることを覚知して小作料の増額を計るにいたり,更に初めて従来はほとんど法律の保護などを考える必要のなかった小作人等も改めて法律の保護を希望することとなり,従来彼らの有したる権利のあまりに薄弱なるを感じ初めたのである。けれども時はもう既に遅い。土地に関する権利はすべて地主にあって,小作人はただ地主からその土地の賃貸を受けているにすぎないのである。彼らの権利は物権にはあらずして債権にすぎない。しかし公平にいえば彼らの権利はもっと強固な権利によって厚く保護されていていいのだと思う。したがって今後といえどももしも地主が小作人の権利の法律上薄弱なるを利用して彼らを虐げるような事があれば,必ずやその所にゆゆしき小作争議が起こると思う。しかしてこの場合吾々はどうしても地主に同情することができない。なぜなれば,彼らの土地はもともと払下げによって無償に得たものであり,これをして今日のごとき耕作地たらしめたものは実に小作人の労力であり,しかして小作人の労力は封建時代のそれほどにも充分に報いられていないのであるから。

 昔は開墾に従事した百姓は土地その物の上にある程度の所有権を与えられた。彼らの得た権利は決して単なる借地権ではなかった。このことは土佐藩においては「通俗地主を呼んで底地持といい,永小作人〜即ち開墾をした百姓〜を上地持または中地頭と称し」(帝国農会発行本邦永小作慣行623頁参照),また大阪附近においては他人に属する湿地その他の荒蕪地に「地上げをなし開墾して畑地と成し」たような場合に「これを上土権と名付け地盤の所有権は地主にあるも地表の所有権は小作人にあり古来自由にその上土のみを売買し地主もこれを承認し来りたる」事実があった(大審院大正6年2月10日民事第三部判決に引用された大阪府誌の記載参照)のによって明白である。無論彼ら開墾者が「上土」を所有したというのは,今日の法律学における意味において土地の表面と地下とが異別の所有者に属したと解すべきでなく,むしろ開墾者の権利が強固な権利すなわち所有権であることが〜彼らの開墾によって作った〜「上土」なる有形物によって象徴されているに過ぎないとは思うけれども,この一時によっても当時の法律がいかに開墾者の権利を厚く保護したかを推察することができると思う。なお開墾に基因する永小作の実例については上記の「本邦永小作慣行」のほか小野武夫氏の「深野新田永小作」(法学協会雑誌40巻10号所載)「吉野川沿岸の永小作問題」(同上誌41巻2号3号所載)に記された興味深き記述を参照せられたい。

 ところが,徳川時代においてかくして発生しまたかくのごとくに厚く保護せられたる開墾者の権利も明治初年における地租改正とともに段々と継子扱を受けるようになり,ついには現行民法によって「永小作」と称する一種の借地権にまで引き下げられたのであって,その詳細は後に一括してこれを述べる。さらにはまずこれから永小作権発生のその他の諸場合について一通りの説明与えねばならない。

 

 

 

 昔土佐藩では農地合併の弊を防ぐために田地の所有を農民のみ許し士工商にはこれをゆるさなかった。その結果農民と士工商との間には公然の田地を売買することができなかった。けれどもいかにやかましい封建制度の下でも実際の経済的需要は法律をもってこれに抑圧することができなかった。当時の農民もまた借財その他の必要上田地売却の必要に迫られたのである。しかも公然これを売却することは許されないので,彼らは多く自己の所有田地の上に永代小作米〜加地子米かちしまい〜を取得する権利を設定した上これを他人に売却して,金の融通を受くることとし,藩主もまたこれを黙許した。かくして元来田地所有者たりし百姓は耕作権者となり,加地子米収得権を譲受けた者はまたその土地の上に永代の小作米取得権を得るにいたり,さらに土地所有権の分割を来したのである。しかし先に述べた開墾の場合には,地主の方から耕作権を小作人に分与したために所有権の分割を来したのであり,今後に述べている場合には地主たる百姓の方から小作米収得権を他人に譲渡したために土地所有権の分割を生じたのであって,結果だけから見ると全く同じことであるが,これを生ぜしめた沿革にいたると二者は全く反対である。

 土佐の永小作は明治初年以来しばしば当局者を悩ました有名なものであるが,その起原をたずねると,その中には先に説明した開墾に起因するものと今現に述べているようなものとあって前者を新田小作と称するに対し後者を本田小作と唱えている。いずれにするも,それらの場合は一つの土地の上に耕作を目的とする所有権と小作米収得を目的とする所有権とが併存したのであって,小作人の権利は決して他人の所有権の用益権ではなかったのである。しかるに明治の初年地租改正の時以来政府は漸次この小作人の権利を厚く保護せざるにいたり,ついに現行民法にいたってはこれに与えるに「永小作権」の名称をもってし,これをして他人の土地の単なる借用権〜法律学者の所謂「他物権」の一種〜たるにいたらしめたこと先にも一言した通りである。

 明治政府がなぜにかくのごときことをやったか。その理由を適確に説明することは極めて困難な問題である。併し私一個の考えとしては,その主なる理由は維新後における新政府が地租政策の確立に努力したことに存するのだと思う。無論従たる理由としては当時欧州よりしきりに入り来った所有権尊重の思想が当局者の新政策断行に勇気を与えたということもあろうけれども。維新以前においては封建的土地制度の特色として地租と地代との区別は必ずしも明確ではなく,一個の土地の上に封建君主が年貢米をとる権利を持っている以外,その下の臣下もこれある程度の年貢米収得権をもち,地主もこれ年貢米〜「加地子米」〜をとる権利を持ち,最後に百姓〜「作主」〜は残りの米を取得する権利を持っていた。ところが封建君主制度没落の際には何所の国でも地租をとる権利はこれを国家に集中したい。したがって従来中間にあって年貢米をとっていた者を何とか処分せねばならない。そのところで例えばドイツのごときでは多くの場合,私権としての物上負担権 Reallasten を認めてこれを封建的中間地主に与え,その代わり今日の意味における土地所有権はこれを百姓に与えることとした。これに反し我が国では土地所有権はこれを封建的中間地主に与え,下の百姓には永小作権なる他物権を与えることとしたのであって,彼我の所有権が今日のごとき横暴な超国家的なものになろうとは夢にも思わなかったのであろう。ところが事実はその後憲法の制定によりまた民法の規定によって絶対無限の力強いものと化し,しかして〜ドイツであれば土地所有権として待遇されたかも知れない〜小作人の権利は単に他人の土地の借用権として取り扱はるるにいたったのである。

 したがってこの点から考えると,今日の「永小作権者」は明治政府の地租政策の「犠牲者」であるというても必ずしも過言ではないのである。

 

 

 

 

 

 

なお,以上のほかにも,永小作の起原と認むべき事実は極めて多い。帝国農会が大正四年に発表した〜永小作慣行の専門的研究者たる小野武夫氏の調査にかかる〜「本邦永小作慣行」によると,それが色々に分類されている。例えば,先に述べた土佐の本田小作におけるがごとく地主たる百姓が土地負担たる加地子米収得権を設定してこれを他人に売ったという〜いわばドイツ中世の Rentenkauf に相当すべき〜事例は他にもこれ少なくないようである。またこれと反対に,他人から金を借りて経済のできない百姓がやむなく所有の田地を手放すに際し,比較的安価にこれを売却しその代償として永小作権を自己に留保した例も稀れではない。なおそのほかあるいは寺領地を耕作させるために「永代小作」すべき権利を百姓に与えた場合もあり,あるいは豪農が家附のうち百姓に永小作権を与えて独立の家を構えさせた場合もあり,または単に永年小作を続けたということを根拠として永小作権を認められたような事例もある。その他細かに分けるとなお色々の場合がある。

 そのいずれの場合たるやを問わず,永小作権本来の特色は永代ある土地を耕作する権利たるの点にあった。しかしてその権利と地主の権利との関係は場合によって必ずしも常に同一ではなかったらしいが,とにかく今日の法律におけるがごとく永小作権者が地主の所有地上にこれを制限すべき永小作権を持っていたというよりは,むしろ地主も永小作権者も共に同一地上にある程度の所有権をもっていたものと解していいようである。

 ところが,明治維新以来,ちょうど欧州において封建制度没落後の土地制度がローマ法流の絶対的土地所有権の思想を本として規律されることになったと同じように,吾国の土地制度もまた全く近世欧州大陸のそれと類似したものに変わった。従来は一個の土地の上に上下数人の者がそれぞれある程度の所有権を持っていた,所謂分割所有権の制度が行われていたのを変更して,土地所有権はこれを地主一人の手に集中し,他はすべて地主の許与を本として制限的の用益権を有するに過ぎざるものとする制度を行うにいたった。しかしてその変更を断行した主たる原因が明治政府の地租政策にあったこと先にも一言した通りである。

 

しかし,すべての法律改正が事実上極めて困難なものであるように,明治初年のそれも中々容易ではなかった。殊に土地制度の根本的改正は至難の業であった。政府はこれを断行するため,地租改正事務局を設け幾多の法令を制定して,封建的の分割所有権その他今日一般に行われているようなローマ法流の所有権思想をもってすれば解し難い各地の土地制度を,すべて無理矢理に現在のような土地所有権に変えてしまおうと努力した。それで,例えば先に述べたるがごとき土地制度の行われていた高知県に地券渡方規則(明治5年大蔵省達25号等)を施行せむとするに際しては,従来の加地子米収得権者〜「底地持」〜を土地所有者としてこれに地券を与えた。けれども従来「底地持」の持っていた権利は完全な所有権ではなく「上地持」即ち小作人の権利と併んだ制限的の所有権に過ぎなかったから,これにむかって完全な土地所有者としての地券を与えることは不当であった。そのところで彼らに与える地券には土地の実価を記さず,「いわば一反歩につき所得米一石この代価百円相当のところ前条のごとく永小作人有りこの地主わずかに五斗丈け所務致し来り候分は地券の代価もまた五十円と相記し」たのであるが,明治六年いよいよ地租改正条例(明治6年太政官布告第272号)を施行するにあたっては,右地価の記載を「土地の真価」に変えなければ地租賦課の基礎が立たない。併し,それにはどうしても土地の負担になっている永小作権を消滅させなければならない。ところがそうすればまた「小作人は自然破産と相成る道理」だから中々承知をしない。今日吾々が冷静に考えて見れば,この場合地主には五十円の地券小作人にも五十円の地券を与えて,双方からその地価額に応ずるだけの地租を納めさせればよかったのだと思う。しかるに,当時の当局者はかかる分割所有権的の制度を好まなかった。その位ならば土地そのものを二人に分けてやる方がいいと考えた。そのところで高知県令から政府に向かって処分方に関する伺いが出た際にも政府はこれにむかって「書面永小作の儀は元来地主と小作人との約定に候儀に付土地を小作人に買受候歟双方熟議の上私有の分界可相立」云々なる指令を発した。よって高知県令は「右指令に基き地主および小作人等に小作権を処分すべき旨を訓諭し,その結果一部においてはあるいは土地を折半しあるいは地主六分小作人四分あるいは小作人六分地主四分等の方法を以て分地をなし」たけれども中々一般にはうまくいくはずがない。その結果「終いに政府は当初の指令を取消し,習慣そのままに差置くべしとの訓令を発せられ」,「租税諸公課のごとき依然永小作人の負担するところ」となって,その後に及んだのである(右伺いおよび指令の全文は先に引用した「本邦永小作慣行」一二七項以下にのっている)。これは最も顕著な一例に過ぎないけれども,封建的土地制度から今日のような土地制度に移り変わることがいかに困難であったかはこの一事をもっても推察することができると思う。

 明治初年においても,永小作人の権利は既にかくのごとくに脅かされ初めていた。けれども,なおそれが地主の権利と対等な立派な権利として認められていたことは上記土佐の事例についてもこれを知ることができると思う。ところが,明治も既に三十年を経来り封建の遺制漸く人の記憶より去らむとする頃に至って,現行民法が制定された。そうしてその中では「永小作権の存続期間は二十年以上五十年以下とす」(第278条)と定め,また「民法施行前に設定したる永小作権はその存続期間が50年より長きときといえどもその効力を存す但その期間が民法施行の日より起算して五十年を超ゆるときはその日より起算しこれを五十年に短縮す」「民法施行日に期間を定めずして設定したる永小作権の存続期間は慣習により五十年より短き場合を除くほか民法施行の日より五十年とす」(民法施行法第四七条)と定めたため,さらに本来は分割所有であったところの小作人の権利が単なる他物権になったのみならず,本来「永代小作」することを目的