発言の記録と予定
 
 
日本知識人と中国問題

   
─シカゴ大学・ナジタ特別講演
        
2011年10月4日・シカゴ大学スイフト・ホールにて


1ナジタ教授との出会い
 講演の始めにナジタ教授との出会いについて述べさせて頂きます。ここではいつものようにナジタさんと呼ばせて下さい。私がナジタさんと大阪で初めてお会いしたのは、“The Kaitokudo, Merchant Academy of Osaka”が刊行された1987年に先立つ84年であります。ナジタさんとこの本との出会いは私にとって大きな事件でした。

 大阪大学で最初にお会いしたとき、ナジタさんは18世紀徳川社会における〈知のネットワーク〉について熱心に語りました。そして大阪の〈懐徳堂〉はこの〈知のネットワーク〉の重要な〈繋留地anchorage〉であったともいいました。私には最初、ナジタさんの話すことがほとんど理解出来ませんでした。彼は何をいっているのかと、怪訝な思いで聞いておりました。彼がいう〈知のネットワーク〉といった見方は、“The Kaitokudo”以降のものにはよく理解できることですが、それを知る以前の私などにとって、それはほとんど理解出来ない言語の登場のようでした。思想史をただ時間軸にしたがった思想系譜なり、議論の展開史としてきたものに、彼は知の空間的な展開相を突きつけたのです。私が最初怪訝な思いで聞いていたナジタさんの説は、やがて私の思想史の革新を促すような衝撃となりました。

2思想史の革新
 ナジタさんは直線的な思想史を遮断して、社会の空間的拡がりにおける新たな〈知〉の形成の運動を見出したのです。その〈知〉の運動は、〈人〉と〈物〉の交通と重なりながら展開されます。徳川時代のことに18世紀社会は、〈人〉と〈物〉と〈知〉の全国的な交通が形成された社会であります。そして商都大阪とは18世紀日本における〈人〉と〈物〉の交通の要衝でありました。そのことは大阪が〈知〉の交通の要衝でもあったこと、すなわち大阪の学問所・懐徳堂が当然〈知の繋留地〉でもあったことを意味します。こうしてナジタさんは懐徳堂を再発見したのです。それだけではない日本の近世社会(徳川日本)を再発見したのです。かくて私の江戸思想史の書き直しは加速されることになりました。

 ナジタさんが18世紀徳川社会の再発見の仕事を進めていたその同じ時期に、私は徳川思想史を方法的に革新することを考えておりました。それはまず丸山眞男の『日本政治思想史研究』批判としてなされました。丸山による近代主義的な徂徠解釈の批判を通じて、私は『「事件」としての徂徠学』(青土社、1990)を書き、新たな思想史の方法的立場を明確にしました。89年にシカゴ大学で講義したのは、この書の中心的な諸章についてです。私は18世紀初頭の思想空間に徂徠によって何かが新たに言い出されたという〈事件性〉をもって徂徠の言説をとらえようとしました。そのことは徂徠言説の〈意味〉を、その近代から遡及される言説の〈近代性〉によってではなく、その言説の〈事件性〉によって、すなわち何が新たに言い出され、いかなる波紋を同時代に、さらに後続する時代に及ぼしていったのかという〈事件性〉によってとらえることを意味します。それは〈近代〉から〈徂徠〉を見るのではなく、〈徂徠〉から〈近代〉を見直すことでもあります。この視点の転換は、江戸思想史の書き直し*を可能にしたばかりでなく、〈近代〉への新たな見方をも可能にします。すなわち〈江戸〉から見るという見方です。
   
*私の『江戸思想史講義』(岩波書店、1998)にまとめられている。

 ナジタさんの18世紀的社会における多中心的〈知のネットワーク〉というとらえ方は、一極集中的な近代の〈知の一元化〉的変容を浮かび上がらせることになります。私もまた〈江戸〉を方法的な外部的視点としながら、〈近代〉を批判的に相対化する見方を成立させていきました。そこから〈日本近代〉を批判的に再検討する思想史的作業が生まれてくることになります。それはまず『近代知のアルケオロジー』(岩波書店、1996)であり、この世紀に入ってからの『国家と祭祀』(青土社、2004)、『「近代の超克」とは何か』(青土社、2008)、『和辻倫理学を読む』(青土社、2010)であります。そして今私は21世紀における大国中国の登場というインパクトを受けながら、近代日本における「中国論」を読み直す作業を始めています。

 今回私は「日本知識人と中国問題」という主題で講演する機会を与えられました。私はそれを「近代の日本知識人にとって中国とはいかにあったのか」という問題としてとらえ、この問題をめぐる大きなアウトラインを描く形で述べてみようと思います。

3中国の〈異国〉化
 18世紀日本の国学者本居宣長の著作に『直毘霊』があります。これは宣長の主著である『古事記伝』の序として書かれた文章です。この『直毘霊』には「この篇は道ということの議論である」という副題が付されております。議論というのは、儒家的教説としての〈神道〉を、日本固有の〈神の道〉として取り戻すための議論(論争)を意味します。ここで注意しなければならないのは、宣長たちが日本固有の〈神の道〉をいい出すまで、〈神道〉は儒家的教義で構成された〈儒家神道〉としてあったことです。〈神道〉とは儒教や仏教の教義的助力をえて初めて教説たりえたのです。したがって〈神道〉が〈儒家神道〉であることをだれも疑っていなかったのです。山崎闇斎が朱子学者でありながら同時に垂加神道家であることに誰も疑いをもっていなかったのです。

 これに異議を唱えたのが宣長です。彼は記紀神話によって固有の〈神の道〉の存立をいおうとします。そのためには〈儒家神道〉の、あるいは神道を教義的に基礎付けてきた儒教そのものの解体的批判がなされなければなりません。宣長は「漢意」として儒家教説の〈異国性〉を徹底的に、悪罵ともいいうる言葉をもって暴き出していきます。日本の〈神の道〉を存立させるには、儒教を〈異国〉的思惟として、悪罵をもって追放する言語作業を必要としたのです。これが『直毘霊』における「道ということの議論」です。中国を〈異国〉すなわち自己から異別された他者とすることによって初めて文化的にも〈固有の日本〉が存立することになるのです。

 宣長とは〈固有の日本〉の発見者です。同時に彼は〈異国〉としての〈中国〉の発見者でもあります。日本知識人の言説上に〈中国〉が登場するようになるのは、18世紀の宣長ら国学者においてです。その〈中国〉とは、自己(日本)から異別化された他者であります。この他者としての〈中国〉という意識は、近代以降も、ことに文化、言語上に持ち続けられます。それは何より日本の〈漢字〉観に見出されます*。漢字とは、それなくしては日本語という書記言語も成立しない最重要な言語的契機です。にもかかわらず、〈漢〉の文字という他者性の標を持ち続けているのです。
*私の著書『漢字論─不可避の他者』(岩波書店、2003)を参照されたい。

 ここで大急ぎで付け加えておくべきことがあります。この「道ということの議論」は和文で書かれています。和文とは歌物語や随筆を記す文章であって、議論という理論的な展開なり主張を記述するものではありません。宣長はいま『直毘霊』を和文をもって書きました。その和文とは、わが内なる〈漢〉を異別化し、外に排斥することを通じて、固有の〈日本〉を見出すことをいう文章です。国学的という文章はここに成立します。

4停滞的中国
 日本の為政者・識者の意識に中国が存在するようになるのは、19世紀の東アジアを襲ったウエスタン・インパクトを通じてです。1840年のアヘン戦争と中国の敗北は、幕末期日本に大きな衝撃を与えます。それは二重の衝撃でした。それはまず欧米の軍事力に代表される国力が与えた衝撃です。そしてその軍事力に脆くも敗れた大国清の実状が与えた衝撃です。この衝撃を危機意識をもって受けとめたのが、長州藩の若き改革者たちでした。この時期の東アジアの国際情勢にもっとも鋭敏であった長州藩が、日本の近代化革命の中心的な役割を果たすことになるのです。

 明治維新という日本の近代化革命がひとまず成ったとき、日本の知識人はどのように中国を見出したのでしょうか。福沢諭吉の『文明論之概略』は明治8年(1875)に刊行されます。『文明論之概略』とは近代日本の黎明期に、はっきりとした文明論的な日本の設計を提示した書です。はっきりとした設計とは、近代日本が何に定位してみずからを文明国家として形成すべきなのか、その際、どのような骨格や土台を備えるべきなのかについて明白な指針の提示ということです。私は福沢の没後百年である2001年にこの書の読み直しの作業を始めました。福沢の設計の何が実現し、実現しなかったか。近代日本は福沢の設計を踏み越えて、あるいは設計とは別の何を実現してしまったのか。福沢の設計と近代日本の実現とを相互に問い合わせる作業は、私にとって意義深い作業でした*。
*私の作業は『福沢諭吉『文明論之概略』精読』にまとめられた。岩波現代文庫、2005。

 福沢の文明論あるいは文明化論とは西洋の近代文明に定位した議論です。近代黎明期日本の議論は、「文明を本位とすべき」ことを福沢はいいます。すなわち「文明」を基準として議論を構成すべきだというのです。その「文明」とは理念型としての西洋近代文明です。福沢文明論の栄光は、西洋近代に定位した文明化の設計を、最善の設計として、いち早く日本国民に提示したことにあります。その意味で福沢は近代日本の父として日本の紙幣を飾るのです。

 ところで福沢は、「文明とは相対したる語」であるといいます。それは遅速・軽重のようにつねに反対語(相対する語)を持っているということです。文明とは野蛮に対する語です。文明を進歩の同意語とすれば、文明は停滞あるいは退歩を反対側に持つということです。こうして福沢の文明社会の成立をめぐる文明史的記述は、反文明的な停滞的社会を一方に記述していくことになります。すなわち東洋的停滞をもっていわれる専制的帝国・中国を描きだしていくのです。その記述は、ヘーゲルの歴史哲学が原型的に構成していった反・歴史的世界としての停滞的東洋像をなぞっていかざるをえません。そのことは文明史的な記述がヘーゲルの歴史哲学の影響下にあるというのではありません。むしろヘーゲルの歴史哲学がヨーロッパの文明成立史を原型的に代表しているのです。ともあれ福沢文明論は、進歩と変化とを塞ぐ一元的な専制的支配の帝国という中国像をはじめて日本人の眼前に提示するのです。

「秦皇一度びこの多事争論の源を塞ぎ、その後は天下復た合して永く独裁の一政治に帰し、政府の家はしばしば交代すといえども、人間交際の趣は改まることなく、至尊の位と至強の力とを一に合して世間を支配し、その仕組みに最も便利なるがために、独り孔孟の教のみを世に伝えたることなり。」(『文明論之概略』第2章)

 これを読むと、福沢の専制的中国論とは天皇制国家論への暗喩ではないかと思われてきます。神聖天皇を頂く明治国家は基本的に専制的帝国中国と変わりはないのではないか。まして中国に王朝の交代はあるが、日本では一系の天皇が存在し続けています。福沢文明論が抗争相手として水戸学的国体論や復古的天皇親政論をもっていたことを思えば、専制的中国論が天皇制国家論への暗喩でありえたことを否定することはできません。しかしその議論は福沢論の問題です。ここでは近代黎明期の日本人はいち早く、福沢によって停滞的、専制的帝国中国の像を与えられたことを見ておきたいと思います。

 ところで専制的帝国としての中国の停滞性をいう福沢文明論とは、背後にギゾーやバックルの『ヨーロッパ文明史』をもった〈翻訳的言語〉からなるものです。そのことを私は否定的にいうのではありません。むしろ〈翻訳的言語〉として福沢は、西洋近代文明に定位した近代日本の文化的書記言語を創出したことをいいたいのです。かつて宣長の国学的和文は〈漢〉を〈日本〉から異別化し、排除しました。いま福沢の西洋に定位した翻訳的言語は、停滞する〈支那〉を記述し、文明的進歩のネガ像を構成していくのです。この福沢の翻訳的言語こそが、近代日本の正統的な言語です。それは近代日本の知識人の言語であります。

5〈東亜〉的世界
 近代国家への離陸に成功した日本は、東アジアにおける文明的中心の位置を自分の側に移行させます。私は世紀の転換の時期に、〈東亜(東アジア)〉という地域的呼称について考えました。そして〈東亜〉の成立と文明的中心の移動とは深く関係していると考えるにいたりました。

 中国を中心にして、かつて満蒙といわれた中国東北部、朝鮮半島、日本列島、さらに琉球から台湾を結ぶ島嶼、そして越南といわれたヴェトナムにいたる地域を〈東亜(東アジア)〉といい、この地域における文化によって〈東亜文化圏〉がいわれたりします。だが〈東亜〉とか〈東亜文化圏〉といったいい方はもともとあったのでしょうか。『言海』(明治24年・1891刊)を見ても、「東洋」はあっても「東亜」はありません。これは比較的に新しいいい方です。さきにこの地域を説明して「中国を中心として」といったように、〈東亜〉とはもともと中国を中心とした政治的、文化的世界でありました。政治的には、中華帝国に冊封関係をもって包摂される世界であり、文化的には、中国文化圏あるいは漢字文化圏と呼びうる世界です。ですから中国からは〈東亜〉という呼称は生じないし、ましてや〈東亜文化圏〉をいったりすることはありません。したがって〈東亜〉あるいは〈東亜文化圏〉とは、中国の周辺から、中華的世界を再構成するいい方なのです。すなわちこの地域の文明的中心の中国から自己への移動を自覚する近代日本からいい出されるものなのです。だから〈東亜〉的世界は日本帝国と同時に成立するといえます*。

*〈東亜〉という地域概念の成立をめぐっては、「昭和日本と「東亜」の概念」(『「アジア」はどう語られてきたか』所収、藤原書店、2003)を参照されたい。

 この〈東亜〉の地域概念が、理念性を帯びて喧伝されるにいたるのは、昭和の日中戦争の時期にいたってです。

6日中戦争と〈東亜〉の理念
 日中戦争とは日本が中国大陸に全面的に軍事介入した戦争でした。昭和16年(1941)、太平洋戦争が始められようとするその年に、中国本土に投入されていた日本陸軍の総数は約138万人であったといいます。それは陸軍の総動員数の65%にあたるものです(纐纈厚『日本は支那をみくびりたり─日中戦争とは何だったのか』同時代社、2009)。にもかかわらず日本はこの中国大陸への大規模な軍事介入を戦争といはず、〈支那事変〉と言い通しました。

 中国を日本がはっきりと帝国主義的な野心の対象とするようになるのは、日露戦争(1904−5)後です。朝鮮を併合(1910)した日本は、満洲への進出の足場を築きます。経済恐慌とともに始まった昭和日本は、内外の閉塞状況を打開するようにして満洲事変(1931)に突き進みます。この事変を計画し、遂行したのは関東軍の青年将校たちでした。すでに昭和日本は何度かのクーデターを経て、軍部ファッシズムの様相を強めていきました。こうして1937年7月7日の蘆溝橋における発砲事件は、不拡大の政府の意図にもかかわらず、中国本土における全面的な戦争として展開されていきました。この日本側が〈支那事変〉と呼ぶ戦争は、いかなる意味でも正当性をもたない戦争でした。100万をこえる兵士たちが、理由も、目的も、そして終着点も分からない中国大陸の戦場に駆り出されていきました。

 この〈戦争〉と呼ばない戦争の目的を、近衛首相は、「帝国の冀求するところは、東亜永遠の平和を確保すべき新秩序の建設にある」(近衛・東亜新秩序声明、1938年11月)という言葉をもって提示しました。近衛がいう「東亜新秩序の建設」という戦争目的とは、既に始められた帝国主義的戦争に後付け的に与えた正当化の理由です。この正当化の理由は、政権担当者近衛文麿を支える政策集団昭和研究会に集う知識人たちによって構成されたものです。その知識人とは政治学者の蝋山政道、哲学者の三木清たちです。彼らをサポートするものの中にはマルクス主義者尾崎秀実がおり、現代中国を最も知るジャーナリスト橘樸などもおりました。

 戦争が遂行されている当該地域における新秩序の形成とは、戦争目的として常に唱えられることかもしれません。いま昭和10年代日本のもっとも良質の知識人によって、中国大陸における戦争目的の理論的な形成がなされていきました。彼らは〈東亜〉の新秩序からなる構成体を〈東亜協同体〉として説いていきました。政治学者はこれを第一次大戦後における世界的政治秩序の再編成の中に位置づけ、哲学者はヨーロッパ中心的世界の転換として世界史的にこれを意味づけました。しかし日中戦争期の日本の論壇を風靡したこの〈東亜協同体〉論には本質的なアポリアがあります。それは中国の民族主義という問題です。中国における日本の戦争の展開が、中国における民族意識を幅広く呼び覚ますことになります。

 私は数年前、国会図書館で雑誌のバックナンバーによって〈東亜協同体〉をめぐる論説を求めていた際、意外な事実を発見しました。日本知識人の〈支那事変〉の意義をめぐる論説を掲げ、〈東亜協同体〉論を展開するその雑誌が、胡適の「抗日戦の意義」(『文藝春秋』1938年1月号)や毛沢東の「持久戦を論ず」(『改造』1938年10月号)*を載せているのです。胡適はそこで抗日戦を通じて中国は民族的統一を成し遂げたことをいい、毛沢東は抗日戦の正義が全国的団結を呼び起こし、それが勝利を確実にしていることを説いています。昭和13年(1938)とは、日中戦争が始まり、南京攻略(37年12月)の報に国民が歓呼したその翌年です。日本の雑誌は、その戦争を通じて抗戦主体としての中国民族が歴然として存在するにいたっていることを教えたのです。編集者の見識は、この時期まで辛うじてまだ紙上に示しえたのでしょうか。しかし彼らの見識と努力とによってわずかに紙上にもたらしえた日中戦争の事実、すなわち抗戦主体としての中国民族の歴然たる存在という事実は、ごく少数の識者を除いて、日本の知識人一般の注意を喚起することはなかったといえます。〈東亜協同体〉論者は民族相互の融和的協同を説き、近代的民族主義の超克を説いたりしました。それは彼らの〈東亜協同体〉論が中国における戦争の事実からはるかに遊離した、ただ自己正当化の論説にすぎないものであったことを示すものです。
*毛沢東の「持久戦論」を載せる『改造』のこの号は発行禁止され、店頭に出ることはなかったという。国会図書館でこれを載せる『改造』を見ることができる。

 抗日戦を通じて形成される中国の民族主義に注意を払ったのは、コミュニストであった尾崎秀実やアジア主義者の橘樸らごく少数の知識人です。そして中国共産党の指導する反帝・反封建闘争を通じて強固な人民的民族主義戦線が成立していることを認識していたのもこの少数の人びとでした。

7日中戦争は終わったか
 中国とは昭和日本の問題でした。昭和日本の国家的運命を究極的に規定するようにして中国問題があったように思います。昭和10年代には中国問題は日中戦争という最悪の軍事的な展開をみせるにいたりました。それは理由のない、見通しのない戦争でした。中国における日本の戦争は文字通り泥沼にはまりこんでいきました。中国大陸で軍事的に行き詰まったその事態のなかで、日本は1941年12月8日に米英に対する戦争を開始しました。この対米英の開戦は、中国大陸における日本のあいまいな、理由のない戦争を正当化したのです。この開戦をもって中国との戦争を正当化したのは政府や軍部だけではない、国民もまたそうでした。対米英の開戦が人びとの重苦しい気分を晴れ晴れとさせたのです。中国戦線の兵士も銃後の国民も1941年12月のその日に〈本当の戦争〉が始まったと思ったのです。中国との〈戦争〉は〈事変〉と偽称され続けました。日中戦争とは、国民の意識においても隠され続けた〈戦争〉であったのです。

 そして1945年の終戦も、日本人にとって太平洋戦争の敗戦でした。日本はアメリカに敗れたのだとだれもが思いました。事実、アメリカは広島・長崎に原爆を投下し、ほとんどの都市を焼き尽くし、日本を占領し、その戦後処理にも当たったのです。それゆえ〈戦争〉の決着は国家においても、国民の意識においても、もっぱらアメリカとの間でつけられていきました。日本の敗戦とは、中国大陸における泥沼の戦争の敗北でもあることを政府も国民も見ようとはしなかったのです。〈戦争〉と呼ばれることのなかった中国大陸における戦争は、太平洋戦争の敗戦によって決着がつけられたのです。だがそれは日米間の決着であって、日中間の決着であったのではありません。日本の敗戦とともに激化した中国における内戦と、人民中国成立後の朝鮮戦争とが日中間の決着を先延ばしにしていきました。日中関係は決着の先延ばし状態の中に長くあったのです。だから1972年の日中国交回復も、本質的な決着をつけないままに、あるいはつけようとはしないままに両国間の関係の回復だけが急がれたのです。こうして日中の経済的な相互関係だけが、深く、そして広く進んでいきました。

 日中間の本質的な決着とは過去の歴史認識にかかわりながら、将来におけるアジアの平和をいかに確立するかという問題についての合意であるはずです。われわれはどのような中国と、どのようにしてアジアの平和を確保していくのか。これが平成日本の国家的運命にかかわる本質的な問題であるはずです。だが日本は、そして中国もこの本質的な問題から目をそらしたまま経済的な相互関係だけを深めています。そしていま世界屈指の経済大国となった中国を眼前にして、われわれは途方に暮れているといっていいと思います。この大国中国とはアジアの平和をともに実現していく隣人でありうるのか。われわれはいま隣人中国の政治的現状に大きな危惧をもっています。だがそれが東アジアのわれわれの将来をも危うくするものであることを率直にのべうる関係を、中国との間にわれわれは作ってきていません。それは中国との本質的な決着をわれわれがつけずにきたことのツケであるかもしれません。中国との本質的な隣人関係を日本は作ってきていないのです。経済的関係を深めても、本質的にヨソヨソしいのです。なぜなのか?その問いからこそ中国問題をめぐる考察は始められなければなりません。私の歴史的な考察もこの問いをもって始められたのです。

 近代日本の西洋先進文明国に定位した国家的建設は、中国を停滞するアジアの中に置き去ることでもありました。日清・日露戦争を経て、アジアにおける一帝国を形成していった日本は、中国を帝国主義的な野心の対象にしていきました。日中戦争とは帝国日本と中国との近代の関係史における最悪の帰結です。この日中戦争にいたる日本近代史の過程に、日中関係の将来に結びつくような、希望と呼びうるような何かを見出すことはできないのでしょうか。この過程はすべてわれわれにとって〈負の遺産〉としてあるのでしょうか。たしかに〈負〉を〈負〉として認識することは重要なことです。しかし私はその過程に、なおわずかにわれわれの希望をつなぎとめうる人びとの足跡を見出すことができると思います。それは辛亥革命に始まる中国近代化過程における困難と苦痛とを共にしようとした日本人の足跡です。〈共にする〉とは、中国の変革の苦難を共にすることであるとともに、その変革を日本の変革として共にするということです。私はこの中国と日本の変革を共にする人びとを、勝れた意味で〈アジア主義者〉と呼びたいと思います。それは北一輝であり、橘樸であり、尾崎秀実という人びとであります。

8戦後日本と中国
 戦後日本には多くの親中国派というべき知識人がいるのではないか、彼らの存在こそ日本と中国との本質的な関係を築くためのものではなかったのか、という詰問ともいえる声が私にも聞こえます。中国研究者竹内好に代表される親中国派知識人は、冷戦下日本の日米関係を基軸にした戦後日本の国家計略へのオールタナティヴをなす道を提示し続けました。それは人民中国の承認とアジアの諸民族との連帯からなるアジア民族主義というべき道です。ことに竹内による毛沢東の新民主主義的革命とその成果として成立した人民中国との全的承認からなる中国観は、戦後日本の中国研究者をはじめとする革新派知識人に広く共有され、彼らの世界認識・歴史認識の上に大きな影響力をもちました。

 この毛沢東と人民中国への強いシンパシーをもった中国観は、戦後日本における〈人民中国の特権化〉を導いたと思います。人民中国は彼らの世界認識・歴史認識における基軸として特権化されていったのです。この〈人民中国の特権化〉は、日本と中国との本質的な関係を築く上で果たして積極的な意味をもったのでしょうか。私はその点についてきわめて懐疑的です。戦後の冷戦構造が日本の革新派知識人にもたらした〈人民中国の特権化〉、そして今なおもち続けられているそれは、21世紀の現在、一党的支配からなる国家官僚主導の資本主義的大国中国の惰性的な承認をただ導くことでしかないと思います。それは日本と中国とが本質的な関係をもつことをむしろ妨げ、本質的な関係を要求している虚偽と抑圧の事態を見えなくさせているのです。それは私が20世紀の日中の関係史に継承すべきものとして見出す〈アジア主義〉では決してありません。私がいう〈アジア主義〉とは、日本と中国とが自己革新を共にすることによって見出していく真の連帯です。この連帯にこそ日本と中国との本質的関係はあるといえるでしょう。


 発言

     
 
この出版は正しいか

     
─岩波書店『劉暁波文集』刊行の大きな疑


岩波書店が『最後の審判を生き延びて』というタイトルを付して2月25日付けで刊行した『劉暁波文集』について大きな疑問がある。疑問は岩波書店によるこの書の刊行のあり方にかかわるものである。岩波書店によるこの書の刊行は、岩波書店の歴史だけではない、日本の出版史上に汚点を残す大きな不正である。それは道徳的にも、思想的にも許されるものではない。くりかえしていうが、正しくないのは岩波書店によるこの書の刊行のあり方であって、『劉暁波文集』の内容にかかわることではない。


本書は、廖天h・劉霞編『劉暁波文集』の版権を有するドイツのS・フィッシャー社から岩波書店が日本における独占的出版権を得て、刊行されたものである。昨年の10月8日に劉暁波はノーベル平和賞を受賞したが、それからしばらくして私は岩波書店が『劉暁波文集』の日本における排他的な独占的出版権を得たという報を聞いて驚いた。劉暁波問題は昨年10月のノーベル平和賞の授賞に始まったのではない。それは2008年12月9日の「08憲章」の公表とその前日における劉暁波の拘留に始まったのである。岩波書店と雑誌『世界』はこの劉暁波問題に積極的な関心を示したことはまったくない。むしろ一貫して無視してきたのである。彼のノーベル平和賞受賞についても、『世界』はただの一行も論じることをしなかった。私が目次によって見るかぎり、『世界』は昨年一年を通じて「08憲章」についても、劉暁波の問題も、要するに中国の民主化をめぐる問題を論じたことはない。その岩波書店が、劉暁波のノーベル賞受賞後、『劉暁波文集』の日本における排他的な出版権を得たという報を聞いて私は唖然とした。「良識」を看板にしてきた岩波書店の商業主義的な退廃はここまできたかと思った。だが今年の2月、刊行された『劉暁波文集』を手にして私は、これは商業主義といった問題ではないことを知った。ことははるかに重大であり、この出版行為自体の正当性にかかわる問題である。


本書には丸川哲史・鈴木将久による劉暁波と彼へのノーベル賞授賞を批判する内容の「訳者解説」が付されている。本書が収める劉暁波の文章の翻訳者は丸川・鈴木の両人と及川淳子の3人である。しかし本書の「訳者解説」が丸川・鈴木の両人の名で書かれているように、岩波書店刊『劉暁波文集』のこの「訳者解説」を付した刊行に責任を負っているのは書店の編集担当者と丸川・鈴木の両人である。この「解説」は「08憲章」からノーベル賞授賞にいたる出来事の連関について「幾つかの問いを立てておく必要」があるというように書き出されている。「問いを立てる」というのは、端的にいえば「疑問がある」ということである。「08憲章」における中国の民主的改革構想に、そしてその中心的起草者である劉暁波に対するノーベル賞の授賞に疑問があるというのである。

この書を手にしてまず「解説」を読み始めた読者は、「これは何だ」と思わず眼を疑っただろう。劉暁波のノーベル賞受賞に因んで出版された書に、その授賞そのものを疑う「解説」が付されていることをどう考えたらよいのか。これは常識的には考えられない出版行為である。これは普通ではない、特別な意図をもってした出版としてしか考えようがない。「解説」は「08憲章」とノーベル賞授賞についての二つの疑問をいう。この二つの疑問は後者についての問いに集約されるものである。その後者の問いをここに引いておこう。この問いに、この「解説」の本意も、この書の刊行意図もすべて露呈している。

「さて第二の問いの検討に入ろう。劉氏がノーベル平和賞を受賞した経緯、さらにノーベル平和賞そのものをどう考えるかである。問題を突き詰めていけば、こうなるだろう。人権や表現の自由という理念それ自体に関しては、実のところ誰も反対していないのであれば、劉氏への授賞の理由「長年にわたり、非暴力の手法を使い、中国において人権問題で闘い続けてきた」こととは別のところで、授賞は劉氏と「〇八憲章」の思想にある国家形態の転換に深く関連してしまう、ということである。平和賞授賞は、中国政府からすれば、やはり中国の国家形態の転換を支持する「内政干渉」と解釈されることとなりそうだ。その意味からも、ノーベル平和賞が持っている機能に対する問いを立てざるを得なくなる。」

これは実に曖昧で、不正確で、不誠実な文章である。劉暁波問題という現実とあまりに不釣り合いな、いい加減な文章である。これを読んで、何かが分かるか。分かるのはこの「解説」の筆者が中国政府の立場を代弁していることだけであろう。劉暁波は中国の国家体制の転覆を煽動する犯罪者であり、その国内犯罪者に授賞することは内政干渉であるとは、中国政府が主張するところである。丸川・鈴木はこの中国政府の主張と同じことを、自分の曖昧な言葉でのべているだけである。この曖昧さとは、これが代弁でしかないことを隠蔽する言語がもつ確信の無さである。私はこれほど醜悪で、汚い文章を読んだことはない。

08憲章」に異論をもつものは当然いるだろう。また劉暁波の思想なり、行動に批判をもつものもいるだろう。さらにノーベル平和賞の授賞のあり方に批判的であるものもまたいるだろう。だがそれぞれの批判者が己れの責任においてその批判的見解をのべることと、その批判的見解を「解説」とした『劉暁波文集』を、権威ある出版社から刊行することとは全く違う。後者にあってそれはきわめて悪質な、政治的な意図をもった読者誘導の言説となる。

岩波書店は、劉暁波のノーベル賞受賞後、その『文集』の日本における独占的出版権を得て刊行した。だがそれには劉暁波と「08憲章」と、そしてノーベル平和賞の授賞のあり方を疑う「解説」が付されていた。この出版をどう考えるのか。これは誰が考えても許される出版行為ではない。これはまず第一に『劉暁波文集』を獄中の劉暁波に代わって編んだ妻劉霞と友人廖天hの意に反するものである第二にこれは、ノーベル賞の授賞を中国民主化への大きな支援とし、民主化のいっそうの推進を考えようとする中国だけではない、世界の人びとに冷水を浴びせるものである。

岩波書店のこの出版は正しくない。岩波書店はこの非を認め、謝罪と訂正改版の処置を直ちに行うべきである。もしこれに頬被りして答えることがなければ、岩波書店自身が己れの道徳的退廃を認めたことである。                     
                (2011年3月31日・子安宣邦記)


 


 ■昭和イデオロギー研究会報告(2010.9.11)

「怒りを忘れた国家神道論―島薗進『国家神道と日本人』批判

 
1 村上重良の怒り

 村上重良は『国家神道』(岩波新書、1970)を激しい怒りをもって書いた。その怒りとは、日本(台湾・朝鮮をも含んだ)国民の肉体とともに精神を支配し、抑圧した〈戦争する日本国家〉の原理であり、装置であるものに対してである。彼は国家神道こそが、1945年に至るまで国民を支配し、抑圧した国家的原理であり、装置であるとみなした。戦争の終結から四半世紀を経過した1970年に村上は、国家神道の復活の動きに接し、怒りを新たにする形で『国家神道』を書いたのである。私もまた度重なる小泉元首相の確信犯的な靖国参拝に対する怒りを『国家と祭祀―国家神道の現在』(青土社、2004)として表明した。私は村上の国家神道概念をそのまま継承することはなくとも、彼の怒りは正しく継承した。

 国家神道批判は日本国民のこの怒りに基づくものである。怒りから構成されるゆえに、その国家神道批判は恣意的であり、主観的だとみなされてはならない。この怒りとは、昭和における国民の歴史的体験とその記憶からくるものであり、私の個人的感情に由来するものではない。昭和の戦争が記憶から消し去られ、その歴史が書き換えられないかぎり、この怒りもまた人びとに共に追体験されるし、その再表明もされるはずである。だが戦争の記憶はそれをもつ世代の退場とともに確実に薄弱となり、あの怒りもまたいつしか時代遅れの、場違いな表明とみなされるようになっている。こうして島薗進の『国家神道と日本人』(岩波新書、2010)は出るべくして出、書かるべくして書かれたのである。村上のあの怒りをどこかに置き忘れて。

 そこでは国家神道は歴史的な、日本人だけではない台湾の、朝鮮の人びとの怒りとは無縁に、無関係に構成される。もちろんここにあるのは国家神道批判ではない。国家神道概念は歴史的なあの怒りとは無縁な、宗教史、宗教学的な要求のなかで再構成される。国家神道は日本型宗教社会として構造化された宗教社会学的概念となるのだ。だから国家神道は敗戦によって解体されることもなく、「一九四五年以後も国家神道は存続している」とされるのである。島薗は村上の『国家神道』の先駆的意義を評価している。新たな国家神道論を書く上で島薗は多くのものを村上に負っている。だが島薗のやったことは、村上の怒りとは無縁な、国家神道の構造化論的な書き直し、作り直しである。島薗は村上の怒りなどを継承することはない。むしろ村上の怒りなどはすでに時代遅れとみなしている。この怒りの継承も、それとの心情的な連帯をも拒絶した国家神道論が、「国家神道は現在も生きている」ことをいう島薗の『国家神道と日本人』である。これは国家神道の見直し論である。東大宗教学教授の書く国家神道見直し論は、確信派神道学者たちの見直し論よりもいっそう始末の悪い、性悪な見直し論である。


2 無視の意味

 『国家神道と日本人』には私の『国家と祭祀』についての一言半句の言及もなければ、参考文献リストに挙げることもない。私の国家神道批判は完全に無視されている。だが島薗は私の著書の書評者でもあった(共同通信配信・2004.8.15.)。そして『国家神道と日本人』の献呈先リストに私を加えていることからすれば、彼は私を国家神道をめぐる現在の発言者の一人として認知していることはたしかである。にもかかわらず彼は私の『国家と祭祀』をまったくネグったのである。なぜなのか。私はその理由を知るために読み始めたのである。私の著書とのこうした関わりがなければ、「国家神道は現在も生きている?!」という疑問符と感嘆符とを付けたこの奇怪なコピーを帯に掲げた岩波新書(岩波新書も堕ちたものだ!)など傍らに抛り棄てて見ることもなかったであろう。

 丸ごと人の論著の視点や構成によりながら、それを隠蔽する形でその論著を挙げないことは二番煎じの本にはよくあることだ。それは二番煎じであることを自己証明していることであって、怒ることもない。あるいは問題構成を触発されながら、その問題を触発した当のものを全く伏せてしまうということもよくあることである。また彼の問題展開とは対極的に己れの論が展開されるとき、彼の論は批判対象として見られるというよりは、むしろ無視される。最後に、参照の価値無しとして無視されることも当然ありうる。では、島園が私の『国家と祭祀』を無視したのは、上記のいずれの理由によるのだろうか。著者によって私の『国家と祭祀』の存在が認知されていながら、なお全的にこれを無視したことの理由としては上記のすべてが考えられるが、強いて考えれば第三の理由によるのだろう。これも好意的に見てである。取るに足らない論文まで一々注記して筆者名を挙げる細心さを見せる著者が、私の『国家と祭祀』をはじめ、国家神道批判の書を全く無視したことは、意図をもってしたことだと考えざるをえない。

 あるいは島薗は村上の『国家神道』に国家神道批判の立場のすべてを代表させた積もりでいるのかもしれない。だがそれさえ不確かなのだ。島薗の国家神道論は、村上の国家神道論を批判しながらも、なおそれに依拠して、その読み替えをはかるものだからである。要するに島薗の国家神道論は、無視という形で国家神道への怒りを隠し、斥けてしまった平成の宗教学者による国家神道論である。


3 村上国家神道論の特色

 村上は『国家神道』の「まえがき」を国家神道を包括的に定義する次のような言葉でもって書き出している。「国家神道は、二十数年以前まで、われわれ日本国民を支配していた国家宗教であり、宗教的政治的制度であった。明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる約八〇年間、国家神道は、日本の宗教はもとより、国民の生活意識のすみずみにいたるまで、広く深い影響を及ぼした。日本の近代は、こと思想、宗教にかんするかぎり、国家神道によって基本的に方向づけられてきたといっても過言ではない。」

 昭和のファッシズム期にいたってその姿を暴力的に顕在化させる近代日本の精神的・政治的・制度的な国民支配のシステムを村上は国家神道とするのである。なぜそれが国家神道と呼ぶ国家宗教であるかは別に説明されるだろう。近代日本にたしかに存在した国民を包括的に支配する精神的・政治的なシステムを、国家神道ととらえることにおいて私は全く村上と同じくする。ただ私が国家神道を、近代日本における天皇制的な国民国家の形成と分かち難い国家祭祀的な宗教システムとして、近代国家における創出に力点を置いて見るのに対して、村上は国家神道を神社神道という民族宗教を基盤にし、それを前提にした近代天皇制国家における国家宗教的な再編として見るのである。村上国家神道論の特色は、民族宗教としての神社神道を国家神道成立の重い基盤として見ているところにある。「一九世紀後半に、近代天皇制国家は、神社神道の特異な性格を素材として、新しい国教、国家神道をつくりだし、日本の歴史上では異例の、単一の支配的な教権をうち立てた」という村上は、神社神道による日本的「国教」の特異な形成をこう記述している。

「神社神道という、あまりにも特異な民族宗教の存在こそ、国家神道の形成を可能にした最大の要因であった。宗教の単一化が実現しなかった日本社会では、民族宗教の骨格が生きつづけ、農耕儀礼を主宰して国土にイネの豊饒をもたらす宗教的機能は、歴代の天皇の宗教的権威としてうけ伝えられてきた。近代天皇制国家は、もっぱら宗教的機能によって存続してきた天皇制と神社神道を基礎に、民族宗教の再構築という時代錯誤の構想を実行に移した。」

 村上がいう神社神道は、日本特異な民族宗教を意味している。それは古代朝廷による神祇制度的な統一からなる古代祭祀国家の軸をなす皇室神道と、原始神道以来の地方的社会集団の共同体的祭祀としてあった神社神道とを包括するものである。上に引く村上の記述は、天皇が農耕社会的日本の代表的な祭祀者としての宗教的な権威をもってきたことをいっている。そこから村上は、皇室神道を軸に神社神道を基盤にして日本特異な民族宗教としての神社神道があることをいうのである。そしてこの神社神道の近代の天皇制国家における再構成を国家神道だとするのである。

 村上の国家神道論は、天皇制国家によるその近代的形成をいうとともに、民族宗教としての神社神道との連続性をもったものであることを強調する。それゆえ村上の戦前の日本国民をトータルに支配した国家神道に対する怒りは、世界に稀な国家神道という「国教」形成の最大の要因としての神社神道に向けられることになる。村上の怒りは、民族宗教的な原因にまで遡る形で根底的であり、全歴史的でもある。さらに村上の批判は、「民族宗教の原理は、個人的内面的な契機をまったく欠いた、どこまでも原始的な宗教観念によって組み立てられており、近代社会はもとより、成熟した封建社会においても、とうてい通用するべくもない素朴な思考であった」という近代的宗教観に立つものであった。それゆえ村上の怒りは、国家神道の反近代的な性格にも向けられるのである。たしかに村上の国家神道論は、戦後の近代主義的宗教観に立った非宗教的な国家宗教(国家神道)の反近代的な制度的・思想的装置への批判という性格をもつものであった。これは講座派的な天皇制国家批判を村上が共有するところからくるのであろう。私は近代天皇制国家日本の国家神道という思想的・制度的装置に対して怒りをもっても、それを反近代的として怒るわけではない。

4 島薗の村上批判
 島薗は近代になって国家を焦点として明確な形をとってくる神道、あるいは国家と結びついた神道を国家神道と呼ぶ。そしてこの神道の推進者の立場から表現すればこうなるとして、国家神道の定義を提示するのである。
「国家神道は皇室祭祀と伊勢神宮を頂点とする神社および神祇祭祀に高い価値を置き、神的な系譜を引き継ぐ天皇を神聖な存在として尊び、天皇中心の国体の維持、繁栄を願う思想と信仰実践のシステムである。」
 島園が末尾の章で、「(天皇崇敬と国体論的な)さまざまな政治・宗教・文化団体があり、さらに広く国民の間にゆきわたっている天皇崇敬や国体論的な考え方・心情がある。これらに支えられつつ、国家神道は戦後も存続し続けて今日に至っている」という国家神道とは、まさしく島園が上の定義でいう、「天皇中心の国体の維持、繁栄を願う思想と信仰実践のシステム」としての国家神道である。彼はその書の冒頭ですでに、「天皇と国家を尊び国民として結束することと、日本の神々の崇敬が結びついて信仰生活の主軸となった神道の形態」として国家神道を定義しているのであるが、これを信奉者の側から言い直したものが上の定義であろう。ともあれ島園がいう国家神道とは、天皇崇敬という国民の信仰的心情をも包括した概念である。しかしこの定義は一体何を意味するのであろうか。何のために島薗はいま、国家神道を日本近代の天皇崇敬的体系として定義し直そうとするのだろうか。国民における天皇崇敬の根深さをあらためて確認するためなのか。しかしそれをいうために、わざわざ国家神道の再定義をする必要があるのだろうか。そう考えると、国家神道をいま近代日本の天皇崇敬的体系として再定義することこそが島薗にとって重要なのであろう。

 島園の再定義は、村上の国家神道定義の批判を通じてなされている。まず島薗は村上の国家神道像が「戦時中の国家神道の像にひきずられているところがある」と批判する。しかし戦時中に猛威をふるったことこそ、国家神道批判の最大の理由をなしている私などの議論からすれば、「戦時中の国家神道の像にひきずられ」るのは当たり前のことであって、それに引きずられない国家神道論とは見直し論以外の何なのかと逆に問いたくなる。たとえば「教育勅語が国民にたいしてふるった絶大な強制力は、天皇の現人神としての宗教的権威に淵源していた」(村上『国家神道』V章)といった村上の言葉に、島園は戦時ファッシズム期の天皇観を遡及させた不正確な言及を見ようとするのだろう。そうだとすれば、島薗の村上批判とは、「現人神」幻想をいう新田均らの神道派の見直し論に迎合したものだということになる。

 島薗による村上国家神道論への最大の批判は、村上における神社神道概念に向けられている。「村上重良の国家神道論には、もう一つ大きな欠点がある。それは、国家神道をまずは神社・神職の組織として捉えることだ」と島薗はいう[1]。ここで島園がいう「神社・神職の組織」体としての神社神道とは、狭義の、近代の法制史的な概念としての「神社神道」である。村上が国家神道形成の最大の要因としていうのは民族宗教としての神社神道である。「神社神道は、神道の主体であり、国家神道の形成は、民族宗教としての神社神道の存在によって、はじめて可能となった」(村上『国家神道』T「神道のなりたち」)と村上がいう通りである。これは広義の神社神道概念である。島園は狭義の「神社神道」概念によって、広義の神社神道概念による村上国家神道論の誤りをいっているのである。これは狭義の概念規定の正確さによって、広義の概念による議論展開の不正確を批判する典型的な論難的言説のスタイルである。島薗のいう狭義の「神社神道」とは、「(近代の)国家神道の形成の過程で、次第に実質をもつようになったものである。それは神道の一つの形態であって、近代の国家や法の制度に強く規定されて形作られたものだ」とはっきりというように近代の法制史的な概念としてのものであり、近代の宗教制度的に再構成されたものである。この近代的な「神社神道」概念をもって、村上の民族宗教的な神社神道概念を間違いだというのはおかしい。狭義の概念が正しくて、広義の概念は間違いだとする子供だましの議論は、本当の言説的な意図を隠したものである。


 島薗の意図は国家神道論からの神社神道隠し、靖国隠しにある。日本の民族宗教としての神社神道を基体とした村上の国家神道論を誤りだとする島薗は、国家神道形成における神社神道の意味を限定し、形成の主体的役割から免れさせる。「皇室祭祀や天皇崇敬の側面を軽視し、神社神道に偏った国家神道の理解をあらためなくてはならない」として島薗はこういうのである。

「神社が神社神道として組織化されていくのは、国家神道の形成・確立のきわめて重要な局面をなしている。しかし、国家神道すなわち天皇崇敬や皇道・国体の理念を中核とした神道は、皇室祭祀や皇室神道の形成とその国民生活との関連づけ、あるいは天皇崇敬や国体理念の形成と普及という観点からも見ていく必要がある。神祇(日本の土地と結びついた神々)に関わる従来の諸信仰文化が組み立て直される過程で、明治維新以降に形成されていく神社神道は、この意味での国家神道のきわめて重要な構成要素である。しかし、神社神道だけが国家神道を代表するわけではない。」(第四章、傍点は子安)

 神社神道をその形成主体の位置からはずすことによって、国家・国民的な天皇崇敬システムとしての国家神道概念がもたらされる。しかもこの天皇崇敬という信仰と行為のシステムとしての国家神道が、国民的なシステムとして形成されたことが重要なのだと島薗はいう。「現実社会のなかで生きた多様な人びとの意識や行動のなかに国家と宗教とのかかわりを問う」[2]ことの重要性をいう安丸良夫の指摘を受けて島薗は、国民の意識と生活における国家神道(天皇崇敬と国体の理念)を追跡する。安丸民衆史が下からの天皇制を記述するように、島薗国家神道論は下からの国家神道を記述する。昭和の戦争の日々、神社に詣でて天皇陛下万歳を三唱したわれわれ小国民に、「ほらその通りお前たちこそが国家神道の担い手であったのだよ」と島薗は教えているようだ。「国民自身が国家神道の担い手になる」と島薗はいう。靖国を支え続けているのは神社神道ではなく、国民よ、お前自身だよというのである。だから国家神道はいまも存続し、靖国はいまも国民の信仰の中に存続すると島薗はいうのだ。糞食らえ、島薗![3]

 私の母は1994年に93歳で亡くなった。死ぬまでこうして生活できるのは「お兄ちゃんのおかげだ」と言い続けていた。私の兄は1942年に中国の杭州で戦病死した。その遺族年金のおかげだというのである。しかしその母は決して靖国に参拝することはなかった。兄の戦病死が知らされた日の翌朝、小学生の私は泣き崩れて顔つきまで変えてしまった両親を見て驚いた。国家神道がこの日本人の悲しみと怒りと無縁に記述されることを私は許さない。


注[1]「村上重良の国家神道論には、もう一つ大きな欠点がある。それは、国家神道をまず神社・神職の組織として捉えることだ。「神社神道」という語は、明治中期に神道のうちの「教派」と「神社」が分けられ、前者の「教派神道」に対して、後者をまとめてよぶために用いられるようになったもので、個別の神社と神職を単位的に実在とし、その集合体を指す用語法で近代法制度にはなじみやすい。しかし、近代以前にはそのような組織体は実在しなかった。」島薗進『国家神道と日本人』第2章。

[2]安丸良夫「近代転換期における国家と宗教」『宗教と国家・日本近代思想体系5』安丸・宮地校注、岩波書店。
[3]私はこの感情的な表記を何度か消そうとした。しかし消すことはできなかった。私はこの書を許すことはできない。

[本稿は2010年9月11日、昭和イデオロギー研究会で報告したものである。]


 記録


 
  講演 「『戦没学生の手記』と日中戦争」

      □主催: 日本戦没学生記念会
      □会場: わだつみのこえ記念館(文京区本郷5-29-13、赤門アビタシオン1階)
             03-3815-8071
      □日時: 10年10月3日(日)午後2時〜4時30分
             入場無料
 

    

   公開講座「和辻倫理学とは何であったか」


      □日時:2010年5月13日(木)14:00〜16:30
      □会場:山陽教区同朋会館(山陽教務所)
           姫路市地内町1番地 079-292-3690
      □主催:哲学に学ぶ会


 記録

     連続講演 「東亜・儒学と倫理」─台湾・交通大学・清華大学・成功大学
      □2010年3月24日・25日・26日


 記録



  緊急集会  「天安門事件と08憲章を考える」



中国の裁判所が09年12月25日、文学者劉暁波氏に懲役11年の厳刑を言い渡したと日本の新聞は報じた。彼は中国の民主化を求める08憲章の起草者の一人であり、署名者であった。だが中国におけるこの憲章の署名者はすでに一万人をこえている。ではなぜ劉暁波氏にだけ懲役11年の刑が言い渡されるのか。それは彼が天安門事件の犠牲者たちの証人であり続けているからである。その彼が08憲章の起草者の一人であり、署名者でもあるからである。いま中国ではこれが11年の刑に処せられる犯罪なのだ。私たちは耳を塞ぎ、目を覆わないでこの事実を見よう。私たちはこの事実から逃げてはいけない。この事実を隠して求められる日中の友好とは偽りのものである。それは中国の民主化を妨げるだけではなく、己れの民主主義をも危うくするものである。天安門事件と08憲章をともに考えよう。

  □日時 2010年1月23日(土) 13:00〜17:30
  □会場 早稲田大学11号館6階604教室
  □講演
     開会の挨拶として─民の自立について         高橋順一
     劉暁波とはだれか                      劉燕子
     08憲章と中国知識人                    及川淳子
     われわれにとって中国の民主化とは何か       子安宣邦
                                         主催 昭和イデオロギー研究会
 
■私の発言

   われわれにとって中国の民主化とは何か─なぜ黙っているのか

1どう対するのか
中国における劉暁波をめぐる問題にどう対するのか。昨年末、北京の人民法院が劉暁波に国家政権の転覆を扇動した罪によって11年の実刑判決を下したことに対して、日本ペンクラブは「不当判決を見直し、即時釈放を求める」声明を出した(10.1.5.)。そこではこの判決が、「国際法ならびに中華人民共和国憲法で保障されている表現の自由に照らしても、不当なものである」として、極めて遺憾だとされている。この声明は、この事件を言論の自由という基本的な人権に対する不当な抑圧として、同じ言論人の立場から抗議するものであった。アムネスティも人権擁護の立場から中国政府が劉暁波に加え続ける抑圧を終始抗議してきた。こうした抗議はもちろん重要である。ことに日本ペンクラブの声明は、この問題に対してほとんど反応することのない日本の言論人からの抗議として貴重である。だがこの抗議声明が国際ペンクラブの要請によるものなのか、日本ペンクラブの主体的な行動としての声明であるのか、私には分からない。もし後者であるならば、この声明だけで終わらない何かが、日本言論人の主体的行動としてなされねばならないだろう。だがそれはない。

劉暁波の問題に表現の自由という普遍的な人権擁護の立場からなされる抗議に反対する理由はもちろんない。だが劉暁波の問題に対するわれわれの態度はただ普遍的な人権擁護の立場におけるものだけなのか。ここで私がわれわれというのは、普遍的な人権、表現の自由という権利の所有者である普遍人としてのわれわれの自覚だけでよいのかと疑っているわれわれである。日本のわれわれはこの劉暁波の事件に、通り一遍の抗議声明ではすまない大事があることを認識すべきではないか。私はこの中国の問題を日本のわれわれの未来にかかわる問題として考えたいと思っている。

2なぜ黙っているのか
劉暁波の問題とは、たしかにわれわれの隣国である中国の問題である。だから人は「なぜお前は他国の問題に介入するのか」というかもしれない。そうした非難を含んだ問いかけに、「それではなぜあなたは黙るのか」と問い返したいと、今年の年賀状で私は書いた。これは私の友人たちへの一種の挑発であった。あなたは問題から逃げているのか、それとも黙る理由をもっているのか。「知らなかった」というのが一つの答えである。これを逃げ口上として片づけることはできない。事実、劉暁波の問題をわれわれは知らないし、知らされていないし、また知ろうとしていない。この知らないということについて真剣に考えねばならない。もう一つの答えがある。やはり「他国の問題だから」と人がつぶやくように答える、それである。だが「他国の問題だから」として沈黙することは、外部からの批判に中国当局が「内政干渉」として反発することと見事に対応するものだ。だから沈黙することは中国のこの事態を黙認することでもある。だがそう批判しても、人は国という障壁を越えて語ることがそう簡単にできるのか。

普遍的人権の立場はたしかにこの国家間の障壁を越えて、他国の問題へ介入的な抗議の発言をしていく。こうした介入的抗議をしない日本に、人権意識の弱さがいわれたりする。それはそうかもしれない。たしかにわれわれには人権侵害に直ちに反発するような人権バネのようなものはない。だが私は最初にふれたようにこの普遍的人権の立場によるわれわれと、今ここで劉暁波の問題を考えるわれわれとを直ちに同一化することに疑問をもっている。普遍的人権の立場からの介入は、正義の押しつけという性格をもっている。押しつけられた正義とは、押しつけられた側にとっては決して正義ではない。普遍的人権思想を成立させた先進的欧米諸国によるアジアへの人権的介入は、彼らの文化的価値観の押しつけという性格を免れがたくもっている。フランスは政教分離の原則に立って、ネッカチーフを着用するイスラム系女学生を教室から排除しようとした。これは政教分離でもなんでもない。異なる文化価値・習俗の排除でしかない。このような例をあげればきりがない。ヨーロッパからアジアに向けての普遍的な人権の主張と彼らのオリエンタリズムとは表裏をなしている。だから私は普遍的人権の立場によるわれわれと、今ここで劉暁波の問題を考えるわれわれとを直ちに同一化することに疑問をもつというのである。では劉暁波問題は「中国の問題」だという国境という障壁をどのように越えたらよいのか。これが「中国の問題」だとしても、なぜわれわれは沈黙してはならないのか。

3竹内の示唆
私は『「近代の超克」とは何か』(青土社、2008)で竹内好を読み直した。竹内のいう「方法としてのアジア」を21世紀的世界にいるわれわれへの貴重な示唆として私は読み直したのである。1960年という日本の安全保障が問い直されたその時期に、竹内が発したあの言葉をもう一度ここで見ておきたい。

「西欧的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために西洋をもう一度東洋によって包みかえす、逆に西洋自身をこちらから変革する、文化的な巻き返しで、東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する、これが今の東対西という問題点になっている。・・・その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としてありうるのではないか。」

この1960年のテーゼである「方法としてのアジア」をどう読み直すかである。西洋の生み出した普遍的な価値とは、民主主義という政治原理であり、自由という人間的権利の理念である。これをアジアの力をもって高めようと竹内はいっているのだ。そのときアジアは何らか実体としてあるのではないと彼はいう。かつてその実体は日本帝国であった。戦後、アジアからの巻き返す力は人民中国であったり、アジア的価値が求められたりした。しかし竹内はアジアは実体としてはない、方法としてあるというのである。この「方法としてのアジア」を私はアジアという抵抗線を引くことだと解した。では何に対して抵抗線を引くのか。西とはもはや20世紀の政治地理的な西洋ではない。すでに西に発したグローバル資本主義とその文明は東をも覆ってしまっている。そしてアメリカに発した世界的経済危機の深化のなかで西と東とのもたれかかりは一層進んでいる。端的にいえば、中国の経済成長に世界も日本ももたれかかっているのである。そこにこそ中国当局をして劉暁波に強制的沈黙の刑を科せしめ、日本政府にその問題について沈黙せしめる真の理由があるのだろう。われわれはいまどこに抵抗線を引くべきか、劉暁波の事件はそれを教えている。

沈黙せしめられている劉暁波に代わってわれわれが言うべきである。われわれの発言は沈黙せしめる中国政府に対するものであり、沈黙する日本政府に対するものである。沈黙せしめることも、自ら沈黙することも自立的な民衆的原理としての民主主義を壊すことである。沈黙せしめる国家と沈黙する国家とのもたれ合い的的な東アジアの共同体などをわれわれは望まない。われわれにとって希望のある共同体となるためには、われわれはいま強い抵抗線を引くべきである。すなわち劉暁波の問題をめぐって発言すべきである。そのことが民主主義をそして自由を自分自身のものとしたアジアを作り出すことであるだろう。

4知らないこと・知ろうとしないこと
沈黙する政府と沈黙する国民とは恐らく相関的である。黙っている国民があり、黙っている政府があるのだ。民衆的な自立としての民主主義を考えるとき、政府と国民とが沈黙の相関関係にある国家の民主主義の方がより危機的だろう。より危機的というのは、沈黙させる政府の下での民主主義よりはということだ。これは逆説である。しかしあえてする逆説によってわれわれの内部における民主主義の壊敗の危機を見るべきである。

沈黙する政府と沈黙する国民とは相関的であるとすれば、知らないことと知らされないこととは相関的ではないか。ある事態を知らないことの理由を、知らされないことに求めてなじることを、われわれはしばしばする。しかしよく考えてみれば知らないこととは知ろうとしないことである。知ろうとしないものには、知らされない。タレントのスキャンダルはもう沢山だというほどテレビ・新聞を通じて知らされる。だが劉暁波の問題はほとんど知らされない。これはマスコミのせいか。私も最初これをマスコミにおける自己規制によることだと考えた。たしかに自己規制はあるだろう。だが中国におけるような報道・情報規制がない日本での自己規制とは、根底的にはわれわれの知ろうとしないことに帰因する。国民が知ろうとしないことは知らされない。人間は見ようとしなければ見ない。知ろうとしなければ知らない。知らないとは自分で目と耳とを塞いでいることでもある。この自閉的な民は何に目をふさいでいるのか、隣人の苦しみ対してだ。われわれは目をふさぎ、耳をふさぐことでみずからの民主主義という自立性の根を朽ちさせているのである。中国の劉暁波の問題にわれわれが目をふさがないこと、耳をふさがないこと、そして沈黙しないこと、それはわれわれの民主主義を死なせないことでもある。それゆえ私は劉暁波の問題とは、東アジアにおけるわれわれの共闘の課題だというのである。



 記録

 
□小田実を読む会・日韓併合百年・特別講演
        
「併合百年の今、小田を読むこと」

        □日時:10年2月20日 14時〜16時
        □会場:山村サロン JR芦屋駅前ラポルテ3階


私がタイトルに掲げた「日韓併合の百年」ということを、「小田を読むこと」の「今」を重く規定している条件として考えたいと思っています。この今、われわれはどう小田を読むべきなのか、小田をどう思い起こすべきなのか、という問題として、このタイトルを考えたいと思います。小田との関わりで「日韓併合の百年」を何らかこじつけて話すといったことを私はする積もりはありません。

1 小田と私
私は決して生前の小田を良く知る間柄ではありません。むしろ比較的新しい時期に、亡くなるほぼ十年ほど前に小田という人間がいることの重要さを私は知ったのです。もちろん同世代の彼の存在を私は早くから知っていたし、ベ平連の彼の活動をともにした吉川勇一・高橋武智さんは私のわだつみ会時代の先輩であり、仲間でした。だが小田をほんとうに知ったといえるのは、最近になってのことです。それは大学を定年退職してからといっていい最近のことです。だからこれはまったく自慢にならない、恥ずかしいことなのです。
大学を定年退職して、いわゆる年金生活者になってはじめて自分が「ひとり」であることを知りました。組織を背景にもたない、何らの機関にも属さないただ「ひとり」の自分が、どのようにアジアの問題を考えたらよいのか。私は大学の教員であり、研究者であったときには考えられない難問に直面しました。そのときになって私は今まで国立大学という組織を背景にして、あるいは日本学という研究分野を足場にして考えていたことを知りました。ただ「ひとり」の人間として考えるというのは難しいことです。『ひとりでもやる、ひとりでもやめる』(筑摩書房、2000)というすごいタイトルをもった小田の評論集があることはご存知でしょう。「ひとりでもやる、ひとりでもやめる」というのはすごい言葉です。このすごさを知ったことが、小田をほんとうに知ったことであるのです。
たしか新たな世紀を迎えようとする2000年の春のことです。筑摩書房から一通のアンケートがきました。若い人々が「21世紀に希望を持つため」の本を推薦せよというアンケートです。私は『きけわだつみの声』と小田の『「難死」の思想』とを推薦しました。私は前者を推薦する理由としてこう書きました。
「私たちはこの強いられた挫折から、繰り返してはならない歴史の方向にかかわるこの決意をもし希望ということができるとすれば、私に希望を与えたのは、先立つ世代の奪われた希望の無残な跡であったということができる。人は希望をつねに先立つ人々の絶望のなかから紡ぎだしていくしかないのかもしれない。」
そして小田の『「難死」の思想』について私はこう書きました。これはこのアンケートに答えた文章の結論でもあります。
「小田はこの「難死」に表象される事態を「私状況」といい「個人原理」といい、さらには「殺すな」の原理という。この無意味な死を余儀なくされるただのひとの原理を「公(国家)」の原理に対置し、「公」に解消されることを阻みながら「公」と徹底してかかわる自分の行動と言葉とを生み出していったのである。このただのひとの原理は、同情同苦の共感を通して他者との連帯を可能にしていく。1960年代から70年代にかけての、ベトナム戦争をめぐる小田の活動を支えたこの「難死」の思想を、私は20世紀が21世紀に贈る最善の最善のメッセージだと考えている。このただのひとの原理とは国籍の原理ではない。逆に国家自体を新たに意味づけていこうとする原理である。20世紀の無意味な死、ただの人々の死の堆積を直視することから始まる言葉のうちにしか、21世紀につなげるべき真の希望の言葉を人は見出すことはできないだろう。」
(この「21世紀に希望を持つための読書案内」は現在、『17歳のための読書案内』として「ちくま文庫」に収められている。) 
私はこのアンケートに答えることによって小田実という人間を再発見いたしました。同時にただのひとりの人であることによって立つこと、物をいうこととは何かを教えられました。それは歴史に堆積するただの人々の死につながることによって、私もまたただの人として今に立ち、物をいうことができるのだということです。ただのひとの原理に立つ小田を知ることによって、私は今に物をいう人間に変わっていきました。靖国問題について物をいい、「閔妃暗殺」について物を書く人間に変わっていきました。少なくとも歴史から逃げない人間になったといえます。

2 小田を読むこと
私はその時、たしかに小田を読んだのです。小田を読むとは、ただの人として発言し、行動するゆえんを知ることでした。そしてさらに小田を読み深める機会が直ぐにきました。筑摩書房の編集者から『小田実評論撰』全四巻がやがて完結するからその紹介の文章を書けという注文が、たしか2002年の春にきました。そして一冊600頁にもなる大部の本が四冊、しかも第四巻はまだ製本前の白表紙のままでしたが、それがどさっと届けられてきました。こんな無茶で、強引な注文を編集者がするわけはない、これは小田の指図によることだと私は思いました。そばにいた若い院生が「これをどうやって書くんです」と聞くので、「私だってプロだ」とかいって、ともかく引き受けました。一ヶ月という短い時間で、60年代の「『難死』の思想」から90年代の「でもくらてぃあ」にいたる小田の主要な評論の文章に目を通して、「20世紀の「現場」と生きつづけるものの証言」という文章を書きました。自分ながらよく書いたと思います。これがただ課せられた義務であったら、とても書けません。これを読むこと、そして書くことが私にとって必要であったからできたのです。私はこれを書くことによって、小田の「現場」の思想というものを確認することができました。なぜ日本のここでベトナム戦争に反対する運動が可能なのか。人が殺し・殺される現場とはベトナムの戦場だけではない、日本のここもまた殺し・殺される現場なのだと知ること、そこからわれわれという連帯もまた生まれるのである。
「ベトナム戦争は日本人に加害と被害の連鎖の構造を教えた。と同時に「殺されるな」の連帯は、それぞれの国家・地域社会における「殺し・殺される(=する・される)」構造をあらわにしていくようなそれぞれの「現場」への運動的なかかわりを通してだということをも教えたのである。この「現場」に私が関与し、あの「現場」に彼が関与することから、われわれの連帯的な「現場」への関与と運動とが成立するのである。小田に「われ=われの哲学」という市民運動の哲学を成立させるのは「ベ平連」の運動である。」(「ちくま」378号、2002年9月)。
小田のただの人の原理とは、ただの人の生活するここが現場だとする原理であることを私は知りました。現場とは逃げ出すことのできない、立ち合わざるをえない、そして物をいわざるをえない事態の生起する場です。彼はただの人の生活する場を現場として物をいっていったのです。事件はここがまさしく現場であったことを悲惨な形で示すことになるのです。95年1月17日の大震災がそうでした。この現場の思想は、そこの現場とここの現場に立つ人たちの真の連帯を可能にします。それは空間的なそことここであるとともに、歴史におけるそことここでもあります。さらに死者のそこと生者のここでもあります。私は小田を読むことを通じて地域的な境界と歴史の距たりをこえた連帯のあり方、共闘のあり方を教えられました。私が教えられたこの現場の思想を、小田の死にあたって追悼の文章として書きました。それを別に印刷して用意しましたが、その末尾の文章だけをここに引きます。
「小田は死んだ。人びとは大急ぎで追悼した。この追悼の立派な言葉とともに小田は死者となった。もう其処にいない死者となった。だが死者とは人びとが作り出していくのである。死んだものが直ちにあの世の死者になるわけではない。思いを残した死者の魂はいつまでもこの世にいるのである。生きる小田は其処にいつづけたのである。死んでもなお小田が其処にいつづけたとしたら、ひどい国のひどい政治家どもはきっと震えあがるだろう。小田はきっとそこにいつづける。われわれが其処を立ち去ることのできない現場とするかぎり、小田はわれわれとともに其処にいつづける。それが死者との共闘であり、ほんとうの弔い合戦なのだ。」(『環』31、2007年秋号)
ここで「其処」というのは「現場」をいいます。この追悼文は、「小田はいつでも其処にいた。小田とはいつでも其処にいる人であった。其処とは何処か。其処とは何処でもない此処である。此処とはわれわれの住んでいる此処である。此処とはわれわれの住んでいる此処、われわれの間、小田がただの人という市民の生活する場である」という文章から始まっています。「其処」とはただの人の住む「此処」です。此処を小田は現場としたのです。

3 最後までの発言者
私はすでに小田の死にふれてしまいました。2007年の春、あの報せを小田から受け取ったのは、私が『日露戦争の世界史』の著者崔文衡さんとの共著である『歴史の共有体としての東アジア』の序文を書いているときでした。崔文衡さんははじめて日露戦争を韓国の視点から、朝鮮半島をめぐる国際関係の中で解読しました。日露戦争とは閔妃暗殺に始まり、韓国の領有に終わる帝国日本の戦争であったことを明らかにしました。日本人の多くが司馬の祖国防衛戦争という見方にとらえられている今、崔さんの『日露戦争の世界史』を読むことは重要です。日本の歴史家も文学者も日露戦争が朝鮮半島の日本領有をもたらす戦争であったことをいうものはいません。竹島(独島)の問題もこの領有過程にあります。私はこれらのことをすべて崔さんに教わったのです。崔さんはほぼ私と同年代の歴史学者です。私は一度お会いしただけで古くからの友人のように思いました。小田の場合もそうです。私が彼に最初に会ったのは、慶応で「現代思想」の講義をした折(2002年の秋?)です。彼が何度も案内をよこすので、学生たちに混じって大教室で彼の講義を聞きました。それは講義というより、問題提起でした。学生の目線に立って問題を投げかける彼の話し方に接して、私は感銘を受けました。こういう講義ができるのは小田だけだと思いました。その時が小田に会った最初です。しかし一度会っただけで彼を古くからの友人だと思いました。小田も私も全く同年輩です。20世紀の過半を共に生きてきたもの同士であることを認めたからでしょうか。小田の場合も、崔さんの場合も、これが最初の対面だという気が私にはなかったのです。ですから小田からあの報せを受け取ったとき、崔さんとの共著の序文が書けなくなりました。最後は小田に向かって書くような積もりでその序文を書きました。そしてその序文とともに病床の小田に手紙を送りました。その手紙をここに引きます。そのような手紙は本来こういう形で引くべきではないものかもしれません。しかし小田に対してもっていた私の気持ちがもっとも率直にのべられているゆえ、あえて引くことにしました。
「小田さん 書きにくい手紙を書きます。国際裁判の資料つきの手紙を頂いてから、滅入ってしまいました。手紙をこんなことから書き始めてはいけないのかもしれないが、しょうがない、本当なのだから。原稿も行き詰まってしまいました。実は韓国の歴史家崔文衡さんとの共著という形で一冊、藤原書店から出すことにしていて、その「序文」を書いていたのです。崔さんとは全く同年輩で、国こそ違え、同じ時代を生きてきたものとしてお互いによく分かるのです。会ってすぐに友人になり、そしてこの本を出すことになりました。その「序文」を書いているときにあなたからの手紙をもらい、書けなくなってしまいました。
 しかし何とかこれを書き終えることで、あなたにいえる言葉を私は見つけたように思い、手紙を書くことにしました。私はこの「序文」を崔文衡のために書きながら、実際は小田実に向かって書いてしまったようです。あるいは崔さんにあなたを重ねて書いてしまったようです。途中からそうなってしまいました。そんな気持ちが、同封の「序文」の最終章になりました。あなたの名前がおのずからそこに出てきてしまいました。勝手に友人を称して書いたりしたことをお許しください。私は崔さんに二〇世紀を生きてきたもの同士として、同志的友情をもちましたが、あなたに対していっそう強い同志感をもってきました。あるいは戦争の二〇世紀を生きてきたもの同士(同志)として、友人としてあなたを見出すことによって私はいっそうあなたの発言の意味も、重大さも理解していったように思います。どうもまわりくどい書き方になりました。
 いいたいことはこうなのです。あなたの発言は重要なのです。いまもっとも求められているものです。もうデモの先頭に立たなくてもいい、講演などしなくてもいい、しかしいいつづけて下さい。私もあなたの「ただの人」の思想を、そして「殺さない−殺されない」ものの立場を自分の書くことの中でいいつづけます。            二〇〇七年四月三〇日  」
小田はたしかに亡くなるまで言い続けました。その発言が最後まで求められるような人は小田以外にはいません。もっと早く発言を止めるべきだと思うような人ばかりです。昨年亡くなった著名知識人もそうです。なぜ小田は最後まで発言できたのか、なぜその発言をわれわれは最後まで期待したのか。それは彼が最後まで此処という現場に立っていたからです。現場とは立ち去ることのできない、沈黙することのできない事態が生起する場です。小田は此処が、われわれの生活する此処がその現場だといったのです。今、小田を読むこととは、この現場の思想をたえず今の己れに甦らせるためです。それは今、小田だったら何をいうかを考えるためです。私は今、中国の劉暁波のために発言し始めました。劉暁波は天安門事件の死者に代わって発言するゆえに「国家政権転覆扇動罪」で11年の刑に処せられた詩人です。私は劉暁波の問題を、此処日本の問題と考えて発言しました。私の言葉の中には小田がいると私は信じております。


 
 08憲章

 08憲章=中華連邦共和国憲法要綱をどんどん読もう 
 


2008年12月10日、中国における一党支配の全体主義的政治的体制の民主的体制への変更を求める「08憲章」が学者や作家ら303名の実名による署名を得て、インター・ネット上に公表されたという報道を私はNHKテレビの昼頃のニユースで見た。その詳報を知ろうとしたが、朝日新聞などは全く触れないし、NHKもそれ以後はニュースに流さなかった。恐らく報道の自主規制がなされたのであろう。私は中国の知人に尋ねてこれが事実であることを知り、署名者の劉暁波氏の身柄がすでに警察によって拘束されていることをも知った。そして日本のネット上で「08憲章」を見ることが出来ることも教えられた。
「08憲章」の「まえがき」はいっている。「こうした普遍的価値と基本的政治制度枠組みを取り除いた「現代化」は、人の権利をはく奪し、人間性を腐らせ、人の尊厳を踏みにじる災難である」と。私はこの認識に深く共鳴するとともに、この憲章に賛同する。「08憲章」は人間性の腐敗に抗するものの当然の要求である。
「08憲章」を無かったかのように無視する日本のジャーナリズムは、人間性を腐敗させる体制の共謀的サポーターである。日本の憲法を見せかけのものにし、骨抜きにしてしまうのはそういう連中である。「08憲章」をわれわれはどんどん読もう。「08憲章」の読み手が世界中で拡がることが、中国の署名者を支えることであり、同時に日本の憲法の見せかけ的民主主義・平和主義を本物にしていくことにもなるのである。
私はそう考えてネット上ブログ(URLは文章末に記載)の「08憲章」をここに転載した。当事者のご了解を頂きたい。
「08憲章」をどんどん読み、どんどん拡げよう。(08.12.22)


 08憲章=中華連邦共和国憲法要綱

一、まえがき

 今年は中国立憲百年、「世界人権宣言」公布60周年、「民主の壁」誕生30周年であり、また中国政府が「市民的及び政治的権利に関する国際規約」に署名して10周年である。長い間の人権災害と困難かつ曲折に満ちた闘いの歴史の後に、目覚めた中国国民は、自由・平等・人権が人類共同の普遍的価値であり、民主・共和・憲政が現代政治の基本的制度枠組みであることを日増しにはっきりと認識しつつある。こうした普遍的価値と基本的政治制度枠組みを取り除いた「現代化」は、人の権利をはく奪し、人間性を腐らせ、人の尊厳を踏みにじる災難である。21世紀の中国がどこに向かうのか。この種の権威主義的統治下の「現代化」か? それとも普遍的価値を認め、主流文明に溶け込み、民主政体を樹立するのか? それは避けることのできない選択である。

 19世紀中葉の歴史の激変は、中国の伝統的専制制度の腐敗を暴露し、中華大地の「数千年間なかった大変動」の序幕を開いた。洋務運動はうつわ面での改良を追求し、甲午戦争(日清戦争1894年)の敗戦は再び体制の時代遅れを暴露した。戊戌変法(1898年)は制度面での革新に触れたために、守旧派の残酷な鎮圧にあって失敗した。辛亥革命(1911年)は表面的には2000年余り続いた皇帝制度を埋葬し、アジアで最初の共和国を建国した。しかし、当時の内憂外患の歴史的条件に阻害され、共和政体はごく短命に終わり、専制主義が捲土重来した。うつわの模倣と制度更新の失敗は、先人に文化的病根に対する反省を促し、ついに「科学と民主」を旗印とする「五四」新文化運動がおこったが、内戦の頻発と外敵の侵入により、中国政治の民主化過程は中断された。抗日戦争勝利後の中国は再び憲政をスタートさせたが、国共内戦の結果は中国を現代版全体主義の深淵に陥れた。1949年に建国した「新中国」は、名義上は「人民共和国」だが、実際は「党の天下」であった。政権党はすべての政治・経済・社会資源を独占し、反右派闘争、大躍進、文革、六四、民間宗教および人権擁護活動弾圧など一連の人権災害を引き起こし、数千万人の命を奪い、国民と国家は甚だしい代価を支払わされた。

 20世紀後期の「改革開放」で、中国は毛沢東時代の普遍的貧困と絶対的全体主義から抜け出し、民間の富と民衆の生活水準は大幅に向上し、個人の経済的自由と社会的権利は部分的に回復し、市民社会が育ち始め、民間の人権と政治的自由への要求は日増しに高まっている。統治者も市場化と私有化の経済改革を進めると同時に、人権の拒絶から徐々に人権を認める方向に変わっている。中国政府は、1997年、1998年にそれぞれ二つの重要な国際人権規約に署名し、全国人民代表大会は2004年の憲法改正で「人権の尊重と保障」を憲法に書き込んだ。今年はまた「国家人権行動計画」を制定し、実行することを約束した。しかし、こうした政治的進歩はいままでのところほとんど紙の上にとどまっている。法律があっても法治がなく、憲法があっても憲政がなく、依然として誰もが知っている政治的現実がある。統治集団は引き続き権威主義統治を維持し、政治改革を拒絶している。そのため官僚は腐敗し、法治は実現せず、人権は色あせ、道徳は滅び、社会は二極分化し、経済は奇形的発展をし、自然環境と人文環境は二重に破壊され、国民の自由・財産・幸福追求の権利は制度的保障を得られず、各種の社会矛盾が蓄積し続け、不満は高まり続けている。とりわけ官民対立の激化と、騒乱事件の激増はまさに破滅的な制御不能に向かっており、現行体制の時代遅れは直ちに改めざるをえない状態に立ち至っている。

二、我々の基本理念

 中国の将来の運命を決めるこの歴史の岐路に立って、百年来の近代化の歴史を顧みたとき、下記の基本理念を再び述べる必要がある。

自由:自由は普遍的価値の核心である。言論・出版・信仰・集会・結社・移動・ストライキ・デモ行進などの権利は自由の具体的表現である。自由が盛んでなければ、現代文明とはいえない。

人権:人権は国家が賜与するものではなく、すべての人が生まれながらに有する権利である。人権保障は、政府の主な目標であり、公権力の合法性の基礎であり、また「人をもって本とす」(最近の中共のスローガン「以人為本」)の内在的要求である。中国のこれまでの毎回の政治災害はいずれも統治当局が人権を無視したことと密接に関係する。人は国家の主体であり、国家は人民に奉仕し、政府は人民のために存在するのである。

 平等:ひとりひとりの人は、社会的地位・職業・性別・経済状況・人種・肌の色・宗教・政治的信条にかかわらず、その人格・尊厳・自由はみな平等である。法の下でのすべての人の平等の原則は必ず実現されなければならず、国民の社会的・経済的・文化的・政治的権利の平等の原則が実現されなければならない。

 共和:共和とはすなわち「皆がともに治め、平和的に共存する」ことである。それは権力分立によるチェック・アンド・バランスと利益均衡であり、多くの利益要素・さまざまな社会集団・多元的な文化と信条を追求する集団が、平等な参加・公平な競争・共同の政治対話の基礎の上に、平和的方法で公共の事務を処理することである。

 民主:もっとも基本的な意味は主権在民と民選政府である。民主には以下の基本的特徴がある。(1)政府の合法性は人民に由来し、政治権力の源は人民である。(2)政治的統治は人民の選択を経てなされる。(3)国民は真正の選挙権を享有し、各級政府の主要政務官吏は必ず定期的な選挙によって選ばれなければならない。(4)多数者の決定を尊重し、同時に少数者の基本的人権を尊重する。一言でいえば、民主は政府を「民有、民治、民享」の現代的公器にする。

 憲政:憲政は法律と法に基づく統治により憲法が定めた国民の基本的自由と権利を保障する原則である。それは、政府の権力と行為の限界を線引きし、あわせて対応する制度的措置を提供する。

 中国では、帝国皇帝の権力の時代はすでに過去のものとなった。世界的にも、権威主義体制はすでに黄昏が近い。国民は本当の国家の主人になるべきである。「明君」、「清官」に依存する臣民意識を払いのけ、権利を基本とし参加を責任とする市民意識を広め、自由を実践し、民主を自ら行い、法の支配を順守することこそが中国の根本的な活路である。

三、我々の基本的主張

 そのために、我々は責任をもって、また建設的な市民的精神によって国家政治制度と市民的権利および社会発展の諸問題について以下の具体的な主張をする。

1、憲法改正:前述の価値理念に基づいて憲法を改正し、現行憲法の中の主権在民原則にそぐわない条文を削除し、憲法を本当に人権の保証書および公権力への許可証にし、いかなる個人・団体・党派も違反してはならない実施可能な最高法規とし、中国の民主化の法的な基礎を固める。

2、権力分立:権力分立の現代的政府を作り、立法・司法・行政三権分立を保証する。法に基づく行政と責任政府の原則を確立し、行政権力の過剰な拡張を防止する。政府は納税者に対して責任を持たなければならない。中央と地方の間に権力分立とチェック・アンド・バランスの制度を確立し、中央権力は必ず憲法で授権の範囲を定められなければならず、地方は充分な自治を実施する。

3、立法民主:各級立法機関は直接選挙により選出され、立法は公平正義の原則を堅持し、立法民主を行う。

4、司法の独立:司法は党派を超越し、いかなる干渉も受けず、司法の独立を行い、司法の公正を保障する。憲法裁判所を設立し、違憲審査制度をつくり、憲法の権威を守る。可及的速やかに国の法治を深刻に脅かす共産党の各級政法委員会を解散させ、公器の私用を防ぐ。

5、公器公用:軍隊の国家化を実現する。軍人は憲法に忠誠を誓い、国家に忠誠を誓わなければならない。政党組織は軍隊から退出しなければならない。軍隊の職業化レベルを高める。警察を含むすべての公務員は政治的中立を守らなければならない。公務員任用における党派差別を撤廃し、党派にかかわらず平等に任用する。

6、人権保障:人権を確実に保障し、人間の尊厳を守る。最高民意機関(国会に当たる機関)に対し責任を負う人権委員会を設立し、政府が公権力を乱用して人権を侵害することを防ぐ。とりわけ国民の人身の自由は保障されねばならず、何人も不法な逮捕・拘禁・召喚・尋問・処罰を受けない。労働教養制度(行政罰としての懲役)を廃止する。

7、公職選挙:全面的に民主選挙制度を実施し、一人一票の平等選挙を実現する。各級行政首長の直接選挙は制度化され段階的に実施されなければならない。定期的な自由競争選挙と法定の公職への国民の選挙参加は奪うことのできない基本的人権である。

8、都市と農村の平等:現行の都市と農村二元戸籍制度を廃止し、国民一律平等の憲法上の権利を実現し、国民の移動の自由の権利を保障する。

9、結社の自由:国民の結社の自由権を保障し、現行の社団登記許可制を届出制に改める。結党の禁止を撤廃し、憲法と法律により政党の行為を定め、一党独占の統治特権を廃止し、政党活動の自由と公平競争の原則を確立し、政党政治の正常化と法制化を実現する。

10、集会の自由:平和的集会・デモ・示威行動など表現の自由は、憲法の定める国民の基本的自由であり、政権党と政府は不法な干渉や違憲の制限を加えてはならない。

11、言論の自由:言論の自由・出版の自由・学術研究の自由を実現し、国民の知る権利と監督権を保障する。「新聞法」と「出版法」を制定し、報道の規制を撤廃し、現行「刑法」中の「国家政権転覆扇動罪」条項を廃止し、言論の処罰を根絶する。

12、宗教の自由:宗教の自由と信仰の自由を保障する。政教分離を実施し、宗教活動が政府の干渉を受けないようにする。国民の宗教的自由を制限する行政法規・行政規則・地方法規を審査し撤廃する。行政が立法により宗教活動を管理することを禁止する。宗教団体(宗教活動場所を含む)は登記されて初めて合法的地位を獲得するという事前許可制を撤廃し、これに代えていかなる審査も必要としない届出制とする。

13、国民教育:一党統治への奉仕やイデオロギー的色彩の濃厚な政治教育と政治試験を廃止し、普遍的価値と市民的権利を基本とする国民教育を推進し、国民意識を確立し、社会に奉仕する国民の美徳を提唱する。

14、財産の保護:私有財産権を確立し保護する。自由で開かれた市場経済制度を行い、創業の自由を保障し、行政による独占を排除する。最高民意機関に対し責任を負う国有資産管理委員会を設立し、合法的に秩序立って財産権改革を進め、財産権の帰属と責任者を明確にする。新土地運動を展開し、土地の私有化を推進し、国民とりわけ農民の土地所有権を確実に保障する。

15、財税改革:財政民主主義を確立し納税者の権利を保障する。権限と責任の明確な公共財政制度の枠組みと運営メカニズムを構築し、各級政府の合理的な財政分権体系を構築する。税制の大改革を行い、税率を低減し、税制を簡素化し、税負担を公平化する。公共選択(住民投票)や民意機関(議会)の決議を経ずに、行政部門は増税・新規課税を行ってはならない。財産権改革を通じて、多元的市場主体と競争メカニズムを導入し、金融参入の敷居を下げ、民間金融の発展に条件を提供し、金融システムの活力を充分に発揮させる。

16、社会保障:全国民をカバーする社会保障制度を構築し、国民の教育・医療・養老・就職などの面でだれもが最も基本的な保障を得られるようにする。

17、環境保護:生態環境を保護し、持続可能な開発を提唱し、子孫と全人類に責任を果たす。国家と各級官吏は必ずそのために相応の責任を負わなければならないことを明確にする。民間組織の環境保護における参加と監督作用を発揮させる。

18、連邦共和:平等・公正の態度で(中国周辺)地域の平和と発展の維持に参加し、責任ある大国のイメージを作る。香港・マカオの自由制度を維持する。自由民主の前提のもとに、平等な協議と相互協力により海峡両岸の和解案を追求する。大きな知恵で各民族の共同の繁栄が可能な道と制度設計を探求し、立憲民主制の枠組みの下で中華連邦共和国を樹立する。

19、正義の転換:これまでの度重なる政治運動で政治的迫害を受けた人々とその家族の名誉を回復し、国家賠償を行う。すべての政治犯と良心の囚人を釈放する。すべての信仰により罪に問われた人々を釈放する。真相調査委員会を設立し歴史的事件の真相を解明し、責任を明らかにし、正義を鼓舞する。それを基礎として社会の和解を追求する。

四、結語

 中国は世界の大国として、国連安全保障理事会の5つの常任理事国の一つとして、また人権理事会のメンバーとして、人類の平和事業と人権の進歩のために貢献すべきである。しかし遺憾なことに、今日の世界のすべての大国の中で、ただ中国だけがいまだに権威主義の政治の中にいる。またそのために絶え間なく人権災害と社会危機が発生しており、中華民族の発展を縛り、人類文明の進歩を制約している。このような局面は絶対に改めねばならない! 政治の民主改革はもう後には延ばせない。

 そこで、我々は実行の勇気という市民的精神に基づき、「08憲章」を発表する。我々はすべての危機感・責任感・使命感を共有する中国国民が、朝野の別なく、身分にかかわらず、小異を残して大同につき、積極的に市民運動に参加し、共に中国社会の偉大な変革を推進し、できるだけ早く自由・民主・憲政の国家を作り上げ、先人が百年以上の間根気よく追求し続けてきた夢を共に実現することを希望する。
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/597ba5ce0aa3d216cfc15f464f68cfd2

 記録

 台湾・清華大学講演と公開討論会 「思想史の方法─論語と倫理」

     1. 思想史の方法─論語をどう読むか 2.近代日本と二つの倫理学
      □会場: 国立清華大学人文社会研究中心 台湾新竹市
      □日時: 08年11月27日・28日 午後2時30分〜5時

 
1.思想史の方法─『論語』をどう読むか

私の講演の主題として求められたのは「思想史の方法」である。しかし私の思想史の方法は、私の思想史的作業と離れてあるわけではない。また私は思想史的作業と切り離して、その方法論を抽象的に論じたいとは思わない。この数年来私は市民講座で『論語』を方法論的な意識をもって読んでいる。そこで「思想史の方法」という課題に、私は『論語』をどう読むかいう問題をめぐって答えることにした。
『論語』とは東アジアにおける思想史を考えるものにとって究極的なテキストとしてある。東アジアにおける思想史の問題も方法も、究極的にはそこに遡って問われるような。『論語』を私がどう読むかということは、私という日本の思想史家の方法を究極的な形で問うことだと考えられる。勿論私は当初からそのような問題意識をもって『論語』を見ていたわけではない。私が『論語』の講義を始めたのは市民講座においてである。私は当初、「伊藤仁斎は『論語』をどう読んだのか」という問題意識に従って『論語』を読むことを私の講座のテーマとしてきた。それが日本思想史家としての私の『論語』を読み方だと思っていた。私は思想史家としての読み方に自己限定していたのである。だがやがて後世のものが『論語』を読むことは、先人の読みの痕跡を辿ることなくしてありうるのかと疑われてきた。後世のものが『論語』を読むとは何かが、問われてきたのである。

1 二千年の読みの痕跡
 私は初め、たとえば「伊藤仁斎は『論語』をどう読んだのか」という視点から『論語』を読むことが、思想史家としての読み方だと考えていた。それは『論語』へのアプローチを思想史家として自己限定したものと私は考えていた。『論語』の読み方をそのように自己限定した時に、私はこの自ら限定した読み方の向こうに中国学者による専門的な『論語』注釈学的読解を見ていた。彼らにとって先ず『論語』とは原典としてのオリジナリティーを備えたテキストであった。そして古注疏から新注、後世の諸注釈をもふまえた己れの解釈作業をもって『論語』の読みを彼らは完成させるのである。この読解者において完成されたオリジナルな読みが、専門的読解者としての権威を与えていくのである。私はこの専門的権威の世界を外部から踏み込みえない神聖な領域として、自分の『論語』の読みをあえて思想史的に自己限定したのである。たとえば伊藤仁斎は朱子に対立しながら『論語』をどう読んだのか、さらに荻生徂徠は朱子とともに仁斎をも批判しながら『論語』をどう読もうとしたのかと、思想史的視点からの『論語』読解の立場に自己限定したのである。しかしそのような視点からの読みを重ねていくうちに、『論語』を読むことは先人の読みの迹を辿ることなくして、あるいは辿り直すこと、すなわち読み直すことなくしてはありえないのではないかと考えられてきたのである。

 『論語』とは東アジアにおいて歴史的、空間的に最も多くの人びとによって、そして広い範囲の人びとによって読まれてきたテキストである。だから『論語』のテキストの上には二千年をこえる歴史における東アジアの人びとの読みと読み直しとが堆積しているのである。『論語』のテキストとは二千年にわたる読みの痕跡である。その痕跡はテキストの上にあるだけではない。われわれの知的な遺伝子または言語としてもある。それゆえわれわれは『論語』を読むときに、この痕跡を辿らずに読むということはありえない。あるいは無意識のうちにわれわれはこの痕跡によって読んでいるのである。この痕跡のなかでもっとも際立ったものは朱子が刻したものである。朱子以降、その読みの迹を辿ることなくして『論語』を読むことはありえなかったのである。仁斎においても朱子の痕跡を辿り直すことで、始めて彼の『論語』の読みがあるのである。だが『論語』が先人の読みの痕跡を辿り、辿り直すことなくしては読めないということ、あるいは『論語』を読むとは先人の読みを読み直すこととしてだということは、『論語』特有のことだろうか。私は一般に経典とされ、古典とされるテキストとはこの性格をもったものだと考えている。さらに『論語』というテキスト自体が読み直され、問い直された痕跡を原初的に示すテキストだと考えている。そのことは後にのべる。

 『論語』のテキストが先人の読みの痕跡としてあり、その痕跡を辿り直すこととして『論語』の読みがあるとすれば、伊藤仁斎の読みを辿り直しながら『論語』を読もうとした私の読み方は、思想史的な読みへの自己限定などと自ら卑下する必要のない、むしろ自覚化された正しい読み方だとみなされてくるのである。私は現在方法論的な意識をもって『論語』を読んでいると最初にいったのは、この読み方をいうのである。
 
2 閉じた『論語』と開かれた『論語』
 『論語』の読みを私があえて思想史的な読み方に自己限定した時に、私は向こう側に踏み入ることのできない専門的な学者による『論語』注釈の世界を見ていたといった。そして『論語』とはそこでは原典としてのオリジナリティーを備えたテキストであったともいった。この原典としての『論語』存立の一個的固有性は、その『論語』を完結的な解釈体系に収め入れる注釈学的解釈者の一己的固有性に対応している。その際、諸注が参照されたかどうかが問われることではない。あるいはこの解釈が朱子解釈の現代的再構成であることが、解釈者におけるこの一己性を否定する理由にはならない。朱子解釈が既に偉大な一己性をなすとすれば、その現代的な再生もまた解釈者の一己性を再生するのである。そして注釈的解釈者の一己性に対応して、『論語』は原典としての一個性を備えたテキストとなるのだ。その際、『論語』のテキストが成立史的に不完全なものとみなされようと、そのことが原典としての一個性を損なうものではない。『論語』解釈を己れにおいて完結させる解釈者の一己性に対応して、『論語』は一個性を備えた原典的テキストとなるのである。

 ここでは『論語』とは、ああでもありこうでもあるという多義的な解釈をゆるすテキストであってはならない。あるいは解釈しきれない何かを残すようなテキストであってはならない。要するに『論語』テキストが解釈者の内部に収容しきれない外部であってはならないのである。したがってここでは『論語』テキストは閉じられた内部的なテキストとなるのである。テキストそれ自体は閉じられても、開かれてもいない。それを閉じさせるのも、開かせるのも読み手によるのである。

 私は『論語』のテキストの上に先人の多様な読みの痕跡を見る。そのことは『論語』というテキストをどのように見ることなのか。それは多様な解釈の比較検討によって相対的に妥当な解釈を導く折衷主義的見方をいうのか。だが折衷主義とはすでに近世末期日本の儒家がとる経典解釈の方法であった。現代の『論語』解釈も多かれ少なかれ折衷主義的であるだろう。しかし折衷主義は解釈の変容をもたらしても、テキスト観の変容をもたらすものではない。そこではなお『論語』テキストは相対的に妥当な折衷主義的解釈をもって蔽い尽くされる一個の原典的テキストであり続けるのである。

 では私が『論語』テキストに多様な読みの痕跡を見るという時、それは『論語』テキストをどのように見ることなのか。私はたとえば仁斎が朱子と抗いながら『論語』をどう読んだのかというように、彼らの読みを通して『論語』を見る。その時、『論語』のテキストは仁斎や朱子の読みを辿る私のいわば参照系として彼らの解釈の向こうに見られる外部的テキストになる。この参照系としての『論語』のテキストは、解釈を相対化しながら、しかし己れの絶対的な解釈を要求する実体的テキストではない。むしろ新たな読みを常に可能にしていく開放的なテキストである。
 
3 『論語』の原初性
4 孝について
5 『論語』における時差
6 学の終わりと継承



 
公開講座 「日本ナショナリズムの問題」

□平和的中国への不可欠な存在
   ─ノーベル平和賞 劉氏受賞の意味                      子安宣邦

 中国の詩人劉暁波がノーベル平和賞を受賞した。だがその発表のとき、彼は受賞の報を聞くこともできずに獄舎にいた。彼は強制的に妻からも、友人たちからも、街の人びとからも距てられ、11年の刑に服して獄舎にいる。平和賞はこの獄舎の詩人に贈られたのである。彼にどのような祝いの言葉をのべたらよいのか。しかしなぜ彼に平和賞なのか。その意味をこそ私たちは考えねばならない。
劉暁波は1989年6月4日未明に天安門広場で起きた事件の犠牲者たちの記憶を魂に刻んだ詩人である。
「『六四』、一つの墳墓/永遠に永眠できない墳墓」
「忘却と恐怖の下に/この日は埋葬された/記憶と勇気の中で/この日は永遠に生き続ける」
 彼は6月のその日、民主化を要求する学生たちを軍事的に制圧しようとする当局に抗議するハンストの中にいた。迫る惨劇を避けるために、彼は撤退することを学生たちに訴えた。最悪の事態を避けて学生たちは撤退した。だがそれを待ちきれずに戒厳部隊は行動を開始した。この制圧行動によって広場で何があったのか、何人殺されたかは分からない。当局は広場における死者は一人もいないといい、この事件を通じての死者は319名だと発表した。
 だが6月のあの学生たちの運動とその軍事的制圧を見聞した市民で、当局のこの発表を信じるものはいない。犠牲者は数千にのぼるともいわれる事件の真相は隠され、事件そのものさえ中国現代史の公的記述から消されていった。すでに中国ではこの事件を知らない青年たちが育っている。
 劉暁波は「6・4」事件の死者たちの記憶を魂に刻むようにして詩を書いた。そして生き残った者の呵責が、針として体内にある痛みに耐えながら文章を記した。それはあの犠牲者の母たちの運動に連帯する文章であった。
 母たちの運動とは虐殺された息子たちの事実を根気強く明らかにし、謝罪と弁償と法の裁きとを要求するものである。彼はこの運動に中国の希望を見出した。「六四問題をいかに解決するかは、中国が平和裡に民主国家に転換できるかどうか、という巨大な公共の利益に直接関係している」と。
 6月4日の事件の最終的な解決は、中国が平和裡に民主的国家に転換できるかどうかにあるというのである。「6・4」事件の死者の記憶を言葉にする詩人劉暁波は、民主的中国のためのマニフェスト「08」憲章の提唱者でなければならないのだ。
 「6・4」事件を歴史から抹消する中国当局は、この事件を堅く記憶にとどめ、その最終的な解決を民主的国家中国の成立に求める劉暁波を許さない。「08」憲章の発表の前日、2008年12月8日に彼は当局に拘束され、そして今年の2月11日に北京の人民法院は国家政権転覆扇動罪で懲役11年の刑をいい渡した。彼はいま遼寧省錦州市の刑務所に収監されている。その彼にノーベル平和賞が贈られたのである。
 劉暁波の発言と活動は、中国における政府と民衆との、民族と民族との真の和解のための、すなわち民主的で平和的中国のために必要不可欠なものだ。授賞はそうした評価に基づくものだと考えたい。
 平和的中国とは東アジアの平和のための最大の基盤であるだろう。中国の平和も、そして東アジアのわれわれの平和も劉暁波を獄中に置くことにはないことをこの受賞とともに知るべきである。劉暁波の即時釈放をはっきりと求めること、それこそが日本から彼に贈る祝いの言葉である。
         
         [朝日新聞・2010年10月9日朝刊・文化面に掲載]主催: 対話する親鸞教学を考える会
      □会場: 姫路・芳順寺本堂(姫路別院本徳寺前)
      □日時: 08年7月17日(木)午後3時〜5時


 公開講座 「信」について

      □主催: 哲学に学ぶ会
      □会場: 真宗大谷派・山陽教務所・講堂(船場別院・本徳寺・姫路市地内町1)
      □日時: 08年6月19日(木)午後2時〜4時


 社会科教育研究会 講演「日本ナショナリズムの解読─日本倫理学の形成

      □埼玉県高等学校社会科教育研究会
      □埼玉県立越ヶ谷高校
      □08年6月11日(水)


 ジュンク堂書店
 
トーク・セッション:第1回:「宣長と日本のナショナリズム」
            第2回:「懐徳堂と学びの復権」
 

      
      □ジュンク堂書店大阪本店(06−4799−1090)・3階喫茶にて
      □日時:第1回:08年2月15日(金)・午後6時30分
           第2回:08年3月14日(金)・午後6時30分
      □入場料500円・定員40名
      

 □東アジア近代学問思想史研究会
 研究会報告:ポスト阿片戦争としての東アジアの近代を考える
     
       □日時:08年2月11日・午後2時
       □会場:東大教養学部3号館115A




 
□台湾・交通大学社会與文化研究所・短期講座
        
「戦後日本」とは何か・東亜世界と儒学

        □日時:08年4月7日〜13日
        □交通大学社会与文化研究所・新竹市大学路1001号