私のコラム 36


 
なぜ私は中国民主化の憲章を支持するのか
    • 1 「08憲章」の報道
       昨年(二〇〇八年)の一二月一〇日のことであった。何気なく見ていた昼頃のNHKテレビの画面に、中国における一党支配の政治体制の変更を求めるマニフェストが作家や学者たち三〇三名の実名による署名を添えてネット上に公表されたというニュースが流れるのを見た。一瞬目の前に流れたテレビのテロップに私は驚いた。私はテレビや新聞にその後の詳細な続報を期待した。だが朝日新聞のその日の夕刊にも、翌日の朝刊にも、このマニフェストをめぐる一行の報道記事もなかった。NHKのニュースもこれについての続報を流すことはなかった。私はこれを誤報であったかと疑うよりも、すぐにこれは何らかの報道規制によることだと思った。私はもどかしい気持で数日待ったが、朝日新聞紙上にこの件をめぐる報道は現れなかった。朝日がこれを報じたのは、二週間を経た二四日になってである。それも国際面の中国が新たな司法改革に乗り出しているという主記事に付された副次的な解説記事としてであった。中国政府がこの報道を規制しようとするのは当たり前かもしれない。だが日本のジャーナリズムが自主規制しているかのようなこのあり方は、私には
      不快というより、何か不気味な感じを与えるものであった。不気味とは、国境をこえて規制を促すような力が存在することに対してである。私は日本にいる中国の友人たちに事実確認のためのメールを出した。一人の友人から、すでに中国でこの憲章の支持署名者は三千人をこえていること、憲章提起者の一人である作家の劉暁波氏が当局によって身柄を拘束されたこと、そしてこの憲章の日本語訳をネットで見ることができることをも教えられた。私は早速ブログ上でいわゆる「08憲章」すなわち「中華連邦共和国憲法要綱」の日本語訳を読んだのである。
       では私はこのようにして知った「08憲章」にどのように対すべきなのか。ただちに私は支持を表明すべきなのか。中国の多くの署名者たちは恐らくためらいながらも、なお署名していったのであろう。だが隣国から海を越えて支持を表明することには、自国における署名者以上の、彼らとは性格の違うためらいがある。日本のジャーナリズムが自主規制したのと同じような規制的な働きが自分の中にもないとはいえない。それは中国との関係への配慮が促す規制である。しかし私がためらっていた時間は短かった。この「08憲章」の文章が私を早く支持の表明へと動かしたのである。私は自分のホームページ上に「08憲章=中華連邦共和国憲法要綱をどんどん読もう」と題して、次のような文章とともに日本語訳「08憲章」の全文をブログから転載した。

      「08憲章」の「まえがき」はいっている。「こうした普遍的価値と基本的政治制度枠組みを取り除いた現代化は、人の権利を剥奪し、人間性を腐らせ、人の尊厳を踏みにじる災難である」と。私はこの認識に深く共鳴するとともに、この憲章に賛同する。「08憲章」は人間性の腐敗に抗するものの当然の要求である。「08憲章」を無かったかのように無視する日本のジャーナリズムは、人間性を腐敗させる体制の共謀的なサポーターである。日本の憲法を見せかけのものにし、骨抜きにしてしまうのはそういう連中である。「08憲章」をわれわれはどんどん読もう。「08憲章」の読み手が世界中で拡がることが、中国の署名者を支えることであり、同時に日本の憲法の見せかけ的民主主義・平和主義を本物にしていくことにもなるのである。
      私はそう考えてネット上ブログの「08憲章」をここに転載した。当事者のご了解を頂きたい。「08憲章」をどんどん読み、どんどん拡げよう。(08.12.22.)

       私がここに書こうとすることは、なぜ隣国日本の私がためらいをもこえて中国の民主的改革を要求する中国人のマニフェスト「08憲章」を支持しようとしたかである。


      2 中国バッシング
       昨年は早々からチベット騒乱と四川大地震とそして北京五輪というように、中国はわれわれの耳目を支配し続けていた。日本にはそれ以前からいわゆるギョウザ問題があった。ヨーロッパからアメリカへと五輪の聖火リレーと絡んでチベット問題に対する抗議行動の連鎖的な展開が伝えられていた時期、私的な会食の席でもチベット問題が話題になった。そのとき知人のエコ派の女性が甲高い声で、「絶対に許せない」と叫んだのである。私もチベットをめぐる中国政府の対応を許せるとは思ってはいない。しかしその女性の抗議の叫び声を聞いたとき、とっさにその女性に向かって私は激しく食ってかかった。私もそのとき興奮して何かを叫んだのだが、何をいったのか思い出せない。ただ私がなぜその女性の叫びに激しく反応したかは分かっている。その女性の抗議の叫び声に、パリの街頭におけるヨーロッパ人権派の抗議の叫び声と重なるものを聞いたからである。彼らはアフリカで、アジアで植民地支配・他民族支配をさんざんやってきたではないか、あるいはいまでも形こそ違えなおやっているのではないか。その自分のことを棚に上げて、アジアに向けて人権の擁護を叫ぶ彼らの抗議の声に重なるような彼女の叫びは、私には聞くに堪えなかったからである。
       チベット問題に「絶対に許せない」と叫ぶ人たちは、中国の環境破壊、あるいは食品汚染に対しても同じように「絶対に許せない」と叫ぶに違いないのである。彼らにとって人権の毀損も環境の破壊も等しく地球的・人間的正義を犯す事件であるのだろう。彼らの抗議はたしかに地球的正義に立って真剣である。だがその地球的正義に立った彼らが、中国に向けて「絶対に許せない」と叫ぶとき、その抗議がいかに真剣なものであろうとも、しかしそれは中国バッシングになってしまうのである。それが中国バッシングになってしまうことは、その抗議はそれに見合う反応、すなわち中国における愛国主義の喚起という反応をしかもたらさないことによって明らかなのだ。なぜなのか。なぜこの正義派の抗議は、一方的な相手叩きというべき不公正になってしまうのか。なぜ正義派の抗議は不公正であるのか。このことをまともに考えることなしには、われわれの直面する問題における前進もない。
       「平和の輸出は必ずや戦争を意味する」というイリイチの言葉は私には衝撃的であった。私がこのイリイチの言葉に出会ったのは、沖縄問題を考えているときであった。輸出される平和とは、「アメリカの平和」といわれるような帝国の平和である。一九六〇年代のアメリカの平和とは、ベトナムにとっては戦争であったし、沖縄にとっては実戦的な基地化であった。輸出され、押しつけられる平和すなわち帝国的秩序とは、押しつけられる側では戦争であり、軍事基地化であるのだ。それはいまでもそうだ。アメリカの平和とは中東における戦争である。そして平和は開発という名でも輸出される。開発という名の現代文明的世界への現地の組み入れは、戦争がもたらすと同様にその地の自立的生活基盤を、その自然的基盤もろともに荒廃させるのである。輸出される平和(開発)が、その地の平和な生き方を崩壊させるのである。イリイチの言葉をこのように敷衍してきて私はあらためてこの言葉が、われわれがいま直面する問題群を解き明かすための貴重な光であることを確認するのである。この言葉はチベット問題が、沖縄問題とも、パレスチナ問題とも重なる現代世界の問題であることを教えてくれるのである。中国も己れの平和(開発)をチベットに輸出しているのである。中国におけるチベット問題とは、日本における沖縄問題である。そう認識して始めてわれわれはチベット問題について発言することができる。私は今年の一月、「戦後日本論─沖縄から見る」という論文を中国の『読書』誌に掲載した。恐らくこれは沖縄問題を中国のジャーナリズムに現代史の問題として伝えた最初のものであろう。沖縄から見ることのわれわれにおける重要性を説くことによって、私は台湾から、そしてチベットから見ることの重要性を中国の友人たちにいいたかったのである。
       だが「平和の輸出は必ずや戦争を意味する」というイリイチの言葉が教えるのはそれだけではない。正義派の抗議がなぜ不公正かというわれわれの問いにも、それは重大な示唆を与えてくれるのだ。正義派の抗議とは、いわば正義の押しつけであり、己れの正義の輸出である。もともと正義とは押しつけられるものでも、輸出されるものでもない。それは平和がもともと輸出されるものではないのと同様である。平和であるとは本来、その地における人びとが希求する安定的な生活の基盤であるならば、正義とは、その社会における生活者が求める自立的な社会のための公正という基盤である。それは押しつけられるものではない。それは自立的社会のために人びとの求めるものである。押しつけられた正義とは不正義である。それは本質的に不公正である。
       正義派の声高な抗議がなぜ一方的な相手叩きにしかならないのかと問いながら、私は正義とは何かにまで問題を推し進めてしまったかのようだ。しかしここでひとまず確認しておこう。私が「08憲章」を支持するというのは、あの「絶対に許さない」といった正義派的な抗議の叫び声を共にあげることではないことを。


      3 「政は正なり」
       私はこの数年来市民とともに『論語』を読んでいる。なぜ『論語』なのか、という私への問いは、なぜお前の思想史的解読の課題として『論語』があるのかという問いであるとともに、中国の民主化をめぐるこの議論でなぜ『論語』なのかという問いでもあるだろう。だがこの二つの問いは一つであり、一つとして答えられねばならないからこそ私はここで『論語』をいうのである。先日、「孝について」と題して、『論語』中の一章をめぐって私はこう話した。

      [為政第二・第七章]
      「子游、孝を問う。子曰く、今の孝はこれ能く養うを謂う。犬馬に至るまで皆な能く養う。敬せずんば何を以てか別たんや。」
      ○この章の意味は難しくはない。朱子にしたがっていえばこうである。「人は犬馬を畜い、みなよく養っている。もし親を養うに、敬をもってしなければ、犬馬を養うこととどこが異なるのか。」(論語集注)。この朱子の解にしたがって日本の朱子学者はこう解説する。「若し父母の奉養をつとむとも、これを尊び敬まうことをしらずば犬馬を養うと、何を以てか別くべきと。是はなはだ不敬の罪をいましめ玉うなり。」(中村タ斎・国字解)
      敬とは恭と同じく相手にうやうやしく対する心遣いであるだろう。仁斎は親を敬するとは、「左右に仕えて、朝に御機嫌をうかがい、夕べに寝床をととのえ、飲食、衣服、寒暖の節に至るまで、敬しくして怠らない」ことだとしている(論語古義)。徹底した心遣いをいっている。孔子がいう孝もこうした心遣いではないだろうか。
      ○ここで大事なことは、孔子は親をただ養うことを孝としてきたことに、一言あるいは一事をつけ加えたことである。すなわち敬という心遣いをもって養うことで、親を養うだけの孝は本当の人間の孝になるのだよ、と教えたのである。孔子の教えというのは既存の孝にこの一言をつけ加えることにあるともいえるのだ。だれもそれまでつけ加えなかった一言を、孔子がつけ加えたのである。この一言によって孝は人間の大事な道徳として成立するのである。孔子における孝の成立を、私たちはこの章によってあらためて考えてみる必要がある。孝がやがて国家の道徳体系の基底に置かれることによって、あるいは伝統的家族制度を支えるイデオロギー、すなわち孝道となることによって、孔子がつけ加えたこの一言の意味は失われるのである。
       
       『論語』における孔子の孝の教説は、中国における国家的な儒教的道徳体系の基底をなす孝道イデオロギーを構成していった。桑原隲蔵は「孝道は中国の国本で、又その国粋である」といっている。それは中国だけのことではない。『教育勅語』を見るならば、孝を忠とをリンクさせて国民(臣民)的道徳を形成していったのは明治の近代国家日本だということを知るだろう。近代国家日本は儒教を封建道徳として徳川時代に置き捨てたわけではないのだ。それは近代国家によって作り直され、国民道徳として与えられるのである。孔子の孝は国家国民の孝道として近代に甦る。だから『論語』における孔子の孝の教えは、この孝道という皇帝的中国の国本的道徳を、そして天皇的近代日本の国民道徳を教説的起源において反芻的に再確認し、経典的起源によってその聖性を高めるためにくりかえし読まれることになるのである。それは孝の教説だけではない。『論語』そのものが天下・国家的経典としての意味を後世的世界にもっていたのである。もちろん為政者の政治的な意志だけが『論語』をこのような天下・国家的な経典にしていったのではない。天下の経典としての普遍的な意味をそこから読み出す学者たちの解釈が、『論語』をまさしく経典たらしめていったのである。『論語』をこのような普遍的経典たらしめていった解釈者とは他ならぬ朱子である。朱子によって『論語』ははじめて、中国だけではない東アジアの読書人世界に普遍的経典として与えられていったのだ。だから近世日本の徳川的天下において『論語』は朱子の解釈によってはじめて普遍的経典となったということができる。『論語』とは『論語集注』であった。『論語』は朱子の『論語集注』として近世の日本人に与えられ、そして読まれていったのである。
       この『論語集注』としての『論語』というあり方に疑義をもったのは伊藤仁斎であった。彼は古学あるいは古義学という『論語』を読むための新たな視点と方法とを提示した。私の『論語』の読みはこの仁斎にしたがう形で始められた。だが仁斎にしたがって『論語』を読み進めるうちに、彼の『論語古義』がもつ本質的な意味を私は知ることになった。『論語』を仁斎はただの人の立場から読んだのである。それを仁斎が使用する言葉でいえば「日用人倫」の立場である。京都の町人である仁斎は終生市井の一儒者であった。ここには衝撃的な事態があるのである。『論語』はいま町人である一儒者によって読まれ、その全編の注釈がなされているということである。その成立以来、為政者階層に属する人びとの手中にあった『論語』は、いま市井の一町人儒者によって徹底して読まれるものとしてあるのである。彼はただの人の立場から『論語』を読むのである。当然それは朱子学批判の形をとる。もはや彼は皇帝的(将軍的)天下の普遍的教説を読み取ることはない。彼はただの人びとの自立的生活の基盤をなす教えを『論語』に読むのである。彼は己れのための教えを読むので、人に与える教えを読むわけではない。『論語』の読み方を私は仁斎に教わった。かくて市民の立場から、市民とともに読む『論語』の講義は始まった。
       もう一つ私の『論語』講義から引こう。それは「政を問う」と題してした講義の一節である。

      [顔淵第十二・第十七章]
      「季康子、政を孔子に問う。孔子対えて曰く、政は正なり。子、帥いるに正を以てせば、孰れか敢えて正しからざらんや。」
      ○諸橋轍次の訳によってこの章の意味をまずとらえておこう。「魯の大夫の季康子が、政治の要道を孔子に質問した。これに対し孔子は、政という字の本義は正である。あなたが正道を以て人民の先頭に立って行かれるなら、人民は誰一人として正しくならないものはありますまい、と答えた。」(諸橋・論語の研究)。
      ○漢和辞典によって「政」字はこう解かれている。「会意形声。人を鞭撻して正道に導くこと。故に正と攴を合してその義を示す。転じて国家を治め人民を正す義とす」(大字典)。「政」字の成立からすれば、「政は正なり」とは、政治とは人民を正しく導くことだということになる。その正しさとは人民を鞭打ちながら与えていくものである。だが人民を鞭打ちながら与えることが正しいのか。それは決して人民における正しさではない。それは人民とっては不正義であり、不公正である。孔子が季康子に向かって「政は正なり」といったとき、人民を正せといったわけではない。むしろ「あなたの政をその本義にしたがって正せ」といったのである。正されなければならないのは、私党の具となってしまった政治の逸脱である。「政は正なり」とは、だから政治とは私党の正しさの押しつけではない、民が求める公正の実現でなければならないということである。それが孔子における「政」の本義である。字の本義によって事柄を正すというのは、その事柄の本来に立ち返って、現行の逸脱を直すことである。それは革新の正道である。『論語』をわれわれが読むというのは、人間の事柄の本来に立ち返って考えるためである。「政は正なり」と、われわれはいま声高くいう必要がある。
      なお季康子は魯の大夫、季孫氏の七代目。孔子の門弟冉有・子貢・子路らを任用した。だがここで「政は正なり」ともっとも原則的な批判を孔子にいわれているように、その政治における無道がたえず咎められていた。

       私が市民講座でこのように語ったとき、私と同年輩の聴講者が、「儒教は民主主義ですね」と感想をつぶやくようにいった。私はあわてて訂正するような言葉をいった。「私が孔子の言葉をこのように読むからといって、儒教がこのようなものであるとはいえない」と。だがそう答えたとき、彼の感想を私は勘違いしたのかもしれない。彼は「儒教は民主主義ですね」という感想をもって、あるいは私の読み方に賛意を示す積もりであったかもしれないのだ。季康子に向かって「政は正なり」という孔子の言葉を、彼は「これは民主主義だ」と聞いたのである。そのことを彼は、「儒教は民主主義ですね」という感想としてもらしたのであろう。正義とは与えるものでも、与えられるものでもない。与えられる正義とは不正義である。「政は正しくあれ」と為政者にいうとき、それは正義とは民の求める公正としてあるべきことをいっているのである。私はその聴講者とともにいいたい。「これは民主主義だ」と。
       なぜ『論語』なのか、という問いにすでに私は答えている。『論語』を私がこの日本で市民とともに、市民の立場から読むことと、私が中国の「08憲章」を支持することとは別のことではない。


      4 共闘の条件
       平和が開発という名をもって輸出されるとき、それはその地における居住者の自立的生活基盤を崩しながらなされる現代化であるといった。崩されるものには、もっとも大事な自然的基盤もある。二一世紀のグローバル資本主義は人間の自立的な生活基盤の壊敗をまさしく全球的に進行させていった。そしていまわれわれは世界恐慌という名を、恐れつつ付けざるをえない世界的な経済危機の中にいる。しかしその危機からの脱出を、ことにわれわれの国の政府はただ危機を先送りする形で遂げようとしているだけのようだ。そのつけはさらに何倍もの重さで、まったく不公正に社会的弱者の上にのしかかってくるだろう。これは数年先の将来を考えるものならだれにも分かることである。しかしだれにも分かっているけど、日本の何も変わらないし、変えられない。社会的弱者における不公正をただ増大させていくようなこの国の政治体制とは民主主義といえるのか。日本国憲法は国民主権という民主主義がわが国家原理であることをいっている。だが人びとのその居住地における自立的生活基盤をこわし続け、社会的弱者における不公正をひたすら増大させていく政治を、どうして民主主義というのか。民主主義とはただ中国の課題なのか。中国の「08憲章」を読んでみよう。
      「法律があっても法治がなく、憲法があっても憲政がなく、依然として誰もが知っている政治的現実がある。統治集団は引き続き権威主義統治を維持し、政治改革を拒絶している。そのため官僚は腐敗し、法治は実現せず、人権は色あせ、道徳は滅び、社会は二極分化し、経済は奇形的発展をし、自然環境と人文環境は二重に破壊され、国民の自由・財産・幸福追求の権利は制度的保障を得られず、各種の社会矛盾が蓄積し続け、不満は高まり続けている。」
       われわれはここに中国における一党支配的政治体制によって深刻度を増大させているが、しかしわれわれと同じ社会的危機があることを知るだろう。私は中国も日本も変わりはないということで、中国における事態の深刻さを過小視するつもりはない。ただ「08憲章」が「人間性の腐敗」といい「道徳の滅亡」という事態として進行している社会的・人間的危機のわれわれとの共通性をいいたいのである。もし上の文章を「08憲章」のものとことわらなければ、これはわれわれにおける危機を訴えるものともいえるのではないか。違うとすれば、われわれに見せかけの民主主義があるというだけだ。「08憲章」のこの言葉にわれわれに共通する社会的・人間的危機を認識するならば、その危機の認識こそ海を隔てたわれわれの共闘の条件だということができる。
       私は「08憲章」を支持する。そして私は『論語』を市民とともに、市民の立場から読み解いていく。それは人間的、社会的危機に対する、「08憲章」の署名者たちとの私における共闘である。

  •              [『環』 37号・特集「民主主義とは何か」・09年5月30日発行]
私のコラム 35


 
遅れて来た署名者 ─私にとっての68年
  •  東大の医学部で始まった学生たちの闘争は、やがて文学部に波及した。六八年当時、私は文学部倫理学研究室の助手をしていた。ある時、学生たちの議論の場に出て私はこの闘争の目的は何なのだと訊いたことがあった。一人の学生が、それは「自己否定」だと答えた。この答えに私は呆然とした。「自己否定といったことで闘争をするのか」と私は言葉を返した。だがこの「自己否定」という言葉に、解体的暴力をともなった激しい闘争の間中、私は引っかかりを感じ続けた。大学の構内を埋め尽くすゲバ棒をもった学生たちのエネルギーに圧倒されながら、いまここで起こっていることが何であるのか、当時の私にはまったく分からなかった。
  •  六九年の一月、安田講堂落城の凄惨な場面を、それをただ高見の見物をする東大教授たちの背後で私もまた立ち竦むようにして見ていた。その年の四月、なおバリケードで封鎖されている横浜国大に新任教師として私は赴任した。だが教師になったものの、その年の暮れまで私は大学構内に入ることはできなかった。ほとんど連日学外で教授会という会議だけが開かれ、それに出席していた。だがその会議で解決への討議がなされたわけではない。大学も教師もひたすら時間を待っていたのである。警官隊を導入して封鎖を解除するぎりぎりの時間を見計らっていただけなのだ。新任教員である私ははじめの数ヶ月はただ沈黙して事態の推移に堪えていた。しかしやがて私は我慢ができなくなった。ただ時間待ちする大学と教師たちの無責任さに対して、私は抗議の発言を始めた。発言を始めるや私は直ぐに全共闘派の教師の一人に数えられることになった。全共闘派の学生たちとの対話の機会はそれから生まれた。私が長い教員生活で学生から教わったのは、新任教師のその時期だけだろう。彼らは状況との関わりから知性を鋭角化させていた。大学とそこでの研究や学問の政治的、制度的本質を鋭く衝く学生たちの追及に、たじろぎながら、やがて私は彼らと問題を共有していった。あの「自己否定」という闘争の意味も、私はこうして理解していった。
  •  警察力によって大学の封鎖は解除された。七〇年の一月から大学の授業は再開されることになった。大学は正常化されたのである。しかし二年間の紛争を通じて大学の何が変わったのか。大学がそれまでまとっていた神聖な権威はたしかに叩き壊された。だが学問の府はこれを機に、すでに重くなった権威の衣を脱ぎ捨てて、軽々と企業体・経営体へと変身していったのではなかったか。二年間の紛争に対応しながら、大学の教師たちはあらためて管理者として自覚していったのである。教授会は管理者の会議に姿を変えていった。そしていわゆる大学改革が始まったのである。その改革の行き着いた先が何であるかを、われわれはいまはっきりと目にしている。法人企業体としての大学である。
  •  七一年に私は当時の西ドイツの、やはり紛争後のミュンヘン大学に留学した。西ドイツにおける六八年の反権威主義的学生闘争は社会の上にも大きな影を残していた。帰国後、私は大阪大学に移った。それから八〇年代にいたる十年間は私にとって、あの六八年闘争における解体のモチベーションを思想的作業のなかで煮詰めていく過程であった。フランスのポスト構造主義者とパラレルな思想経過を辿りながら、そして彼らの著書に多くを学びながら私の中にはっきりとした思想的、方法的立場が形成されていったのは八〇年代の半ばにいたってである。六八年の学生たちは丸山眞男の研究室を物理的に解体した。八五年にいたって私はやっと丸山眞男の思想的解体に着手した。八五年に私はドイツ・テュービンゲンで『「事件」としての徂徠学』(青土社、一九九〇)の序章をなす丸山批判の論文を書いた。『近代知のアルケオロジー』(岩波書店、一九九六)にまとめられる日本近代における学的達成の批判的解読作業はそこから始まったのである。
  •  アラン・パディウはデリダたちを六八年革命の歴史への共同署名者と呼んだ。デリダの死によって、彼らによって署名された歴史的時間が消滅したという印象をパディウは語っている(「ジャック・デリダへのオマージュ」。別冊『環』13)。このいい方からすれば私は六八年の解体的闘争の歴史への遅れた署名者であるだろう。だが遅れた署名者は、ポスト六八年のこの歴史に向かってわれわれが署名した歴史は終わったといってはならない。われわれが署名したのはこの歴史ではないといわなければならない。大学もまた企業体となり、軽々と政治と産業に癒着していく大学と教授どもの現在にいまこそ否といわなければならない。いま必要なのはお祭り騒ぎの解体作業ではない。なされねばならないのは学問と文明の市民による根気強い組み替え作業である。
  •                   [『環』 33号・特集「世界史の中の68年」・08年4月]
私のコラム 34

 
 小田実のために

  •  小田はいつでも其処にいた。小田とはいつでも其処にいる人であった。其処とは何処か。其処とは何処でもない此処である。此処とはわれわれの住んでいる此処、われわれの間、小田がただの人という市民の生活する場である。

     少年の日の小田にとって此処は、空爆というただの市民への無意味な死の強制から逃げまどった廃墟の大阪であった。戦争とはただの人びと、子供たちにとって無意味な、強いられた死、すなわち難死の体験としてあった。それが二〇世紀の総力戦といわれる戦争であった。少年小田は廃墟の大阪の其処にいた。彼は大阪の其処をずうっと心のうちに持ち続けた。彼は其処の記憶を失うまいとし、其処から決して逃げ去ることはしなかった。あるいは逃げようにも逃げられなかった。彼をわずかな証人とも頼む死者たちがいたのだし、彼を生き残らせたわずかな偶然は、生き残らなかったものの忘却を許さなかったからである。彼が心に持ち続けた其処は、歴史の現場となった。大阪の其処は、此処として、小田が立つ現場としてよみがえった。

     現場とは、人が見て見ぬふりをすることのできない、立ち去ることを許さないような其処である。其処が事件の現場となることによって、立ち続けねばならない此処となる。事件記者たちにとって現場とは、飛んでいって取材すべき事件の発生現場であって、決して彼が日常に住む其処ではない。だが小田は日常に人びとが住み、歩く其処に事件の現場を見た。其処が見て見ぬふりをすることのできない現場であることを言い続けた。ベトナム戦争はたしかに見て見ぬふりをすることのできない世界の現場であった。だが一九六五年に「アメリカはベトナムから手を引け」というスローガンを、ただ一九五五年のたとえば砂川の「ゴー・ホーム・ヤンキー」というスローガンの延長として書き、叫んだ人たちにとって現場とはあくまでベトナムの樹林にあって、私たちの住んでいる日本にあったのではなかった。私にとってもそうであった。だから小田は私にとって再発見されねばならなかったのである。

     一九六五年二月七日にアメリカはいわゆる北爆を開始した。この爆撃の命令を発したのは、アメリカ空軍参謀長カーティス・ルメイであった。ルメイはその時、「ベトナムを破壊しつくして、石器時代にもどしてやる」と公言したという。そのルメイこそ少年小田が逃げまどった大阪の爆撃をはじめとする日本都市の壊滅的爆撃を指揮した司令官であった。彼は日本の都市爆撃の方法を革命的に変えた。ルメイは高度千メートル、千五百メートルの超低空から無差別、無目標、無数に焼夷弾を投下して都市の住宅地を焼き尽くす作戦に切り替えた」のである。小田は『終らない旅』の主人公に語らせている。テレビに見る北爆の場面が、はっきりと大阪の爆撃の場面に重なってくることを。しかもその両方の無差別殺戮の爆撃を司令しているのは同一の米空軍司令官であったのである。一九六五年の北ベトナムの其処は、少年小田がいた一九四五年の大阪の其処に重なりながら、他人事ではない、見て見ぬふりをすることのできない現場になるのである。

     だが北ベトナムの其処を、かつての大阪の其処に重ねながら、いくら思い入れを深くしても、ベトナム戦争の現場とは北ベトナムの其処であって、日本の、大阪の此処ではない。そうであるかぎり、ベトナム戦争への反対は同情と同苦の感情を出るものではない。だが小田のベ平連を支える思索と行動とは、むしろそこから先にあるのだ。六五年の日本、この経済成長期に入った日本の平和に繁栄する其処に、小田は他ならぬベトナム戦争の現場をとらえていくのである。六五年の「日本の平和」は、ベトナムにおける殺戮を遂行する「アメリカの平和」と一枚のものであった。われわれは己れの平和を享受しながら、ベトナムで殺すアメリカに加担しているのである。「殺される側」に同苦の思いをもったものが、いつしか「殺す側」に組み込まれ、それに加担している重い事実に気づくことこそが、日本の生活する此処をベトナム戦争の現場にしていくのである。此処を現場にしていったものに、政治と戦争の仕組みが、「殺すもの」と「殺されるもの」との関係の仕組みがますます明らかにされるのだ。小田のべ平連の運動は日本の此処を現場とすることで始まった。

     べ平連の運動はひとりひとりの行動であった。ひとりひとりが立ちあがることで、その生活の場を現場にしていった。小田は書いている。「自分で行為に乗り出して行ったからと言って、彼はそこでふだんのくらしの「場」の外に飛び出て反戦平和の活動家に、まして日本の大変革を夢みる革命家になつたのではなかつた。小田は市民を、「ただの人」といい、「生きつづけるもの」ともいう。「生きつづけるもの」とは、ウンザリするような日常の生を、しかしなおそれを自分の生として生きていこうとするもののことである。小田はこの「生きつづけるもの」の同調者として、あるいはその一人として生きようとした。生きようとするそのことが、その生の場をたえず逃げることの許されない現場にしていったのである。市民運動とは、ただの市民が「そのありようの居ぬきのままで」立ち上がることである。そのことで自分のいるこの場を、逃げようのない現場にしていくのである。小田のべ平連の運動は、ただの人びとによってこの世を変えることの可能性を教えたのである。

     一九九五年一月一七日の阪神・淡路大震災による被災の体験は、半世紀前の難死の体験を小田に重ね合わさせた。被災の体験とは大規模な棄民の体験であった。かつて国は人びとに大量の無意味な死をもたらした。いま国は多数の見棄てられた民を生み出しているのである。自然の災害と人災のひどさが一瞬にしてみんなを棄民にしたと小田はいう。だが棄民は助け合った。棄民は棄民であることによって、おたがいの関係は対等で、平等であったからだと小田は書いている。棄民であることによって、日常の生があった其処に「共生」と「共助」の被災者の市民運動が生まれたのである。被災の其処は共生のための現場になったのである。「難死」の体験は小田にとって戦後日本を立ち会わざるをえない現場にしていった。その現場は小田に殺されてはならない、そして殺す側には決してならないための市民の平和の条件を求めさせた。「被災」の体験は小田にとって世紀転換期の日本を立ち会わざるをえない現場にした。その現場は小田に生きていくための人びとの共生的社会の条件を求めさせた。共生とは人と人とであるとともに、人と自然とである。

     小田は其処にいつづけた。「ヒドイね」とうめくようにいいながら、ひどい国の、ひどい政治の日本の其処に、自分たち市民が生き、学ぶことのできる基本法を共同して作りながら小田は其処にいつづけた。小田は其処を現場にしていつづけた。なぜならよりよい明日は、其処からしかこないからである。小田はいっている。「よりよい「明日」は「今日」の現実と無関係に存在しているものではない」と。

     小田は死んだ。人びとは大急ぎで追悼した。この追悼の立派な言葉とともに小田は死者となった。もう其処にいない死者となった。死者とは人びとが作り出していくのである。死んだものが直ちにあの世の死者になるわけではない。思いを残した死者の魂はいつまでもこの世にいるのである。生きる小田は其処にいつづけたのである。死んでもなお小田が其処にいつづけたとしたら、ひどい国のひどい政治家どもはきっと震えあがるだろう。小田はきっと其処にいつづける。われわれが其処を立ち去ることのできない現場とするかぎり、小田はわれわれとともに其処にいつづける。それが死者との共闘であり、ほんとうの弔い合戦なのだ。


私のコラム 33
 
  
  『国家と祭祀』の中国語版序─中国の読者に
 

  • 「国民の本質とは、すべての個人が多くの事柄を共有し、また全員が多くのことを忘れていることです」とは、フランスの宗教史家エルネスト・ルナン(1823−92)が「国民とは何か」と題した講演中で語った言葉である。それに続けてルナンは、「いかなるフランス市民も、聖バルテルミの虐殺、十三世紀の南仏で起きた虐殺を忘れていなければなりません」といっている。輝かしい英雄的歴史の記憶と陰惨な歴史上の事件の忘却を人々が共にすることによる「国民」の形成をいうルナンの言葉は、近代「国民」概念が孕む問題を鋭くわれわれに突きつけている。すなわち「国民」の形成も、その変成も、あるいはその再生も「歴史問題」を離れてはないことをわれわれに告げているのだ。

    二十世紀的世界に生きる人々の運命を厳しく決定づけたような世界戦争が終わったとき、この戦争の記憶を保持し、忘れないという誓いとともに新しい世界も、新しい日本も出発したはずであった。だが日本人はこの戦争の何を記憶していったのか。ヒロシマとナガサキの惨劇を記憶し、その犠牲者を追悼する集会は、反核という人類の願いを担いながらではあるが、世紀を越えた現在にいたるまで終始続けられてきた。

    だが中国に、韓国に、そしてアジアの諸地域に残していった日本帝国の巨大な爪痕の何が日本人に記憶されていったのだろうか。最近、私は日本の若い映像作者によるドキュメンタリー・フィルム『にがい涙の大地から』を見た。それは中国東北部で旧日本軍が残していった遺棄兵器(その中には毒ガスなど化学兵器もある)によって傷つけられ、病に冒され、殺されている人びとの記録である。それは現在もなお中国の人びとを苦しめ続けている日本の戦争による加害の事実である。十年来、毒ガスによる喘息に苦しむ被害者の激しく咳き込む声、映された画面の中から聞こえてくるその声は、あの兵器とともに日本人が遺棄し、忘れようとしている戦争の過去が、彼らの苦しみとして続いていることを教えている。あの咳き込む声を聞くことは、日本人にとってはつらいことである。耳を塞ぎたい。だがあの声をきくことからしか、われわれがアジアの人びとと共に生きるための何ものも生まれはしないだろう。

    靖国参拝という形で維持しようとする日本人の戦争の記憶とは、あの遺棄兵器が現に中国の人びとを苦しめているように、靖国が中国や韓国の人びとにとっては苦痛の記憶でしかないことの無視の上に維持されようとする記憶であるだろう。他者の苦痛の忘却あるいは無視の上に、ただ己が国家あるいは民族の栄光の持続の願いとともになされるこの記憶の持続とは、独り善がりの歴史の主張でもある。それは自国の歴史への反省を自虐史として排斥して、一国日本の誤りのない持続、正当な歴史的展開として近現代史をとらえ直し、読み直そうとする歴史見直し論者・歴史修正主義者の主張でもある。日本の首相によって継続される靖国参拝を、国内的に支えている言説とはこの歴史見直し論である。そして彼ら歴史見直し論者は、台湾神社を造り、朝鮮神宮を設営した日本帝国の祭祀体系であり、イデオロギー体系でもあった「国家神道」を幻影としてしか存在しなかったごとくにいうのである。したがって私の『国家と祭祀』はこの歴史見直し論との批判的抗争の形をもって始めざるをえないのだ。


    だが私が本書でする歴史見直し論との思想的抗争は、二十一世紀のいま、一九四五年における日本の再生と新たな出発の意味を積極的に再確認するためのものでもある。戦わない国家としての新生日本の出発は、祀らない国家としての出発でもあったのである。靖国参拝と歴史見直し論とは新生日本の憲法におけるこの二つの国家原則の見直しの主張でもあるのだ。だから日本における戦争の記憶のあり方をめぐる、まさしく日本人の歴史認識の問題をめぐる私の思想的抗争は、一九四五年の日本の再生を再確認しながらなされる、二十一世紀日本の国家原則に向けての思想的抗争でもあるのである。この思想的抗争は、アジアにおける無数の死と苦痛とをもたらした戦争の記憶を忘れないための抗争であり、それはまたアジアにおける日本の真の共生のための抗争でもあるはずである。


    日本における靖国問題をめぐる、また憲法問題をめぐる私たちの抗争的運動は、アジアにおける日本の真の共生を求めてなされる運動である。それは中国や韓国の、そしてアジアの人びととのほんとうの連帯を求めてなされる運動である。日本の歴史問題をめぐる思想的抗争の書『国家と祭祀─国家神道の現在』の中国語版の刊行が、日本と中国とのこの連帯をいっそう促すものであることを私は確信している。



    私の『国家と祭祀─国家神道の現在』は、今回、董炳月氏のご厚意とご努力によって中国語訳され、中国の読者たちに提供されるにいたった。私が本書でする歴史問題をめぐる思想的抗争が中国の読者に共有されるにいたったのである。アジアにおける歴史問題と歴史認識の人びとにおける共有は、アジアにおける私たちの共生への基礎でもあり、前提でもあるだろう。この書の中国語訳が、この歴史問題の共有とアジアにおける私たちの共生への前進を助けるものとなれば、著者にとっても大きな喜びである。

    [『国家と祭祀』の中国語版のために書かれた序文である。本訳書は三聯書店から本年5月に刊行された。]

  • 「日本近代思想批判」韓国語版の序
  • いま金錫根氏の翻訳によって韓国の読者の手に届けられようとする私の著書『日本近代思想批判─一国的知の成立』は、もともと『近代知のアルケオロジー─国家と戦争と知識人』というタイトルで発行されたものであった。岩波現代文庫の一冊として再版する際に、前者の書名に変更されたのである。この文庫版におけるタイトルの変更によって、たしかにこの書は人びとの理解を得、より多くの読者をもつこともできた。だがこの書を構成している諸論の思想的な立場も方法も、よりよく伝えているのは後者のタイトルである。
  • 私がそこでいう「近代知」とは何か。だがそれに答える前に、東アジアと日本の「近代」をどう考えるかに私は答えねばならないだろう。私が「日本近代」といい、あるいは「近代知」というとき、その近代とはどこか西方にあるものでもないし、いまだここに実現していない理念としてのものでもない。「日本近代」とは、東アジアにおける世界史の過程で日本帝国を実現していった日本の近代をいうのである。したがって私の問いとは、日本帝国として実現していった「日本近代」とは何かを問うことであり、その帝国に形成されていった「近代知」とは何かを問うことでもある。
  • 私のこの問いのあり方は、「日本近代」への近代主義的問いのあり方への批判からなるものであった。「日本近代」の先駆性を自賛するおめでたい近代主義者は論外である。私が問題にするのはマルクス主義者を含む批判的な近代主義者の言説である。彼らは「日本近代」の未完成をいい、その偏曲を正そうとし、あるいはそのアジア的後進性を指弾してきた。私はそれらの言説がすべて無意味だというのではない。たしかにそれらは20世紀の日本国家と社会への貴重な批判的言説であった。だが近代市民社会なり、何らか近代的理念を前提にしているこの近代主義的な批判的言説は、すでにそれとして「近代」を実現するものであった帝国日本の十全な批判的な言説たりえないのではないか。ましてやそれらはこの帝国日本に成立する「近代的」な知識と学問の自己検証的な批判的言説たりえないのはないか。私が「近代知のアルケオロジー」という新たな問いを設定したのは、近代主義的問いへのこの疑問からであった。「近代知のアルケオロジー」としてのこの書が、日本の丸山真男に代表される近代主義的言説に対する私の批判的論及をも含んでいるのはそのゆえである。
  • 「近代知のアルケオロジー」とは、たとえば国史や国語が国家とともに自明な一国的な歴史学、一国的な言語学として存立するそのあり方自体を問うことである。それらの存立の自明性そのものを問い返すことである。そのことは近代日本で「国語」概念のほかになぜ「日本語」概念を構成し、併存させてきたかを問うことに連なるだろう。近代日本は一国的な知を日本民俗学、日本精神史などなどとして成立させるとともに、他者をめぐる知をシナ、インド学などとして成立させていった。この近代的な学知であるシナ学は、中国へのどのような眼差しをもって成立するのか。その眼差しが、帝国日本に成立するものである理由はどこにあるのか。「近代知のアルケオロジー」が追究するのはそのことである。
  • 私が日本帝国に成立する近代的な知や学をめぐるこれらの批判的論文を書いていったのは、日本の戦後50年がいわれた時期であった。それは国家と戦争の世紀というべき20世紀が過ぎようとする時期であった。私の「近代知のアルケオロジー」はそれゆえ20世紀日本の自己検証としての歴史認識の課題をも負うものであった。その書『近代知のアルケオロジー』が「国家と戦争と知識人」の副題をもっていたのはそのゆえである。
  • 20世紀日本の自己検証としての本書がなお多くの欠点と不足とをもつものであることは著者自身が認識している。この書がこの度、金錫根氏の翻訳によって韓国の読者に提供されることは、この書のそうした欠点を正し、20世紀東アジアの歴史認識を21世紀の将来に向けて前進させるための貴重な機会となると私は信じ
  •  [『日本近代思想批判』の韓国語版の序として書かれたものである。本訳書は歴史批評社から本年4月に刊行された。]

私のコラム 32

 
 歩くことから始まる
  •  季節によって違いはあるが、毎朝起床後、五蒔から六蒔の間に私は歩き始める。川崎市の北部登戸の多摩川べりに住んでいる私は、土手の上の散歩道を川下の二ヶ領用水の堰堤の方に向かって歩き始める。やがて東名高速道路の橋が見えてくる。その辺りから引き返すのである。大体往復四五十分ほどの距離である。自然にスウーと軽く歩き始めるときは、爽快な一日がこれから始まることを予感させる。しかし体調も気持ちも重いときは、このウォーキングによって体も心も整うことを期待しながら歩いていく。歩くことによって私の一日は始まり、その日の調子も整えられるのである。
  •  歩くことこそ始まりなのである。人の一日にとっても、あるいは一生にとっても。ヨチヨチ歩きを始めた赤子に、親はこの児の一人立ちの門出を喜ぶのである。みずから歩くことで人は一人立ちし、健全な人となっていくのである。人が歩くことを忘れたとき、病いはすでにその人を犯しているのであろう。私も家内も大学を勤め先とし、共稼ぎの生活を長い間してきた。したがって私は食事を作ったりすることを苦にしない。いまでも家族のために買い物し、食事を作ったりする。しかしその都度私は、これがもっとも健康なことだと思っている。みずから歩くこともせずに食事にありつくことは、それ自体不健康で、病んだことではないのか、と。己れによって生きようとするなら、みずから歩き始めねばならない。
  •  私は毎朝、川を眺め、花を見、渡り鳥を眼で追ったりするだけではなく、河原を住処とする人びとの様子を見、川べりのラブ・ホテルをも観察しながら歩いていく。眼をあたりの風景にまかせながら歩けるときが、一番調子の良いときである。物思いにふけって行くのは、歩くことではない。人には考え込まざるをえないことはいくらでもある。だが、ともかくそれを忘れて歩き出すことである。歩き出すことで、解決の糸口が見つかったことが私には数度ならずある。おそらく哲学者たちも、哲学の道を哲学しながら歩いたわけではないであろう。彼らも歩くことで思いを解きほぐし、精神の糧をもえたのである。
  •                                    (06年8月20日)

  • [日本万歩クラブ会員誌「帰れ自然へ」に寄稿したものである。]
私のコラム 31
 
 韓国高校生の質問に答える

  • 子安宣邦先生
  • こんにちは。私たちは、韓国の盆唐(ブンダン)にあるソヒョン高校の英字新聞クラブの生徒です。今回は、貴重な講義を聞かせてくださいまして、本当にありがとうございます。
    講義を聴くだけでは高校生が理解するのに難しい点もあるため、私たちクラブの者だけではなく、学校の読者の理解を深めるために、直接質問をさせていただくことにしました。
    お忙しい中申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。
  • * 質問*
  • @  韓国では今日(5月15日)は、 「先生の日」です。子安先生が影響を受けた先生はいらっしゃいますか。いらっしゃいましたら、その先生について詳しく教えてください。
  • A  さまざまな分野の中で、日韓の歴史に関して特別に関心を持たれるようになったきっかけは何でしたか。
  • B  日韓における歴史的葛藤を解決に導くための方向と、今回の講義を通じて先生がお話されようとしたことを教えてください。
  • C  先生のお考えは、日本では受け入れられにくかった点もあったかと思いますが、これと関連したエピソードがあれば教えてください。
  • D  教育者として、学生たちに託したいことがありましたら教えてください。
     

  • 高校生の皆さんへ。
  • 私の講義の聴講者のなかに高校生を見出したことは、私にとって驚きでありました。私も主催者も予想しなかったことでした。私の講義に寄せられた皆さんの熱意と関心の高さに敬意を表します。以下、ご質問にお答えします。

    @  私が基礎教育を受けた時期は太平洋戦争中から戦後の混乱期にかけてです。社会的激動と変動の時期でした。すぐれた教師に出会うことの難しい時期でした。私は身近にいる兄たちとともにこの激動をくぐりぬけて行きました。私にとって教師はむしろ社会そのものであったといえます。朝鮮戦争の勃発とともに私は大学に入りました。反戦運動が当時の私たち学生の課題でした。落ち着いて勉強するようになったのは随分後のことです。その時、東大で金子武蔵という倫理学の先生に出会いました。金子先生は厳しい先生でした。それは自らの学問に対する厳しさでした。先生は講義や演習をいささかもゆるがせにしませんでした。先生は学生を共に学問するものとして対等に扱いました。学生は先生のその期待に応えねばならなかったのです。私は金子先生に真の学者と同時に真の教育者を見出しています。
  • A  私が日韓関係に特別な関心をもち、発言するようになったのは、日韓関係の重要さの認識だけではすまない問題があると知ったからです。すなわち、日韓関係は日本人の自己意識のあり方に深くかかわっていると知ったからです。私が今回の講義でも話しましたように、歴史を通じて日本は隣人韓国との深い関係を隠し、消し去るようにしてきました。隣人である他者との関係を消し去って得られる自己意識は正常なものではありません。私は歴史認識を通じてこの日本人の自己意識のあり方を正さねばならないと考えたのです。私の発言はそこから始まりました。
  • B  まず韓国も日本も21世紀の現在、アジアと世界の平和にとって責任をもつ国であることを自覚することです。ともに手を携えていくためには歴史問題をきちっと解決しなければなりません。それは国家のレベルだけではない、市民のレベルでもしなければならないことです。この点で努力をしなければならないのは、もちろん加害の側にあります。私の日本における発言もこの努力を促すためのものです。ただここで高校生のあなたがたに望みたいことは、韓日関係の歴史を世界の近代史のなかで認識されることです。なぜアジアで早く先進国化した日本が韓国を植民地化したのかを、近代世界史のなかで認識されることを私は望みます。20世紀の歴史をこえて、ともに21世紀の現在に手を携えて立ち向かうには世界史としての歴史認識が必要です。
  • C  もちろん私の考えに反対する人は日本に沢山います。しかし同時に私の立場を支持する人びとも少なくありません。もし私が日本で孤立していれば、そもそも日本での私の言論活動自体が成立しません。知識人の発言は独り善がりのものであってはならないのです。知識人とは人びとの声を代表して発言する責任をもったものなのです。それと外から見ると日本はナショナリズム一色に塗りつぶされているように見えるかもしれませんが、そのようなことは全くありません。むしろナショナリズムに懐疑的な人の方が多いでしょう。その懐疑を、ナショナリズムをこえた立場として思想化し、言語化して発言しているのが私なのです。
  • D  日本から来た私の話を聞きにわざわざ出向いてくれたあなた方の行為こそ、私がもっとも推奨するものです。自らを閉ざさず、つねに外に向かい、他者と交わること。私があなた方に託したいことは以上に尽きます。      
  • [韓国・中央研究院での講義に際して寄せられた高校生の質問に答えたものである。06年5月25日]
私のコラム 30

 
私のデビュー時代
  •  日本思想史家としての私のデビュー作は『宣長と篤胤の世界』である。当時の中公叢書の一冊として一九七七年に出版された。すでに四〇歳を越えていた私にとって、これが処女作であった。かなり遅い出発である。しかし戦後の五〇年代に学生時代を過ごした私たちにとって、そうすんなりと人生の方向が見出されたわけではない。思想史研究者であることも、二転も三転もしながら私がとった道であった。
  •  数年の社会生活を経て私が再び大学に入り、大学院に進んだのは六〇年代であった。そして六〇年代の末、大学紛争の巻き起こる時期に東大の助手となり、そして激しい紛争のさなかの横浜国立大学に私は講師として赴任したのである。七〇年代に入って私は紛争後の大学を逃げ出すようにしてドイツのミュンヘン大学に留学した。当時のドイツの大学にも紛争の余燼はなおくすぶっていた。私の処女作『宣長と篤胤の世界』の成立の背景にあるのは、この六〇年代末から七〇年代初めにかけての時期、すなわち世界的な大学紛争の時代であった。
  •  あの紛争とは何であったのか。大学とそこでの研究や学問の政治的、制度的本質を鋭く衝く学生たちの追及に私は最初たじろいだ。やがて私はその追及の意味を理解し、彼らと問題を共有するようになった。当時、その紛争で真に追及されねばならないものは何かを当事者も、その周辺にいるものも分かってはいなかった。ただ解体せねばならないものがそこにあると考えていたのである。その解体への激しい衝動がおさまり、世が高度経済成長の時代に入っていったとき、この解体へのモチベーションは私の思想史的作業のなかで煮詰められていった。フランスのポスト構造主義とパラレルな思想経過を辿りながら、そして彼らの発言に多くを学びながら私のなかにはっきりとした思想的、方法的な立場が形成されていったのは八〇年代の後半にいたってである。『「事件」としての徂徠学』(一九九〇、青土社)が私の第二のデビューを記す著作となった。
  •  『宣長と篤胤の世界』で模索的に問い始めたことを、私は『「事件」としての徂徠学』で答えを出したともいえる。前者で私はこわごわとある方向へと歩み始めたのである。宣長のテキストから宣長という思想実体の発する肉声を聞き取る小林秀雄の宣長論、『新潮』連載中のこの大家の作業を傍らに見ながら、私は言説論的転回ともいうべき新たな読みを宣長のテキストに対して行っていった。宣長はそのテキストによって何を新たに言い出したのか。彼のテキストの意味とはそこにあることを、私は執拗に主張していった。恐る恐るではあるが、しかし大胆な読みの転回を、私はこの処女作で始めたのである。
     
  • [東京新聞=「私のデビュー時代」:06年2月5日朝刊]