「国民の本質とは、すべての個人が多くの事柄を共有し、また全員が多くのことを忘れていることです」とは、フランスの宗教史家エルネスト・ルナン(1823−92)が「国民とは何か」と題した講演中で語った言葉である。それに続けてルナンは、「いかなるフランス市民も、聖バルテルミの虐殺、十三世紀の南仏で起きた虐殺を忘れていなければなりません」といっている。輝かしい英雄的歴史の記憶と陰惨な歴史上の事件の忘却を人々が共にすることによる「国民」の形成をいうルナンの言葉は、近代「国民」概念が孕む問題を鋭くわれわれに突きつけている。すなわち「国民」の形成も、その変成も、あるいはその再生も「歴史問題」を離れてはないことをわれわれに告げているのだ。
二十世紀的世界に生きる人々の運命を厳しく決定づけたような世界戦争が終わったとき、この戦争の記憶を保持し、忘れないという誓いとともに新しい世界も、新しい日本も出発したはずであった。だが日本人はこの戦争の何を記憶していったのか。ヒロシマとナガサキの惨劇を記憶し、その犠牲者を追悼する集会は、反核という人類の願いを担いながらではあるが、世紀を越えた現在にいたるまで終始続けられてきた。
だが中国に、韓国に、そしてアジアの諸地域に残していった日本帝国の巨大な爪痕の何が日本人に記憶されていったのだろうか。最近、私は日本の若い映像作者によるドキュメンタリー・フィルム『にがい涙の大地から』を見た。それは中国東北部で旧日本軍が残していった遺棄兵器(その中には毒ガスなど化学兵器もある)によって傷つけられ、病に冒され、殺されている人びとの記録である。それは現在もなお中国の人びとを苦しめ続けている日本の戦争による加害の事実である。十年来、毒ガスによる喘息に苦しむ被害者の激しく咳き込む声、映された画面の中から聞こえてくるその声は、あの兵器とともに日本人が遺棄し、忘れようとしている戦争の過去が、彼らの苦しみとして続いていることを教えている。あの咳き込む声を聞くことは、日本人にとってはつらいことである。耳を塞ぎたい。だがあの声をきくことからしか、われわれがアジアの人びとと共に生きるための何ものも生まれはしないだろう。
靖国参拝という形で維持しようとする日本人の戦争の記憶とは、あの遺棄兵器が現に中国の人びとを苦しめているように、靖国が中国や韓国の人びとにとっては苦痛の記憶でしかないことの無視の上に維持されようとする記憶であるだろう。他者の苦痛の忘却あるいは無視の上に、ただ己が国家あるいは民族の栄光の持続の願いとともになされるこの記憶の持続とは、独り善がりの歴史の主張でもある。それは自国の歴史への反省を自虐史として排斥して、一国日本の誤りのない持続、正当な歴史的展開として近現代史をとらえ直し、読み直そうとする歴史見直し論者・歴史修正主義者の主張でもある。日本の首相によって継続される靖国参拝を、国内的に支えている言説とはこの歴史見直し論である。そして彼ら歴史見直し論者は、台湾神社を造り、朝鮮神宮を設営した日本帝国の祭祀体系であり、イデオロギー体系でもあった「国家神道」を幻影としてしか存在しなかったごとくにいうのである。したがって私の『国家と祭祀』はこの歴史見直し論との批判的抗争の形をもって始めざるをえないのだ。
だが私が本書でする歴史見直し論との思想的抗争は、二十一世紀のいま、一九四五年における日本の再生と新たな出発の意味を積極的に再確認するためのものでもある。戦わない国家としての新生日本の出発は、祀らない国家としての出発でもあったのである。靖国参拝と歴史見直し論とは新生日本の憲法におけるこの二つの国家原則の見直しの主張でもあるのだ。だから日本における戦争の記憶のあり方をめぐる、まさしく日本人の歴史認識の問題をめぐる私の思想的抗争は、一九四五年の日本の再生を再確認しながらなされる、二十一世紀日本の国家原則に向けての思想的抗争でもあるのである。この思想的抗争は、アジアにおける無数の死と苦痛とをもたらした戦争の記憶を忘れないための抗争であり、それはまたアジアにおける日本の真の共生のための抗争でもあるはずである。
日本における靖国問題をめぐる、また憲法問題をめぐる私たちの抗争的運動は、アジアにおける日本の真の共生を求めてなされる運動である。それは中国や韓国の、そしてアジアの人びととのほんとうの連帯を求めてなされる運動である。日本の歴史問題をめぐる思想的抗争の書『国家と祭祀─国家神道の現在』の中国語版の刊行が、日本と中国とのこの連帯をいっそう促すものであることを私は確信している。
私の『国家と祭祀─国家神道の現在』は、今回、董炳月氏のご厚意とご努力によって中国語訳され、中国の読者たちに提供されるにいたった。私が本書でする歴史問題をめぐる思想的抗争が中国の読者に共有されるにいたったのである。アジアにおける歴史問題と歴史認識の人びとにおける共有は、アジアにおける私たちの共生への基礎でもあり、前提でもあるだろう。この書の中国語訳が、この歴史問題の共有とアジアにおける私たちの共生への前進を助けるものとなれば、著者にとっても大きな喜びである。
[『国家と祭祀』の中国語版のために書かれた序文である。本訳書は三聯書店から本年5月に刊行された。]