もともと当社は宇都宮の日野町で瀬戸物屋をやっていました。わたしはその三代目になります。四人兄弟の長男で、生まれたときから家業を継ぐのが決まっていたんです。だから、田舎ではよくあることなんですが、ご多分に漏れずにちょっと大事に育てられたかもしれません。どちらかというと勉強は苦手で、外で遊ぶのが好きな、元気な子供でした。
小さい頃から動物が好きで、鳩を飼っていました。伝書鳩のレースに参加したりしていたんです。あの頃の男の子たちはみんなやってましたね。あとは、魚釣り。長い竿を担いで鬼怒川まで自転車を飛ばしていくんです。一日中ねばっても2、3匹しか釣れないことも多くて。それでも夕食の卓に釣った魚が並んでいるのを見るとうれしくて。懐かしい思い出です。
小学校に上がってからは、家業の手伝いもさせられました。湯飲み茶碗を包装するのが最初の仕事。忙しいときは1日200個も包装するんです。その頃は住み込みで働く従業員さんたちが5、6人もいて、夜の8時や9時までは平気で働いているような時代でした。わたしも小さいながら、みんなに負けじと競争しながらやっていました。
昔は正月の来客にあわせて、大晦日になると新しく食器をそろえる家がたくさんあったんです。大家族も多かったので10人分一緒のものをそろえたりなんてことも。また、お寿司屋さんが寿司湯飲みをお客様に配るっていうんで、年末に何百個って湯飲みを箱に詰めて納めに行ったこともあります。そんな感じで瀬戸物屋はそれなりに繁盛していました。オイルショックの前は物のない時代でしたから。
地元の高校に進学した私は、一年生が終わる頃には本格的に家業の手伝いをするようになっていました。商売をしている家はみんなそんな感じだったのです。学校から帰ってくると配達に出たり、裏方の仕事を覚えたり。高校を卒業する頃には一通りの仕事ができるようになっていました。家業は相変わらず盛況でしたが、高度成長期が終わりを迎え、新しい時代の波がこの街にも訪れつつありました。
瀬戸物屋の跡継ぎとして家業に携わりつつ、私は新しい商売を模索していました。というのも終戦から20年がたち、この国の人々の暮らしが大きく変化しようとしていたからです。大家族から核家族へ。家族の形態も、生活スタイルも大きく変わろうとしていました。その影響で瀬戸物屋の売上げはだんだん下がりつつありました。だからこそ、わたしは新しい商売の芽を見つけたいとやっきになっていました。
そのころ、建材商社として渡商を立ち上げた従兄弟から、これからは家族の数が増えるので、その分住宅戸数が増えていくと聞きました。宇都宮でも近いうちに核家族が増えていくはず。もうすでにその兆候は出ていました。そこで、私も住設商品を扱ってみることにしたのです。右も左もわからない中で、たった一人で手探りのスタートでした。
新しい商売を始めるといっても、事務所も倉庫もあるわけではありません。瀬戸物屋に電話を一本引いてみたものの、かかってくることなんてありません。瀬戸物のご贔屓先にお邪魔して、「今度このような商売を始めました。御用向きがございましたらお声がけください」と挨拶に回ってみても、それだけで新参者が仕事を取れるほど甘くはありません。心配する人、馬鹿にする人。周りはいろんな目で私を見ていたと思います。
この商売を始めて少しすると、だんだんと住宅業界特有のしくみがわかってきました。当時は施主さんよりも大工さんがえらかった時代。施主さんは大工さんに「頼み込んで」家を建ててもらっているような状況でした。お医者さんと患者のような関係と言えばわかりやすいかもしれません。なるほど、いくらお客様に営業に行っても反響が得られないわけです。けれど、当然大工さんには日頃から付き合いのある住設商品の業者がたくさんいます。その中に割り込んでいくのは簡単なことではありませんでした。
そこでわたしは価格を大胆に値下げしました。30%から50%近くも値引きした見積を持って行ったのです。そもそもわたしの会社は自分ひとりだけ。社員もいなければ、在庫も持っていません。事務所の家賃もかからなければ、経費もかからないので、価格競争では負けないはずだと。この戦略はあたりました。そうして徐々に工務店さんとの付き合いが広がっていったのです。
また、営業の方法も自分なりに工夫しました。車で走っていると建前をやっている家を見かけます。そうするとその様子を見て、どこの工務店がやっているのかをチェックします。それから頃合いを見計らって工務店さんに訪問するんです。最初は門前払いをされても、「あそこの現場でこのあいだ建前をやっていましたよね?あそこの家だったらこんなお風呂がいいんじゃないですか?今なら安く入りますよ」って具合に話を持って行く。するとそこから商談がスタートするんです。しかも値段は格段に安いワケだから大工さんには喜ばれました。もっとも同業他社さんからは嫌がられたかもしれませんが(笑)。
おかげさまでこんな具合に商売は軌道に乗ったのですが、2年目に最初の転機が訪れます。昭和48年のオイルショックでした。売り先はあるのに品物が入ってこなくなったのです。おまけにガソリン代が跳ね上がって困りました。なんとか商品を仕入れられるようにさまざまな施策を練りました。商品があるときいて東京までトラックを走らせたなんてこともありましたね。
住設商品の下請け商売は、やはり薄利多売の商売です。私はこれ以上商売を伸ばしていくことに限界を感じていました。人数を増やして商圏を広げていくか、もしくは、元請け会社になっていくか。わたしは決断をせまられていました。昭和53年、当時付き合いが深まっていた伊奈製陶(現LIXIL・旧INAX)さんや渡商の社長さんらの薦めもあり、わたしは元請けになる道を選択しました。
まず立ち上げたのは「システムショップ寿屋」という伊奈製陶の商材を扱う元請け店でした。時を置かずにシステムショップより格上のリフォーム店をつくり、「ライファ」の栃木県内1号店になりました。ライファというのは完全にリフォームだけでやっていく事業です。最初はお風呂の据え付けをするところから始めました。お風呂をやるには水道工事が入ってきますから、そのために宇都宮市の公認店を取得ました。これがきっかけで水道も事業としてやるようになりました。
いつの間にか社員数も増え、一時は20人もの体制になっていました。平成12年頃から始めたシャープ製の太陽光発電システムの設置事業も順調に伸び、栃木県内でトップになったこともありました。そしてついに5年前に今の店を構えることができました。店を構えることはわたしにとっては一つの挑戦だったのですが、お客様に安心して、そして、納得して仕事を任せていただくためには、しっかりとした店舗を持つことが大切だと考え、決断しました。
紆余曲折を経ながら創業から42年、設立から37年。お客様のおかげでなんとかここまで歩んでくることができました。これまでわたしたちを支えてくださったお客様には、本当に感謝の言葉しかありません。
子供の頃から母親に言われ続けた言葉があります。それは、「他人様に迷惑をかけるな」ということ。今は、我が道を行くスタイルの経営者も多く、誰がなんと言おうとこの道を進むっていうのも1つのスタイルとしてあるようですが、わたしはずっとこの言葉を聞きながら育ってきたので、もう体に染みこんでいます。
だから、お客様にご迷惑をかけないことをまず第一に考えます。たとえば、電話が鳴ると一秒でも早くでないといけない、駐車場はいつでも車が止めやすいように空けておかなければならない、いつお客様がこられてもいいように、掃除は隅々まで行き届いていなかればならない、と。わたしがそんなことばかり気にするものだから、いつの間にか社員たちもそんな風になってくれました。そのことがわたしにはとてもうれしいのです。
お客様に喜んでいただけるように、そして、気持ちよく暮らしていただけるように。そのことばかり考えて仕事をしてきました。お風呂のタイル一つをとってもちょっとした工夫で美しく仕上げることができます。学校の勉強は苦手でしたけれど、家の設計やデザインの勉強は少しも苦になりませんでした。昭和63年にはその努力が認められ、全国に数百店あるライファ加盟店の中で、5年連続で全国入賞を達成し、マスターの称号を手にするまでになりました。
そうした中で培ってきた気心のしれあった職人さんとの関係は、今の当社の大きな財産のひとつです。みな腕が確かなことはもちろんですが、人間として素晴らしい人たちばかり。こちらから何も言わなくても丁寧に気持ちを込めて仕事をしてくれる。そのことがどれだけお客様に安心感をあたえてくれることでしょうか。彼らにも感謝の気持ちでいっぱいです。
8年前からは娘婿である専務の伸次と二人三脚で経営をするようになりました。これまでわたしが大切に積み重ねてきたお客様との関係、そして、職人さんたちとの関係。その上に、これからの新しい時代のやり方を積み上げていってほしいと思っています。ただし、いくら時代が変わろうとも、変えてはいけないものがあります。それは、お客様を愛すること。そして、このまちを愛すること。わたしたちはこれからも、この宇都宮のまちと、そこに住まわれるお客様のくらしを守り続けていきたいと、そう願っています。











